大阪あーかいぶず 第46号
「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です
目 次
大阪府公文書館 帝塚山時代から大手前時代へ……………………1頁
明治時代初期における大阪府の歴史…………………………………2頁
移転後の大阪府公文書館のあゆみ…………………………………26頁
大阪府公文書館事業の推移…………………………………………30頁
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■大阪府公文書館の移転
平成23年(2011)4月18日、大阪府公文書館は大阪市住吉区帝塚山から、中央区大手前にある大阪府庁本館(大手前庁舎)へ移転して、約4年が経過しました。
公文書館が昭和60年(1985)に開館して以来所在していた帝塚山は大阪市南部の閑静な住宅地で、かつては大阪女子大学のキャンパスもあった文教地区でした。
しかし、帝塚山時代の建物が老朽化と耐震性に課題を抱えていたことと、本府の財政状況や行財政改革の視点、庁舎周辺整備や府有財産の活用状況など、さまざまな要素を踏まえて検討が行われ、大阪市中心部にある大阪府庁本館へ移転することになりました。
移転にあたっては、府民の利便性の向上を図るため、「大阪府公文書館」と「府政情報センター」とを併設した「大阪府公文書総合センター」を設置し、現用文書と歴史的文書を総合的に公開・閲覧・提供する府政情報の発信基地として、整備いたしました。
府庁本館への移転後、交通の便が良く大阪市内の中心地域にあるということから、帝塚山時代よりも多くの方が来館されるようになり、府政学習会の庁舎見学コースで来館された方々にも、「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎氏が天覧用に昭和7年(1932)に描いた「大阪府鳥瞰図」の原画も観覧していただいています。
ところで、公文書館では開館以来、館報「大阪あーかいぶず」を第1号~45号まで発行してまいりましたが、平成22年3月以降は、移転作業・移転後の新施設としての体制整備や歴史的文書管理システムの再構築作業等のため、発行を休止しておりました。
今般、作業等が一段落したことから発行を再開し、当館ホームページに掲載して、研究報告や業務報告、企画展示・講座等の案内等、新たな時を刻み始めた大手前時代の公文書館の情報発信の媒体として、引き続き活用していくことにいたしました。今後とも、「大阪あーかいぶず」を引き続きご覧いただければ幸いです。
はじめに[1]
大阪府公文書館は、平成23年(2011)4月に、帝塚山から大阪府庁本館1階西側に移転し、大阪府公文書館(大阪府公文書総合センター内)としてリニューアル・オープンした。
本号は、大阪府公文書館移転後の最初の館報「大阪あーかいぶず」である。大阪府公文書館が、現在の大手前にある大阪府庁舎へ移転した経緯もあり、本稿では、大阪府庁舎の変遷を振り返るとともに、大阪府の歴史について考察したいと思う。
なお、本稿では、主たる考察の対象時期を明治時代初期(およそ明治10年代中頃まで)に限定し、大阪府という行政組織の骨格が形成されるに至る経緯を中心にみていきたい。
大阪府庁舎の変遷については、まず、現行の大手前庁舎(第3代庁舎)の概要と建設の経緯を概観して、次いで明治時代初期の大阪府の歴史を考察するなかで、大手前庁舎以前の庁舎(初代庁舎・第2代庁舎)について触れることとする。
1.大阪府庁本館(大手前庁舎)の概要と建設の経緯
1)大手前庁舎の概要
現在、大阪府庁本館として用いられているのは、大正15年(1926)竣工の建築物である。通称「大手前庁舎」と呼ばれるこの建物は、3代目の大阪府庁舎である。大手前庁舎は、都道府県の現役庁舎としては全
図1:竣工当時の大手前庁舎
(『関西行幸記念実況絵葉書』〔KA-0022-120〕
[2]より)。
国で最も歴史のある建物である。
大手前庁舎は
[3]、鉄筋コンクリート造地上6階、地下1階の建造物(高さ33m)で、設計は、平林金吾・岡本馨が、施工は大林組・清水組が行ったものである。大正11年(1922)に懸賞設計として募集がかけられ、応募案数約80点の中から、平林・岡本両氏の共同設計案が当選することとなった(賞金8,000円)。本コンペに応募された諸案は当館所蔵の「大阪府庁舎府会議事堂新築設計競技図案集」〔KA-0025-1〕で確認することができる。
さて、竣工当時の庁舎外観は
図1の通りである。外観意匠の基調は、19世紀末のセセッション(分離派)にあり、当時の格式的な伝統的様式に対し、直線を用いて合理性を求めたデザインとなっている。また、白タイルの外壁は当時、「松に映える白亜の殿堂」と呼ばれるほどの美しさを誇っていた。その他、正面玄関廻の唐草模様、モダンな雰囲気が漂うエントランスホールの吹抜など、多様な装飾が施されている。鉄筋コンクリート構造を積極的に導入したこの庁舎は、「モダニズム建築の先駆け」ともいわれている。
さて、戦前日本の府県庁舎等には、菊の御紋が据え付けられていたことは周知の通りであろう。
図1でも竣工当時の大阪府庁舎に据え付けられた菊の御紋が確認できる。大阪府庁舎の正面玄関上部に、据え付けられていた菊の御紋は、直径1.7mの大きさであったといわれている
[4]。
次に、庁舎の内観であるが、公文書館の閲覧室からも判明するように、各部屋の天井は非常に高く(4.5m)、開放感のあるたたずまいとなっている。また、戦前に建てられた庁舎として特徴的なものが、5階の中央部(大阪城天守閣寄り)にある「正庁の間」である。「正庁」と呼ばれる部屋は、戦前に建築された府県庁舎(その他、前大阪市役所などでもあったが)の大部分に設けられていたようである。「正庁」とは、一般には、「年末年始の行事や人事発令・式典などに使われていた特別な部屋」とされるが、戦前日本では、より重要な意味合いがあったと考えられる。
というのも、「正庁」とは「天皇陛下臨御シテ萬機ヲ総判シ、太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ、参議之ヲ議判シテ、庶政ヲ奨督スル所」という意味を有していたからである。さらに「正庁」とは、太政官を構成する概念の一つであり、もう一つの概念が内閣であるともされた
[5]。こうした概念が正確であれば、「正庁」とは本来、天皇と内閣が政治を掌る国政の中枢であるということになる。戦前日本において、天皇の官吏たる地方官が地方行財政を司る中枢施設である府県庁舎に置かれた「正庁」は、権威と権力を象徴するものであったと考えられる。
さて、大阪府庁舎の「正庁の間」には、国内最大級の天井ステンドグラス・壮麗な室内装飾・シャンデリアや寄木貼の床・大阪城が望める東向きの間取りなど、多くの見所がある。近年では、行政需要の拡大とそれに伴う人員増大によって、庁舎施設が狭隘・不便となったため、一般の執務室として利用されてきたが、平成24年(2012)に復元・改修され、同25年にも耐震工事が施されて、現在、府民に公開されている。
2)大手前庁舎建設の経緯
大阪府庁舎はかつて、明治7年(1874)7月から大正15年(1926)10月までの間、大阪市西区の江之子島にあった(2代目庁舎:通称、江之子島庁舎)。しかし、大正10年(1921)の通常大阪府会で、時の大阪府知事・池松時和(第16代)は、次のように庁舎移転の必要性を訴え、江之子島庁舎から大手前庁舎への移転を推し進めた。
(1)「建築以来既に五十年に垂んとするの歳月を経て居り…(中略)…廳舎の各部分に就きましては随分腐朽を致した所」がある。(2)「府の行政事務も非常な膨脹を致しまして、之れに従事する所の官吏吏員の如きも誠に多數の人に上ぼつて居る」状況にあり、「執務の上に就て甚だ不便を感じ…(中略)…色々人に對しましても執務の敏捷を缺く為めに多大の迷惑を掛けて居る」「實況」にある。(3)現在は、庁舎の狭隘・不便さを解消するため、「府廳舎の敷地内に在りまする所の僅かの空地に建て増しを致した様な始末」だが、「毎年多少の棟数が殖えて居りまする様な有様」である。したがって、「何か事がありました場合に於きましては殆んど後の方には空地が無いと云ふ様な現況であり…(中略)…到底其の必要に應ずる事が出来ない」
[6]。
確かに、池松が述べるように、経年的な老朽化に加えて、第一次大戦後の行政需要の拡大、それに伴う人員の増大は、統計的にも明らかである。『大阪府統計書』によると、大正3年(1914)から大正13年(1924)の間に、大阪府の歳出決算額は、423万589円から866万5357円へと倍増し、大阪府の官吏の数も、3847名から6459名へと約1.7倍に増加している。明治7年(1874)建設の庁舎では、もはやこうした情勢に対応できなくなっていたのである。
