大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第38号
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大阪あーかいぶず 第38号

archives(あーかいぶず)とは、英語で記録資料・文書館という意味です。
目   次
近代大阪府の郡役所……………………………………………1頁
平成18年度公文書館アーカイブズ・フェア
展示会、歴史講座、古文書講座、特別講座のお知らせ…6頁
第38号 平成18年9月
大阪府公文書館発行
近 代 大 阪 府 の 郡 役 所 大阪府公文書館専門員 矢切 努
はじめに
今年は郡役所廃止から80年である。大正12年に郡制は廃止され、大正15年に郡長・郡役所も廃止された。現在で
は、数度の市町村合併を経て多くの郡が消滅し、大阪府下でもごく一部の郡が地理上の名称として名を残すのみ
である。しかし、戦前、とりわけ明治から大正期のわが国において、郡は府県と町村の間の中間的な行政区画で
あり、郡には郡長・郡役所が置かれていた。この郡長・郡役所は、中央政府・府県の出先機関、町村の監督・指導
機関として存在したのであり、「この郡制の存在、郡役所の活動を抜きにしては、近代日本の地方行政は語れな
い」と言われるほどに、行政機関として極めて重要な役割を担っていた。
本稿では、わが国でこのように重要な役割を果たした郡役所・郡長について考察するが、紙幅の都合上、郡長の
性質と機能を中心に述べたい。
■三新法体制下と郡長・郡役所
そもそも、郡とは中国の周代から隋・唐の時代の置かれた行政区画の名称で、わが国では律令制の下で「国-郡
―里」という行政区画として誕生した。近代では、明治11年の三新法体制(郡区町村編制法・府県会規則・地方税
規則の三法を機軸とする地方統治体制)によって郡は行政区画となり、1郡から数郡に1つの郡役所が設置され、
そこに執行機関として郡長が置かれた。三新法体制とは、江戸時代以来続く町村を公的な行政区画とし、公選戸
長などの役職者を置き、町村にある程度の伝統・慣習を復活させ一定の自治を認めるものであった。その町村を
監督・指導する機関として、郡長・郡役所が設置され、郡長は府知事・県令の出先機関として町村統治を行った。
かくして、中央政府(内務卿)―府県(府知事・県令)―郡(郡長)―町村(戸長)という行政系統が構築された(大
阪・堺など政治経済の中心部は、郡と区別して区とされ、区役所・区長が設置された)。
現大阪府域(明治14年2月まで、大阪府・堺県)には、当時、能勢(のせ)・豊島(てしま)・島上(しまがみ)・島下(しまし
も)・住吉・西成・東成〔摂津国〕((以上、大阪府))・交野(かたの)・茨田(まった)・讃(ささ)良(ら)・河内・若江・高安・大
縣(おおあがた)・渋川・志紀(しき)・安宿部(あすかべ)・丹(たん)北(ぼく)・丹南(たんなん)・八(や)上(かみ)・古市・石
川・錦部(にしごり)〔河内国〕・大鳥・和泉・南・日根〔和泉国〕((以上、堺県))の計27郡が存在した(次頁・図1参照)。
大阪府は、明治12年に三新法体制に移行すると、豊島、能勢、住吉、東成、島上、島下、西成各郡に1名ずつ郡
長を置き、従来、大阪三郷と呼ばれた大阪市街地を東・西・南・北の4区として4名区長を置いた。そして約2年の
試行期間を経た明治14年に、郡域が狭く、特に郡役所設置の必要がないと判断した、東成郡と住吉郡、島上郡と
島下郡、豊島郡と能勢郡を合わせ、東成住吉郡役所、島上島下郡役所、豊島能勢郡役所とし、各1名の郡長を置
いた。
一方の堺県は、明治13年に三新法体制に移行し、石川・古市・安宿部・錦部・八上・丹南・志紀郡を合せて1郡役
所、丹北・高安・大縣・河内・岩江・渋川郡で1郡役所、茨田・交野・讃良郡で1郡役所、大鳥・泉郡で1郡役所、南・
日根郡で1郡役所と、20郡に5郡役所を設置し、各1名、5人の郡長を置き、堺区(堺市街地)には区長1名を置い
た。当時、堺県が管轄した大和国(現奈良県)でも、添上・添下・山辺・広瀬・平群郡、宇陀・式上・式下・十市郡、高
市・葛上・葛下・忍海郡、吉野・宇智郡の4郡役所に各1名ずつ郡長を置いた(堺県廃県から明治20年まで、大阪
府が摂津・河内・和泉・大和4国を管轄)。
■三新法体制における郡長・郡役所の役割と機能
これらの郡長・郡役所は、専ら行政機関であった。というのも、府県と町村には、府知事・県令や戸長など執行機
関が置かれる一方、府県会・町村会といった議決機関が設置され、民衆(土地所有者など)が行財政に参画する
一定の自治体的性質があったが、郡には議決機関が置かれなかったからである(区では、当初、地方の便宜で区
会を置くことができた)。そのため、民衆は郡の行財政に参加することはできず、郡長は、内務卿―府知事・県令
―郡長の行政系統を通じて下達される政府の行政方針をより直接的・官治的に町村に展開したのである。
三新法の理念では、本来、郡長に地方名望家(その地域に生活基盤を有し、在地性のある者)を官選で任用し、
