大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第35号
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大阪 あーかいぶず第35号

目   次
戦前地方「自治」の確立と大阪府…………………………1頁
公文書館所蔵資料のマイクロフィルム化とデジタル化…6頁
平成16年度企画展、歴史資料講座をふりかえって……8頁
第35号 平成17年3月
大阪府公文書館発行

戦前地方「自治」の確立と大阪府 矢切 努
■ はじめに
今日、地方分権・自治の問題が活発に議論され、漸次転換を遂げつつある。本来の自治とは、ある地域を基礎と
する団体が、自らの事務を自らの機関で処理することで、住民が自らの生命・生活を守り発展させるためにある。
しかし、従来の地方自治が「三割自治」といわれたように、長い間、地方行財政に関わる様々な部分で、地方自治
体は機関委任事務の遂行団体として機能してきた。
近代では、明治21(1888)年4月25日公布の市制・町村制、同23(1890)年5月17日公布の府県制・郡制により、戦前
地方「自治」制が天下り的に構築された。当然、これは現在のような「自治」ではなく、中央集権的な官僚行政を地
方において確保し、国政委任事務を府県や市町村に負担させるという立法意図に基づき構築されたものであっ
た。これは、従来の地方自治と現在の地方自治改革を考える上で注意されなければならない。本稿は、このような
戦前地方「自治」の歴史的沿革と大阪府下の状況を概観してみたい。

■ 戦前地方「自治」制確立前史
(1)中央政府による地方制度の模索
明治政府が整備した最初の地方「自治」制は、明治11(1878)年7月22日の“三新法”(「郡区町村編制法」・「府県会
規則」・「地方税規則」)であるといわれる。しかし、この“三新法”は、明治10年代を通じて改革・修正が行われ、市
制・町村制、府県制・郡制の制定によって、一応、戦前地方「自治」の形態が構築されるに至るのである。
この戦前地方「自治」の構築過程では、地方制度の改革が頻繁に行われてきた。明治4(1871)年7月14日の廃藩
置県以来、区、大小区などの地方制度が整備されたが、これらの地方制度は学制、徴兵制、地租改正をはじめと
する諸政策の推進とともに、江戸時代以来の民俗・伝統に配慮を欠くものであった。その結果、民衆の不満を醸成
し、全国各地で民衆の抵抗を引き起こした。このような民衆の抵抗に対抗するため、中央政府は“三新法”制定に
よって、安定的な地方制度の構築を意図したのである。
フランス法制に倣ったといわれる“三新法”は、旧来の民俗・伝統に配慮して、毎町村に戸長を公選で置くと同時
に、国政と地方行政との区分を明確にし、府県会や町村会を認めて民衆代表者を地方行財政に参画させ、一定
の町村「自治」を認めることにより、国家の最末端の単位である町村を安定化させると同時に、民心を慰撫して反
政府闘争を抑止し、国家による安定的な国民統治体制を創出しようと意図したものであった。しかし、この政府の
意図に反して、自由民権運動が、府県会・町村会自体を基盤として活発になってきたため、既述したように、中央
政府は“三新法”の改革・修正をすることとなる。

