大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第56号
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あーかいぶず56号
 
           令和時代の幕開けと公文書館のたゆまぬ歩み
 
「三寒四温」というように、暖冬傾向にあった今年の冬も、日ごとに春へと季節は移ろいます。やがて新緑が目に眩しくなり始めると、令和の時代は言うなれば満1歳を迎えることとなります。
 やっと1年、もう1年、まだ1年。この1年を振り返りながら思うところは人それぞれですが、そこに「たゆまぬ歩み」の積み重ねがあるということを、考えてみたりします。 
 昨年度は明治150年という節目にあたり、大阪府公文書館では、記念展示や出張講座などの企画を実施しました。そして、今年度は改元を迎えるにあたり、「平成を振り返る」をテーマに企画展示を実施しました。明治から平成、そして令和と、時代の「たゆまぬ歩み」の積み重ねを概観すると、それぞれの時代背景や情勢こそ異なるものの、共通して見えてくるものは、各時代を生きた人々に脈々と受け継がれてきた生活のありさまではないだろうか、と少し感慨深くなります。ともあれ、過去の記録を留める上で公文書の果たすべき役割は大変重要であり、公文書館はこうした記録を広く発信していく責務があることは言うまでもありません。
 一方、昨今は公文書の管理についてクローズアップされ、公文書への社会的関心は極めて高いものがあります。一つひとつの文書は、組織の活動記録そのものであると同時に、私たちの暮らしに関わるものも多く、正に今日に生きる私たちの記録でもあるでしょう。
 公文書管理の電子化もいよいよ本格化しつつあります。これにより、主流となる記録媒体が紙だけではなくなると、これらへのアプローチや活用方法にも新たな手段が生まれてくるはずです。AI技術も身近になりつつある今、公文書館は、未来に向けて「たゆまぬ歩み」を続けていくこととなります。
             (公文書館事務局)
   
 
                大阪と大相撲
           
はじめに
 去る3月8日から22日までの15日間、エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)で大相撲三月場所(春場所、大阪場所)1は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、異例の無観客で開催された。無観客という特殊な環境の中、力士たちの熱戦が繰り広げられた。
 大阪府出身力士は1月に引退した元大関豪栄道をはじめ、幕内力士の勢や十両の大翔丸だけでなく、幕下以下には元幕内力士の宇良の他にも数多くおり、総勢39名2にものぼる。これは最も多い東京都の52名に次ぐ数であり、力士以外にも年寄(親方)や行司、呼出、床山にも大阪府出身者が多数在籍していることから、大阪と大相撲の関係の深さを物語っているといえよう。
 また、ごひいき筋を意味する「タニマチ」という言葉や、時津風や三保ヶ関、押尾川などの名跡は、大坂相撲の時代から残っているもので、大阪と大相撲との関係の古さがうかがえる。
 大坂相撲とは、江戸時代に堀江で勧進相撲が開催されたことに端を発するプロの相撲集団である。その他にも、河内や和泉を中心に草相撲と呼ばれる素人相撲の集団も数多く存在した。これらの大阪の相撲の歴史については諸研究が多くみられるため、本稿では戦後以降の大阪と大相撲の関係を、大阪での大相撲を語るにあたって外すことのできない大阪府立体育会館を中心に紹介したい。
 
1.大阪の相撲の歴史
 はじめに大阪と大相撲の関係を簡単に整理しておく。
 明治初年、興行地を転々と変えなければならない状況や、「運営の近代化などを巡っての紛争や脱退が相次いだ」3ため、明治11(1878)年に大阪角力(すもう)協会を設立することで一旦収束をみた。しかし、その後も東京角力協会との対立や横綱免許問題等、しばしば紛争が起きた。
 大正8(1919)年9月には新世界に大阪国技館が完成し、落成記念として東西合併大相撲が10日間にわたって開催された。鉄骨鉄筋コンクリート煉瓦造りで、建坪625坪、工費は38万余円に上った。大阪角力協会は春・夏の本場所と東西合併相撲の開催所として賃借興行することとなった。
 大正14年4月29日、摂政宮殿下(後の昭和天皇)の誕生を祝して台覧相撲が東宮御所で行われた。その時の下賜金で優勝杯として摂政宮杯(後の天皇杯)を作ることになり、東京大角力協会は大阪角力協会にも呼びかけ、東西合併の機運が高まり、日本大角力連盟が誕生した。翌15年にかけて計3回の東西連盟大相撲を開催し、番付編成上の実力を審査した。
 昭和2(1927)年1月に現在の公益財団法人日本相撲協会の前身である財団法人大日本大角力協会が誕生し、同月14日から両国国技館で開催された春場所は、大阪力士が番付に編入後最初の本場所となった。大阪から幕内に編入された力士はわずか6名、十両では5名と、東西の実力差が如実にあらわれた番付となった。しかし、東西合併後初めての優勝は大阪方の横綱宮城山が飾った。ちなみにこの当時48あった相撲部屋のうち、朝日山、岩友、押尾川、小野川、陣幕、千田川、高田川、時津風、中村、湊、三保ヶ関の11部屋が大阪にあった4。
 また、この年から東京2場所のほかに関西本場所が2場所(大阪・京都)設けられ、年間4場所になった。
 ところが、昭和7年に春秋園事件5が起こり、翌年には脱退力士らが大阪へ移って大日本関西角力協会を設立した6。この大日本関西角力協会が大阪に本拠地を置き、独自の興行を行うようになったことで関西本場所が中止となり、本場所が東京2回の年間2場所に戻った。本場所が開催されなくなったため、大阪国技館は映画館へと転用された。
 この間、たびたび国技館建築計画が浮上しては消えていく中、昭和12年6月、大阪市旭区関目(現在の大阪市城東区古市)に大阪大国技館が落成し、こけら落としに「大阪大国技館竣工記念大阪大場所大相撲」が13日間の日程で行われた。完成した大阪大国技館は、コンクリート4階建ての洋風ドーム建築、建坪3,000坪、敷地6,000坪、収容人員25,000人の立派な造りで、昭和15年まで計7回の大阪大場所(準本場所)が開催された。
 ところが第7回の開催後、相次ぐ大阪での興行により各興行が不振に終わることが多かったため、大阪大国技館は化学工場に転用されることになり、最終的に倉庫に転用された。それ以降の大相撲は、住吉公園や福島公園等で興行が行われた。
 昭和22年10月、大阪で17年ぶりの本場所が開催され、大阪での本場所が復活した。この時はまだ福島公園の仮設国技館での開催で、秋場所開催であった。昭和27年11月末に大阪府立体育会館が完成すると、翌28年からは大阪での本場所は3月の春場所と決められ、以後、現在まで続いている。地方場所としては最古の本場所である。
 3月の本場所の他にも、昭和27年から30年まで、毎年12月に扇町プールで「幕内力士王座決定戦」が開催されていた。また、昭和32年から43年までは、10月に15日間の準本場所が府立体育会館で開催されていた。昭和41年10月10日の朝日新聞夕刊には、この10月の準本場所開催のため、この年から始まった「体育の日」に、アマチュア・スポーツ団体が体育会館を使えないと不満を訴える記事が掲載されている。
 