その名望で管下町村に対する円滑な行財政の展開と町村の監督・指導を行わせることにあった。しかし、実際の
郡長は在地性のない人物が多かった。当時、大阪府会が「郡区長公選の建議」を提出し、「風土民情ヲ知ラサル
他管ノ者」が「籍ヲ其地方ニ移」して「郡区長ニ撰任」され、「地方民情ト相(あい)背反(はいはん)スル」と指摘した。
例えば明治19年では、府下の郡(区)長18人名中17名が府外出身者で、その多くが士族(兵農分離などにより、士
族は江戸時代には、すでに在地性を失っていた)であった。というのも、郡長の任用は府知事・県令の権限であり、
府知事・県令自身、赴任地から遠い地域の士族出身者が多かったため、円滑な地方行財政の推進には、縁故あ
る人物や同じ士族層を郡長に任命する方が都合が良かったためであろう。一般的にも、他府県出身士族が郡長
に赴任する例が多かった。
この郡長の給与は、地方税(府県税)支弁で、しかもかなり高額であった。大阪府では、郡(区)長給与は、年間約9
千5百円(560円/1人)、郡(区)書記の給与額も年間約2万8千円(176円/1人)で(明治14年度)、その他、郡役
所事務関係費用を合算すると年総額約9万円で、地方税総支出額の実に11%を占めた。そのため、府民の納税
(主に土地所有者から)から給与を支払う以上、「風土民情ヲ知ラサル」郡長でなく、在地性があり地域民に親近感
ある人物を選べるよう、郡長を公選にすべきだという声があがったのである。
このように、郡長は任地に在地性がなく、内務卿―府知事・県令―郡(区)長という中央集権的な官僚行政系列を
通して、町村を官治的に監督・指導する機関であり、かつ給与が地方税負担であったため、不満の声が各地で上
がった。そこで、中央政府はひとまず郡長給与を国税負担とし(明治16年太政官第7号布告)、不満の矛先をかわ
そうとした。さらに明治20年には、郡長の任用方法を試験任用制とした。この試験任用制には、一定の財産があ
り、専門的な行政知識・実務能力を有すと共に、任地の風土や慣例、物産について知識を有す者を郡長に任用し
ようとする意図があった。町村レベルでは、明治17年の町村制度改革(「明治17年の改正」)によって、町村の団体
的・自治的要素の解体・再編、および戸長や町村指導者層(上・中級地主)などを為政者側に取り込む体制が構築
されていたため、このような町村の監督・指導を円滑・巧妙に行えるような、有能な専門技術者を郡長に確保しよう
としたのである。
ところが実際には、財産もあり相当の行政能力を有すような人物は、試験を受けて郡長になろうとはしなかった。
郡長の筆記・口述試験答弁書をみると、大阪府の郡長試験受験者4名の内、合格者は1名であった。不合格とさ
れた3名の採点を見ると、2名は筆記・口述試験はおろか「性行亦劣等ニシテ採ルヘキ所ナシ」とされ、残り1名は
他に比べ「試験成蹟及言語動作」は優秀だが、「郡ヲ統治スルノ器」でなく「其性行品位郡長ノ任ニ堪ヘ」ないとされ
た。府での郡長需要は2名であったにもかかわらず、郡長に相当する人物=合格者を1名しか出せなかったので
ある。
この傾向は、全国的な傾向でもあった。郡長試験を実質的に監督した内務省は、できる限り合格ラインを低く設定
していたにもかかわらず、合格者は需要人員を満たさなかった。これは、有能な人材が受験をしてまで郡長になろ
うと思わなかったことも一つの要因であるが、上述の評価からみると、試験は合格点でも、地方統治の観点におい
て、内務省・地方官にとっての有能な人材=「郡ヲ統治スルノ器」に相当する人物でなければ、合格とならなかった
場合もあったのではなかろうか。
このように、郡長試験はその目的を十分に達成できなかったため、一定の制限付きで無試験郡長特別任用制が
制定された(明治23年勅令第9号)。これは、試験任用制を補完する役割のものであったにもかかわらず、以後
は、この特別任用が主体となってしまったため、後には、郡長には「老朽官吏」や「一時の遊んで喰ふ場所」と考え
るような、地方官や中央官僚の友人が任用されたり、帝国大学出身のエリート官僚の一時の赴任先になるなど、
在地性のない行政官僚としての郡長が一層多くなった。このような郡長が、以後、一貫して、管下町村の監督・指
導機関として君臨し、農事改良や郡内の生産力向上、農会や産業組合の活動強化、道路整備、納税促進、就学
率の向上、貯蓄奨励、流行病予防・消毒、衛生思想の普及など、町村の行財政全般にわたる指導と介入を行って
いく。例えば、大阪府では、島上・島下郡の郡長が、地域の有志者と共に茨木幼稚園(府下郡部での幼稚園の嚆
矢)を設立するなど、教育面の指導的役割も果たしているが、郡長は抑圧機関として行財政を推進する傾向も多
く、明治23年の郡制制定によって一定の修正が図られることとなった。
■郡制の制定と郡長・郡役所
明治23年5月17日に制定された郡制(法律第36号)では、まず郡長は執行機関とされ、従来より一層の官僚化と
