大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第36号
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大阪 あーかいぶず 第36号

archives(あーかいぶず)とは、英語で記録資料・文書館という意味です。
目   次
公文書館に赴任して…………………………………………1頁
大規模宅地開発事業新しい住宅都市“千里ニュータウン” …3頁
当館所蔵資料紹介『千里、泉北ニュータウン関係資料』…7頁
平成17年度企画展、歴史資料講座のお知らせ…………8頁
第36号 平成17年9月
大阪府公文書館発行

公文書館に赴任して 荻布 孝
平成17年4月1日、万代池の桜並木を横に見ながら、大阪府公文書館に着任しました。
大阪府公文書館は、昭和63年の公文書館法の施行に先だち、昭和60年11月に、大阪市住吉区帝塚山の閑静
な住宅地の一画にある旧大阪女子大学の施設を活用して設置され現在に至っています。当館は、保存期間が満
了し一定の役割を終えた府の行政文書資料類を中心に、歴史的文化的な価値のある文書資料を体系的に収集
保存し、一般府民や関係機関の閲覧等の利用に供しております。
また、館報「大阪あーかいぶず」を定期的に刊行し、歴史的文書にかかる論説や当館の事業の案内等を行うほ
か、所蔵文書を活用した企画展や歴史資料講座の開催、専門職員によるレファランスや調査研究など、幅広い業
務を実施しております。これらの業務の実施にあたりましては、学識経験者等で構成される「大阪府公文書館運営
懇談会」から情報や助言をいただくとともに、国立公文書館並びに全国歴史資料保存利用機関連絡協議会に参
画する多くの機関・アーキビィストの皆様と連携協力し、利用者ニーズに即応した府公文書館の運営に努めてきて
おります。
平成17年度末現在で、当館に登録している文書資料は、115、929件に達し、当館にしか存在しない貴重な文
書資料を中心として、インターネットで簡易に目録情報が検索できるサービスを提供するとともに、一部画像につい
ては閲覧が可能となっております。
さて、公文書館におきましては、後世に残すべき価値のある文書を、確実に評価・選別し、管理・保存・利用する適
切な機能が求められます。しかしながら、現在、行政文書全体を視野に入れて、歴史的文書資料は必ず公文書館
において保存・利用しなければならないというしくみは確立されていませんし、歴史的文書資料の選別についても、
何が歴史的文化的価値のある文書なのかという具体的・統一的な基準を定立することは必ずしも容易ではありま
せん。利用面では、現用文書ではないが、行政文書であることから、情報公開法(条例)や個人情報保護法(条
例)の規制を受けたり、その趣旨の尊重が求められ、歴史的文書資料としての自由な利用という要請との適切な
調整が必要となります。
しかし、個別の個人情報を具体的にどう扱うべきかという点で、個々の文書・情報にあたってみて個別に判断する
ことになるため、慎重を期して、個人情報部分はすべてマスキング処理をしてしまう傾向があることは否めないと考
えられます。歴史的文書資料の利活用には、審査に要する時間を含めて、こうした制約が伴っています。
また、公文書館の機能を果たす上で、歴史的文書資料の選別、レファランス、現在と異なる文書表現(くずし字等)
や外国語の解読、歴史的文書資料及びこの取り扱いに関する調査研究等の業務を担う専門的人材が求められま
すが、公的な資格制度が確立されていないこともあり、その確保には困難を伴います。こうした諸点の解決には、
国における立法措置等を待たなければならないものもありますが、それぞれの公文書館及び設置者における創意
工夫や努力によって改善が図られるものもあると考えられます。
国におきましては、平成16年1月の内閣総理大臣施政方針演説において、「政府の活動の記録や歴史の事実を
後世に伝えるため、公文書館における適切な保存や利用のための体制整備を図ります。」と政府の方針が表明さ
れるとともに、同年12月には、衆参両議院の国会議員による「公文書館制度強化推進議員連盟」(仮称)の発足
が伝えられました。国家と社会の歩みを記録する貴重な歴史資料である公文書を、国民共有の財産として将来の
世代に確実に伝えることは、現代に生きる者の大きな責務ととらえられており、今後、公文書館を取り巻く課題の
解決や、諸外国と比較して遅れているといわれる公文書館行政の進展に大きな力になるものと期待をしておりま
す。
こうした中で、大阪府公文書館としましては、大阪にしかない大阪府の貴重な歴史的文書資料を将来の世代に伝
えていくため、今できることを確実に行うという観点から、当面、職員一丸となって、次のとおり業務の改善に取り組
んで参ります。