2.大阪府立体育会館
 下の写真「大相撲大阪場所(No.5)」は、ある年の大相撲大阪場所の風景を写したものだ。だが、館内の様子が現在の2代目の府立体育会館と異なることから、初代であることがわかる。本章では、大阪府立体育会館の変遷をみていく。
 前述したように、昭和15年に関目の大阪大国技館が使えなくなって以降、福島公園等の仮設国技館で開催されていた。仮設というだけあって、屋外にテントを張っただけのもので、客入りが天候に大きく左右された。
 府立体育会館の記念誌『創立三十年』7の「座談会 30年の歩み」から、大阪府立体育会館建設の経緯を窺い知ることができる。
 戦後の復興の中で、当時大阪府の体育課長だった岩野次郎氏(後の府立体育会館第2代館長)は、「仕事以外のフリーな時間を有効に使うことが大切」とし、府民のための体育館が必要であると提案した。ちょうどその頃(昭和23、4年頃)、来阪された高松宮殿下から赤間知事に「大阪府に府民の体育館がありますか」と質問され、知事から尋ねられた岩野氏は「学校にはありますが府民の体育館はと、高松宮殿下に「それでは作りなさいよ」と言われたことが、府立体育会館建設を後押しする大きなきっかけとなった。また、同じ時期に相撲協会からは何か建物がほしいとの要望があった。
 設計段階では、「相撲ができるようにというために東京で大相撲の風景も見学し、体育館の形もできるだけ正方形に、2階もちゃんと人数が入れるように」と考えられた。このことから、府立体育会館は設計段階から、大阪の国技館としての一面を担うことが念頭に置かれていたことがわかる。
 府立体育会館の用地として、昭和26年6月に大阪市浪速区新川3丁目(現在の浪速区難波中3丁目)の約2,520坪(約83,260㎡)を購入し、翌27年1月8日より工事に着手した。同年11月末に完成し、12月3日に高松宮殿下御臨席のもとに開館式を開催。翌4日から9月に制定された「大阪府立体育会館条例」のもと運営に入った。総工費1億4千万円で造られた府立体育会館は、鉄筋コンクリート造及び鉄骨ダイヤモンドトラス造の2階建て。1階面積は約1,260坪(約4,160㎡)で、1階には移動式椅子3,000脚を有し、2階のスタンド席2,600席と合わせると、座席は5,707席設けられた。開館当初のパンフレット等には、相撲やボクシングでは10,000人以上を収容できるとあるが、実際のところは8,000人程度が収容可能な大きさであったようだ。
 前章でも少しふれたように、昭和28年3月8日から大相撲春場所が府立体育会館で開催された。この最初の春場所において、府立体育会館の様子や、どのように使用されていたかについて、当時の雑誌『相撲』8をひもとくと見えてくる。
 客足については、「大阪で本場所をやるようになってから5回目。いままでは秋場所ばかりだった。ことしから本場所が1年4回開催されるようになり9それとともに「春場所」は大阪ということになったので、こんどの場所が四場所制初の大阪場所になった。一昨年の秋場所いらい一年半ぶりだけあって人気はすばらしく」とあるが、実際のところ、序盤は3横綱の不振や横綱千代ノ山(後に千代の山)の横綱返上発言10もあって7日目まで客足はいまひとつ伸びず、中日で初めて満員御礼がおろされた。その後は終盤に向けて尻上がりに客足が増え、優勝が決まる13日目からは満員御礼が続いた。
 館内のようすは、「一面サクラ張りのフロアーの上に組み立て式のヒナ段(四人桝)がつくられた。そのヒナ段の数は千四個、四千人ちょっとが見物できるが、大阪でヒナ段がつくられたのは、こんどが初めてである。四方はがっちりして、しかもゆったりとした永久施設のスタンドこれが一等席にあてられ、そしてその後方の廊下が大衆席。両方でつめれば五千人は収容できる。事務室、食堂、選手控室、浴場、シャワーなどがそのまゝ利用され、平幕以下はテント張りの支度部屋だが、三役以上の力士はロッカーのあるスマートな数か所の選手控室に、タタミを持ちこんで勝手の違う近代スポーツマン的生活。みんな居心地がよいといっている、メモリアルホール(両国国技館)よりも明るい感じだから蔵前にくらべると問題ではない。四本柱をとっぱらった例のシャンデリアのような吊り天井は蔵前から持ってきたもので、大阪のファンは初見参だが評判はいい。その吊り天井には二万燭光の照明がぶら下がっている。」11と、館内の明るさや三役以上の支度部屋の快適さが絶賛されている。その一方で、「力士支度部屋は、三役と、横綱の太刀持露払が、管内の選手用ロッカーを使用して清潔便利この上ないのに反し、平幕と十両は体育館の外でテント張りという地方巡業級のそまつさ」12と、平幕以下の支度部屋の環境の悪さには辛辣な評価がされている。
 下図は府立体育会館のパンフレットの館内図13に雑誌『相撲』に掲載された「大阪国技館御案内」14をあてはめたものである。横綱は一人、三役力士は数名ずつで支度部屋を使っていたようで、この時は、横綱千代ノ山は選手控室、横綱東富士は役員控室、大関栃錦らは第三会議室、張出横綱の鏡里らは男子更衣室、大関吉葉山らは女子更衣室を支度部屋として使用していた。また、大阪での相撲協会の維持員である東西会の控室が、横綱や三役力士の支度部屋の並びに設けられていたようである。
 さて、前出の写真「大相撲大阪場所(No.5)」で目につくのは、土俵上の屋根と、所狭しに貼られている企業広告であろう。土俵上の屋根については次章で取り上げるため、ここでは企業広告について簡単にふれておく。
 様々な企業広告は、府立体育会館が独立採算制であったため、収入を上げるために館内の天井や壁に、広告が所狭しに貼られていた。ところが、昭和44年に第4代館長に就任した岩井邦利氏は、「広告というものはスポーツをやる者にとってあまり快適ではない」として広告撤去にふみきった。年々減らしていく暫減方法をとり、昭和50年には広告のない体育館になった。ちなみに、現在は命名権契約を結んでいる家電量販店のエディオンの看板2枚だけが掲げられている。
 開館20周年(昭和47年)の頃には「建替えというのは不可欠だ、早急にやらなければいかん」という声が強くなってきた。したがって、翌48年に保健体育課で大阪府立体育会館改築調査委員会を発足し、6回にわたって委員会を開いた。調査委員会では、基本的な考えとして、協議する機能と日常スポーツ活動の機能の面、情報機能の面、研修活動の面、という4つの部面を併せもった近代的なスポーツ総合施設としての体育館を作る必要があるという結論が出た15。
 その後、昭和57年になって、「老朽化が著しく、また、近年多様化した府民のスポーツ欲求にこたえるためには、手狭で、設備も十分とは言えない状況である」16ことから、いよいよ本格的に改築することとなり、大阪府立体育会館改築検討委員会を発足した。いくつか移転先の候補地があげられたが、府民から「なんばの体育館」として親しまれていることもあり、同じ場所での建て替えとなった。また、前出の「座談会」によると、この建て替えの話を聞きつけた藤島親方(元前頭・出羽湊)から、「ここは絶好の場所だ。建替えるならここでやってほしい。」と当時の館長竹谷新氏に要請があった。府民やアマチュアのスポーツ団体だけでなく、こういったプロスポーツ団体からも、同じ場所での建て替えを強く望まれていた。
 翌58年3月に大阪府教育委員会が作成した「大阪府立体育会館改築基本計画概要」17には主な機能(スポーツ競技機能、スポーツ情報機能、スポーツ研修機能、スポーツ以外の多目的機能)が記されており、その1つ「スポーツ競技機能」の項目には、「国際的・全国的・全府下的規模のスポーツ競技、並びに大相撲、レクリエーション行事等の開催」とある。このことからも、建て替え後も府立体育会館は大相撲の開催場所として強く意識されていることがうかがえる。
 とはいえ、改築前はほぼ正方形(38m×50m)であった競技場が、改築後は長方形(第1競技場70m×43m)に改められており、より多くの競技やその大会に対応できるようになった。大阪府立体育会館のリニューアルオープン前に配布されたパンフレット18には、第1競技場の各競技におけるコートの配置等の利用例が図示されている。その中に、中央リング仮設時のリングならびに座席の配置図が描かれており、椅子席と桝席との違いはあるものの、現在の大相撲三月場所とほぼ同じ配置になっている。改築前の競技場と違い、競技場の出入口と花道が一直線になっていない。
 昭和60年の三月場所が千秋楽を迎える直前の3月22日に全面改装工事に着工した。改築工事は、市街地内での大規模工事であるため、最新の工法が採用された。1階の床部分を最初に作り、それから地下と地上部分を同時に作っていく「逆打ち工法」は、工期を大幅に短縮できた。昭和62年1月31日、総事業費115億円かけて竣工した府立体育会館は、地上4階、地下2階、塔屋1階で、第1競技場の他に第2競技場(33.8m×27m)、柔道場と剣道場(各450㎡)、多目的ホール(330㎡)を備えた近代的総合体育館へと生まれ変わった。
 2月14日に開館記念式典が執り行われ、翌月の3月8日からは大相撲三月場所が開催された。改築工事のため大阪市中央体育館で開催した昭和61年と、不祥事により相撲協会が本場所を中止した平成23年を除き、昭和28年より毎年、大相撲三月場所が大阪府立体育会館で開催されている。
 