池松は、同府会で、幸い最も庁舎として「適当な土地」を得られる見込みが立ったため、庁舎の新築・移転を行いたいと述べている。この「適当な土地」とは当時、東区大手前之町の大阪城の西隣りにあった陸軍省所有の空地(14,300平方メートル)(現在の中央区
大手前)であった。図2(4頁)からも明らかなように、同地は、大正8年(1919)に陸軍部隊の移転に伴い、当時は空き地となっていた。大阪府は、大正11年(1922)3月、陸軍省より同地の払い下げを受け、新
図2:大正13年頃の大阪城周辺の図
(『大阪市パノラマ地図』(KA-0001-293)より)
庁舎の建設用地を確保することとなった。
庁舎の移転・改築費は、一般財源ではなく臨時歳入
によることとした。内訳は、不用の府有資産売却益と警察庁舎の建築を目的とする国庫下渡金、及び特別会計の積立金の繰り入れであり、総工費386万余円であった。当初は、江之子島庁舎と敷地も売却して、新庁舎移転・改築費に充当する予定であったが、府税その他の自然増収の剰余金等の充当で賄える予測が立ったことから、江之子島庁舎の売却は実行されず、大手前庁舎移転後の昭和4年(1929)に大阪府立工業奨励館として利用される計画が立てられた。
大正12年(1923)5月12日、新庁舎の建設工事が着工され、大正14年(1925)9月5日に庁舎定礎式が挙行された。そして、大正15年(1926)10月16日、「大阪府廳ヲ大正十五年十一月十一日ヨリ大阪市東區大手前町貮番地ノ壹新築廳舎ニ移轉ス」(大阪府告示第412号)と大手前庁舎への移転が告示され、10月31日に大手前庁舎は竣工した
[7]。
11月7日には、大阪府庁舎新築工事落成式が催され、時の大阪府知事・中川望(第19代)は「新装ノ廳舎ハ必スヤ玆ニ務ムルモノヲシテ清新ノ英気ヲ以テ事ニ當ラシメ勵精一番克ク府民ノ期待ニ副フモノアラント信ス。今ヤ大大阪實現ノ劈頭ニ當リ本廳舎ノ新ニ一大異彩ヲ之ニ加フルアリ」と祝辞を述べている。さらに中川は、太閤秀吉が建立した大阪城址を前に新庁舎の竣工がなったことを賀し、大阪府の将来的な発展への希望を述べた
[8]。ここに大手前庁舎を中心とする大阪府政がはじまり、現在に至っている。
以上、大阪府庁本館の概要と建設の経緯について簡単にみてきた。次に、時代を遡って、幕末・維新期以降、大阪府という行政組織の骨格が形成される経緯をみていきたい。
2.府県制の形成と大阪府の誕生
明治維新期は、現在の府県・市町村という制度が形成される以前の過渡期であって、「朝令暮改」という言葉もあるように、地方の制度は極めて複雑な変遷を辿っていくこととなる。というのも、この時期における、明治政府の課題は、日本を欧米列強と対等な資本主義国家につくりあげることであり、この課題を遂行するこのできる太政官制などの中央権力機構の整備を進めつつ、地方統治機構の全国的統一、中央集権的整備を進めなければならなかったからである
[9]。
以下では、この過程において、大阪府という行政組織が誕生するまでの経緯をみていくこととする。
1)大阪鎮台から大阪裁判所へ
鳥羽伏見の戦いで敗北を喫した第15代将軍・徳川慶喜は、慶応4年(1868)1月6日、大阪城を抜け出し、天保山沖より軍艦「開陽丸」で海路江戸へと戻った。同月9日には、大阪城は炎上し、在城諸士もまた去った。大阪城代もなく、町奉行所もその門を閉じる有様で、当時の大阪は「無政府状態」であった
[10]。
こうしたなか、同9日には、長州藩兵が大阪入りし翌10日には、薩摩藩兵と征討将軍仁和寺宮嘉彰親王が、錦旗とともに大阪に進駐し、津村別院(西本願寺掛所)に寄宿した。新政府軍は、進駐すると同時に、「無政府状態」となった大阪の市中取締に薩・長両藩兵を任じ、市民に対しては「市民慰撫の令」を示し、市中の治安維持を確保することとなった。大阪の市中取締は、薩摩藩兵(難波別院に本営)と長州藩兵(川崎建国寺を本営)を中心に行われることとなる(雄藩の藩兵による治安維持業務)。
しかし、征討将軍である仁和寺宮は、当初から自分の任務を軍事関係に限定し民政には関心がなかったようで、仁和寺宮と薩長両藩の兵士との命令系統も有効に機能してはいなかった。それゆえに、大阪の治安維持は決して万全であったとはいえず、大阪の統治の安定化のためにも、政府首脳部にとっては、新たな大阪の統治体制の整備が喫緊の課題となった
[11]。
こうした課題を克服するものとして、同年1月22日、大阪鎮台が津村別院に設けられることとなった。この大阪鎮台が、大阪府の前身組織である。
ちなみに、「鎮台」については、簡単に解説を付しておかなければならない。本稿で述べる、大阪鎮台とは、明治新政府の成立直後に国内の枢要な地に置かれた、短期的な軍政機関であったものであり、明治4年(1871)7月以降に置かれた、陸軍部隊の最大編成単位としての大阪鎮台とは異なる。
前者の「鎮台」は、大阪のほかに、大和鎮台(慶応4年1月21日~2月1日)・兵庫鎮台(1月22日~2月2日)・江戸鎮台(5月19日~7月17日)などが当時存在していたが、後者の「鎮台」は、明治4年(1871)4月に東山道(石巻)・西海道の両鎮台(小倉)が設けられたことにはじまり、7月に東京・大阪・鎮西・東北の4鎮台が、明治6年(1873)1月に東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の6鎮台(明治21年5月に鎮台は廃止され師団と改称されている)が設けられたもので、組織が明確に異なることに注意されたい
[12]。
さて、大阪鎮台では、大納言・醍醐(だいご)忠(ただ)順(おさ)が「参与兼内国事務掛」に任じられ、宇和島少将・伊達宗(だてむね)城(なり)(外国事務総督)とともに、鎮台を督(統率・監督)することとなった
[13]。
参与とは、同年1月17日「三職分課」で定められた役職である。「三職分課」では、万機を総裁し一切の事務を決する「総裁」と、その下で内国事務・外国事務・海陸軍務・会計事務・刑法事務・制度寮の各事務を督し議事を決する「議定」、そして各事務に参議して分担する「参与」が設けられた。特に、雄藩出身者を中心に構成されていた参与が、新政府内で、中心的役割を担っていくこととなる
[14]。
醍醐は、京畿の庶務・諸国水陸運輸・駅路・開市・都城・港口・鎮台・市尹のことを分務する参与・内国事務掛兼大阪鎮台督として、伊達は、外国交際・条約・貿易・拓地・育民の各事務を督する議定・外国事務総督兼大阪鎮台督として、大阪鎮台において、摂津・河内・和泉の政務を掌ることとなった。
ところが、この大阪鎮台は、醍醐・伊達両名が来阪する以前の1月27日には、早くも、大阪裁判所へと名称が変更されることとなった。これに伴い、醍醐は大阪裁判所総督に、伊達は同副総督に任じられることとなったのである。こうしたことから、大阪鎮台の地方政庁としての実態がなかったのではないかとの見方もある
[15]。
2)大阪裁判所の実態について
さて、大阪鎮台は大阪裁判所と名称が変更され、大阪裁判所による統治が開始されることとなった。
この「裁判所」についても、簡単に解説しておきたい。現在では、「裁判所」といえば、一般に、「司法権を行使する国家機関」のことを意味する。しかし、ここでいう「裁判所」とは、行政機関の呼称である。明治初年には、大阪裁判所のほか、兵庫・長崎・京都・横浜・大津・箱館・笠松・新潟・但馬府中・佐渡・三
醍醐忠順(左)・伊達宗城(右)
[16]
河の各裁判所が設けられている。しかし、後述するように慶応4年(1868)4月の「政体書」で、地方が府・藩・県に改められることによって、各裁判所は、府・県と改称されることとなり、行政機関としての「裁判所」は漸次消えていくこととなった。「司法権を行使する国家機関」としての「裁判所」は、明治4年(1871)12月に、司法省の下で聴訟・断獄を処理するために設けられた一局が東京裁判所と呼ばれたことに始まる。そして、翌明治5年(1872)8月3日の「司法職務定制」の制定によって、司法省裁判所や府県裁判所などが設けられることとなる。
さて、大阪裁判所は、慶応4年(1868)2月2日、津村別院から旧大阪西町奉行所(当時の内本町橋詰町)へと移転することとなった。この大阪西町奉行所の移転の理由については、「公文録」(国立公文書館所蔵)の「大坂西町奉行所并元桑名屋敷拝借願」
[17]で判明する。
同資料によると、大阪裁判所副総督であった伊達が1月28日、大阪在留中に屋敷が手狭であり「公務難相勤」という理由から、政府(京都)に対して、旧西町奉行所の建物と旧桑名藩屋敷を借用したいとの願を出し、この願いが政府に聞き届けられ、旧西町奉行所等が伊達に貸下げられている。
伊達は、大阪裁判所の副総督だけではなく、外国事務総督として「大阪において諸外国との交渉の任に当たる」