身分の高等化が図られ、郡長は第一義的に町村行政を監督する機関と明確に位置づけられた。それと共に、郡
行政に対する地方官・内務大臣の監督も一層強化された。
この郡制で注目されるのは、郡に郡会(議決機関)と郡参事会(副議決機関)が設置され、郡がはじめて自治体とし
て認められたことである。しかし、郡会議員は、直接選挙ではなく、75%が町村会で選挙され(複選制)、25%が「地
価一万円以上」の「大地主」の互選で選出されるもので、議員の多くが上級地主層で占められた。次に、郡参事会
は、郡長と名誉職参事会員4名で構成されるもので、3名は郡会議員からの公選で、残りの1名は地方官(府県知
事)の選任であった。この参事会には、従来、郡長の専決処分であった町村監督事務などの権限の一部が委譲さ
れることとなった。
郡が自治体として認められた背景には、次のような中央政府の立法意図があった。明治10年代後半からの松方
デフレ政策は、米価の下落⇒地租負担の実質的な増加による、農民層の分解を発生させ、この間に、土地を集積
して大地主化してきた地方の「名望家」達は、利害関係の衝突などから、地域の一般民衆とは一線を画し始めてい
た。こういった大地主・上層地主を郡会議員や郡参事会員として郡の統治に参画させ、その名望を統治に利用す
る一方、支配の一翼を担わせ統治機構内に取り込むことによって、郡長―郡会・郡参事会の結合を強化し、郡長
による官僚的統治を補翼させることで、安定的な郡―町村統治を期待したのである。すなわち、明治23年郡制は、
郡に自治体としての一定の性質を認める一方、郡長の権限強化、内務大臣・地方官による監督権限の強化と共
に、郡会・郡参事会を統治機構として構築することによって、地方支配の安定化を図ろうとする中央政府の意図の
下に実施されたのである。
しかし、郡制そのものが、早くも、制定翌年の第1回帝国議会には批判されることとなった。それは、郡長の官選や
議員の複選制、大地主議員などへの批判であった。例えば、郡長に対する批判では、郡長が衆議院議員総選挙
の際、地方官の指揮の下、選挙干渉を行ったことが激しく攻撃された。このように、郡長による選挙干渉の事実
は、地方官僚としての官選郡長の性質・役割の一端を示しているといえよう。このような批判も多く上がっていた
が、実際には、中央政府の思惑も外れていた。特に、大地主議員の制度について、農民層の階層分解によって、
大地主が一般民衆から乖離した結果、大地主自身が必ずしも名望家ではなくなっていた。そのため、統治機構内
に大地主を取り込み、その名望を利用して円滑な町村統治の実現を図るという意図は、実現不可能となっていた
のである。そのこともあって、郡制の改正・廃止までもが検討されるに至るが、結局、明治32年に郡制改正が実施
されることとなった。
■大阪府における郡制の施行
このように、明治23年郡制は10年も経ずに改正されることとなるが、実際には、地方においても、郡の分合に関す
る問題があったために、殆どの府県では、郡制の施行が大幅に遅れていた。大阪府でも郡制の実施は、明治31
年になってからのことであった。施行が遅れた要因は、当時、郡の規模が小さく、自治体として独立するには郡の
合併が大前提であったためである。府下の各新聞によると、当初、27郡を7郡から9郡に分合するのでは、と諸説
があったようである。最終的に、明治29年3月「郡治分合法」(法律第38号)で、西成、東成(東成・住吉)、三島(島
上・島下)、豊能(能勢・豊島)、泉北(大鳥・泉)、泉南(南・日根)、北河内(茨田・交野・讃良)、中河内(丹北・大
縣・高安・河内・若江・渋川)、南河内(石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南)の8郡に合併され、同年4月から施行
された。しかし、諸般の事情から、結局、府下での郡制施行は、明治31年6月1日であった。そのため、府下の23
年郡制は非常に短期間であった。
■改正郡制と大阪府の郡役所
明治32年3月、郡制が改正(法律第65号)されるが、その改正は主として、郡会議員の選挙法などに関する改正で
あった。改正郡制では、複選制や大地主議員制は廃止され、町村公民(一年以上直接国税3円以上納入者)によ
る直接選挙(被選挙権者は、一年以上直接国税5円以上納入者)が採用された。この結果、議決機関である郡会
議員の構成は、23年郡制に比べて門戸が開放された感もあるが、実質的には、納税制限が非常に高額であった
ため、選挙・被選挙権者は大地主・富商に占められていた(選挙権者数は総人口の2.3%:明治32年)。それに対
応して、郡会・郡参事会の議長を務める郡長の職務権限はさらに強化され、改正郡制でも、郡長を中心とする大
地主・富商による郡支配、中央集権的支配が一層強力に図られていたのである。
このような郡制の下で、郡長・郡役所による郡行財政の推進、町村への指導・介入が進められる。ここで、郡役所
の財政についてみてみよう。まず、収入面では、経常部収入は、財産収入・雑収入および町村分賦金が収入源で