3.吊り屋根
 前出の写真「大相撲大阪場所(No.5)」をよく見ると、現在と大きく違う物があることに気づき、少し衝撃を受ける。現在では当然のものとなっている神明造りの屋根がそこにはなく、かわりに平天井の屋根が下がっており、さらには企業の広告が上に乗っている。この謎を解くべく、本章では屋根の変遷について述べたい。
 現在の本場所では、東京場所、地方場所ともに神明造りの屋根で統一されている。しかし、神明造りで統一されたのは、実は遠い昔の話ではなかった。国技館(当時、蔵前仮国技館。後の蔵前国技館)が吊り屋根になったのは、昭和27年9月21日から開催された秋場所からである。当時の新聞によると、9月8日の理事会で四本柱の撤廃が決まり、18日の力士会役員会20の承認を得て正式決定したとあり、決定を急いだように見受けられる。これは、昭和28年1月の初場所からNHKの大相撲中継の実験放送が開始され、同年5月の夏場所から本格的に中継が始まることに合わせようとしたためでもあるのだろう。
 この四本柱の撤廃は、後に相撲協会理事長を務めた当時の武蔵川親方(元前頭・出羽ノ花)の肝いりの改革であった。『武蔵川回顧録』によると21、「土俵上で展開される相撲は、館内のどの場所からでもよく見えないといけない。(中略)席の都合で柱が邪魔になって見えないのは何としてもなくしたい」という思いから進められた。
 最初は反対されていた四本柱の撤廃も次第に理解されてきた。しかし、その次に問題となったのが、柱の上にある屋根をどうするかであった。「いかに飾りつけ程度で簡単な屋根でも、それまで取り除いては、いかにもガランドウで、見映えが悪いうえに相撲独特の美まで失われるような気がする。四本柱と同じで屋根もなくていいようなものだが、これだけは何とかして残しておきたい。でも柱がないのに、どうして屋根が取り付けられるか。」22という問題があった。ところが、「柱をなくして足元がなくなった屋根は、まさか天井から吊り下げようというんじゃないだろうな」と終始四本柱撤廃に反対していた親方に「いや味たっぷりな口調でヒヤか」された。そのことがきっかけとなり、屋根を天井から吊り下げ、それぞれ赤、青、白、黒の布が巻かれていた柱の代わりに、それぞれの色の房を下げることで解決をみた。
 当時の雑誌『相撲』に、四本柱が廃止されたことについて、横綱審議員会の委員2名と親方3名の対談が掲載されている23。
 それによると、四本柱の廃止は客席のどの場所からでも見やすくなったと好評であった。その一方で、当時、四本柱に取り付けられていた塩が四本柱の廃止で塩が下に置かれることになり、アンコ型力士が取りにくそうだという意見があがった。現在では考えられない所作であるが、千代丸や逸ノ城が難なく塩を取れているところを見ると杞憂である。なお、対談記事によると、元々は現在と同様に下に置かれており、花相撲の時は柱に取り付けられていたものが、いつのころからか、本場所でも柱に取り付けられるようになったようである。
 では、大阪場所はどうだったのだろうか。
 大阪場所が神明造りになるのは国技館よりも12年遅く、昭和39年の三月場所からであった。それまでの間、吊り屋根は体育館備え付けの照明に水引幕と4色の房を下げていた。
 したがって、前出の「大相撲大阪場所(No.5)」の写真は、昭和38年の三月場所までの撮影された写真であることがわかる。さらに、「ナショナルテレビ」の広告が取り付けられた時期25や、「東京オリンピック大会に協力しましょう」とあることから東京が開催地に選定された時期26を踏まえると、昭和35~38年に撮影されたものであると推測できる。さらに、昭和38年の三月場所の写真27を見ると、「オリンピック」とは別の看板が取り付けられていることから、昭和35~37年まで撮影時期を絞り込むことができる。
 『大阪府立体育会館50年のあゆみ』には、第1競技場に土俵が作られていく過程が紹介されている28。その中で吊り屋根は、全工程の初めの頃に3日かけて組み立てられる。現在の会場内と少し様子が違う場所もあるが、何もないフロアーが大相撲の会場へと変貌を遂げていく過程は、大相撲ファンとしては一見の価値がある資料であろう。
 