[18]必要があった。外国事務科は、同年2月3日、外国事務局となったが、京都の本局ではなく、「大阪の分局が事務のほとんどを扱っていた」
[19]ようであるから、外国事務局総督の伊達の仕事量は相当なものがあり、津村別院では手狭と感じたものと考えられる。もっとも、同年3月には、外国事務局(のち外国官と改称)は旧東町奉行所に移転し、6月には京都二条城に移転することから
[20]、大阪西町奉行所で、大阪裁判所の業務と外国事務の双方が行われた期間はわずかな間であった。なお、西町奉行所の建物は、発掘調査の結果から、特に、建物の建て替えは行われないまま、そのまま大阪裁判所の庁舎として利用されたと推定されている
[21]。
さて、こうして大阪西町奉行所において、大阪裁判所の統治がはじまることとなったが、大阪裁判所の実態についても、不明な点が多く、大阪裁判所による市中・郡村に対する支配の実態については疑問も提示されている
[22]。
大阪裁判所には、醍醐(総督)・伊達(副総督)の二人を筆頭に、小松帯刀(薩摩)・後藤象二郎(土佐)・木戸準一郎(のちの孝允・長州)という錚々たるメンバーが補佐役(参与)として配置されていた。しかし、大阪裁判所に名称変更された当時(1月27日)、いずれも大阪にはいなかった。大阪裁判所は、同年2月3日になって
[23]、「大坂人民撫育」のため大阪裁判所が設けられたこと、勅命を奉じて、醍醐大納言・宇和島少将が大阪に下向したこと、三郷の町人は「一同致安心、家業可相勵」こと、「公事訴訟」については大阪裁判所に申し出ることなど申し渡しているが、この段階でも、まだ醍醐は来阪しておらず、伊達と小松が京都から来阪したばかりであった。同月6日になってようやく醍醐は着任したが、同日には、伊達は神戸事件処理のために大阪を離れたという。このように、大阪裁判所は醍醐総督と伊達副総督を擁しながらも、現実には、両頭体制での施政が行われたわけではなかったようである。さらに、3月(日付不明)には、伊達は裁判所副総督を辞任した
[24]。大阪裁判所が、積極的に市中取締を指図するようになったのは、同年の4月以降になってからのことであるが、同年5月2日には、大阪裁判所は大阪府へと名称が変更されることとなった。
3)大阪府のはじまりと所掌事務
さて、大阪裁判所は大阪府へと改称された。この名称変更は、同年閏4月21日(太政官27日頒行=頒布)の「政体書」制定によって、府(知府事・判府事)・藩(諸侯)・県(知県事・判県事)が設置されたことに伴うものである。
旧幕府の直轄地や佐幕諸藩の接収領地には、国の行政区画としての府・県が設けられ、新政府の地方官として、府・県に知事(知府事・知県事)が置かれた。府は、特に、重要な地域に置かれることとなった。明治元年から2年にかけ、東京(江戸)・奈良・大阪・長崎・京都・箱館・越後(新潟)・度会・甲斐の9府が設置されたが、同年半ばには、東京・京都・大阪の三府を除き6つの府は県となる。一方、各藩域では、諸侯(大名)に引き続き自藩の藩政を司らせ、従来通りの支配を行わせた。藩域については、明治2年(1869)6月の版籍奉還によって、藩が国の行政区画となり、諸侯が新政府の地方官たる知藩事となるに及んで、「府藩県三治制」の体制が構築されることとなる。
なお、知府事・知県事・知藩事といっても、同立の地位ではなかった。当時の「官位相当表」
[25]によると知府事は「従三位」であるのに対して知県事は「従四位」であり、知藩事は大藩(従三位)・中藩(正四位)・小藩(従四位)と官位に差が設けられていた。とはいえ、知府事は大藩の知事(諸侯)と、知県事は小藩の知事(諸侯)と同じ官職だったのであり、かつては藩士として大名の下風に立たされていた維新の志士達は府県の知事となることで、大名に等しい身分となったのである。そのため、後述するように、明治初年の府県知事(府知事・県令
[26])のなかには、中央政府の地方官吏としてではなく、「仁政」を施す封建君主として地方行財政を遂行しようという者もあった。
さて、この「政体書」では、知府(県)事の職掌は、「掌繁育人民富殖生産敦教化収租督賦役知賞刑兼監府兵(県においては郷兵)」とされた。これによって、大阪府は行財政に関する事務のほか、裁判・警察事務をも司ることとなった。
大阪府の職制については、明治2年(1869)6月のものが判明する。それによると、大阪府では、庶務局(庶務方・社寺方・勧業方・救恤方・戸籍方等)・聴訟局(聴訴方・探索方)・糺獄局(糺獄方・徒刑方・捕亡方・探索方)・会計局(会計方・租税方・営繕方)・監察局(監察員・伝達使番等)、そして府兵局(監軍・器械方等)・外国事務局(御用掛・聴訟方・糺獄方・営繕方・浪花丸掛・収税方・借庫方・出納方・商社方・応接方・記録方・諸番所詰)が設けられていた。聴訟局は主に民事裁判を、糺獄局は主に刑事裁判・司法警察・行刑を取り扱うなど、当時の大阪府の職制は、多くの部分が民事・刑事の司法事務であったとされる
[27]。
また、外国事務局は、前述(6頁)の外国事務局(外国官)とは異なる組織であって、現在の税関に当たる組織である。既述の通り慶応4年(1868)6月に、外国事務局(外国官)は京都に移転し、運上所が外交事務と運上所、つまり税関の事務を取り扱うこととなっていた。上述の外国事務局は、この運上所が名称変更されたものである。ちなみに、この外国事務局は外務省に所属したが、その監督は大阪府知事が行うという形態となっていた。その後同局は、明治4年(1871)に大蔵省の所管に、翌5年(1872)には大蔵省直轄になり、6年(1873)に大阪港税関(大阪税関)と改称されることとなる
[28]。
次に、府兵局についてみておきたい。大阪府では、慶応4年(1868)6月、旧大阪城代付の与力や同心を用いて大阪市中の取締に当たらせていたが、同年8月から「浪華隊」(府兵)と改称し、警察事務を所管する「府兵局」の下に置いていた。府兵の設置により、市中取締は、藩兵から府兵へ引き継がれ、大阪府が直接的に警察(治安維持)業務に携わることとなった。しかし、「府兵」という名称からも判明するように、この時期は軍隊と警察が未分化の状態であり、「軍政警察の時代」といわれている。
上述の大阪府職制でも判明するように、大阪府では、府兵とは別に、「糺獄局」に捕亡方・探索方などを設けて、司法警察業務を担当させていた。この時期の大阪府域における警察業務は、府兵と捕亡方・探索方とが行っていたのである。しかし、明治3年(1870)2月には、府兵隊は兵部省に移され、同年7月に、浪華隊は解隊となった。これを受けて大阪府では、同年8月、刑訴局(明治2年に糺獄局と聴訟局が統合されたもの)の断獄掛の下に捕亡掛(同4年取締掛と改称し、取締番卒を置く)を設置し、警察業務を担わせることとなった。これによって警察業務を行う組織の一元化が図られることとなる
[29]。
さらに明治5年(1872)1月の「大阪府職制大綱」
[30]で大阪府の職制が整備され、司法・警察に関する職制は、訴訟事務を管掌する「聴訟課」と盗賊・奸凶の「捕縛・鞠糺」、「徒刑人」の駆役、「囚徒」の監護など、行政・司法警察の職務を担当する「鞠獄課(きくごくか)」(取締掛・徒刑掛・囚徒掛)が設けられた。また、7月には「取締綱例」が布令され、警察組織とその職務規則が全般的に規定された
[31]。
中央政府では、明治6年(1873)11月10日に、「国内安寧人民保護の事務を管理する」内務省が設置され、従来、司法省にあった警保寮が内務省に移管された。これによって、内務省が全国一般の警察事務を統轄し、各地方の警察官庁の指揮監督と警察事務を管理することとなった。さらに明治8年(1875)3月の「行政警察規則」(太政官第29号達)によって、行政警察の全国的準則が定められる。こうして、日本における近代的警察制度が整備されるに至る。
こうした中央における近代的警察制度の整備と相まって、大阪府では、明治7年(1874)4月、取締課に警察掛を新設し、同年の5月から6月にかけ、警察課―警察出張所の整備を行っていった。
4)黎明期の大阪府知事と初代大阪府庁舎
さて、慶応4年(1868)5月2日、大阪裁判所は大阪府に改称された。そして、大阪裁判所総督であった醍醐忠順が、初代大阪府知事に就任することとなった。この醍醐知事を補佐する役職者である大阪府判事に、岩下佐次右衛門・長谷川二右衛門・小河彌右衛門(一敏)・税所長蔵(篤)などが補任された
[32]。
このような陣容で、大阪府政はスタートしたが、5月23日には、醍醐は知事を辞し、小松と後藤に「府事ヲ管理」(府事管理)することが命じられた
[33]。また、6月には小松帯刀と後藤象二郎の2名が参与として、岩下と長谷川の2名は転官、五代才介(友厚)・西園寺雪江の両名が大阪府権判事、陸奥陽之助(宗光)が会計官権判事として大阪府在勤を命じられた
[34]。
そして同年7月12日、参与の後藤象二郎が「大阪府知事兼勤」を命じられ、第2代大阪府知事となった