あったが、財産収入等はごく僅かで、主として町村分賦金のウェイトが高く、郡歳入の実に約7割以上を占めてい
た。町村分賦金とは、前々年度の郡内各町村の直接国税・府県税額に基づいて、郡費用を町村に賦課するもので
あった。臨時部収入は、前年度の繰越金、府の補助金や郡内住民からの寄付金等で構成されていた。郡の歳出
は、郡会議費や郡会議員の選挙費用、その他、教育、勧業、衛生費等で、主として教育・勧業費が大部分を占め
ていた。郡長・郡吏員給与は、郡の費用ではなく国費・府県費であったため、郡の歳出費目にはなかった。
明治32年度の郡歳入は約2万数千円で、府の歳入(約406万円)、市町村の歳入(約371万円)に比べて極めて小
規模であった。歳出額もまた、同様の規模であったが、委任事務などの増大と共に、累年増加を遂げて、大正10
年頃には30倍にまで膨張した。それに伴って主要歳入源である町村分賦金も30倍超となり、町村財政に大きな負
担を強いていったのである。それでも、郡役所において運営・実施された事業は、府県や市町村に比べて極めて
規模が小さかった。明治36年に内務省が地方官に対して実施した郡に関する調査では、大阪府知事でさえ「郡事
業トシテ見ルヘキモノナシ」と述べたように、府下でも郡の実施した事業は、府や市町村に比べ極めて小規模なも
のでしかなかった。わずかに、注目できる事業としては、泉南郡立農学校、南河内郡立黒山実業学校、北河内郡
立河北高等女学校、南河内郡立河南高等女学校、三島郡立高等女学校、豊能郡立農商学校および泉北郡立物
産陳列館等で、教育・勧業関係の事業が主であったといわれる。
ともあれ、累年増加を遂げていく郡事務関係費用が、町村分賦金として押し付けられる一方、明治44年4月の町村
制改正(法律第69号)によって、郡長の権限は一層強化された。この改正で、一つには、町村長・町村吏員が職
務を執行しなかった場合、郡長および郡長の委任を受けた吏員が代理執行し、その費用を町村が負担しなければ
ならないとされた(143条)。町村に委任される国政事務が一層膨張していく中で、町村長が職務を執行せず、国政
事務が遅滞することを防ぐために、町村の意思と関係なく、強制的に代理執行できる権限が郡長に与えられた。
町村監督・指導機関としての郡長の役割は、一層強大なものとなっていった。
■郡制と郡役所(郡長)の廃止
このような過程の中で、明治期から大正期の中央政府による官治的な地方統治を支えるべく、郡長は町村への指
導・介入を一層強めていく。例えば、郡長による農村への米作の技術改良などの指導が、「サーベル農政」といわ
れたように、郡長は中央政府の政策を強権的に管下町村に展開した。
しかし、改正郡制以降、郡制の廃止⇒郡役所・郡長制の廃止を求める声は高まっていた。例えば明治37年第21回
帝国議会衆議院では、郡制は「制度上から云っても、経費の上から云っても、無用の長物」と批判され、明治40年
には、内閣からも郡制廃止法案が出された。この案は郡制のみを廃止するものであったが、これに対して、郡制廃
止のみでは経費の削減も僅かで、郡会廃止による郡長への監督機能の低下から、郡長の選挙干渉などを防止で
きないとして、郡役所廃止を伴う郡制廃止が議会側から求められたのである。しかし、いずれも審議未了等で実現
に至らなかった。
第一次世界大戦以後の時勢の変遷、とりわけ大正7年頃から小作運動が活発化してくると、郡長制批判の世論は
一層強くなった。とりわけ大阪市域の都市化に伴い、土地は農地でなく都市発展の地盤として利用価値が高まり、
小作人に土地返還を求める地主の動向や小作料減免を求める小作人の運動も活発化した。「農村(のうそん)和
平(わへい)上(じょう)ニ一(いち)大暗影(だいあんえい)ヲ低迷セシムルニ至」る中、大阪府では、小作争議が大正6
年の1件から大正12年の306件まで激増し、全国1から2位を争う争議多発地域となった。この状況の中で、郡長
の不要論が一層高まった。例えば、豊能郡庄内村(現豊中市)で発生した、小作料米減免の争議では、豊能郡長
が地主・小作双方の仲介を図りながらも地主側を説得できず不調に終わっている。この状況は、町村にとって、郡
長は単に指導・介入し、財政的負担を強いるだけで、調停能力もない無用なものと認識させた。こうした世論は全
国的に拡大し、郡制廃止、続く郡役所(郡長)の廃止が実現していくのである。
■むすびにかえて
しかし、中央政府は、その後、府県の小作争議の調停官の設置や警察力増強を図り、府県を地方支配機構として
一層強化すると共に、出張所や地方事務所を設け、町村行財政の監督を強化することで帝国主義国家体制を確
立していった。郡役所廃止は、そうした戦前日本の「総力戦」体制の整備・強化の一環であったといえよう。
<参考文献> 1山中永之佑『近代日本の地方制度と名望家』(弘文堂)・2山中永之佑『日本近代地方自治制と
国家』(弘文堂)・3小山仁示編『大正期の権力と民衆』(法律文化社)・4『大阪百年史』(大阪府)・5『大阪府統計
書』、その他。