おわりに
 写真「大相撲大阪場所(No.5)」が本稿執筆のきっかけであった。かつて土俵上には屋根を支える4本の柱があったことは有名な話だが、その柱が撤去された後、屋根が神明造りではなかった時期があったことは、それほど知られた話ではないだろう。国技館の屋根については根間弘海氏の「土俵の屋根」29がある。しかし、地方場所の屋根について触れられている先行研究がないため、根間氏の論文を参考に、同時代の雑誌から大阪場所の会場や屋根について調査した。
 本稿執筆のための調査の過程で、紙幅の都合で割愛したが、大相撲は興行、スポーツ、神事の3つの側面がバランスを取りながら成り立っていることがわかった。今回の無観客開催は、神事の側面を意識できる場所になったと思う。無事に大相撲三月場所が終わったことで、1日も早く平穏な日々に戻ることを祈るばかりである。
 
【注】
1 現在は三月場所となっているが、昭和28年から昭和47年までは春場所と呼ばれており、また、通称として大阪場所とも呼ばれている。本稿では開催時期によって三月場所と春場所とを使い分けることを基本とし、大阪場所は文脈によって適宜使い分けることとする。
2 日本相撲協会ホームページより。令和2年2月29日現在。
3 『新修大阪市史』第6巻、1994年。861~862頁。
4 『財団法人日本相撲協会設立 大相撲八十年史』(財団法人日本相撲協会、2005年)、40頁。また、『大阪府全志』(井上正雄、巻2、清文堂出版、復刻版、1985年。〔初出1922年〕。663頁)によると、大正11年当時、大阪角力協会所属力士の部屋は、朝日山、木村越後、猪名川、千田川、小野川、陣幕、押尾川、鏡山、竹縄、高崎、藤島、枝川、三保ヶ関、湊、岩友、時津風、北陣、不知火、高田川、大虎、大鳴戸、中村、西岩の23部屋であった。
5 天竜と大ノ里を中心とした出羽海一門の関取と幕下力士32名が大井の中華料理店「春秋園」に立てこもり、力士の地位向上等の改革を求め、協会に対して10ヵ条の改革要求書を提出した。しかし物別れに終わり、最終的に大量の脱退者を出し世間を騒がせた。脱退した力士の西方(出羽海一門)が「新興力士団」、東方が「革新力士団」を結成したが、のちに合併して「大日本相撲連盟」を結成した。その後、昭和8年に大阪へ本拠地を移し、大日本関西角力協会を設立した。
6 昭和12年12月、関西角力協会は解散し、所属力士のほとんどが大日本相撲協会へ復帰・新規加入することとなった。
7 『創立三十年』、大阪府立体育会館、1982年。32頁。(C0-0061-1729)
8 『相撲』2巻5号、ベースボール・マガジン社、1953年4月。
9  1月の初場所、5月の夏場所、9月の秋場所を東京の蔵前仮国技館で、3月の春場所を大阪府立体育会館で開催することが決まった。
10  2日目から4連敗した千代ノ山は、「一度横綱を返上して大関に戻って再出発したい」と、出羽の海理事長(第31代横綱・常ノ花)のところへ横綱返上届を提出した。しかし、役員会は「横綱を返上することは前例もないことであるし、横綱の本義からいってもおかしい」として返上届は受理しなかった。(注7、123頁)
11 注7、96頁。
12 注7、121頁。
13 『大阪府立体育会館』、1952年。(C0-1997-357)
14 注7、巻頭。
15 前出『創立三十年』、34頁。
16 『大阪府立体育会館50年のあゆみ』、(財)大阪府スポーツ・教育振興財団 大阪府立体育会館、2002年。52頁。(C0-2002-307)
17 大阪府教育委員会、1983年3月。(C0-0062-1371)
18 「大阪府立体育会館  1987.2  OPEN」。大阪府教育委員会(C0-0062-1363)
19 「大阪府立体育会館開館式」(H0_2002_0076)
20 横綱、大関と各部屋から選出の理事および立行司からなる。
21 武蔵川喜偉『武蔵川回顧録』、ベースボール・マガジン社、1974年。114~117頁。
22 前出『武蔵川回顧録』、116頁。
23 「座談会 秋場所の土俵を語る」というコーナーで、酒井忠正(元華族、初代相撲博物館館長)、舟橋聖一(小説家)、出羽海秀光(第31代横綱・常ノ花)、時津風定次(第35代横綱・双葉山)、秀ノ山勝一(元関脇・笠置山)による対談。『相撲』1巻7号、ベースボール・マガジン社、1952年10月。33~34頁。
24 注12。
25 雑誌『大相撲』(読売新聞社)によると、昭和33年の三月場所の写真(4巻4号、1958年4月)にはないが、翌年の三月場所の写真(5巻4号、1959年4月)にはあることから、昭和34年の三月場所から取り付けられたと考えられる。
26 昭和34年5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において開催地に選出された。
27 『相撲』12巻5号、1963年4月。134頁。
28 前出『大阪府立体育会館50年のあゆみ』。94~95頁。
29 『専修経営学論集』第86号、専修大学経営学会、2008年3月。
 
【参考文献】
・『大阪府百年史』、大阪府、1968年。
・『新修大阪市史』第7巻、1994年。
・『大阪大国技館と大相撲』、大阪市城東区役所、2015年。
(専門員 市原佳代子)
 
 
               G20で思い出すAPEC’95
 
これは既視感? 
 昨年、大阪で開催されたG20は、期間中の大規模な交通規制など、身近なところでも府民に強い印象を残した。その情景を見て、平成7年(1995年)11月に開催されたAPECのことを思い出した人も少なくないだろう。
 このときのAPEC’95大阪会議は、同会議の第7回目にあたる。平成4年にバンコクで開催された第4回において日本での開催が決定されたことを受け、大阪府・大阪市・大阪商工会議所・関西経済連合会などによる誘致活動が行われ、平成6年に大阪開催が正式決定した。以来、社団法人APEC大阪会議関西協力協議会(以下「協議会」)を推進組織として、官民挙げての準備が進められ、諸行事の実施に至った。
 それまで東京で過去3回G7サミットが開かれた以外、他の都市では各国首脳級の大型会議が行われたことはなかった。折しも平成6年の関西国際空港開港というタイミングで、APECが大阪で開催されたことは、大阪および関西を世界にアピールするうえでもエポックメーキングな出来事となった。その際の準備態勢や諸行事は、令和元年6月に大阪で開催されたG20大阪サミット(以下「G20」)にも繋がる。本稿では、大阪府公文書館に残る資料をもとに、平成の時代の大阪府での大事業であったAPECを振り返ってみたい。
 
