大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第32号
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大阪 あーかいぶず第32号

目   次
第五回内国勧業博覧会と大阪…………………………………1頁
明治期の教科書-所蔵資料案内記-…………………………5頁
昭和20年代の行政文書の紹介(その1)…………………7頁
平成15年度企画展、歴史資料講座のお知らせ……………8頁
第32号 平成15年9月
大阪府公文書館発行

第五回内国勧業博覧会と大阪 高倉史人
■ はじめに
第五回内国勧業博覧会が明治36年(1903)3月1日から7月31日にかけて大阪で開催されてから、今年で100
年になるのを契機に、本稿では、第五回内国勧業博覧会と当時の大阪の状況について述べることにする。
■ 内国勧業博覧会とは
明治政府は殖産興業政策の一環として、しばしば海外の万国博覧会に参加し、国内では博覧会や共進会を開催
した。その内、五回にわたって開かれ、国内産業の発展や貿易の促進に大きな影響を及ぼした博覧会が内国勧
業博覧会である。
第1回は、明治10年(1877)に東京の上野公園で開催された。これは、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会
参加の経験に基づき、国内産業・貿易の発達のために博覧会の必要性を感じた明治政府が、12万円余を費やし
て開催したものである。会期は102日間(8月21日から11月30日)、出品数8万4千点余で、鉱業・冶金術、製造
物、美術、機械、農業、園芸の6部に分けて陳列され、来観者は45万人余に及んだ。
ついで明治14年(1881)に、第2回が同じ上野公園で122日間(3月1日から6月30日)開かれた。経費は27万
円余で、出品数33万1千点余、来観者82万2千人余となり、その規模は第1回に比べると大幅に拡大した。
第3回も上野公園で、明治23年(1890)に開催された。経費は56万円余で、会期は122日間(4月1日から7月
31日)、出品数16万7千点余で、工業、美術、農業山林・園芸、水産、教育・学芸、鉱業・冶金、機械の7部に分
けて陳列され、来観者は102万3千人余に及んだ。
このように、第1回から第3回までは、東京の上野公園で開催されたが、第4回は、東京から離れて京都市の岡崎
町で、明治28年(1895)に開かれた。経費は44万円余で、会期は122日間(4月1日から7月31日)、出品数1
6万9千点余で、前回と同様の7部に分けて陳列され、来観者は113万6千人余であった。
そして、第5回が大阪で、第1会場の天王寺今宮、第2会場の堺の大浜に分かれて明治36年(1903)に、会期1
53日間にわたって開催されたのである。
それでは、次に、第五回内国勧業博覧会の開催が東京との熾烈な誘致合戦の末に大阪に決定されるまでの経過
について述べる。