1 歴史的文書資料収集の充実を図るため、収集の範囲を拡大するとともに実践的な選別基準の策定を図ること。
2 利用者の利便性の向上と適切な利用に資するため、閲覧・複写等の利用者に関わる多くの業務を一元的に整
理し、おのおのに必要な取り扱い方法を基準化(規定整備)すること。
3 所蔵文書の適切な保存・利用に資するため、文書資料のマイクロフィルム化・デジタル化、インターネットによる
提供を拡大するなど積極的なIT化を検討すること。
4 利用者ニーズを把握するため、あらゆる機会を通じて、要望・意見等を聴取するとともに、館運営への迅速な反
映に努めること。
5 公文書館の適切な運営を支えるため、職員は、館内・館外での情報収集と自己啓発、活発な意見交換に努める
など、主体的に館運営の改善に参画すること。

当館に対しまして、引き続き、関係各位のご支援・ご協力をお願いいたします。
また、本年10月には、人口の大都市集中に伴う深刻な住宅難に対応するため、大阪府が全国に先駆けて計画実
施した大規模宅地開発事業である千里ニュータウン等に焦点をあて、企画展と歴史講座を実施するとともに、当
館所蔵の江戸時代の庄屋文書を教材に解読実習を行う古文書講座を予定しておりますので、積極的なご参加を
お願いいたします。
おりしも、本年は、当館設立20周年にあたりますので、この20年間の歩みを総括し、真に、大阪の歴史の宝庫と
して利用者に親しまれる存在へと飛躍する契機としたいと考えております。
大阪府の歴史的文書資料の探索や調査相談の際には、当館をご想起いただき、是非ご来館いただきますことを、
心からお待ちしております
(おぎの たかし 大阪府公文書館長)

大規模宅地開発事業 新しい住宅都市“千里ニュータウン” 矢切 努
はじめに
昭和30年代初頭の神武景気による高度経済成長・国民所得の伸張は、工業地域の開発や雇用拡大、企業や人
口の大都市集中をもたらした。大阪府下の人口も急増し、住宅需要の高まりと地価の高騰、無秩序な乱開発が生
じた結果、計画的な住宅地開発の必要性が高まってきた。そこで、大阪府は「都市としての施設をもった健康で文
化的な生活を享受できる住宅都市」の開発に着手し、その住宅都市として選ばれたのが千里ニュータウン(以下、
Nt)であった。これは、国内初の大規模宅地開発事業であり、千里で培われた構想・技術は、その後のNt開発に
大きな影響を与えた。
本稿では、当時の新しい街づくりの開発理念を中心として、千里Nt開発事業を振り返る。