APECが大阪に来たのは
 APEC(Asia Pacific Economic Cooperation)は、環太平洋の国と地域による経済協力の枠組であり、平成元年(1989年)に始まった。政治色を排し経済限定という建前、非公式なフォーラムという位置づけは、中国、台湾、香港が席を並べる参加国・地域(国ではなくエコノミーと呼称)という理由がある。これらの総計では世界の約半分のGDP、人口、貿易額を占めるというプレゼンスがある一方で、近年では米国トランプ大統領の就任以来色濃くなっている二国間協定へのシフトもあり、APECの存在意義が問われる場面も増えている。
 APEC大阪誘致の背景について、「APEC’95大阪会議関西協力協議会公式記録」(以下「公式記録)では、「関西はもともとAPEC諸国との歴史的、文化的、経済的結びつきが強く、大阪在住の外国人の大半はAPEC諸国・地域の人たちである」と記している。
 各国首脳級の大規模な国際会議が開催される際の場所の選定には、上記の観点に加え多くの実務的な要素が絡んでくる。適当な会議施設の有無、交通の便や警備のし易さなどはすぐに思いつくことだが、APECやG20のような報道関係等も含む来日関係者の多さを考えると、一流ホテルの数や収容人数、別けても要人用のスイートの客室数が問題だともいう。このような点で、東京に次ぐのは大阪ということになるのだろう。
 
APECとG20
 APEC開催からほぼ四半世紀、令和元年(2019年)6月に大阪でG20 大阪サミットが開催された。APECとG20は、いずれも毎年開催される重要な国際会議である。アジア太平洋経済協力の名が示すように、別表のとおりAPECは環太平洋諸国がメンバーであるのに対し、G20では先進7か国として西欧の国がメンバーとなるほか、各地域の主要国や国際機関も参加している(その後、APECには、ペルー、ロシア、ベトナムが加わっている)。
 いずれの会議においても、中心的存在となるのは米国であるが、1995年のAPECでは、予定されていたクリントン大統領の参加が直前にキャンセルとなり(代理:ゴア副大統領)、求心力の低下を招いたことは否定できない。
 これに対し、2019年のG20は、貿易摩擦など大国の利害が衝突するなか、G7および中国、ロシアの首脳が顔を揃えることになり、名実ともに先進国に新興国を加えた主要20か国の首脳会議となった。
 なお、G20は大阪開催のあと、2020年以降の開催国は、サウジアラビア、イタリア、インド、ブラジルと決定している。APECについては、大阪のあと、2010年には横浜で開催された。そして、直近の2019年にはチリで開催の予定だったが、同国内で経済格差や公共政策への不満から反政府デモが激化し、遂に開催中止となった。
 
国と大阪府と
 APECにしてもG20にしても、その実施主体は国である。大阪府は運営上では従たる位置づけで、場所を提供する立場である。APECの際も国家予算からの支出が大きな割合を占めており、「アジア太平洋経済協力閣僚会議等開催庁費」などの名称で、大蔵省(現、財務省)、外務省、通商産業省(現、経済産業省)の予算に組み込まれている。一方の大阪府では、APECに際し設立された協議会が行政や民間からの資金を集め各事業を推進したわけである。
 公式記録には、これら各事業の内容が事細かく説明されている割には、お金に関わるところでは大まかな数字が掲載されているだけである。経済界からの募金額は462百万円との注記が見えるが、これがオール関西ということで民間から拠出された金額になる。協議会を立ち上げ、メンバー横並びで資金集めを行うのは日本的なシステムであり、誘致した当事者としての応分の地元負担ということでもあろう。いずれにせよ、会場の準備、数多い関連事業への実施および支援、多岐にわたる広報活動に協議会を介して資金が投じられたことを物語っている。その中から、代表的なもの、特徴的なものを見てみよう。                              
 
APECの舞台
 非公式首脳会議のための会議場整備は協議会の協力事業で最重要のものであった。実態は公式行事であるにも拘わらず「非公式」と冠するのは、中国、台湾、香港(返還前)が同席という政治的な背景がある。ともあれ、首脳会議のために新築されることになった大阪迎賓館(西の丸庭園内休憩所)の建築には、世界最古の企業とも言われる宮大工の金剛組があたり、平成7年9月13日に完成した。総事業費は約10億円、施主は大阪市(仮設別棟は協議会)である。このAPECのために建築された施設は、今回のG20でも使用されることになる(地図①)。
 大阪城に隣接するOBP(大阪ビジネスパーク)地区は、閣僚会議が開催されたホテルニューオータニ大阪(地図②)、合同ブレスセンターが設置された大阪城ホール(地図③)、国際放送センターが置かれたクリスタルタワー(地図④)などが集積し、OBPキャッスルタワービル(地図⑤)には地元サービスや関西に関する情報提供を行う「関西プラザ」が設けられた。
 OBP地区は、旧陸軍砲兵工廠の跡地が再開発されたもので、終戦後も長らく残骸が放置されていた場所である。同地区のオフィスで10年以上勤務したことのある筆者は、空襲時の不発弾撤去に伴う退避を何度も経験した。APECに際して、そこが国際会議の舞台となる日が到来したことに感慨を覚えたものである。
 
APECと地元関連事業
 APECは全体会議や個別会談など、各国首脳による会議が中心であるが、政府が取り仕切るそれらの行事を取り巻く形で、開催期間の前後にわたり様々な付帯事業が実施された。APEC期間中には各国の参加メンバーや配偶者、さらには報道関係者等に対し、関西および大阪を深く知ってもらうためのイベントや各種の優遇など、大阪の「おもてなし」精神が発揮されたことも特筆される。
 協議会が主催した会議としては、「世界都市関西・地域交流フォーラム」、「世界都市関西PRセミナー」があり、いずれも海外に向けて関西の魅力をアピールする目的であった。そのほか、地元の各種機関・団体等が実施する国際会議・シンポジウム・セミナー、見本市・展示会・商談会、フェスティバル、展覧会などのイベントは多数にのぼり、協賛・後援事業は99件に及んだ。これらは「地元関連事業カレンダー」として二次にわたり広報されている。
 これは、その一つ、APECに先立つ7月に開催された「国際少年少女合唱祭」のポスターである。「APEC大阪会議開催記念」と銘打っているのがわかる。
 
風変わりな催し
 APEC関連事業の一つとして、二夜にわたって催されたAPEC’95大阪会議開催記念「大阪文化の夕べ」は、邦楽(筝、尺八、三絃など)と洋楽(オーケストラ)で構成された第一夜と、人気落語家(桂枝雀ほか)が英語で落語を聞かせる第二夜というユニークなイベントで、財団法人大阪21世紀協会(現、公益財団法人関西・大阪21世紀協会)、財団法人大阪府国際交流財団(現、公益財団法人)が主催した。
 果たして、英語での落語がどれほど外国人に理解され受容されたかは、本当のところ私も含む日本人には判らない。伝統芸能の世界でも、大阪発祥である文楽は平成15年に世界遺産に認定された。文楽公演では英語による解説をイヤフォンで提供しているものの、太夫の語りを外国語でやるという発想は今後ともないだろう。それを思うと、語りの芸である落語を英語で行うというのは果敢な試みと言えよう。
 