[35]。しかし、後藤は翌明治2年(1869)2月18日に大阪府知事を辞し、同日、西四辻(にしよつじ)公業(きんなり)が3代目大阪府知事となるが、明治4年(1869)11月22日に西四辻は知事の職を辞し、同日、渡邊昇が第4代大阪府知事となる。この醍醐(初代)・後藤(第2代)・西四辻(第3代)・渡邉(第4代)の4代の知事の時代において、大阪府政の中心地は西町奉行所にあった。
西町奉行所の建物は、経年的な傷みもあって、修繕のため、一時的に、庁舎は東町奉行所の建物に移った期間もあったが、基本的には、慶応4年(1868)2月22日~明治7年(1874)7月18日まで、大阪府政の中枢を担った。明治元年(1868)10月頃には、大阪府の庁舎の新築・移転も検討されたようであるが、日の目を見ることはなかった。
大阪府初代庁舎が西町奉行所とされていることについては、既述の通り、大阪鎮台は、津村別院に置かれたが、大阪裁判所時代に、その本拠地を西町奉行所
後藤象二郎(左)・西四辻公業(右)
に移すこととなった。その大阪裁判所が大阪府となったことから、大阪府の初代庁舎は西町奉行所である、ということになる。
しかし、残念ながら、西町奉行所の建物は現存しておらず、マイドーム大阪(大阪市中央区本町橋2番5号)の敷地内に「西町奉行所址」という石碑が残っているだけである。また、西町奉行所に関する情報も多くはなく、当館にも、外観が判明する写真や関連資料については残っていない。さしあたり、『実記・百年の大阪』
[36]で西町奉行所の様子を知ることができる。同書には、西町奉行所には武者窓・海鼡塀があり、奉行所の本館がそのまま法廷に用いられており、正門両脇の門長屋が執務室として利用されていたとの記述があり、写真も掲載されている。
なお、大阪府庁(廳)という表現であるが、明治初年には、「○○公(く)廨(がい)」というのが一般的であった。しかし、明治3年(1870)2月3日の布告で「府藩県公廨自今総テ何府何藩何縣廳ト可称事」とされ、それ以来、府県庁(廳)という表現が正式なものとなった
[37]。
5)大阪府域の変遷(廃藩置県まで)
以下では、明治初年における府藩県の統廃合について概略しながら、現在の大阪府域が、どのような変遷のもとで形成されるのかをみておきたい。
江戸時代、幕府は、摂津・河内・和泉三国を政略上の重要な地域と考え、畿内に雄藩を置かずに、大阪城に城代・定番などを置いて大阪や堺を幕府の直轄地として、それらの地域の支配を町奉行以下に行わせていた。一方、郡部では、高槻藩・麻田藩(以上、摂津国)、丹南藩・狭山藩(以上、河内国)、岸和田藩・伯太藩(以上、和泉国)の諸藩がそれぞれ藩内仕置きを行い、その他、他国の諸大名家の飛地、幕領、社寺領、公家領などが錯綜していた
[38]。
大阪裁判所の管轄地域としては、旧大阪城代直管の大阪城地・旧大阪町奉行支配地・旧堺町奉行支配地・旧代官内海多二郎支配地・旧代官小堀数馬支配地で約8万7千石余であった
[39]。
大阪裁判所は、堺町奉行所のあとに出張所を設けて、旧堺町奉行支配地の訴訟を受理することとし、慶応4年(1868)閏4月12日には、この出張所を堺役所と改称している。また、大阪府と改称されると同時に、小河一敏が大阪府判事として堺役所に常駐することとなり、6月8日には、和泉国のうち大阪府の管轄した区域は、この堺役所の支配下に置かれた。さらに同月22日、堺役所は大阪府から独立して堺県として成立、知県事には、大阪府判事であった小河が就任することとなった。この結果、大阪府の和泉国管轄地域は消滅し、摂津・河内国のみとなった
[40]。
さて、この時期の府県の管轄地域はめまぐるしく変遷しており、複雑多岐となっている。例えば、同年3月19日に、大阪裁判所総督の醍醐が兵庫裁判所の総督も兼務し、一時、大阪裁判所(醍醐)が摂津・河内・和泉・播磨4か国を管轄したが、同年5月23日には兵庫裁判所が兵庫県に改称され、伊藤博文が兵庫県知事となると、播磨国・摂津国のうち川辺郡以西は再び兵庫県管轄となった
[41]。
また、同年6月8日、郡村の管轄を目的とする司農局(しのうきょく)が大阪府庁内に設置された。さらに、7月8日には、司農局の管轄地域が膨張したため、司農局を南北に分け、北司農局が摂津国のうち8郡(住吉・東成・西成・島上・島下・豊島・能勢・川辺郡)15万石余を、南司農局が河内国16郡(石川・錦部・八上・古市・安宿部・志紀・丹南・丹北・大県・高安・河内・若江・渋川・茨田・交野・讃良郡)18万石余を支配することとなった。
北司農局の局長には、当時、大阪府権判事で、のち外務大臣として不平等条約の改正(治外法権の撤廃)を行い有名になった陸奥宗光が、南司農局の局長には、当時、大阪府判事でのち第2代堺県知事(令)となる税所篤が、それぞれ局長を兼務して、管轄地域の事務を執り行うこととなった。
さらに、南・北の司農局は、明治2年(1869)1月20日、大阪府より分離されることとなり、北司農局が摂津県に、南司農局が河内県にそれぞれ改称され、土地・民政が大阪府から摂津・河内両県に引き渡されることとなった。これにより、大阪府の管轄地域はいったん大阪市街地のみとなる。
しかし、摂津県は、同年5月10日に豊碕県に改称され、8月2日には廃県となり、兵庫県の管轄下に置かれることとなる。しかし、兵庫県の管轄地域が大阪府域に深く入り込むため、施政上不便であるとの理由から、9月19日、兵庫県となった摂津国のうち、住吉・東成・西成の三郡が、大阪府に引き渡されることとなった。したがって、この時期の大阪府の管轄地域は、大阪市街地と住吉・東成・西成の3郡ということとなった。また、豊碕県の廃県と同時に河内県も廃県となり、堺県に合併されることとなり、堺県は、和泉国と河内国を管轄することとなった
[42]。しかし、明治2年(1869)の版籍奉還から明治4年(1871)の廃藩置県までの間は、「府藩県三治」体制であったため、大阪府・堺県の支配は、藩領には及ばなかった。
以下、現在の大阪府域における諸藩領が、大阪府・堺県の管轄になっていく経緯を簡単にみておきたい。
明治2年(1869)6月17日の版籍奉還では、既述したように、旧藩主(諸侯)が知藩事に任命された。また、同日の行政官達第542号によって、公卿と諸侯の称は廃止され、華族の称が付与された(3府271藩46県)。現大阪府域についてみれば、当時、高槻藩・麻田藩(以上、摂津国)、狭山藩・丹南藩(以上、河内国)、岸和田藩・伯太藩・三上藩(のち吉見藩)(以上、和泉国)の諸藩と遠方諸藩の飛び地などが存在していた。
このうち狭山藩は、明治2年(1869)12月26日に廃止されて、堺県管轄下におかれることとなった。というのも、狭山藩主・北条氏恭は、版籍奉還で知藩事に(狭山藩知事)任命されたものの、18世紀中葉以来の藩の財政難の再建に苦慮して12月26日に知藩事を辞任し、廃藩置県に先立って、狭山藩は消滅して堺県に編入された
[43]。明治4年(1871)7月14日の廃藩置県では、全国で261の藩が廃止され県となり、3府(東京・京都・大阪)302県となった。現大阪府域では、廃藩置県で、高槻県・麻田県・丹南県・岸和田県・伯太県・吉見県が誕生した。
6)大阪府域の変遷(廃藩置県以後)
この廃藩置県後の、10月から11月にかけ、全国で府県の統廃合が行われることとなった。この統廃合の結果、全国で3府72県となる(第一次府県統廃合)。
現大阪府域では、11月20日、従来の府県を廃止して、摂津国のうち島上・島下・豊島・能勢・西成・東成・住吉郡と丹波国桑田郡(元高槻県管轄)を大阪府が管轄することとなり、高槻県・麻田県などが廃止された(太政官布告第609号)。この結果、摂津国のうち、旧豊碕県管轄で住吉・東成・西成郡以外の兵庫県編入区域も大阪府域になることとなった。また11月22日には、同様に、丹南・岸和田・伯太・吉見等の各県が廃止され、河内・和泉両国の「一圓」(全郡)が堺県の管轄するところとなった(太政官布告第614号)。一方で、20日に大阪府に編入された丹波国桑田郡(元高槻県管轄)は、22日、京都府の管轄となった。
こうして、廃藩置県とその後の府県統廃合で、従来の幕藩領域に基づく錯雑とした行政区画をいったん解消し、国・郡を単位として新たに府県を編成するという形のもとで、現在の府県へとつながる行政区画が誕生することとなった。この明治4年の廃藩置県と府県大合併により、ある程度、まとまった行政区画の整備が行われることとなった。この後、明治9年(1876)の第二次府県統廃合を経て、明治21年(1888)
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明治5(1872)年:1使3府1藩69県(琉球藩設置)
明治9(1876)年:1使3府1藩35県(第二次府県統廃合)