(2)大阪地域における地方制度の変遷
まず、“三新法”制定前の大阪地域の地方統治の形態についてみてみよう。
慶応4(1868)年5月2日に設置された大阪府は、現在の府域の内、摂津7郡を管轄するに過ぎなかった。明治5
(1872)年5月、大阪府当局は戸籍編成のための区制を実施した。村を約1千石規模で組み合わせて組村、組村を
約1万石規模で組み合わせて区とし、25日になって、それぞれの行政単位に戸長、区長を公選で置いた。また大阪
府当局は、明治8(1875)年4月30日には大小区制を実施し、郡村地は従来通りとする一方、市街地では、郡の範囲
に大区を、従来の区の範囲に小区を置き、各行政単位に公選で区長、戸長を置いた。
慶応4(1868)年6月22日、河内・和泉両国を管轄する堺県が成立した。堺県当局は、明治5(1872)年2月に区制を設
けた。4から5町、7から8村単位で区を設け、そこに区長を、各町村に戸長を公選で置いた。さらに、明治7(1874)年
1月22日には、大小区制を実施して、大区、小区、番組(組合町村)の行政単位を設け、それぞれに大区長、小区
長、戸長を公選で置いた。しかし、明治9(1876)年4月18日には、奈良県が合併され、堺県の管轄区域が拡大した
ため、堺県当局は再び区画改正を行った。この改正では、大小区を維持しつつ番組を廃止して、大区に区長、小
区に副区長、正副戸長、各町村に総代を公選で置いた。
また、明治5(1872)年頃からは、全国的に地方民会開設の風潮が表れてきた。この流れを受けて大阪府当局は、
明治6(1873) 年11月15日、公選区戸長を議員とする府会を開設した。後に、区会も開催し、戸長の他、区内選出
の議員も参加させたが、その選挙資格者は不動産所有者に限られ、小作人には選挙権が与えられなかった。ま
た、府会・区会自体が諮問機関に過ぎず、現在の府議会、市町村議会のようなものでなく、単に住民に意見を具
申する場を与え、民衆の不満の爆発を回避する緩衝材としての役割に過ぎなかった。
堺県では、大阪府よりも早い、明治5(1872)年5月に「区長会議規則」を制定し、区長会を開いた。また、堺県当局
は明治9(1876)年7月12日にも「県会議事仮規則」を作成して県会を開き、公選の区戸長・総代らを議員として行財
政に参画させた。
以上のように、統一的規程がなかった大小区制期には、地方制度、地方民会は、各府県毎に実施され、頻繁に改
正されていた。全国的には、区戸長ら役人を官選任命制としたり、地方民会の未開催の府県もあったり、仮に民会
を設けても議員が官選任命制の地域も往々にしてみられた。このような中で、江戸時代以来、次第に浸透してきて
いた庄屋入札制などに基づく形とはいえ、大阪府・堺県当局が、官吏や議員を公選制とし、仮にも民衆代表者が
行財政に参画する形態が整備されていたことは、注目してよいのではなかろうか。
しかし、このような大阪府、堺県独自の地方統治のあり方は、中央政府の“三新法”制定による統一的地方制度の
整備によって、転換を余儀なくされる。

■ 三新法期の大阪地域
明治12(1879)年2月10日、大阪府当局は“三新法”(郡区町村編成法)に基づく郡区町村制を実施した。大区・小区
を廃止して郡・区を設置し、官選で郡長(郡)・区長(区)を置いた。その郡・区の下に一分画(町:十数ヵ町から二十
数ヵ町連合、村:数ヵ村連合)を設け、各分画に公選の戸長を置いた。戸長の選挙・被選挙資格は、100円以上の
不動産を所有する20歳以上の男子に与えられた。
しかし、“三新法”(郡区町村編成法)が毎町村に戸長を置くことを原則としていたため、明治13(1880)年7月2日、大
阪府当局は毎町村に戸長を置くことを認めた。ところが、区部会の議長から大阪市区の毎町村戸長制廃止の建
議が出されたため、郡村地域では毎町村戸長制、市街地では連合町村戸長制となった。当時、大阪府会の状況
は「流石(さすが)は利勘(りかん)に賢(さと)き大阪地方のことなれば…議場に於(おい)ては各議員算盤(そろばん)を
携え、一議題出れば少時間は、満場算珠の響喧す(かまび)し」(『大阪市史』)といわれたが、この建議は、毎町村
戸長制が戸長給料支出の拡大をもたらすため、財政支出削減に重点を置いた「利勘に賢き大阪(?)」の姿による
のであろうか。
一方、大阪府に1年遅れた明治13(1880)年4月15日、堺県当局は郡区町村制を実施した。堺県でも、郡・区に郡
長・区長が官選で置かれ、連合町村毎に公選の戸長が置かれた。しかし、翌14(1881)年2月7日に堺県は大阪府
に合併されたため、堺県域は大阪府下の郡村地域として、毎町村戸長制が実施されることとなった。
以上のように、全国統一的な“三新法”の下では、従来の大小区制でみられたような府県の独自性は薄められた。
この“三新法”の下で、公選戸長は行政官吏と民衆惣代としての二面の性質を、官選郡長・区長は行政官吏として
の性質を与えられることとなった。
また大阪府は、明治12(1879)年3月13日、「府県会規則」に基づく府県会議員選挙を行った。議員の選挙・被選挙
資格は、地租5円以上を納める20歳以上の男子戸主・地租10円以上を納める25歳以上の男子戸主に限定され
た。この納税額要件は、明治14(1881)年からの松方デフレ政策で生じた農民の階層分解が、多くの地主を小作人
に転落させたことと相俟って、選挙・選挙権者数の減少を引き起こした。そのため、この選挙によって選出される議
員は村民惣代ではあるが、一部地主の代表者に過ぎない議員の性質を有すものであった。
また、渡辺昇府知事が訓示で「公議(こうぎ)によって事を決めるという天皇の思召(おぼしめ)し」を「人民は深く感謝
しなければなら」(『大阪百年史』)ず、分をわきまえた議論をするようにと述べた。当時の「自治」は上から与えられ
たもの、というに過ぎなかった。
一方、堺県は、「府県会規則」に基づき、明治13(1880)年5月15日より県会議員選挙を行った。堺県は、既述のよう
に、明治5(1872)年以来、地方民会を開き民衆代表者の参加を認めていたが、中央の「府県会規則」の規定に沿っ
て、選挙・被選挙資格の制限を実施した。しかし、堺県は大阪府に合併されることとなった。
ともあれ、大阪府・堺県独自の地方制度・民会の制度は、政府の“三新法”によって、国家的な地方統治体制の中
に組み込まれていくのである。