時代の流れも
 各国首脳が集う国際会議では、同伴する配偶者のための行事も企画されるのが通例である。APECの際には「レディースプログラム」と称し、伝統文化の見学等のイベントが実施された。この政府主催のツアーでの訪問地を見ると、京都では東福寺、裏千家今日庵、西陣織会館、大阪では海遊館、咲くやこの花館、黒門市場といった名前が並ぶ。外国人観光客ならまず京都が定番というのは、ずっと変わらない傾向とはいえ、現在ではずいぶん多様化が進んでいる。
 一方、今回のG20では、首脳会議の裏番組的に「パートナー・プログラム」が大阪府庁大手前庁舎で開催された。知事、府議会議長、安倍首相夫人らが、首脳配偶者を出迎え、議場で「海は輝くいのちの源」をテーマにしたシンポジウムが行われ、その後、正庁の間での昼食会が開かれた。こちらも政府主催の行事である。
 会場となった大阪府庁舎について言えば、写真にあるレッドカーペットは普段は敷かれていないものだし、議場やトイレの補修などもこの行事に備え実施された。大阪城天守閣を望む正庁の間は、普段は飲食の場に利用されることはないが、この行事に限り立食パーティーの会場となった。当日は週末の閉庁日であり府職員の姿はなく、国が仕切る形で行事が実施された。府民と同じく大阪府職員も、当日のニュース映像や後日の庁舎内での写真パネルの展示で、様子を知るという状況であった。
 こうした内容の変化もさることながら、プログラム名称の変化も興味深い。前掲の大阪迎賓館の庭での記念写真でわかるように、APECに参加した各国首脳の中に女性の姿はない。したがってパートナー向けの行事が「レディース」で問題なかったわけだ。G20になると、各国代表・国際機関の中で、ドイツ、英国、国際通貨基金(IMF)のトップは女性である。構成メンバーの変化が行事の中身や名称まで及んだということだろうか。わずか四半世紀とはいえ大きな変化である。 
 
見たいものと見せたいもの
 G20のパートナー・プログラムが行われた大阪府庁舎は、都道府県の中で現役最古、大正時代の由緒ある建物で大正の雰囲気を伝えるものであるが、この行事に参加した配偶者たちにはどう映っただろうか。仮に参加者に尋ねたとしても外交辞令しか戻って来ないから、実際のところは不分明だろう。
 ここが選ばれたのは、隣の大阪城での首脳の行事と対になり、利便性や警備上も好都合という条件に合致した故だろう。建物は改修されているとは言え、見た目にも随所の老朽化は覆い難いのが実状である。歴史的建造物ではあっても、わずか百年たらずの西洋建築、これと比較にならないような王宮にも足を踏み入れている人たちには、ずいぶんみすぼらしい建物と見えたかも知れない。
 年間の訪日外客数(外国人正規入国者から日本に居住する者を除く)が3000万人を超える時代になった昨今、各国首脳から団体観光客まで、さまざまな人たちが日本を訪れる。今年の東京オリンピックのキーワードのようになった「おもてなし」だが、その中身となるとあまりはっきりとしたイメージはない。
 幕末の開国以来、日本を訪れる外国人に何を見てもらうかについては、政府トップから観光に携わる人々に至るまで、さまざまな試行錯誤がなされてきた歴史があり、それは現在進行形でもある。渋谷駅ハチ公前のスクランブル交差点を行き交う人波が観光資源になるとは誰も考えつかなかっただろうし、大阪市内にしても中崎町界隈の最近の外国人観光客の多さなど、予想もされなかったことだろう。つまり、見せたいものと見たいものとのギャップはいつの時代にも存在する。そこに面白さがあるとも言える。これは日本に限らず多かれ少なかれ他の国でも同じだろう。外の目を通してこそ分かる自らの姿ということかも知れない。
 
大阪のステイタス
 昨年6月末、G20を控えた週末、大阪城に面した府庁5階から通りを見下ろすと、車のルーフに書かれた全国の都道府県名が目に飛び込んできた。北は北海道から南は九州まで、パトカーや救急車の数は半端ではない。車両だけではない。各地の警察官が大阪に集結していた。大阪府庁舎の警備は熊本県警だったし、府庁最寄りの大阪メトロ谷町4丁目駅には秋田県警が配置されていた。世界中から要人が大阪を訪れるG20には最大級の警備体制が敷かれ、期間中の交通規制も広範囲に及んだが、事前の広報もあってか大した混乱は起きなかった。府民の反応も自然体と言ってよいものだった。APECから四半世紀、これも、大阪の都市としての成熟と言えるだろう。
 
【参考文献】
社団法人APEC大阪会議関西協力協議会「APEC’95大阪会議」
    (請求記号 R0-1995-26)
「APEC(アジア太平洋経済協力)会議関係綴 平成7年度」
(請求記号 B3-2009-37)
「APEC’95大阪会議 関西協力協議会 公式記録」
(請求記号 C2-1996-155)
「APEC’95大阪会議 地元関連事業カレンダー」
(請求記号 C2-1995-50)
「APEC’95大阪会議 地元関連事業カレンダー(第2版)」
(請求記号 C2-1996-145)
“G20 OSAKA SUMMIT 2019/ G20 大阪サミット”
   SUMMIT PHOTO 外務省ホームページより
(専門員 的場 茂)
 
 
            なみはや国体の山岳競技 ~変遷のなかで
 
マイナースポーツ?!
 平成9年に大阪府で開催された第52回国民体育大会(なみはや国体)の各競技別のプログラム冊子が地下書庫に並んでいる。日本体育協会、文部省と並び主催の一翼を担った大阪府の公文書館に残るのは当然のことだが、関係者以外は大して興味がないものであろう。
 当館の令和元年度の企画展示において「平成を振り返る」というテーマで、平成年間の大阪府での大きな出来事を取りあげた中の一つに、なみはや国体があった。そんなことがなければ、山岳競技のプログラムを手に取ることもなかっただろう。筆者自身が半世紀以上山登りをしているという背景はあるものの、正直なところ国体山岳競技の存在は知っていても、全く関心のなかった事柄である。近時、中高年者や女性の登山者が目立つようになりブームの様相を呈しているが、多くの登山者にとっての国体山岳競技の認知度合いは筆者と五十歩百歩ではなかろうか。競技としてはマイナースポーツと言わざるを得ない。
 