明治12(1879)年:1使3府36県(沖縄県設置)
明治13(1880)年:1使3府37県(徳島県設置)
明治14(1881)年:1使3府38県(堺県廃止大阪府へ合併、福井・鳥取県設置)
明治15(1882)年:3府41県(開拓使廃止→函館・札幌・根室県設置)
明治16(1883)年:3府44県(富山・佐賀・宮崎県設置)
明治19(1886)年:3府41県1庁(北海道3県廃止→北海道庁設置)
明治20(1887)年:3府42県1庁(奈良県設置)
明治21(1888)年:3府43県1庁(香川県設置)
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頃に、ほぼ現在の47の府県域が形成されるに至る
[44]。
7)大阪府域の変遷(堺県廃止と奈良県独立)
このうち、現大阪府域の変遷に関わるのは、明治9年(1876)の第二次府県統廃合と、明治14年(1881)と20年(1887)の府県域の変更である。
まず、明治9年(1876)4月18日、奈良県等が廃止となり、旧奈良県域は堺県に合併されることとなった(太政官布告第53号)。この結果、堺県は河内・和泉・大和の三国を管轄する巨大県となった。また、同年8月21日の府県統廃合では、鳥取県の島根県への合併、宮崎県の鹿児島県への合併、香川県の愛媛県への合併などが行われ(太政官布告第112号)、1使(北海道開拓使)3府(東京・京都・大阪)1藩(琉球藩)35県となる(第二次府県統廃合)。
次に、明治14年(1881)2月7日、堺県が廃止となり、大阪府に合併されることとなった。この結果、大阪府は摂津7郡と河内・和泉・大和国一円を管轄する巨大県となる。この堺県廃止と大阪府への合併については、次のような経緯があったようである。
明治14年(1881)1月7日、時の大阪府知事・建野郷三(第5代)は、中央政府の内務卿松方正義内務卿に対し「府県管地改正ヲ要スル儀ニ付建議」を提出している。建野は、この建議で、現在の大阪府域は狭小であり、さらに市街地を中心としている関係上、地方税(地租附加税)収入は近傍府県と比べても少ないため、近傍府県との権衡を得るとともに、国費の節約等にも寄与するために、府県の管轄地域の改正を行うべきであると主張した。このなかで建野は、大阪府と堺県・和歌山県も管轄地域が狭小であることから、畿内近隣府県の管轄地改正案として、兵庫県管轄の摂津5郡と堺県域のうち旧河内・和泉両国を大阪府に合併すること、堺県管轄の大和国は南北に分割し、北を京都府に、南を和歌山県に合併すること、京都府管轄の丹波4郡を兵庫県に管轄替えすることを建議した。
内務卿・松方は、軽々しい大規模な府県の統廃合は紛擾のもとになるとしつつも、大阪府という畿内要衝の府県の将来的な地方税負担の増大も想定したうえで、建野のいう大規模案は避け、堺県を廃止して大阪府に合併する案を、太政大臣・三条実美に上申、この結果、堺県の廃止と大阪府への合併が認められ、同年2月7日に旧堺県域は、大阪府に合併されることとなった。ここに大阪府は、財政難という理由に基づき、堺県を合併することに成功し、摂津7郡と河内・和泉・大和三国を管轄する巨大な府県となった
[45]。
この財政難の問題について多少補足しておこう。明治6年(1873)7月、政府は地租改正条例(
太政官第272号布告)を公布し、土地の所有者を確定し、地券を発行するとともに地価の決定を行い、地価の3%を地租(国税)とすることとした。また地租の1/3を地方税(地租附加税)とすることとなった(後、明治9年の地租改正反対一揆ののち、明治10年、地租は地価の2.5%に、地租附加税は地租の1/5に変更された)。
当時の日本は、幕末の不平等条約によって、関税自主権を制限されており、関税収入に頼ることはできなかった。また、商工業の未発展や国内税制の未整備によって、国家収入は、もっぱら地租収入(農村負担)に依存せざるを得ない状況であった。府県の税も、地租附加税(国税地租の1/5)と営業税・雑種税・戸数割とされていたが(明治11年7月22日太政官第19号布告「地方税規則」第1条)、同様の理由で、府県の税収もまた、地租附加税に依存していたのである。
つまり、市部(都市部)でなく郡部(農村部)を多く管轄する府県ほど、税収入が豊かであるという、現在の地方財政構造とは大きく異なる事情があった。というのも、地租(附加税)を課税できる田畑(宅地)は、郡部の方に多く所在しているからに他ならない。大阪府は、大阪市街地を中心とし、郡部はわずかに摂津7郡を管轄するに過ぎなかった。当時、大阪府は、決して財政の豊かな府県ではなかったのである。
加えて、明治10年(1877)に発生した西南戦争の戦費調達のため、大量の不換紙幣を発行し財政難に苦しんでいた明治政府は、国家財政の節約と紙幣整理を目的として、明治13年(1880)11月5日、従来、政府負担であった府県庁舎・府県監獄の建築修繕費等を地方税(府県税)負担とし、港湾・道路・堤防・橋梁建築修繕費などの府県土木費に対する補助金も廃止する代わりに、地方税を再び、地租の1/5から1/3へと引き上げた(太政官布告第48号、第1~3条)。
このように地租附加税の比率を引き上げられたとはいえ、郡部の狭小な大阪府では、財政上、負担の引き上げに対応することの困難が想定されたため、建野知事は、大阪府の財政力の確保という観点から、大阪府の管轄区域内への郡部の取り込みを企図したのである。建野知事の意図通りの府県統廃合は実現しなかったが、堺県が廃止されて大阪府へ統合されたことにより、大阪府は、摂津7郡と河内・和泉・大和三国を管轄する巨大な府県となり、財政問題もまた、改善されることとなった。
しかし、堺県合併後、後述するように、当時開かれていた大阪府会では、従来の、大阪府域であった大阪四区・摂津国選出議員と旧堺県域であった河内・和泉・大和国選出議員との間に地域を単位とする地域的利害の対立が生じることとなった
[46]。大和国の人々の間では、明治14年(1881)12月頃から大和国が大阪府の管轄を離れるように求める、奈良県再設置運動が、そして、明治15年(1882)頃からは、河内・和泉国の人々の間で、堺県再設置運動が展開されるようになった。
さて、この両運動の結果であるが、まず、大和国では粘り強い奈良県再設置運動が行われ、明治20年(1887)11月4日、大阪府から独立し、再び奈良県が再設置されることとなった。しかし、堺県再設置運動については、実現することなく終わってしまった。堺県再設置運動が挫折した理由としては、(1)堺県合併を推進した建野郷三が明治13年(1880)から明治22年(1889)の長期間、大阪府知事の任にあったこと、(2)大和国以外の摂・河・泉の間には、地理・人情・風俗・慣習等において際立った差異が存在しなかったこと、(3)堺県再設置運動は支持・協力者の輪が広がらず、運動に対する熱意の欠如から奈良県再設置運動ほどの盛り上がりをみせなかったこと
[47]などが挙げられている。
こうして、明治20年(1887)の奈良県の大阪府からの分離・独立によって、ほぼ現在の大阪府の区画が形成されるに至ったのである。
3.大阪府政のはじまりとその展開
さて、以下、歴代の大阪府知事の治績について紹介しておきたい。初代から4代までの知事については、その就任の経緯は既にみた。明治期を通じて、大阪府知事となったのは13人である(次頁参照)
[48]。なお、「府事管理」の小松帯刀や「知事御用掛」の由利公正、書記官の吉原などは、知事の代理であって、歴代知事にはカウントされない。
明治時代初期における知事は、ほとんどが士族(あるいは公卿)の出身で、中でも雄藩出身者が多数を占めた。大阪府では、醍醐(初代)や西四辻(第3代)が公卿出であり、後藤(第2代)や渡邉(第4代)は士族出である。
明治政府は、当該府県の出身者を可能な限り避け、他府県人を任命する方針を採っていた。その理由は、(1)旧来の勢力や民衆の革命的成長を抑圧しなが
**************************************************
明治時代の歴代大阪府知事一覧
(代) 氏名 【在職期間―K慶応。M明治。T大正】 〔出身地〕
************************************************** (1)醍醐忠順:【K4.5.2 ~5.23】〔京都〕
小松帯刀(府事管理)【K4.5.23~7.12】〔鹿児島〕
後藤象二郎(府事管理)【K4.5.23~7.12】〔高知〕
(2)後藤象二郎:【K4.7.12~M2.2.4】〔高知〕
三岡(由利)公正(知事御用掛)【M2.2.4~2.17】〔福井〕
(3)西四辻公業:【M2.2.18~M4.11.20】〔京都〕
(4)渡邊 昇:【M4.11.22~M13.5.4】〔長崎〕
(5)建野郷三:【M13.5.4~M22.3.16】〔福岡〕