■ 戦前地方「自治」体制の確立
(1)三新法体制から市制・町村制体制へ
既述のように、自由民権運動が昂揚してくる中で、政府は三新法体制の修正を余儀なくされた。この修正は、議会
における議決事項の制限や議院の選挙・被選挙資格制限の強化として顕れ、特に明治17(1884)年5月7日には戸
長官選制が採用され、反政府的な戸長を排除しうる法整備がなされた(これらの修正を一般に明治17年の改正と
いう)。
大阪府も戸長官選制を実施したが、場合によっては戸長公選の可能性もあるとして戸長選挙法を布達した。しか
し、実際には府下の戸長選挙は行われなかったようである。戸長の官選制は、戸長給与の増額が必須で、町村行
財政を逼迫するため、財政支出に耐えうる町村規模の確立が必要となる。そのため、大阪府では5町村500戸を基
準に戸長管轄区域が拡大され、大規模な町村合併が推進された。ここに、明治13(1880)年以来の大阪府下の郡
村地域での毎町村戸長制は廃止された。
明治憲法起草の中枢人物であった井上毅は、戸長官選制は「各村自治の精神を衰弱ならしめ」るもので、連合町
村制は戸長を「数村を聯合(れんごう)したる行政官吏の性質」とし「一村団結の首領(しゅりょう)に非(あら)」(『井上
毅伝』)ざる状態にすると述べたが、この戸長官選制は、戸長を一般民衆から切り離し、行政末端の官吏として統
治機構側に取り込むものであった。事実、府下のある戸長が「足下(そっか)は本職の命令に違背(いはい)さるゝ
や、本職は官選戸長でござるぞ」(『大阪市史』)と村会議員に述べたという。この戸長の言は、官選された戸長自
身に行政末端の官吏としての認識を強くさせるものであったことを示している。
いわばこれらの改正は、“三新法”当初にみられた「自治」的要素を弱め、中央集権的な官僚行政を地方において
確保し、政府・府県当局にとって円滑な統治体系の構築を意図したものであった。この意図はひとまず、市制・町
村制に帰結する。
(2)市制・町村制下の大阪
明治21(1888)年4月25日、政府は立憲政治の基底となる地方統治体制を構築する目的から、ドイツ法制*に倣っ
た市制・町村制を公布した。これが、戦前地方「自治」体系の基盤となる。これは、憲法発布・国会開設を前に、安
定的な地方統治体系、強力な中央集権国家の建設を意図したものである。
まず、市町村会に行財政事務を分任した。議員は市町村公民の公選で選ばれ、選ばれた議員が市町村長を選出
する。ここでいう公民は、2年以上市町村に在籍し、地租もしくは直接国税2円以上を納入する男子、また在籍せず
とも、納税額が市町村内最多額納税者の上位3位以内の者に与えられた。選挙方法は、富裕地主に有利な「等級
選挙制」**が採用され、彼ら富裕者層を支配者側に取り込むことを意図した制度でもあった。
この戦前「自治」制の生みの親、山県有朋は市制・町村制を「国会開設の日に至り政党の運動一層活発を加うる
に至れば…常に紛擾衝(ふんじょう)突を起し終(つい)には収拾す(しゅうしゅう)可(べ)からざるの情勢を醸成するに
至」るので「故(ゆえ)に…宜く(よろし)地方分権地方自治の制を定め、国の行政事務にして地方に委任することを得
可(うべ)きものは之を委任し又各共同区の経済に属する事務にして其(その)自治に任(ま)かす可(べ)きものは官の
監督の下に於(おい)て之を処理せしめ完全なる地方制度」(『公爵山県有朋伝』)と述べた。ここに戦前地方「自治」
制の性質が如実に示されている。
大阪府は、明治22(1889)年4月1日、大阪・堺に市制を、その他の町村に町村制を施行した。しかし、大阪市には東
京・京都と並んで市制特例が設けられた。市制特例とは、市長・助役を置かず、府知事・書記官がそれぞれの職
務を執行し、その他の職務も府の官吏が行うものである。これは、主要都市を府の直轄として中央政府の統制を
確保するもので、民衆から「自治」を奪うものであった。そのため、大阪市会を中心として、府下では市制特例撤廃
運動が高まり市制特例は廃止され、明治31(1898)年10月1日、大阪市に市制が実施された。この結果、大阪市に
市長・助役が置かれ、初代大阪市長に田村太兵衛が就任し、大阪市にも「自治」行政が実施されることとなった。
ともあれ、当初府下で市制が施行されたのは堺市のみであった。堺市では、明治22(1889)年4月28・29日等級選挙
で市会議員が選出され、翌5月28日、第1回堺市会が開催された。市長は有給の行政専門官吏と位置づけられ、
市会は3名の市長候補者を選ぶのみで、府知事・内務大臣の認可・任命を受けなければならなかった。この結果、
一桶(いちひ)作兵衛が初代堺市長に任命され、この市長の下で税制・港湾・水道施設・学校施設・貧困者救済・勧
業等の行政が行われることとなった。