国体における山岳競技
 国民体育大会は、戦後間もない昭和21年に始まる。戦後の荒廃によって健全娯楽を失った国民、特に青少年にスポーツのよろこびを与えることが当時の最大の眼目であった。その後、各県持ち回りによる開催は既に2巡目となっており、規模の拡大による人的・経費的な地元負担の増大、日本選手権的な位置づけからの乖離など、種々の問題を孕み、近年はその存在意義が問われてきた歴史がある。本稿では国体のあり方についての議論には立ち入らないが、本稿のテーマである山岳競技の変遷を見るなかでも、問題のいくつかは垣間見えて来よう。
 山岳部門(第26回から山岳競技と改称)は、京都府を中心に京阪神で実施された第1回国体から連綿と続いている。当初は展覧会、講演会、映画上演、集団登山など、競技色のないものであったが、(正式競技ではない)公開競技としての「縦走」が取り入れられ、第32回(青森)で「踏査」、第33回(長野)で「登攀」が加えられ、第35回(栃木)から正式に得点種目となった。なみはや国体は、「縦走」、「踏査」、「登攀」の3種目が実施されていた時期に当たる(下図参照)。
 その後、「踏査」と「縦走」は競技種目から外されて、現在は「登攀」だけが国体山岳競技となっている。この登攀競技は、安全確保のための用具は使用するが、自己の技術と体力で岩壁を登るフリークライミングと呼ばれるもので、種目としてはリード競技(到達高度を競う)とボルダリング競技(課題の達成度合を競う)の2つで構成されている。これらは今年の東京オリンピックで正式種目となるスポーツクライミングでも採用されているものである。
 
どんな競技なのか
 なみはや国体では府内6市町村の会場で3日間にわたり山岳競技が実施された(開会式・表彰式を含めると5日間)。成人の部は3種目、少年の部(18歳未満)は登攀種目がなく縦走が2コースである。会場となった地域は、金剛生駒紀泉国定公園となっている大阪府東南部の山岳丘陵地帯である。
 なみはや国体当時の競技内容に沿って解説すると、最も歴史の古い「縦走」は定められた山岳コースを歩く(走る)タイムレースである。国体では3名のチームで規定重量の負荷を分配して、スタートから特区間として設定された部分でのスピードを競う。1位を100点として、1位チームの2倍の時間を要した場合の得点は50点というふうに算定される。
 トレイルランニングと呼ばれるこのスタイルは、世界各地で山岳耐久レースとして実施されている。国内では、日本海から太平洋まで中部山岳を数日で走破するトランスジャパンアルプスレースなどが知られている。
 「踏査」はオリエンテーリングに類似した競技である。主に里山に設定されたコース上の16の定点を踏査地図に記入しその正確性を競う(80点)とともに、スビート(20点)が加味される。山岳地帯での読図力が重視される。
 最も遅く山岳競技に加えられた「登攀」は人工的に作られた傾斜角が直角を超える壁(オーバーハング)で、チーム2名合計の到達高度を競う。人口壁面には登攀の手掛かりとなるホールドが取り付けられてコースが設定されるが、事前公開はされず競技直前にオブザベーション(観察)の時間が設けられる。自然の中で行われる「縦走」、「踏査」とは著しい対比を示すものである。
 
裏方は大変
 国体山岳競技は山間部で実施されるため、コースの選定から準備、さらに競技運営と、他競技には見られない苦労が主催者にのしかかる。山登りを趣味とする人は多くとも、山岳競技に関わったことのある人は極めて少ないし、開催都道府県や地元自治体の事務方にすれば、初めての経験というケースが普通である。もちろん、各都道府県に競技連盟は存在し、運営の一翼を担うのだが大会競技実施に漕ぎつけるまでには紆余曲折は避けられない。
 そんな事情を窺わせる資料が残っている。国体開催後にまとめられた報告書である。その中に競技部長(府国体局と大阪府山岳連盟常務理事を兼務することになった府立高校教員)による振り返りがある。綺麗ごとではない生々しい述懐が載っていること自体が異色であるが、端無くも当時の山岳競技の位置づけが判る。
 国体山岳競技は、競技団体の普段の活動内容と大きくかけ離れているため、研修を積み重ねないと開催できない(中略)
 府岳連の一部の方からは「国体は市町村が開催するもので、岳連はお手伝いをします」「市町村は国体開催が仕事でしょ」と言われた。
 市町村からは「自らの競技という誇りはないのか。公開競技かデモスポ競技に変えてしまえ」「日山協(日本山岳協会)のステイタスシンボルのために開催してるんか」といった発言もあった。
 また、「府岳連が手を引いたら、国体は開催できませんよ」「はい、どうぞ。いつでもやめます」と言ったやりとりまであった。
 都市型であったため、マアマアマアと言った妥協もなく、調整役もなく、大阪らしいぶつかり合いであった。
 第三者的な目で見れば、大阪府山岳連盟にとって国体登山競技は、組織の中核をなす活動とは認識されていないということだろう。すなわち、都道府県の山岳連盟の主な仕事としては、会員団体・個人の統括組織として、登山技術・知識等の啓発活動、山岳遭難対策、自然保護活動推進などがあり、その傍らに国体山岳競技があるという構図になっているからだ。
 
国体競技と統括団体
 ここで少し説明を要するのは、国体の正式競技は、全国的な競技団体が日本体育協会に加盟しているとともに、各都道府県でも各競技団体が道府県体育協会に加盟していることが要件とされることである。つまり、山岳競技で言うと、日本山岳協会が日本体育協会に加盟していることに加え、大阪府山岳連盟が大阪府体育協会に加盟しているというスタイルである。これは、その競技に関してナショナルな競技団体がない競技は、人気や競技人口の如何を問わず正式競技とされないことを意味する。
 例えば、野球の場合、アマチュアとプロが別々に発展してきた歴史があり、実体的な統一団体が存在しなかったため、国体においては正式競技ではなく、日本高等学校野球連盟が主管する公開競技の位置づけである。
 野球の場合と異なり、山岳競技では組織として形の上では整っているものの、スポーツそのものとして関係者の口から「マイナー競技」という言葉が飛び出すぐらいであり、正式競技・公開競技の扱いと人気や認知度がリンクしていないのが実情と言える。
 ともあれ、前述のように実施に至るまでのぎくしゃくがあったにせよ、行政と競技団体、それに地元のボランティアなどのサポートが相俟って、なみはや国体の山岳競技は無事5日間の日程を終了した。
 