(6)西村捨三:【M22.3.16~M24.6.15】〔滋賀〕
(7)山田信道:【M24.6.15~M28.10.10】〔熊本〕
(8)内海忠勝:【M28.10.10~M30.11.13】〔山口〕
(9)時任為基:【M30.11.13~M31.6.3】〔鹿児島〕
(10)沖 守固:【M31.6.3~M31.7.7】〔東京〕
吉原三郎(書記官)【M31.7.7~M31.7.16】〔千葉〕
(11)菊池侃二:【M31.7.16~M35.2.8】〔石川〕
(12)高崎親章:【M35.2.8~M44.9.4】〔鹿児島〕
(13)犬塚勝太郎:【M44.9.4~T1.12.30】〔山形〕*********************************************
ら中央集権的統治を実践するためには、任地と縁故のない地方官が必要であったこと、(2)任地の民衆の意向を地方統治に反映するよりも、中央政府の地方統治政策に従い、中央の政策を任地で忠実に実践する地方官が求められたこと、にあった
[49]。事実、大阪府でも同様に、大阪府出身者は一人も存在していない。
また、明治期の歴代大阪府知事では、渡邉(第4代)・建野(第5代)・高崎(第12代)の就任期間を除き、ほとんどの知事が短期の就任期間となっている。こうした知事の頻繁な交代は、明治10年(1877)7月29日の「県官任期令」(25頁、注107参照)で修正が加えられるが、その後も、府県知事の頻繁な交代がみられた。周知の通り、戦前の府県知事は、中央政府の任命による官選の地方官(天皇の官吏)であって、中央政府の方針・評価などが知事の就任期間に影響するところは大きかった。
特に、明治初年においては、明治維新の功臣達が府知事・県令に任用される場合が多かった。彼らは一国一城の大名になったかのように振る舞うこともあった。なかには、中央政府の方針と異なる独自の行財政を遂行する者まで出現し、中央政府と地方官との間で地方行財政をめぐる対立も生じた。
このような中央政府と対立する府知事・県令らのなかには、地方官を更迭される事例もあったのである。上述したような地方官の頻繁な交代は、こうした理由からも生じたものと考えられる。
さて、本稿では、明治時代における大阪府知事の治績のすべてを述べることは不可能であるので、比較的有名であると思われる二人の知事の治績についてみておきたいと思う。1人は、江之子島庁舎への移転を実施した渡邉昇(第4代知事)、もう1人は、堺県合併を推し進めた建野郷三(第5代知事)である。
1)第4代大阪府(権)知事:渡邉昇[50]
渡邊は、肥前(長崎県)大村藩士の家に生まれ、幕末期には、坂本龍馬らとともに薩長両藩の調停に尽力するなど、国事に奔走した人物である。維新後は、長崎裁判所に奉職、その後、盛岡県(岩手県)権知事等を経て、明治4年(1871)に大阪府参事となり、同年11月に大阪府権知事に、明治10年(1877)に大阪府知事に就任した。明治13年(1880)に大阪府知事をやめてからは、元老院議官・参事院議官・貴族院議員などを歴任した。
さて、まず「(権)知事」という標記について説明しておきたい。知事と権知事は、等級は異なるものの職掌は同じである。具体的には、明治4年(1871)11月27日「府県官等ヲ定ム」(太政官第622)からみておこう。
府の知事は「勅任」3等の官であり、権知事は「奏任」4等の官である。勅任官とは天皇の勅命で任用される高等官であり、奏任官とは勅任官の次位に位置付けられる高等官である
[51]。(権)知事の下には、参事(奏任5等)・権参事(奏任6等)が置かれた。
一方、県では、令
[52](現在の県知事)が「奏任」4等の官、権令が「奏任」5等の官であった。この県の令(権令)の下に、参事(奏任6等)・権参事(奏任7等)が置かれた。なお、府・県ともに、権参事未満の官吏では、典事(判任8等)・権典事(同9等)・大属(同10等)・権大属(同11等)・少属(同12等)・権少属(同13等)・史生(同14等)・出仕(同15等)などが置かれていた。
知事と権知事(県では令と権令)は、それぞれ両者が置かれるのではなく、知事か権知事(令か権令)かどちらか一方のみが置かれる(明治4年10月28日太政官第560号)。いわば、赴任した人物が、三等級(勅任)の官であるのか四等級(奏任)の官であるかによって、知事か権知事か(令か権令か)が決まる。明治初年の一時期には、一般的に、権知事あるいは権令として任地に赴任し、一定の治績が認められることによって、知事あるいは令に昇格する地方官が多かった。簡単にいえば、権知事(権令)とは知事(令)見習いと考えることができよう。渡邉もまた、当初、大阪府権知事として赴任し、在任中の治績が評価されて知事に昇格した。なお、明治19年(1886)7月の「地方官官制」によって、府県の長官は知事に統一されている。
渡邉の治績で注目されるのは、大阪府庁舎を江之子島庁舎に移した実績
[53]と大阪府における教育制度の確立と普及に尽力したという実績
[54]である。
1-1)渡邉(権)知事と大阪府の教育政策
まず後者について、簡単に触れておこう。渡邉は、明治5年(1872)、勤皇の志士時代の同志である日柳政愬(くさなぎまさのり)を学務課長として招へいし、「小学校・中学校・師範学校・盲啞学校・幼稚園などを次々とつくり、勤労児童でも就学できるように、貧民学校・下々等小学・夜学・女(にょ)紅場(こうば)などバラエティーに富んだ教育政策を行った」
[55]。これは、短期就業期間による各種の変則的学校を設立し、就学の機会に恵まれなかった児童に就学の機会を与える方針に基づくものであった
[56]。
また、明治5年(1872)4月には、「急速に学校開設に関する府知事告諭」を出し、大阪府では「古来ヨリ日本三都ト称シ、今三府ノ一ニアリナカラ、学校ノ設ケ手薄」であるとし、官民一体となって一区一校の開設を目標に府独自の方針を推進するなど、新政府の学制頒布(明治5年8月3日文部省布達第13号)以前より、小学校の建設・経営を進めている。
また、学制頒布以降には、例えば、明治5年(1872)5月の「小学生徒心得書」の発布や同年8月に大阪府権知事渡邉昇の名前で出版された「学制解釈」などによって、学制の趣意の普及徹底を図るとともに、不就学者の出ないよう、府内の人民に就学の奮起を促したりもした
[57]。
さらに明治6年(1873)3月には、行政区とは別に学区を制定して、府内を4の中学区(大阪市街地2中学区〔東大組・南大組が第1中学区、北大組・西大組が第2中学区〕・郡村部2中学区〔住吉・東成・西成郡で第3中学区、島上・島下・豊島・能勢郡で第4中学区〕)に分け、4中学区の下に121の小学区(第1中学区34小学区・第2中学区40小学区・第3中学区27小学区・第4中学区20小学区)を設けて各小学区に1の小学校を設ける計画も立てている。
この結果、水増し報告もあったようであるが、大阪府内での就学率は、明治6年(1873)以降、毎年全国平均をやや上回る水準で推移して、次第に全国平均をはるかに上回るようになり、明治10年(1877)には、男女の就学率は67.1%と、全国第一位の就学率を誇った(全国平均39.9%)
[58]。
1-2)渡邉(権)知事と江之子島庁舎移転
次に、江之子島庁舎の建設の経緯について簡単にみておこう
[59]。
既述のように、府庁舎の新築計画もあったが、実現することはなく、慶応4年(1868)2月22日以降旧西町奉行所が大阪府庁舎(初代)として、大阪府政の中枢を担ってきた。しかし、権知事(第4代)となった渡邉は、明治5年(1872)6月27日、庁舎新築を中央政府に上申した。
渡邉は、庁舎新築の理由について、(1)西町奉行所が大阪市街地の一方に偏在すること、(2)事務煩雑のため施設が狭隘であることなどを挙げたようである。これに対して、大阪府より伺いを受けた大蔵省では、大阪府には「開市場」もあること、大阪は家屋の稠密な土地柄でもあり火災予防の趣旨から煉瓦造りの庁舎の築造は必要であること、庁舎新築費用も豪商が少なくないため、捻出は容易であったことなどから、大阪府の庁舎新築伺を「至極尤」だとした
[60]。
新庁舎の移転地となったのは、江之子島であった。当時の江之子島一体は、木津川とその支流の間の中洲で、船大工の作業場が散在する一面の芦原であった。このような場所への庁舎の新築移転に対する反発は、当時非常に多かったようである。しかし、渡辺権知事は、「大阪の将来の発展は、西海を隔てて遠く海外にあり」と述べて、江之子島への庁舎移転を強力に推進した
[61]。