■ 千里丘陵とその選定
吹田・豊中両市に所在する千里の地は、もともと大部分が50から70mの丘陵地帯で、谷間が複雑に入り組み、う
っかりすると道に迷うほどの険しさであった。Nt建設前には、推定6万匹ものマムシが千里丘陵に生息したといわ
れ、測量にあたってはマムシの血清が準備されたようである。このような千里丘陵にNtが建設されたのは、次のよ
うな立地条件に基づくものであった。
それは、千里が地形上、変化に富んだ地形と樹木の多さから優れた景観を呈している一方、大阪・神戸・京都の
中心的位置(大阪市内から15キロm圏内)にあり、大阪国際(伊丹)空港の整備拡張、大阪中央環状線・名神高速
道路の建設により、畿内交通の要所となりえるという利点にあった。
千里丘陵ではすでに小規模な宅地造成が散発的にみられていたが、当時の宅地開発は上下水道・交通・教育施
設等の公共施設の拡充が遅れがちであったため、「従来のような無計画」で「無秩序と混乱」を招かないよう、計画
的な都市の整備開発が早急に必要とされたのである。そこで、予定人口15万人、戸数にして約3万戸のNtが計画
されたが、この計画規模は、国内はもとより国外でも例をみないものであったため、事業着手に先立ち様々な研究
機関や学識経験者へ委託しての調査研究が行われた。その結果、諸外国の新都市建設の動向調査等の多角的
な調査研究を経て、幾多の千里Ntマスタープラン(以下、Mp)が作成された。昭和35(1960)年10月には最終Mp
が公表され、「大阪近辺に勤務する中低所得層を主要な対象とし、一部高所得層を加えた安定した住宅地域で、
独自の文化をもつまち」の創出を目指した。

■ マスタープランにみる千里Ntの理念
開発総面積1160haされたMpでは、土地利用配分比率を定めて、計画的にNtを整備建設することに重点が置か
れた。まず、住居区(住区)内外の交通確保に万全を期すため、幹線道路を施設することで、A(津雲台)、B(高野
台)、C(佐竹台)、D(桃山台)、E(竹見台)、F(青山台)、G(藤白台)、H(古江台)、i(新千里北町)、J(新千里東町)、K
(新千里西町)、L(新千里南町)の12(吹田8、豊中4)住区(各約2千5百戸)に分割し、住区を二分割して分区を設
ける。そしてこの住区・分区を基準に、生活圏に必要な施設整備、住民の生活・通学・買物等の利便と安全性を考
慮した町作りが計画された。
 
千里NtのMpには、当時では斬新なアイデアが数多く取り入れられていた。
例えば、学校施設では、児童の心身の発達段階に応じた指導空間の区分を行うと同時に、子どもが分校に親近
感を持ち、素直に低学年の学習に移行できるとの見地から、高低分離方式(1分区に小学校低学年校〔1・2年と
幼稚園〕を1校ずつ計24校、小学校高学年校〔3年以上〕を1住区に1校ずつ計12校)を採用した。これは、教育
施設を住区の中心施設とし、子どもの独行半径を考慮して、住宅から3百m以内に学校を建設することで、学友同
士の交友、家庭同士の交際を深め近隣生活が円満となり、家庭教育上有意義であるとの見地から取り入れられ
た。
また、従来の郊外住宅都市の商業施設は、都心の商業施設に及ばないとされたが、千里Ntでは商業娯楽施設を
建設して、主婦や子ども対象の商業機能地区中心性を増大させ、都心の中心商業施設と同様のサービスを確保
すると同時に、商店と緑地と家族を対象とする厚生娯楽施設とを複合した地区センター商店街を創設し、独自性を
出すことで魅力のある商業施設を目指した。
医療施設では、従来の医療制度の欠点を考慮し、開業医と大病院との協力関係を密にし、通常は患者のことを知
悉した開業医(ホームドクター)に診療を受け、病状に応じて大病院の高度な医療施設による治療を可能にするオ
ープンシステム(欧米で行われていた)を採用した。これは、地域の医療施設の密度を高め、住民のための保健医
療制度を積極的に導入するものであった。
公園緑地については、利用住民の年齢層、生活圏の段階を考慮して、住区を基準として幼児公園(50戸毎)、児
童公園(1分区毎)、近隣公園(住区1から2箇所)、地区公園(南北中央の三地区)、周辺緑地などのバラエティに
富んだ公園・緑地施設が計画された。特筆すべきは、千里Nt全域の24%が公園緑地で占められ、車道の両側に
幅広い緑地帯が設けられるなど、休息・遊戯・散歩・観賞などレクリエーション施設であると同時に、景観構成に役
立つ公園・緑地が構成されたことである。
汚水処理では、雨水とし尿、雑廃水を別個の下水系で処理し、汚水処理場で浄化してから外部へ流す新しい分流
式を採用した。世界的に最高水準の設備で網羅し、完全処理を期するものである。
Mpにはこの他、既成概念を打ち破るような構想が盛り込まれていたが、事業の進展に伴い、例えば、小学校高低
分離方式、近隣商業施設の設置基準、医療施設計画等の見直しが行われたが、千里Nt開発の進捗、人々の入
居と生活環境の変化に伴う、様々な問題点に対する創意工夫の結果であったといえよう。