■ 第五回内国勧業博覧会の大阪開催が決まるまで -大阪か東京か-
日清戦争後、日本は戦勝景気を迎えたが、長続きせず、明治29年(1896)には、早くもその反動で不景気とな
り、続いて金融恐慌にも襲われた。
大阪も不景気であったために、財界は、大阪に内国勧業博覧会を誘致することでその状況を打破しようとした。ま
ず、明治30年(1897)2月に、堺商業会議所会頭藤本荘太郎から農商務大臣、貴衆両院議長宛に「第五回内国
勧業博覧会開設二関スル建議(請願)書」が提出された。また、明治31年(1898)12月12日に大阪商業会議所
土居通夫会頭から貴衆両院議長宛に、「明治参拾五年ヲ以テ内国勧業博覧会ヲ大阪ニ開催センコトヲ希望スル
請願書」が出された。明治32年(1899)の初めには、大阪商業会議所を中心に第五回内国勧業博覧会誘致期
成同盟会が結成された。大阪市会でも同年2月6日に第五回内国勧業博覧会を大阪市に開設するよう請願する
建議が可決され、2月16日に貴族院議長宛に「第五回内国勧業博覧会ヲ大阪二開クノ請願」が出され誘致運動
を行った。なお、大阪府会が請願を行ったかどうかについての記録は現時点で見出し得ていない。
これらの請願を受けて、明治32年(1899)2月20日には、第十三回帝国議会の衆議院本会議において、「第五
回内国勧業博覧会ヲ大阪二開設スルノ建議案」(藤金作議員他11名提出)が提出された。内容は、大阪が「我カ
帝国ノ中央二位シ商工業ノ枢区ニシテ水陸交運ノ便亦最モ大ナリ即チ勧業ノ目的ヲ達スルニ於テ最モ適当ノ地」で
あるから、「開設地ヲ大阪ト定メ速二之二関シ適宜ノ施設ヲ為サムコトヲ望ム」となっていた。
また、すでに誘致運動を行っていた東京市の請願を受けた「第五回内国勧業博覧会開設ヲ東京二設置スルノ建
議案」(星亨議員他13名提出)も提出された。内容は、農業美術工芸等の発達進歩を促すために、明治35年(1
902)に第五回内国勧業博覧会の東京市開催を望むということであった。
つづいて、大阪、東京の建議案の審議に入った。まず、大阪の建議案の提案理由として、中村栄助議員は、大阪
が商工業や内外物産の集散等の中心地でアメリカのシカゴのような地であること、関東と関西を比較して、外国貿
易の輸出入高や明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会の出品・出品者数などが関東より関西が上回って
いることをあげている。さらに、中村は、第四回内国勧業博覧会開催前の明治25年(1892)8月に、政府から大
阪府知事と京都府知事宛に第五回内国勧業博覧会を大阪に開催するという内示の文書があったことも示した。
これに対して、東京の建議案を支持した市島謙吉議員は、東京が日本全国で一番人が集まる場所であること、全
国の人は東京なら種々の用をかねて来るが、博覧会のためにわざわざ大阪まで足を伸ばすにはきわめて不便で
あること、出品の審査会に関係する役人が往復するのに大阪では不便であることなどを示した。
このような本会議での応酬の後に、大阪と東京の建議案は委員会でも審議が行われ、遂に、明治32年(1899)
3月1日の衆議院本会議で大阪の建議案が可決された。一方、同年3月7日の貴族院本会議では大阪市と東京
市の請願が共に可決され、その後内閣総理大臣に送られた。
請願や建議は、内閣総理大臣→農商務省の調査検討→農商務大臣の申請→閣議の順に審議が進められ、同年
4月19日に「開催地ハ第四回内国勧業博覧会開設ノ際三府輪環開設ノ閣議決定アリ今日二遵由ノ要ナキモ次回
博覧会ヲ大阪二開クハ其当ヲ得タリトス」と閣議決定された。そして、翌33年(1900)5月15日の勅令176号に
よって、第五回内国勧業博覧会は、明治36年(1903)3月1日から7月31日まで、大阪市南区天王寺今宮で開
催されることが正式に決まったのである。なお、明治33年(1900)6月2日には勅令256号によって、第五回内
国勧業博覧会事務官制が出され、事務局総裁・閑院宮載仁(ことひと)親王、副総裁・農商務大臣平田東助、審査
総長・枢密顧問官大鳥圭介、事務官長・農商務総務長官安廣伴一郎が就任した。
それでは次に、このように大阪開催が決定した第五回内国勧業博覧会に関して、大阪府の対応について述べる。