渡邉が、西の江之子島に大阪府の本拠地を移転させ、西海へと視界を広げようとした背景には、幕末における黒船来航と開港があった。嘉永6年(1853)のペリー提督の浦賀来航によって、日本の鎖国体制は破られた。翌安政元年(1854)には、アメリカとの間で日米和親条約が締結され、下田・箱館の2港が開港された。また、安政5年(1858)には米国総領事ハリスと大老・井伊直弼との間で日米修好通商条約が調印され、イギリス・フランス・ロシア・オランダの4カ国とも同様の条約が結ばれた(安政五カ国条約)。この結果、開港地は、新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の4港が加えられ、江戸と大阪の開市も約束された。大阪の開市(市場を開放して、外国人に商取引を認めること)は5年後の文久3年(1863)1月と定められた。
しかし、大阪の開市は、当時、日本全国の商業権益の7割の規模を誇った大阪商業が、欧米列強に支配されることを意味した。また、大阪は京都(皇居)にも近く、国防上の問題も指摘された。こうした理由から、幕府は、大阪開市・兵庫開港の引き伸ばしを図ったが慶応3年(1867)4月13日、大阪の居留地を戎島北端の元船番所のあった場所として定め、同年12月7日に大阪開市が、翌慶応4年(1868)7月に大阪開港が実施された。この開港に合わせ、外国人居留地の整備が行われ、居留地一体で、西洋の街の整備が推進されていった。これが川口居留地である
[62]。江之子島は、この川口居留地に面した地域であった。
江之子島庁舎の正面が西向き(川口居留地方面)であり、大阪湾に面した玄関口として位置付けられたと考えられているように、江之子島への新庁舎移転は、開国後の居留地の監視や外国との交易などを見越した渡邉の意図があったと考えられるのである。また、既述したように、明治4年(1871)の第一次府県統廃合によって、大阪府の管轄地域が拡大したことも、新庁舎建設への理由になったものと考えられる。
こうして(第2代)江之子島庁舎が建設されることとなった。建物の外観は、煉瓦造り2階建ての建物で、中央にはドームがあった。正面玄関には4本の大円柱が並べられ、その上に菊花紋章が付されていた。また、中央ドームには大時計が備え付けられていたという
[63]。なお、設計図類等が未発見な状況にあり詳細も不明な点が多く、建物の規模についても諸説あるが、だいたい、建坪約416坪、延830坪程度であったとされている。また、内部の使用・建物の材質等も、必ずしも十分に明らかになってはいないが、用いられた煉瓦は、堺付近で製造されたものと考えられている。内装は、中央の吹き抜け円形ホール・2階知事室へとつづく大階段があり、玄関から知事室まではラシャの絨毯が敷かれていたという。加えて、当時としては珍しいガラスの窓、夜闇を照らす玄関の石油灯の輝きは、まさしく当時の先端技術を駆使した建築物であり、「江之子島政府」と呼ばれて地元の名所ともなっていたようである(図3)。
図3:江之子島庁舎
(大阪府公文書館所蔵:H0-0060-1788)
新築工事の着工時期は、明治5年(1872)といわれるが、よくわかっていないようである。竣工は、明治7年(1874)7月頃とされ、同月8日より6日間は一般の縦覧を許可したという。そして、7月19日に西町奉行所から移転し開庁式を開催、翌20日より公務の取り扱いを開始することとなった。建築費は、53,169円(官費16,789円余、民費33,579円余)であった
[64]。
なお、明治26年(1893)には、庁舎構内に府会議事堂が設けられ、大正3年(1914)・4年(1915)年には増築工事が施され、大正5年(1916)5月、庁舎の南北にある両翼(南館・北館)の増築工事が竣工することとなる。こうして、明治7年7月の開庁から、大手前に移転する大正15年までの約50年の間、江之子島庁舎では、増築や周辺施設の建設を経ながら、大阪府政の中心地として機能することとなった。
(左)渡邉昇・(右)建野郷三
2)第4代大阪府知事:建野郷三
次に、渡邉のあとを受けて第5代大阪府知事となった建野郷三についてみておこう
[65]。
建野は、豊前(福岡県)京都郡に生まれ、小倉藩士の養子となり、明治維新では勤皇の志士と交流して国事に尽力した。廃藩置県後には、英国に留学し法律を学ぶなど、当時、希少な欧米への留学経験を有する人物であった。建野は、宮内権大書記官・太政官権大書
記官を経て、明治13年(1880)5月、大阪府知事に就任した。
建野の治績としては、既にみたように、堺県の廃止と大阪府への合併を強力に推し進めたことのほか、大浦兼武を大阪府初代警部長に抜擢し、当時、難治県といわれていた大阪府の警察機構の内部改革を推し進めたこと
[66]なども有名であるが、ここでは、明治18年(1885)6月の淀川大洪水への対応と橋の近代化を推し進めた点に、注目しておきたい。
この淀川大洪水では、淀川沿岸の百数十ヵ村が水没し、特に西区いったいは泥海と化したといわれている。建野は、この水害で、寝屋川堤防の決壊の危機にあたり、別の堤防を切断して、大阪市街地の水没を回避した。また建野は、船による1万3000人にも及ぶ避難民の救助活動や外国居留民の保護救助にも最善を尽くしたといわれている
[67]。
同年の大洪水では、大川筋の橋が次々と破壊された。特に、天満橋や天神橋は流失し、難波橋も南側は崩壊している。この時、流失しなかったのは難波橋北側と安治川橋であった。しかし、安治川橋には、堂島川で上流の橋の残骸が流れ込み、水を堰き止めたため、ダイナマイトで安治川橋を意図的に破壊し、近隣被害が出るのを未然に防いだといわれている
[68]。建野は、大川の橋の流失を念頭に、災害復旧にあたっては、永久橋の必要性を痛感し、大川筋の17の橋の永久橋(鉄橋)化を推進するべく、3ヵ年継続90万円余の議案を大阪府会に提出した。
しかし、大阪府会では、経費が膨大であることを理由に、知事の提出議案は否決されたため、建野は、修正案として、天満・天神・肥後・渡辺・木津川の5橋の鉄橋化と、他の橋の橋杭のみの鉄材化の議案を作成・提出し、府会の承認を得ることができたのである。
以上、黎明期における二人の大阪府知事の治績についてみてきた。続いては、堺県の治政について、簡単に触れておきたい。
4.堺県政のはじまりとその展開
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明治時代の歴代堺県知事(令)一覧
(代) 氏名 【在職期間―K慶応。M明治】 〔出身地〕
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(1)小河一敏:【K4.6.22~M3.8.20】〔大分〕
(2)税所 篤:【M3.8.20~M14.1.29】〔鹿児島〕
吉田豊文(大書記官)【M14.1.29~2.7】〔広島〕
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慶応4年(1868)から明治14年(1881)に至るまで存在した堺県では、小河一敏(初代)・税所篤(第2代)の二人の知事(令)が存在する。
1)小河一敏の堺県政
小河は、幕末には、豊後竹田出身の勤皇家として活躍した人物で、当初は、大阪府判事として堺役所に常
駐していたが、慶応4年(1868)6月22日、堺役所が大阪府から独立して堺県となったことを受けて、堺県の初代知事となった
[69]。
まず、堺市域では、天保期以来、存続してきた郷学所(儒者の小川宗右衛門の設立によるもの)が存在していたが、明治維新で中絶していた。小河は、慶応4年(1868)8月に堺郷学所(翌年、学館と改称)として復活させ、その他の私塾を堺郷学所の指揮下に置くことに務めるなど、県内の教育施設の充実に努めていた。もっとも、教育内容は、儒教主義的国学的な教化主義が濃厚なものであったといわれている
[70]。
また、小河が知事に就任した堺県では、明治元年の豪雨による堤防決壊、翌明治2年(1869)の大凶作などに見舞われ、県民のおよそ一割の人々が貧窮する状況にあった。こうした状況下で、小河は、凶作で貧窮する県民からの年貢の強制的徴収を戒め、年貢を米納から金納に改め、困窮者を堤防修築・川浚等の公共事業に就業させて、その賃金で年貢を納めさせること、賃金の費用は堺県幹部の寄付金等で賄うなどの対応をとりたいこと、そして困窮者の救済は緊急の問題なので、いちいちお伺いを立てることをせず臨機応変の措置を取りたいこと、などを同年12月1日付で民部省(後の内務省)・大蔵省に報告書を提出したという。
しかし、中央政府は、知事の独断を戒め、また徴税を強化すること、年貢は米納の原則を維持すること、堤防修築等は仕様書作成後、規則通りの手続きを踏んだうえで行うことなどの命令を、小河に下している。これに対して小河は、「仁政」思想に立脚して、中央政府の方針と対立して、困窮者の救済を第一義とし、独断で困窮者救済策を実行していった。