平成18年度大阪府公文書館アーカイブズ・フェアのお知らせ
大阪府公文書館は、歴史的文書の保存・利用を通じて、府民の文化活動等を支援する調査研究機関です。アーカ
イブズとは、記録史料・文書館を意味する言葉ですが、多くの方々に、アーカイブズに親しんでいただき、一層効果
的にご利用いただくため、「平成18年度大阪府公文書館アーカイイブズ・フェア」を開催いたします。フェアは、市町
村・教育機関・研究者など、多くの関係機関や関係者のご協力を得て、当館と協働で、アーカイブズに関する展示
会や各種講座を集中的に実施するもので、本年度初めての試みです。多くの皆様にご来場いただき、様々なアー
カイブズに触れていただくことを願っております。

1 展示会
企画展及び特別展を開催します。いずれも、入場は無料です。

〔企画展〕
◆テーマ 「近代大阪府の郡役所 -廃止から80年-」
現在は、例えば、南河内郡千早赤阪村というように、町村名の上の冠詞として使用される「郡」ですが、明治・大正
期においては、統治機構の一環として、大変重要な存在でした。その当時、なぜ郡役所が置かれたのか、どのよう
な役割・機能を果たしていたのか、地方行政のしくみはどうであったのかを所蔵文書やパネル等で、明らかにしま
す。
◆と き 平成18年9月19日火曜日から11月17日金曜日
午前9時15分から午後5時
(ただし、土曜日・日曜日・祝日・月末休館日を除きます。)
◆ところ 大阪府公文書館 2階展示室
◆企 画 大阪府公文書館