■ 大阪府の対応
第五回内国勧業博覧会については明治33年(1900)11月17日開会の通常大阪府会においてとりあげられた。
まず、菊池侃二(かんじ)知事は、議案説明の中で、第五回内国勧業博覧会において「相当ノ出品設備ヲナシ一(ひ
とつ)ハ大阪ノ公益ヲ進メ一(ひとつ)ハ大阪ノ面目ヲ遂ケルト云フコトニ注意ヲセネハナラヌト思ヒマス」とし、さらに
「此機会二於テ我府内ノ事柄ヲ公二スルハ勿論尚農業テアレ工業テアレ商業テアレ得ラルル丈ケノ利益ヲ掴ミ取
二スルト云フ覚悟テナケレハ此ノ博覧会ヲ設置セラルル宿主ナル大阪府ノ面目トシテ済マナイ事柄テアラウト思ヒ
マス」と述べ、議会に対し、開催地の面目にかけて博覧会に臨む並々ならぬ意気込みを示している。
そして、第五回内国勧業博覧会に対し、大阪府の出品・設備等に関する事項調査のために府会議員の中から臨
時勧業委員6名を設置することとし、その人件費や事務費などの予算として計21,692円9銭9厘(「第五回内国
勧業博覧会出品及設備費」・明治33年から36年度継続支出)が可決された。
また、翌明治34年(1901)と35年(1902)の通常大阪府会では、第五回内国勧業博覧会に対する経営・施設
の諸費(「第五回内国勧業博覧会費」)として、人件費、陳列装飾費、雑費などの予算として、34年度246円、35
年度  15,149円80銭、36年度9,971円  65銭が可決された。
この他に、大阪府は、明治35年(1902)通常大阪府会において、36年度予算で、博覧会開催に関わる関係で、
大阪府教育会、衛生会、水産会等への補助金の増額も決定した。例えば、大阪府教育会に対しては、前年1,50
0円であったものが2,800円へと増額した。大阪府教育会は、これによって、様々な教育上の有益な展覧を行う
と共に、休憩場を設けて他地方からの参観者の便宜をはかった。
このように、大阪府は、第五回内国勧業博覧会の開催を成功に導くために、出品、設備費、運営関係経費、関係
団体への補助金等、開催にかかる予算面の態勢を整えたのである。それでは、次に博覧会の内容について述べ
る。

■ 博覧会の内容
第五回内国勧業博覧会は,明治36年(1903)3月1日より7月31日までの5ヵ月という長期にわたって開かれ
た。第1会場の天王寺今宮と第2会場の堺の大浜(水族館)とは、阪堺鉄道によって結ばれた。なお、第1会場の
敷地は約33万平方メートルであった。
今回の博覧会は、出品数27万6千点余で、第1部農業・園芸(農業館)、第2部林業(林業館)、第3部水産(水産
館)、第4部採鉱・冶金(工業館)、第5部化学工業(工業館)、第6部染織工業(工業館)、第7部製作工業(工業
館)、第8部機械(機械館)、第9部教育・学術・衛生・経済(教育館)、第10部美術・美術工芸(美術館)の10部と
なっており、館内は各府県などに分けて陳列された。また、国内の各府県からだけでなく、米・英・仏・独など海外1
8カ国が参加し、自動車・カメラ・タイプライターなど近代科学技術の粋が出品され、連日多数の観覧者でにぎわっ
た。来観者は530万5千人余を数え、経費106万円余であり、最大規模の博覧会となった。
このように、多数の観覧者が訪れたのは、会場内の20棟にのぼる陳列館に農林水産・商工業・教育美術など内
外の絶品が展示されただけでなく、七色の照明、ウォーターシュート、それに夜にはイルミネーションが点灯され、
会場を非常に華やかなものとしたことが大きく寄与している。また、アイスクリームの即売も人気をよんだ。

■ 博覧会の影響
第五回内国勧業博覧会は、出品点数、来観者数などでそれまでの内国勧業博覧会を大きく上回って成功裏に終
わった。また、博覧会は交通の発達も促した。例えば、明治36年(1903)1月に大阪巡航合資会社が設立され、
市中の堀川を巡航船が走りだし観覧者の足となっていた。市電もこれを契機として敷設され、明治36年(1903)
9月に西区花園橋から築港までの間、約5キロが開通した。さらに、博覧会に大阪ではじめて自動車が出品された
が、それに注目した業者は、間もなく乗合自動車を市内に走らせたのである。

■ おわりに
以上述べたように、第五回内国勧業博覧会は、大阪の政・財界の強力な誘致運動によって大阪開催が実現した。
博覧会は、いままでの内国勧業博覧会と比べて、出品数、来観者、経費など大規模で、また華やかなものなった。
なお、会場の跡地については、日露戦争に際して陸軍用地となり、病院や捕虜収容所などに利用されたが、東半
分は明治42年(1909)に天王寺公園となった。西半分は歓楽街にかわり、天王寺かいわいが画期的に発展する
ことになったのである。