■ 千里Ntの建設
昭和35(1960)年12月24日、工事事務所の建築、ついで千里1・2号線の街路築造、水害等の災害対策のため
河川修築工事が行われ、翌36(1961)年6月11日、Mpに基づく宅地造成工事がC住区から行われた。7月10日
に「千里Nt起工式」が行われ、これを契機に事業が急速に進展し、B・A住区の宅地造成工事が始まった。
宅地造成でも様々な創意工夫が施され、特に住宅棟のプライバシーの問題、安全性、住みやすさなど、住宅棟の
配置に様々な試行錯誤が加えられた。風通しや日照の確保だけでなく、いかに「うるおいのある落ち着いた住空
間」、「都市全体からみても調和のとれた町の景観」を創出できるかにも十分配慮されている。千里Nt団地群は一
見、各棟が勝手に乱立しているようにみえるが、地形図上では非常に計画的に並んでいる。
団地群において、検討採用されたパターンとして、1ラドバーン方式、2クルドサック方式、3スーパーブロック方式
等があげられる。1は、第二次大戦後建設された米国のラドバーン団地を手本とした「囲み方配置(コの字型)」・
「歩車分離」方式で、敷地を建物で囲み、内部に歩行者専用道、外部(道路付近)に袋路・駐車場を設け、日常の
買物・通学・遊戯等、日常の住民の安全性を考慮したものである。当時は、今ほど自動車社会ではなかったが、米
国の自動車文明の発達に鑑み、わが国の将来を見据えた先見的な計画であった。
欧州で行われていた2は、従来の歩道がなく道路に面した独立住宅での交通事故の危険性、自動車の振動・排気
ガスの悩み等の問題を解消するもので、幹線道路から道路を住宅街に引き、各戸の門前は行き止まりの袋地と
し、巾1.2m位の専用歩道で各袋地の間を繋ぎ、安全な買物・通学を可能にした。その後、サーキュレーション(循
環)方式も採用された。これは、道路を団地内で循環させることで、2の袋地・T字路などの行止まり交通の不便を
解消し、また通過交通を解消しつつ、各循環路を専用歩道でつなぐものであった。
3は土地利用効率の向上と調和のとれた景観のため、建設用地のブロックをより大きく区画し、機能的な住宅配
置を可能にするものであった。
以上のように、「歩車分離」の方針に基づき、日常生活の快適性・安全性や新しい近隣関係の創出など、様々な理
念・構想がMpに注入され、このMpに基づいた住区開発が行われていった。
Mpを基に、C・B⇒A・H⇒G・F⇒i・J⇒D・E⇒K・Lの順に住区建設が進められた。各住区は建設年度に応じて、
様々な改良・工夫が施され、特にi・J住区辺りからは、民間コンサルタントの技術が導入され、新しい独特のパター
ンが適用された。J住区(新千里東町)を例としてみると、J住区は北大阪の発展に鑑み、副都心に隣接する理想
的住区と位置づけられた。歩行者と自動車の徹底的な分離を行い、歩行者専用道路によって「幼稚園、小学校等
の公共施設に便利に安全に結ばれ、且つ美しい庭園の中を通るよう」な住区というテーマで建設された。また、電
線を地下に配して電柱をなくし、街廊形成を主眼とする景観などが導入されている。一方、近隣公園内に自然を全
くそのまま残すとともに、住戸建設予定地でも極力土量の移動、地盤の造成を少なくし、従来の地形を保存した。
この他、各住区で様々な改良が施された。
ともあれC住区の住宅建築が始まり、昭和37(1962)年9月に入居受入を開始し、11月2日に「千里Nt町びらき
式」が佐竹台近隣センター北側の広場(現千里Nt保育園)で催され、新しい住宅都市千里Ntが産声をあげた。
入居が開始されると、住民の通勤手段の確保が最優先課題となる。特に、阪急電鉄は千里Nt事業計画に欠かせ
ない存在で、府は阪急電鉄に対し阪急千里山線の千里山駅から新千里駅(現南千里駅)までの延伸を要請、昭和
38(1863)年8月に運行が開始された。それにより佐竹台周辺住民の通勤手段が確保され、昭和42(1967)年3
月には現在の北千里駅まで延伸された。また府は、大阪市に対し営団地下鉄1号線の新大阪から江坂経由の延
伸も要請し、12月には(株)北大阪急行電鉄が発足、着々と交通網が整備され、千里から大阪市内へは、阪急千
里線、阪急バスとJR(当事、国鉄)で30分以内、車で大阪国際空港(伊丹空港)まで約20分と、交通の便も充実
していった。
 