郡村地域でも、等級選挙による議員選出が行われ、町村長・助役は、町村会議員の投票、府知事の認可を経て
任命される。しかし、町村長は原則無給で、府県知事の強力な統制下に置かれた。町村は地方団体の執行機関
である前に、まず国家の出先機関として、国家行政を管下住民の負担で補完、補強する役割を求められたのであ
る。
このように、市制・町村制は、公選議員を市町村行財政に参画させ、一定の「自治」を認めるものであったが、選
挙・被選挙権や議決事項の制限によって、市町村長・議員は民衆と乖離した存在で、「自治」は今に比べて随分弱
いものであった。
(2)府県制・郡制の展開と大阪府
明治23(1890)年5月17日には、府県制・郡制も公布された。府県・郡に「自治」を与えることは、多くの反対論があっ
たため、これはかなり「自治」的要素を骨抜きにされたものとなった。
まず、郡に郡長、郡会・郡参事会が置かれ、それぞれ執行、議決機関とされた。町村行政は郡長の監督下に、郡
行政は第一に府県知事の強力な監督下に置かれた。郡長は官選制、郡会議員はその75%を町村会の選挙か
ら、25%を地価1万円以上の大地主の互選から選出するとされた。このため、選挙における大地主の優位性が確
保され、大地主による郡支配を構築しようとするものであった。
また府県制では、府県の法人格を規定せず、府県会にも条例制定権を与えなかった。府県会は三新法期から開
催されていたにもかかわらず、府県を自治体として認めず、府県の自治権を無視していたのである。そのため、府
県制・郡制は明治32(1899)年3月16日に改正されることとなった。
改正府県制では、一応、府県に法人格が与えられ、府県は公共事務・国政委任事務を処理する地方団体となっ
た。府県会では、住民の直接選挙で選ばれた府会議員が参画して行財政を取り扱い、歳入出予算審議・不動産
進退処分・財産・営造物管理方法などの制定権限を持った。しかし、条例制定権はなお与えられず、議員選挙・被
選挙資格は各3円・10円以上の国税納入者に制限された。唯一議案発議権を有したのは府知事であるが、府知事
は国家の官選任命制で、府県職員も大半は国家官僚であった。また、改正郡制も、郡に明確な法人格を与えた
が、郡自体は課税権を持たず、郡財政は町村賦課税に依存していたため、財政基盤が非常に脆弱であった。郡
会議員の選挙・被選挙資格は、各3円・5円以上の国税納入者とされた。
大阪府が府県制を実施したのは、東京・京都府等と共に最も遅く、明治32(1899)年7月1日であった。ここに、大阪
府は法人格を有す地方自治体となった。府会議員は市部21名、郡部22名の計43名で構成され、9月25日に議員
選挙実施、10月10日に臨時大阪府会が開かれた。また、副議決機関として、知事・高官と8名の府会議員(市部・
郡部各4名)からなる府参事会が設けられ、議案が緊急で府会提出の暇がない場合には、府会に代わり議決する
こととなった。
大阪府は、7月1日に郡制も実施した。郡において、郡会・郡参事会が設けられ、郡長が執行機関とされた。しか
し、西成郡史の編纂、泉北郡の山林改良、泉南・北河内郡の高等女学校および南河内郡の実科高等女学校の経
営など以外は、あまり目を見張る公共事務がなされないまま、郡制は大正15(1926)年には廃止されることとなっ
た。
このように、府県、郡、市町村は、一応地方自治体として発足し、以後若干の改正を加えられながらも、郡を除き、
戦前日本地方制度の根幹となっていくのである。
■ おわりに
以上のように、戦前地方「自治」は、府県・郡・市町村を地方自治体として認可し、その体制の下で自治行政が行
われることとなった。しかし、府県会の条例制定権、議案発議権はなく、市町村条例制定にあたっても内務大臣の
認可を必要とされるなど、今のような自治ではなかった。
山県内務大臣は、この戦前地方「自治」制は「国家の組織を堅緻(けんち)にし、立憲政体の基礎を鞏固(きょうこ)に
す可(べ)き制度法律」であり「漫に(いたずら)架空論(かくうろん)を唱(とな)えて天下の大政を議するの弊(へい)を一
掃(いっそう)」し、「動(やや)もすれば社会の秩序を紊乱(びんらん)せんと企つ(くわだ)る蠢愚(しゅんぐ)の徒」(『元老
院会議筆記』)を一掃できるものと述べた。中央政府が、この戦前地方「自治」制をいかに近代国家形成の重要基
盤と考えていたかが、みてとれよう。
このように、わが国の戦前地方「自治」は、府県・町村に自生的に発達してきた「自治」事務を発展させるよりもむし
ろ、国政委任事務を府県・市町村に負担させる立法意図の下に確立され、「自治」は住民の権利でなく、住民の国
家に対する義務であるとされた。まさにこのような歴史的沿革の下で構築された戦前地方「自治」制は、中央政府
による地方統治体制の構築過程にあって、戦前日本の国体を支える中軸となったのである。