【参考文献】
・ 『明治大正大阪市史』(大阪市、昭和9年)
・ 『大阪百年史』(大阪府、昭和43年)
・ 『新修大阪市史』第6巻(大阪市、平成6年)
・ 『公文類聚』第23編 巻31 産業門3(国立公文書館、明治32年)
・ 『大阪商工会議所百年史』(大阪商工会議所、昭和54年)
・ 『堺商工会議所百年史』(堺商工会議所、昭和57年)
・ 『大阪府会議事録』(明治33年から35年)
・ 『大阪府会史』第2編(大阪府内務部、明治43年)
・ 『大阪市会史』4(大阪市役所、明治45年)
・ 『帝国議会 衆議院議事速記録15』(東京大学出版会、昭和55年)
・ 『風俗画報臨時増刊 第五回内国勧業博覧会図会下編』(東陽堂支店、明治36年)
・ 『大阪と博覧会』(第五回内国勧業博覧会協賛会、明治35年)

明治期の教科書 ‐所蔵資料案内記‐ 松田ゆかり
大阪府公文書館では、明治元年(1868)から明治32年(1899)に発行された教科書を約140点所蔵している。
これらは、もともと『大阪府教育百年史』編纂時に大阪府教育百年史編集室が収集した資料の一部で、その後大
阪府史編集室、大阪府立中之島図書館へと引き継がれ、平成4年(1992)に当館が保存することになった。本稿
では、当館が保存している明治時代の教科書について、当時の教育制度の変遷を追いながら、紹介していくことと
する。
■ 明治5年(1872)8月、「学制」が発布された。近代教育の基本理念が示され、欧米の制度にならい日本の近
代学校制度が始まった。小学(下等小学4年・上等小学4年の8年制)、中学(下等中学3年・上等中学3年の6年
制)、大学の3段階とし、小学校は、すべての国民が就学すべきと定められた。
翌9月に文部省は「小学教則」を公布し、小学校における具体的な教育内容を提示するとともに、使用すべき教科
書の標準的なものを指定した。文部省が指定した教科書は、そのほとんどが欧米の教科書を翻訳したものや、当
時の西洋文化を摂取する文明開化に指導的な役割を果たした啓蒙家の著書や訳書であった。また、当時文部省
自らも模範とすべき教科書を編集、出版してその普及をはかったが、民間でも教科書を自由に編集、出版すること
ができ、小学校でも教科書は自由に採択して使用することができた。大阪府も教科書を独自に編集して版権を所
有し、文部省蔵版書目の翻刻許可を得て出版会社に依頼し、教科書を発行したこともあった。
この時期の教科書として、『大阪府学校用苗字尽/大阪府学務課蔵版』(明治6年)、『筆算摘要 巻一/神津道太郎
訳』(明治8年)、『地理初歩 改正/師範学校編』(明治9年)、『博物図教授法/松山半山註解』(明治10年)、『大阪府
学校用日本略史 下巻/師範学校編』(明治10年)などを所蔵している。
 