〔特別展〕
◆テーマ 「大阪府内の市町村の歴史」
市町村のご協力により、市町村史・郷土史・刊行物など貴重な文書資料を展示し、大阪府内の各市町村の歴史を
明らかにします。展示文書は実際に手にとってゆっくりご覧いただくことができます。なお、併せて、当館所蔵の大
阪府史や市町村史も展示します。
◆と き 平成18年11月1日水曜日から11月16日木曜日
午前9時15分から午後5時
(ただし、土曜日・日曜日・祝日を除きます。)
◆ところ 大阪府公文書館 3階会議室
◆出展協力機関(順不同)
堺市、岸和田市、池田市、高槻市、守口市、
八尾市、和泉市、箕面市、高石市、東大阪市、
泉南市、交野市、阪南市、忠岡町、熊取町、
田尻町、河南町、千早赤阪村(以上、18市町村)

2各種講座
歴史講座、古文書講座及び特別講座を開催します。いずれも事前に申込みが必要です。受講は無料です。
◆ところ 大阪府公文書館 3階会議室
◆定 員 各回30名
◇特別講座は、アーカイブズ・フェアにご賛同いただきました外部講師のご協力で実施します。

【歴史講座】
◆テーマ 「近代大阪府の郡役所 -廃止から80年-」
明治・大正期の郡制と大阪府の郡役所が果たしていた役割・機能について、当館所蔵文書や関連資料の調査研
究結果から明らかにします。企画展と同じテーマですので、是非、企画展の鑑賞と歴史講座の受講の両方の参加
をお勧めします。
◆講 師 大阪府公文書館専門員 矢切 努
◇講座終了後、当館所蔵の動画映像「大阪1964」を上映します(約20分間)。
◆と き
1 平成18年10月2日月曜日
2 平成18年10月4日水曜日
3 平成18年10月6日金曜日
各回、午後1時30分から午後3時
※ 123とも、内容は同じです。

【古文書講座】
◆テーマ 「古文書の解読」
はじめて古文書に触れる方を対象に、3日間で、古文書の取り扱い方や古文書解読の基礎知識と、当館所蔵の
川中家文書(江戸時代の庄屋文書)の解読まで、講師作成の独自の教材でゆっくり進める講座です。古文書解読
に興味のある方は是非、ご受講下さい。
◆講 師 大阪府公文書館専門員 松田ゆかり
◆と き
4 水曜日コース
平成18年10月11・18・25日の3日間
5 金曜日コース
平成18年10月13・20・27日の3日間
6 月曜日コース
平成18年10月16・23・30日の3日間
各回、午後1時30分から午後3時
※ 456とも、3日間完結で内容は同じです。

【特別講座(第1回)】
◆テーマ 「狭山池の歴史」
大阪府南部大阪狭山市に所在する狭山池は、わが国最古のダム式ため池で、面積39ha、周囲約3.4kmで、府内
では光明池に次いで2番目の大きさを誇ります。狭山池がなぜこの地に造られたのか、平成の大改修によって何
が明らかになったのか、狭山池にまつわる伝説、民話なども紹介しながら、狭山池1400年の謎に迫ります。
◆講 師 山本祐弘氏(郷土史研究家・堺市教育委員会総合学習講師)
◇講座終了後、「狭山池築造の歴史に迫る」(大阪府立狭山池博物館提供)を上映します(約20分間)。
◆と き 7 平成18年9月25日月曜日
午後1時30分から午後3時

【特別講座(第2回)】
◆テーマ 「切手のない時代の郵便-アメリカ合衆国の事例-」
我が国では、明治4年の東京―京都・大阪間の近代的郵便サービス開始時に、48文から500文まで4種類の切手
が導入されました。一方、アメリカでは、1775年の郵政省設立時から約70年間、国家の指導で、切手なしの郵便が
行われました。この間、なぜ切手が利用されなかったのか、どのように料金の徴収が行われたのか、アメリカ国立
公文書館に所蔵されるアメリカ議会文書や郵政長官報告書等の調査研究結果に基づき、郵便の歴史を振り返り
ます。
◆講 師 森本行人氏(関西大学大学院経済学研究科博士後期課程、郵便史を研究)
◇講座終了後、当館所蔵の動画映像「なにわ 1963」を上映します。(約20分間)
◆と き 8 平成18年9月27日水曜日
午後1時30分から午後3時