■ 千里から泉北へ
千里Nt建設の台本ともいえるMpには様々な改良が施されているが、おおよそ最初の理念が具体化された。特
に、Mp作りの過程から終始一貫して議論された点は、1歩行者専用道路の導入、2通過交通の排除、3等質性の
追求、4具体的条件への対応であった。これは、住民の安全性と利便性を両立させ、また各住区において諸階層
に対応できる等質性を維持すると同時に近隣性をも創出し、臨機応変な事業推進を可能とするものであった。こう
して千里Nt開発事業が進められた。
かつて“千里の名物は桃と筍とマムシ”といわれた千里丘陵に住宅が建設された当時、千里は「陸の孤島」といわ
れ、入居競争率は14倍しかなかった(当時、高槻市津之江団地は159倍)。しかし、交通網の整備、各種施設整
備の進展にともない入居者が次第に増加した。昭和39(1964)年の東京五輪開催と新幹線の開通により東京―
大阪間が近くなると、見物客も多数訪れるようになった。昭和41(1966)年4月には天皇・皇后(昭和天皇・香淳皇
后)両陛下が、昭和43(1968)年3月には皇太子・皇太子妃両殿下(今上天皇・皇后両陛下)が“東洋一のNt”千里
に御来訪され、千里Ntは全国的に知られるようになった。
昭和39(1964)年からは泉北Ntの開発事業も進められた。現在、泉北は千里を上回り開発面積1520ha、約5万
戸の規模を誇る。泉北Ntの開発にあたり、泉北独自のカラーも取り込まれていたが、ラドバーン方式、スーパーブ
ロック方式など、千里Ntで培われた「歩車分離」の理念・技術もふんだんに導入されたのである。自然景観に対す
る配慮として、従来の地形の保存と活用が行われ、公園・緑地は千里についで開発総面積の22%を誇る。ここに
も千里Ntの開発理念が活かされていたのである。

■ おわりに
千里Ntの町開きから40年以上が経過した今、居住人口の減少と少子高齢化の加速、建物の老朽化、近隣センタ
ーの衰退など、多くの問題を抱えている。しかし、昭和30年代の人口集中・住宅難と悪質な住環境の中、何よりも
「好ましい居住環境」に重点を置き、当時の既成概念を打ち破る斬新的なアイデアを取り入れた最先端の住宅都
市=千里Ntが果たした役割は、後のNt建設に与えた影響をみてもきわめて大きい。
千里Nt最初の住区(佐竹台)建設開始は、第二室戸台風の来襲した年であった。大阪府は昭和9(1934)年の室
戸台風以来、高潮対策・地盤沈下対策に取り組み、災害被害の減少に努め、現在の台風時における大阪の安定
性を築き上げてきた。昭和36(1961)年4月25日には、長い間大阪人の夢であった大阪環状線も開通した。そし
て、千里Nt⇒泉北Ntなど“新しい町づくり”が始まり、昭和45(1970)年には千里丘陵で大阪万国博覧会が開催さ
れた。“人類の進歩と調和” をテーマとする大阪万博はアジア初の万博であった。
第二次大戦後の荒廃と台風災害からの復興、新しい町づくり、万博への過程は、まさに“(大阪の)進歩”であっ
た。現在、周知の通り大阪万博以来35年ぶりの「愛・地球博」(愛知万博)が開催されている。21世紀の万博のテ
ーマは“自然の叡智をテーマとした新しい文化・文明の創造”である。時代はさらに新しい方向へと進みつつある。
 