競技会場は、いま
 なみはや国体で実施された3種目の競技で、「縦走」、「踏査」の会場は、山登りのコースとして多くの人が訪れているが、何らかの形跡が残っているわけでもなく、そこで国体があったことを知る人はほとんどいないだろう。ところが、「登攀」の会場は少し事情が違う。この種目の会場となった交野市のほしだ園地を訪れてみた。
 そこは奈良県境から磐船街道(国道168号)を大阪府側に少し下った場所である。曇りがちで小雨も落ちる空模様なのに、紅葉を目当ての来園者が思いのほか多い。中国人と思しき観光客の姿も目に付く。SNSなどで情報が拡散しているのか、園地の中にある「星のブランコ」と名付けられた大きな吊橋が人気を集めているようだ。
 駐車場から沢沿いに付けられた木道を行くと、目の前に巨大な人口壁が現れる。資料に掲載されている図面や施工業者の広告にある写真そのままの姿である。実物の前に立つと、その高さだけでなくオーバーハングの角度にも驚く。その壁に取り付いてトレーニングしている人の姿があるので、余計に壁のスケールが際立つ。これが22年前に開催されたなみはや国体山岳競技の遺産であり、現在も利用されている。
 壁と対面する位置には「ビトンの小屋」という山小屋ふうの建物があり、休憩所になっている。ここから登高の様子をハラハラしながら眺めることができる。双眼鏡で覗けばホールドの形状まで判る。もちろん、壁の上部からのザイルで確保したうえでのクライミングなので、途中で墜落しても死傷に繋がることはない。
 小屋の中には、子供が遊べる低い人口壁がある。ボルダリングの壁を小さくしたようなイメージで、床はクッション材で怪我の心配はない。元気のいい子なら面白がってやりそうだ。講習会なども行われている。
 
そして、クライミングが残った
 なみはや国体のときに3種目あった国体山岳競技は、その後10年で「登攀」だけになった。他の2種目が登山という行為の中で重要な要素であるにも拘わらず、である。その理由は想像に難くない。競技として勝ち負けの判定が客観的に明確ということでは、「踏査」が外れるのは仕方ないにしても、タイムレースである「縦走」はその要件を満たす。しかし、「登攀」が決定的に競技向きなのは、「縦走」とは違って競技過程の全容が可視化されている、わかりやすさがあるからだろう。
 山登りやランニングなどスポーツ人口が増える一方で、昨年注目を集めたラクビーのように近年はプロ化への流れも顕著である。こうしたトップアスリートのパフォーマンスを「観るスポーツ」へという文脈では、「登攀」が注目されるのは当然かも知れない。今年開催される2度目の東京オリンピックで、クライミングが正式種目となったのも、そんな背景があるだろう。
 山岳競技の種目数は前掲の年表に見るように1→2→3→2→1という変遷を経て現在に至っているが、唯一残ったクライミングが除外されることは国体が続く限りないだろう。これは、クライミングが競技としての洗練度を高め、マイナースポーツを脱しつつあるからだと言える。
 しかし、国体のスタート時の状況からすると、競技としてはずいぶん変貌したことに驚く。これは一方で、山登りという広い領域から切り取られ、母体から遊離して競技として進化していった道筋とも言える。事の良し悪しはともかく、それは避けられないことだったように思える。山には登らないし関心もない、人工壁だけを相手にするクライミングの選手が今後の主流となっても何の不思議でもない。そんな時代になっているとも言える。
 
巨視的にみると
 多くのスポーツにおいて、大衆とエリートは幾層にも積み重なっている。野球、テニス、サッカー、ゴルフなど、アマチュアからプロまで、富士山のように広い裾野から高い山頂まで続くイメージは解りやすい。ところが、山登りと山岳競技(クライミング)は、この形にはなっていない。富士山の中腹に瘤のように噴出した宝永火山のようなものか、別の独立峰のようなものに近い。
 大勢が行っている山登りと、限られた人たちが行うクライミングはほとんど別物のようになって来ている。国体のような競技会に無理やりスポーツとして組み込んだものが、気が付いてみると元来の姿から離れ独自の展開を見せるとは面白いものである。
 大昔から日本人は山に登っている。思いつくままに別掲のように図式化してみた。単純にジャンル分けが出来るものでもないし、相互に関連するものも多いのは承知のうえのこと。多種多様なキーワードが時空を超えてプロットできる。こうしてみると、競技という観点で見た山登りはごく最近のことだというのが解る。ともあれ、オリンピックや国体があろうがなかろうが、これからも人は山に登り続けることだろう。
  
 
【参考文献】
第52回国民体育大会山岳競技会連合実行委員会事務局
「第52回国民体育大会 秋季大会 山岳競技」
    (請求記号 K0-0005-27)
第52回国民体育大会山岳競技会連合実行委員会事務局
「第52回国民体育大会 秋季大会 山岳競技報告書」 平成10年2月
第52回国民体育大会千早赤阪村実行委員会
「第52回国民体育大会 報告書」 平成10年2月
第52回国民体育大会河南町実行委員会
「第52回国民体育大会 フェンシング競技・山岳競技 記録写真集/報告書」
第52回国民体育大会河南町実行委員会
「第52回国民体育大会 フェンシング競技会・山岳競技会 速報写真集」
原一平「変貌する国体山岳競技競技性の向上をめざす」 ~ 東京新聞出版部「岳人」 平成11年8月
財団法人日本体育協会
「国民体育大会五十年のあゆみ」 平成10年3月
京都自治体問題研究会
「国体これでいいのか 2巡目京都からの提言」 昭和63年2月 権学俊
「国民体育大会の研究ナショナリズムとスポーツ・イベント」 平成18年11月
山と渓谷社「目で見る日本登山史」 平成17年11月
 
         (専門員 的場 茂)
 
 
        第34回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました!
 
 
 令和元年12月18日(水曜日)、大阪府庁新別館北館にて第34回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました。
 3名の委員が出席し、活発な議論が行われ、これからの公文書管理に非常に有益な意見交換の場となりました。
 
【出席委員】
飯塚 一幸 大阪大学大学院文学研究科 教授
林 真貴子 近畿大学 法学部 教授
三阪 佳弘 大阪大学大学院 高等司法研究科 教授
 
【議題】
・公文書館の運営状況について
・レファレンスの概要について
・SNS及び電子メールにおける行政文書の取扱いについて
 
【主な議事概要】
・各所属が保存期間を延長して保存している歴史的文書の状況を公文書館が把握し、積極的に引き渡しを働きかけることを検討してはどうか。
・公務員の公文書管理のモラルの中で政策決定のプロセスが事後に検証可能なように記録されれば問題がないが、それをどのように担保するかということが課題である。
 
 
              新たに登録した資料の一部を御紹介します。
 
◆行政文書
・平成29年度 大都市制度検討関係書類
        〔請求記号:B3-2019-1〕    
・平成18年度 大阪府防災会議関係
〔請求記号:B3-2019-2〕  
・平成 9年度 なみはや国体 施設整備補助金申請
〔請求記号:B3-2019-30~51〕
・平成20年度 大阪版地方分権推進制度
〔請求記号:B3-2019-82〕   
・平成 7年度ほか 事務引継書(知事)
〔請求記号:B3-2019-305~308〕
◆府作成刊行物
・大阪府統計年鑑 平成30年度
〔請求記号:C0-2019-19〕
・府政だより 平成30年1月~12月
〔請求記号:C0-2019-176〕
・G20大阪サミット2019公式記録
〔請求記号:C0-2019-57〕
 
             
 
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