【参考文献】
・「秘書綴」〔庶務課/知事官房〕
・『大阪百年史』〔大阪府、1968年〕。
・『大阪府布令集』1から3〔大阪府、1971年〕。
・『大阪市史』〔大阪市、1991年〕。
・『大阪府の百年』〔山川出版社、1991年〕
・山中永之佑『日本近代地方自治制と国家』〔弘文堂、1991年〕。
・『堺市制百年史』〔堺市、1996年〕。
<注>
* フランス法制の地方制度からドイツ法制導入への転換は、大隈重信一派が閣内から追放された明治14(1881)年
政変を境として、ドイツ流の国家主義が採用されたことによるものといわれる。
**等級選挙制とは、選挙権者を納税額の多寡により分類するもので、町村では2級、市では3級とされた。町村で
は、町村納税総額を合計して、合計額の上位50%までの納税者を1級選挙人、下位を2級選挙人とし、等級毎に議
員の半数ずつを選挙させるものである。市でも同様の形態で3級に分類された。これは、多額納税者に優位な選
挙制度となっていた。

大阪府公文書館所蔵資料のマイクロフィルム化とデジタル化
公文書館所蔵の歴史的文書資料類のうち、大阪府公報や明治期等の行政文書等は、利用頻度が比較的高く、ま
た、紙の劣化の進行が著しいため、長期の保存・利用対策として、15年度、16年度にそれぞれ大阪府公報、行
政文書(公文書)のマイクロフィルム化及びデジタル化を行っています。また、15年度、16年度に古い映像資産
(映画フィルム、ビデオテープ、写真フィルム等)の利用対策としてデジタル化を行っています。