■ 明治10年代になると明治維新からの文明開化、洋風尊重の思想から脱して、伝統的な国風が尊重されるよう
になり、儒教主義を基本とする皇国思想への転換がはかられるようになった。
明治12年(1879)8月、明治天皇から「教学聖旨」が内務卿や文部卿に教育意見として内示された。「教学聖旨」
は「教学大旨」と「小学条目二件」の2つからなっており、「教学大旨」には、わが国の教育の根本精神は仁義忠孝
を明らかにするのが本旨であると述べられている。同年9月には、「学制」が当時の社会実情に適合しない点が多
いため廃止され、新たに「教育令」が公布された。「教育令」は、「学制」の画一的な中央集権制を改めて、教育の
権限を大幅に地方に委ねる方針をとった。学校の設立や就学義務の強制をゆるめて地方の自由にまかせたた
め、府県によっては小学校を廃校にするものも出てきた。このため、「学制」によって高めてきた学校の設置や就
学を低下させるという非難も受け、あまりにも自由放任であるとして、当時この教育令は“自由教育令”とも呼ばれ
た。そこで、明治13年(1880)12月に「教育令」の改正が行われ、府知事、県令の権限を強め、また、文部省の
行政力を強めて中央統轄の方策を立て、学校の設立や就学について力点がおかれた。
この「改正教育令」に基づいて、明治14年(1881)5月に「小学校教則綱領」が公布され、小学校(初等科3年・中
等科3年・高等科2年)は3つの学年段階をもとにした科目編成と教授内容を規定した。このとき、仁義忠孝が教育
の根本精神であることをあらわすため、小学校の学科のはじめに修身がおかれた。また、「小学校教則綱領」の公
布とともに教科書の開申(届出)制度が実施され、明治16年(1883)7月には、文部省の認可を得なければ使用
できないことになった。
この時期の教科書としては、『修身児訓 巻之一/亀谷行編』(明治13年)、『小学修身書 三/木戸麟編』(明治16
年)、『小学中等読本 巻之二/木澤成肅編』(明治14年)、『小学地誌 巻一/南摩綱紀編』(明治14年)などを所蔵して
いる。
 
■ 明治19年(1886)3月「帝国大学令」、翌4月に「師範学校令」「小学校令」「中学校令」が公布された。「学制」
と「教育令」は学校体系全般についての規定であったが、明治19年のこれらの諸学校令は学校種別に規定され
たものである。小学校は2段階(尋常小学校4年・高等小学校4年)となり、尋常小学校への就学を義務とした。同
年5月「小学校ノ学科及其程度」を定めて、小学校の学科の種類、内容、時間配当などを示した。また、同年5月
「教科用図書検定条例」が定められ、教科書は検定制度となった。
この時期の教科書として、『新撰小学地理書 巻之四 訂正/森孫一郎ほか編』(明治21年)、『新撰理科書 巻二上
動物編 訂正/高島勝次郎編』(明治21年)、『国史紀要 巻上/岡本監輔編』(明治21年)などを所蔵している。
■ 明治23年(1890)10月に、従来の「小学校令」を廃して、新しく「小学校令」が公布された。これは、市制町村
制や府県制などによって地方制度が確立されたことに伴うものであった。同年10月30日「教育ニ関スル勅語」が
発布された。この教育勅語は徳育の基本となり、長きにわたり、わが国の教育の基本方針となった。明治24年(1
891)11月「小学校教則大綱」が定められた。これは明治23年の「小学校令」に基づいて定められたものである
が、同時に教育勅語の趣旨に基づく改正でもあった。修身について、「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児
童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と述べている。小学校の修身教科書
は教育勅語の趣旨に基づいてとくに厳しく検定が行なわれることとなり、修身教科書の内容はきわめて忠実に教
育勅語にそって編集された。当時の小学校修身教科書を見ると、勅語の全文を各巻の巻頭にかかげているもの
がある。
この時期の教科書として、『高等科用皇民修身鑑 生徒用 巻之一・二/学海指針社編』(明治26年)、『尋常小学修
身書 生徒用 巻三上/井上頼圀編』(明治26年)、『小学校用日本地理 乙種 第一巻/金港堂編輯所編』(明治27
年)、『小学理科新書 甲種 巻之一/学海指針社編』(明治26年)などを所蔵している。
 
■明治期の教科書は、例えば『博物図教授法』の「全葉(ゼンエウ)之形(ケイ)ト云(イ)フハ葉形(エウケイ)ハノカタチ
ノ異(コト)カワリタルナルモノヲ…」のように、旧かなづかいの文語体で、和紙を和綴じにして作った和装本である。
こうした明治期の教科書を手にとってみると、当時の学校の授業風景や教育内容が偲ばれ、感慨深いものであ
る。
【参考文献】
『近代日本教科書総説 解説編』(講談社、昭和44年)
『大阪府教育百年史 第1巻』(大阪府教育委員会、昭和48年)