今日、千里Ntは再開発の時期を迎えている。再開発にあたっては、開発時の“くつろげる環境”の理念を基調とし
て、千里の良さを残しつつ進められることが望ましい。また、わが国Nt事業を先導してきた千里Ntは、わが国Nt再
開発の先駆的モデルとなることが求められるであろう。
当時の大阪は、千里丘陵を舞台として、国内初のNt開発、それに続くアジア初の万博という“進歩”の宝庫であっ
た。もちろん、様々な問題点が存在したことは事実だが、国内初の先駆的大事業=千里Nt建設にあたり作成され
たMpに盛り込まれた開発理念、それを支えた既成概念に囚われない発想力・技術力、後のNt建設に与えた影響
等を考慮するならば、千里Nt開発事業は当時の大阪の誇るべき一大プロジェクトであり、大阪の“再建”と“進
歩”のあゆみであったといえよう。【参考文献】
・『大阪府年鑑』昭和37から昭和45年版〔新大阪新聞社〕。
・「マスタープラン」その1からその10〔大阪府企業局〕。
・各「住区基本計画概要書」〔大阪府企業局〕。
・『千里ニュータウンの建設』〔大阪府、1970〕。
・『千里の歴史と伝統』〔千里20年まつり実行委員会、1982〕。
・山地英雄『新しきふるさと』〔学芸出版、1982〕ほか。

当館所蔵資料紹介 『千里、泉北ニュータウン関係資料』
平成17年3月に、大阪府企業局から主に千里、泉北ニュータウンに関する文書・資料類が当館に引き渡されまし
た。企業局は、千里丘陵住宅地区開発計画を強力に推進するため、住宅地区開発事業と臨海工業地帯造成事
業をあわせて、昭和35年(1960)7月1日から3部(管理部、宅地開発部、臨海開発部)、6課、2所で発足しまし
た。
昭和35年2月の定例大阪府会で、企業局について左藤知事は、「大阪府の産業構造の体質改善をはかり府民福
祉向上のための基礎条件となる事業、特に臨港工業地域の造成、宅地開発事業等非常に企業的色彩の強い公
共事業であり、運営上いろいろな問題が予想されるので、この際単独の工業地帯造成事業部門、住宅地区開発
部門、管理部門の三つの部局を設け、事業の重要性を明確にし、責任体制を確立したいと考えて提案した。」と答
弁し、「大阪府企業局設置条例」として審議可決されました。ここで承認された企業局は、宅地開発部は府下にお
ける住宅問題打開の一環として大規模住宅地開発を、臨海開発部は府下の産業基盤の強化をめざし、現在は企
業局企業監理課、阪南スカイタウン推進課、りんくうタウン推進室(誘致課、建設課)に至っています。
千里丘陵開発計画は、昭和32年(1957)ごろから始まり、良好な居住環境をもった住宅市街地を開発するた
め、各面にわたってそれぞれの専門機関や大学の専門学教室に調査研究を依頼し、報告されました。それによっ
て、千里ニュータウンのマスタープランづくりが進められ、住区構成、土地利用、交通その他各種施設の配置、経
営管理などについての計画基準が作成されていきました。昭和35年(1960)にマスタープランが決定され、千里
ニュータウン1,160ha、住宅戸数3万戸、人口15万人、人口密度約120人/haの計画規模となりました。そして、
交通、医療・教育・商業などの施設、公園緑地、下水道、電力供給、遺跡などの調査研究が行われ、それをもとに
計画し、整備されていきました。千里ニュータウンの建設事業としては、昭和45年(1970)に終わりましたが、そ
の後も、千里ニュータウンの現況調査研究が行われています。
 