【特別講座(第3回)】
<第1部>
◆テーマ 「大阪からの世界史-沖縄出身者の生活世界-」
かつて東洋のマンチェスターと呼ばれ、日本最大の都市であった大阪。工業化とともに多くの人々が訪れ、そして
大阪で生活を営んできました。沖縄出身で大阪育ちの上地氏が、沖縄出身者の歴史という視点から、さまざまな
「大阪」の姿を考えます。
◆講 師 上地美和氏(大阪大学大学院文学研究科日本学科博士課程、沖縄近現代史―本土での沖縄出身者
の生活史を研究、著書『人類館―封印された扉』2005年(共著)、『沖縄タイムス』(2005年7月から12月)にコラム連載)

<第2部>
◆テーマ 「カナダから見た、第5回大阪内国勧業博覧会とその時代」
明治36年3月1日、大阪市南区天王寺今宮で第5回内国勧業博覧会が開催されました。従来とは異なり、世界13ヵ
国が技術を持ち寄り、530万人もの入場者があり、史上最大規模を誇った大阪博覧会。当時、どのような技術・作
品が持ち寄られ、どのように人々を魅了したのか。参加国の内、歴史の授業でもあまり日本との関係が見えてこな
いカナダの視点に立って、興味深く、大阪内国勧業博覧会を振り返ります。
◆講 師 宇都宮浩司氏(関西大学非常勤講師、美容専門学校講師を歴任、現在、帝塚山大学非常勤講師、通
商関係史を研究)
◆と き 9 平成18年11月17日金曜日
(第1部・第2部)午後1時30分から午後4時

3 各種講座の申込み方法等
◆申込方法
◇往復はがきの場合
住所・氏名(ふりがな)・電話番号・希望する講座番号(1から9)及び返信用の宛名を明記の上、下記の住所宛て
にお申込み下さい。
〒540-8570(住所記載不要)
大阪府コンタクトセンター「公文書館アーカイブズ・フェア」あて
お問合わせ専用番号 06-4790-1581
(土・日祝日を除く午前9時から午後6時の間開設)
(FAX)06-6966-5161
(E-Mail)contact@sbox.pref.osaka.lg.jp
◇インターネットの場合
大阪府公文書館ホームページより、お申込み下さい(http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/)。

◆申込みは、平成18年9月1日から10月31日までです。締切日にご留意下さい。
講座名 講座番号 申込締切日(必着)
歴史講座 123 9月29日金曜日
古文書講座 456 9月29日金曜日
特別講座第1回 7 9月22日金曜日
特別講座第2回 8 9月22日金曜日
特別講座第3回 9 10月31日火曜日
(インターネットでの申込みは締切日の午後3時まで)
◆講座当日にキャンセル等の可能性がありますので、受講希望者は、大阪府公文書館までお問い合わせ下さい
(Tel 06-6675-5551)。
◆当館には駐車場がありませんので、お車でのご来館はご遠慮下さい。

利 用 案 内
◆ 閲覧時間
・月曜日から金曜日 午前9時15分から午後5時
◆ 休館日
・土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
・年末年始(12月29日から1月3日)
・毎月末日(土・日等休日の場合は、その前日)
公文書館は、主に府が作成・入手した公文書や資料類のうち歴史的・文化的な価値があるものを保存し、広くみな
さんにご利用いただく施設です。
最寄駅
 阪堺電軌上町線帝塚山三丁目駅(徒歩3分)
 南海高野線帝塚山駅(徒歩6分)
 
大阪府公文書館 大阪あーかいぶず 第38号 平成18年9月1日発行
〒558-0054 大阪市住吉区帝塚山東2丁目1-44/Tel06-6675-5551/FAX06-6675-5552
ホームページ http://www.pref.osaka.lg.jp/archives/ この冊子は2,500部作成し、一部あたりの単価は46円です。

住所
大阪市中央区大手前2丁目1-22 大阪府庁本館5階
Tel
06-6944-8371
Fax
06-6944-2260
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