【大阪府公報のマイクロフィルム化・デジタル化】
平成15年度において、当館所蔵の大阪府公報(明治期から平成15年3月31日までの発行分)のマイクロフィル
ム化及びデジタル化を行い、今年度から公報の内容は、当館の閲覧室においてマイクロフィルムまたはデジタル
画像で閲覧することができるようになりました。
また、公報をインターネット上からもご覧いただくため、現在公文書館において、公報のデジタル画像データを大阪
府公文書館システムに順次登録する作業を進めています。平成17年1月末現在で、大正元年から昭和14年発
行までの公報が登録を完了しており、既にインターネット上での閲覧が可能です。これからも引き続き、鋭意登録
作業を進めてまいります。

◆ インターネットで大阪府公報を閲覧する方法
1.1大阪府公文書館ホームページ[http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/]のトップメニューから資料検索を選択し、「所
蔵資料検索」画面を表示します。または、直接2「大阪府公文書館所蔵資料検索システム」
[http://www.doc.pref.osaka.jp/hx/index.jsp]の画面を表示します。(右図1)
2‐1 図1の検索画面で標題に「大阪府公報」と入力するほか、その他の情報を入力し、順次絞り込み作業を行っ
ていくと目指す公報の内容が、PDFファイルで表示されます。
2‐2 特定の公報の内容を閲覧したい場合
(例:大正3年1月15日付の公報第147号を閲覧したい場合)
a.図1の検索画面で、請求記号の欄に「D0【大阪府公報】」(分類)を選択し、「1914」(年度)を入力し、検索を押すと
図2のような検索結果が表示されます。
b.図2の[件名] 大阪府公報 大正3年1月15日 第147号〔PDF〕を押すと図3の画面が表示され、その画面にある
文書閲覧を押し、ファイルのダウンロードで開くを押すと図4のようなPDFファイルが開きます。

【行政文書(公文書)等のマイクロフィルム化・デジタル化】
平成16年度において、当館所蔵の明治から昭和35年までの行政文書、古地図、古写真、明治・大正期の布告等
のマイクロフィルム化やデジタル化を行っています。これにより、閲覧や複写による原資料の損傷を防ぐとともに、
原資料の情報をマイクロフィルムの形態で半永久的に後世に残すことが可能となります。

【ビデオテープ、映画フィルム、写真フィルム等のデジタル化】
平成15年度において、「大阪文化のデジタルアーカイブ事業」(大阪府企画調整部)の一環として、当館所蔵の一
部のビデオテープ、映画フィルムのデジタル化を行いました。これにより、当館の閲覧室で、DVDに収録された映
像をご覧になることができます。また、平成16年度には、当館の事業として、先の事業でデジタル化の対象となら
なかったビデオテープ、映画フィルム及び写真フィルム等のデジタル化を行っています。
 