昭和20年代の行政文書の紹介(その1)
名   称 概          要 作 成 時 期
「府参事会議案原議綴」 終戦前後の府参事会における議案の原議を綴ったもの。予算関係の文書などが多数収
録されている。 昭和20年度
(1945)
「府会関係雑件書類」 府会で審議された予算案に関する文書を綴ったもの。道路修繕費起債、疎開事業起債の
文書などが多数収録されている。 昭和20年度
(1945)
「知事事務引継書」 戦後2代目の知事松井春夫から3代目の知事田中廣太郎への事務引継書。当時の事務状況
が看取できる。 昭和21年度
(1946)
「道路特別整備費起債一件」 進駐軍相互の連絡や一般交通の円滑化を図るために行った18路線の道路整備事
業に関する文書を収録。 昭和21年度
(1946)
「特別市制関係資料綴」 大阪市などの5大都市をその所属の府県から独立した自治的特別市とする特別市制の
議論が当時盛んに行われた。本簿冊には、大阪市の特別市制実施問題に関する進言書、意見書、新聞記事など
の資料が収録されている。 昭和22年度
(1947)
「農地等解放実績報告綴」 大阪府内の農地解放に関する一連の文書を収録したもの。農地解放の見込面積調査
報告や買収予定計画等があり、府内の農地解放の進行状況が看取できる。 昭和22年度
(1947)
「防災気象通報連絡会一件書類」 台風や暴風、豪雨などによる災害防止のために、気象通報の連絡を有機的に
行う組織として「近畿防災気象通報連絡会」が昭和23年10月に設立された。本簿冊には連絡会に関する一連の
文書が収録されている。 昭和23年度
(1948)
「農事試験場設立ニ関スルモノ」 大正8年(1919)10月に設立された大阪府立農事試験場に関する文書を収
録。 昭和23年度
(1948)
「農協設立認可書」 南河内地方の農業協同組合設立に関する一連の文書を収録。 昭和23年度
(1948)
「雑書綴」 府とGHQの大阪軍政部との連絡、復興住宅建設、電気ガス税新設など様々な行政事項に関する文書
が収録されている。 昭和23年度
(1948)

大阪府公文書館企画展、歴史資料講座開催のお知らせ
【企画展】
『100年前の大阪エキスポ  歴史資料にみる第五回内国勧業博覧会』と題して、企画展を開催します。
 多数のご来館をお待ちいたしております。
 とき 平成15年10月1日水曜日から10月30日木曜日
午前9時15分から午後5時
(ただし、土曜日・日曜日・祝日を除く。)
 ところ 大阪府公文書館 2階展示室
入場無料
 なお、駐車場はありませんので、お車でのご来館はご遠慮ください。
【歴史資料講座】
 歴史資料講座として「古文書講座」と「歴史講座」を開催します。「古文書講座」では、はじめて古文書に触れる人
を対象に、古文書の取り扱い方や古文書解読の基礎知識を学んでいただき、当館所蔵の川中家文書(江戸時代
の庄屋文書)を教材として、初心者向けの古文書解読を行います。 また、「歴史講座」では、企画展で取り上げた
テーマを中心に、内国勧業博覧会の変遷とその当時の大阪について紹介します。
 興味や関心のある方は、ぜひ、ご応募ください。
 とき 平成15年10月20日月曜日
10月22日水曜日
10月24日金曜日
古文書講座 10時から11時
歴史講座  11時10分から12時10分
各回の講義内容は、同じです。
 ところ 大阪府公文書館 3階会議室
 募集定員 各回30名(先着順)
 受講料 無料
 申込方法
・ 往復はがきに1住所2氏名(ふりがな)3年齢4電話番号5希望日(第3希望まで可)および返信用の宛名を明記
の上、下記の住所あてにお申込みください。
・ インターネットでも申込みができます。
http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/
 申込締切 平成15年10月14日火曜日
インターネットでの申込みは、
平成15年10月22日水曜日
(各回定員に達し次第締切ります。)
 申込先 〒558-0054
大阪市住吉区帝塚山東2丁目1-44
大阪府公文書館
電話(06)6675-5551

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公文書館は、主に府が作成・入手した公文書や資料類のうち歴史的・文化的な価値があるものを保存し、広くみな
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