また、千里丘陵に引き続いて、昭和39年(1964)には、千里ニュータウンを上まわる規模の泉北ニュータウンの
建設が決定されました。泉北丘陵は、大阪の都心から南へ20km、大阪府の南端を走る和泉山脈の麓の丘陵地
帯、東から泉ヶ丘、栂、光明池の3つに分かれた丘陵の開発が行われました。泉北ニュータウンは、先行した千里
を範としてさらに計画の改善実現が積まれていき、昭和57年(1982)には、その事業を終えました。
当館ホームページの資料検索から、請求記号「K0(資料群)」(分類)「0026」(年度)と入力し、検索すると、今回引き
渡された資料類の目録の一覧が表示されます。その中には、千里丘陵の地形図、施設の図面、人口の統計、住
宅年報などさまざまな資料が含まれています。
当館では、閲覧しようとする資料の中に、個人情報が含まれる場合、個人情報保護に関する法律および条例によ
り閲覧できないものもありますので、詳しくは当館までお問い合わせください。

大阪府公文書館企画展、歴史資料講座開催のお知らせ
【企画展】
大阪府公文書館では、『大規模宅地開発事業 新しい住宅都市“千里ニュータウン”』と題して、企画展を開催しま
す。
多数のご来館をお待ちいたしております。
 とき 平成17年10月3日月曜日から10月28日金曜日
午前9時15分から午後5時
(ただし、土曜日・日曜日・祝日を除く。)
 ところ 大阪府公文書館 2階展示室
入場無料
なお、駐車場はございませんので、お車でのご来館はご遠慮ください。
【歴史資料講座】
大阪府公文書館において、歴史資料講座として「古文書講座」と「歴史講座」を開催します。
「古文書講座」では、はじめて古文書に触れる人を対象に、古文書の取り扱い方や古文書解読の基礎知識と、当
館所蔵の川中家文書(江戸時代の庄屋文書)を教材として、初心者向けの古文書解読を行います。また、「歴史講
座」では、企画展で取り上げたテーマを中心に、千里ニュータウンの開発事業について紹介します。
興味や関心のある方は、ぜひ、ご応募ください。
 とき 平成17年10月17日月曜日
10月19日水曜日
10月21日金曜日
古文書講座 13時30分から14時50分
歴史講座  15時00分から16時00分
各回の講義内容は、同じです。
 ところ 大阪府公文書館 3階会議室
 募集定員 各回30名(先着順)
 受講料 無料
 申込方法
・ 往復はがきに1住所2氏名(ふりがな)3電話番号4希望日(第3希望まで可)および返信用の宛名を明記の上、
下記の住所あてにお申込みください。
・ インターネットでも申込みができます。
http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/
 申込締切
・ 往復はがきでの申し込み
・ インターネットでの申し込み
平成17年10月13日木曜日(必着)
 申込先
〒558-0054
大阪市住吉区帝塚山東2丁目1-44
大阪府公文書館 電話(06)6675-5551

利 用 案 内
◆ 閲覧時間
・月曜日から金曜日 午前9時15分から午後5時
◆ 休館日
・土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
・年末年始(12月28日から1月4日)
・毎月末日(土曜日の場合はその前日、・日曜日の場合はその前々日)
公文書館は、主に府が作成・入手した公文書や資料類のうち歴史的・文化的な価値があるものを保存し、広くみな
さんにご利用いただく施設です。
最寄駅
 阪堺電軌上町線帝塚山三丁目駅(徒歩3分)
 南海高野線帝塚山駅(徒歩6分)
 
大阪府公文書館 大阪あーかいぶず 第36号 平成17年9月1日発行
〒558-0054 大阪市住吉区帝塚山東2丁目1-44/Tel06-6675-5551/FAX06-6675-5552
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住所
大阪市中央区大手前2丁目1-22 大阪府庁本館5階
Tel
06-6944-8371
Fax
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