当館においてDVDで閲覧できるビデオテープ等
請求記号 簿冊標題
X0-2004-36 なみはや国体:まちかどVision放映模様
X0-2004-37 空へ世界へ未来へ:はばたくりんくうタウン
X0-2004-38 海に拓く暮らしのステージ:二色の浜環境整備事業
X0-2004-39 農とのふれあい:新しい都市農業の試み
X0-2004-40 食品流通を支える:大阪府中央卸売市場
X0-2004-51 関西国際空港時代に飛躍する堺泉北港
X0-2004-55 おおさかの≪水≫新時代:安全でおいしい水をつくるために
X0-2004-58 大阪府新環境総合計画 New STEP21「環境都市・大阪」をめざして
X0-2004-100 地域広報推進 北河内 平成2年度総集編 大阪の野鳥
X0-2004-106 おおさかの空から眺めてみれば 大阪市地域・府内ダイジェスト
X0-2004-160 水の贈りものホタル:大阪府「ホタル育成事業」の記録
X0-2004-161 なにわ塾 昭和59年度
X0-2004-176 先人からのおくりもの7『大和川の付け替え』中河内編
X0-2004-183 大阪ニュース No.61から64
X0-2004-274 21世紀をめざして:府民とひらく大阪
(上記以外の目録は、大阪府公文書館所蔵資料検索システムで検索してください。)

平成16年度大阪府公文書館企画展、歴史資料講座をふりかえって
【企画展】
平成16年10月1日から10月28日まで『記録からみる大阪の台風災害 -室戸台風から70年-』と題して、企画
展を開催しました。多くの方々にご来館いただき、誠にありがとうございました。
今回の企画展は、大阪に多大な被害をもたらした室戸台風(昭和9年(1934)9月)、ジェーン台風(昭和25年
(1950)9月)、第二室戸台風(昭和36年(1961)9月)を中心に『大阪気象月報』などの記録資料を展示しました。
これらの台風は、大阪に未曾有の暴風雨や高潮の被害をもたらしました。このような災害に遭うたびに高潮対策
が強化され、防災体制が整えられてきました。展示をご覧になった方々の中には、実際に室戸台風、ジェーン台風
などの被害にあわれた方がおられ、とても貴重な生々しい体験談を聞かせていただきました。
当年は、たびたび台風が襲来し、また大地震もあり各地で被害が相次ぎました。日頃から台風など自然災害に対
する防災意識をもち、備えをしておくことの大切さを痛感させられた年でした。
【歴史資料講座】
歴史資料講座として、「古文書講座」「歴史講座」を平成16年10月18日・20日・22日に開催しました。各日とも
定員をこえるご応募をいただき、ありがとうございました。
「古文書講座」では、はじめて古文書に触れる人を対象に、当館所蔵の川中家文書(江戸時代の庄屋文書)を教
材として、初心者向けの古文書解読を行いました。また、「歴史講座」では、企画展で取り上げたテーマを中心に、
大阪における台風災害やその後の防災対策について紹介しました。
 
参加された皆様からいただいたご意見等は、今後の講座の企画運営に生かすよう努力してまいりますので、また
のご参加をお待ちしております。
また、これを機に府民の皆様が当館の歴史的文化的資料を利用していただきますよう期待しております。

利 用 案 内
◆ 閲覧時間
・月曜日から金曜日 午前9時15分から午後5時
◆ 休館日
・土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
・年末年始(12月28日から1月4日)
・毎月末日(土曜日の場合はその前日、・日曜日の場合はその前々日)
公文書館は、主に府が作成・入手した公文書や資料類のうち歴史的・文化的な価値があるものを保存し、広くみな
さんにご利用いただく施設です。
最寄駅
 阪堺電軌上町線帝塚山三丁目駅(徒歩3分)
 南海高野線帝塚山駅(徒歩6分)
 
大阪府公文書館 大阪あーかいぶず 第35号 平成17年3月1日発行
〒558-0054 大阪市住吉区帝塚山東2丁目1-44/Tel06-6675-5551/FAX06-6675-5552
ホームページ http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/ この冊子は2,500部作成し、一部あたりの単価は46円です。

住所
大阪市中央区大手前2丁目1-22 大阪府庁本館5階
Tel
06-6944-8371
Fax
06-6944-2260
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