もちろん、こうした小河知事の「仁政」思想はあくまでも、封建的思想に基づく支配階級的立場を出るものではなく、また「庶民の味方」に立つ姿勢態度と評価できるものでもなかった。また、新政府にとっても小河は、中央政府の地方統治政策に従い、中央の政策を任地で着実に実践する地方官としては不適格と映った。明治3年(1870)8月20日、小河は知事を罷免されることとなった。
(左)小河一敏
[71]・(右)税所篤
[72]
2)税所篤の堺県政
小河に代わって堺県知事(明治4年11月22日より県令)となったのは、税所篤であった。税所は、薩摩藩出身で、大久保利通・西郷隆盛らとともに、討幕運動等に活躍した人物であった
[73]。
税所は、明治5年(1872)6月28日、「伊勢講・山上講・愛宕講等講事廃止につき達」(講廃止令)を出し、これらの講に関わることをすべて「相廃止」する
こと、講の名の入った看板なども速やかに取り除くことを命じている。講というのは村の親睦集団であり、一種の村の共同体的結合の基盤でもあった。
中央政府は、江戸時代以来の村を解体して、町村を明治国家の行政末端単位として再編していく政策をとっており、講廃止令は、こうした中央政府の政策を、県政において実践する意義を有していた。しかし、講廃止令は決して全府県で実施されたものではなく、現に大阪府では、講廃止令のようなものは出されていなかった
[74]。堺県では、8月にも「諸講名目廃止につき再達」を出し、「今以不行届之村々」があり「不都合」であるとして、掛け札から提灯に至るまで、「断然取除ケ」るようにと、県内村々に達している。
また、中央政府の神道国教化政策を先取りし、廃仏毀釈(明治元年の「神仏分離令」の施行によって生じた、仏教寺院や僧侶を排斥する行動)
[75]を強力に推し進め、つぶしたお寺の墓石を自分の家の庭石にしたという噂話まである人物だとも言われる
[76]。このように、税所は、中央政府の政策を地方行政上に反映させようという政治信条を有する人物であったと考えられる。
税所は一方で、学制による小学校の先駆的な教育行政を行っている。初代堺県知事小河の罷免後、堺県の堺郷学所はいったん廃絶の憂き目をみていたが、税所は、明治4年(1871)4月に、郷学校を開設している。この郷学校では、寄宿舎を設け「束修」(入学金)・「謝義」(授業料)も一切とらないこと、経学・筆道・数学に加えて、地理・歴史・書道のほか英語も教育内容に加えようとするなど、開明主義的な教育行政を進めようと図っていた。その他、河内国で小学校を数校開講して、読書・手跡・算術などの教授を行い、明治5年(1872)には、郷学校を県学と改称、県内を54区に分けて、1区に1郷学校および郷学校出張所を設けて、県学の教則に準拠しつつ、生徒の教育にあたることとしている
[77]。
以上、2代の堺県政について簡単にみた。初代堺県知事の小河は、封建的・儒教的思想に基づく自らの政治信条に基づいて、中央政府と対立しながらも、堺県政を行おうとした人物であった
[78]。これに対して、第2代堺県知事(令)の税所は、中央政府の神道国教化政策や教育政策を先取りして、堺県で徹底を図るなど、中央政府から派遣された忠実な地方官として、権威主義的な、時として開明主義的な政治信条に基づき、堺県政を行おうとした人物であったと考えられる。小河は短期間で罷免されたが、税所は長期にわたり堺県政を推進することとなった。
なお、明治14年(1881)1月をもって、税所は堺県令を「満期ニ付解官」となり、大阪府に合併されるまでの間は、堺県大書記官・吉田豊文が、その事務を行うこととなった。このとき税所は、「多年励精労効不少」とされて、正五位から従四位に昇級している。また、明治20(1887)年に奈良県が独立した際には、「第二次奈良県」の初代知事にもなった
[79]。なお税所のあとの事務を担った吉田は、堺県廃止・大阪府への合併とともに、堺県大書記官から大阪府大書記官に補任されている
[80]。
5 大阪府(堺県)における地方制度
明治新政府は、幕藩体制を解体し、中央政府が主導する新たな地方統治の制度(中央集権的な地方統治機構)を創出しようとつとめてきた。版籍奉還・廃藩置県を経て、府県の統廃合が行われたことも、そのあらわれであった。地方官の淘汰もその一環である。
では、地方統治を実践する機構、すなわち、地方制度はどのように構築されていったのであろうか。以下ではまず、中央政府における地方統治機構=地方制度の形成過程をみて、次いで、大阪府と堺県で実施された地方制度について概観する。おおまかな流れは、「戦前地方『自治』の確立と大阪府」(『大阪あーかいぶず』第35号)にも記載されているので、多少の重複があることをおことわりしておく。
1)区制・大小区制[81]
明治初年において、ほぼ日本の全国では、区制・大小区制とよばれる地方制度が採用されていた。この制度は、もともと、戸籍法の制定によって創出されたものである。
明治4年(1871)4月4日、「戸籍法」(太政官第170号)が制定された。戸籍は、「政府が、徴税・徴兵・警察・教育などの行財政全般を行う基礎となる人民掌握のための重要な施設」であり、「中央集権的統治を構築するための必須の前提」となる。
この「戸籍法」に伴い、全国の府県内に「各地方土地ノ便宜ニ従」って「区」が設けられ、「区」に戸籍編成事務を行う正副戸長が置かれることとなった。この正副戸長は、本来、戸籍編成事務を主務とする役職であった。しかし、地方では、正副戸長を戸籍編成事務だけに従事させるのではなく、民生一般事務を取り扱わせる場合も多かった。そのため、従来、民生一般事務を取り扱ってきた、江戸時代以来の庄屋・名主・年寄ら村役人と新置の正副戸長との間で、権限が競合するという問題が生じた。
というのも、戸籍法の下では、上述のような区画の定め方の臨機の処置が認められただけでなく、戸長の名称も正副戸長だけに限らずとされ、戸長の役職は、従来の村役人を用いるも他者を用いるも自由であって、人数から職掌から、すべてが「地方の便宜」に委ねられたためであった。
そこで、中央政府は明治5年(1872)4月9日、旧来の村役人を廃して正副戸長に改称することを決めた(太政官第117号)。さらに10月10日、「土地ノ便宜」によって府県の下の1区(=大区)に区長1人、小区に副区長等の役職を置くことを「不苦候」とした(大蔵省第146号)。つまり、大区に区長を、小区に副区長を置く、ということが全国一律に強制されたものではなかった。府知事・県令が、各府県の状況に応じて、正副区長等を置くことができる権限を付与されたものに過ぎなかった
[82]。そのため、原則的には、府県の下、大区に区長、小区に副区長、町村には正・副戸長が置かれるが、それは「土地ノ便宜」によるという、「やや多様性のある」地方制度となった。一般に、大区小区制度といわれるものである。
大区小区制度で注意されなければならないのは、「やや多様性のある」地方制度であったがゆえに、府県毎に統治機構の違いが生じたことである。簡単にいえば、江戸時代以来の町村を行政区画とした府県と行政区画としなかった府県があったということである。
前者では、町村に行政吏としての正・副戸長を置いたが、後者では、町村ではなく町村より上位の区(小区等)に正・副戸長を置いた。前者では、町村が行政上の単位として認められ、後者では、町村が行政上の単位として認められなかったのである。
前者の地域では、正副戸長らは行政吏であると同時に江戸時代以来の町村民代表たる性質も保持することとなる。そのため新政府の政策は、比較的、地域の固有の慣習を配慮しながら遂行されることとなる。ところが後者の地域では、正副戸長らは行政吏としての性質が強くなる。そのため、新政府の政策遂行は、地域の固有の慣習に対する配慮に欠ける場合も多く、結果として、新政府と地域住民との対立関係を惹起することとなるのである。そのため、大区小区制度のもとでは、新政府は、全国的な人民闘争に直面することとなるのである。
2)大阪府の戸籍区制
さて、大阪府では、明治5年(1872)5月に戸籍区を実施した。大阪府では、管轄区域を分けて、1万石程度を基準に区を設けた。各区には、公選で区長を置いた。また、区の下に1千石程度を基準に組村(2~3の町村連合)を設けて、各組村に公選で戸長を置いた。各組村の下には、家数5軒を目安とする伍人組が設けられた。各伍人組には、公選で伍人組頭が置かれた(大阪府申第175号「郡部地区並庄屋・年寄一支配ノ定限」・大阪府申第184号「庄屋・年寄ノ廃止、区戸長の設置」)。
大阪府(知事)―区(区長)―組村(戸長)―伍人組(頭)
公選の方法だが、組頭・正副戸長は、それぞれ伍人組・組村中の入札(選挙)で選出される。一方、区長は、正・副戸長の入札で選ばれるため、選挙権者が直接選出するのではなく、間接選挙制となっていた。加えて、選出された者は、直ちに就任するのではなかった。伍人組頭は、選挙結果を区長が「点検」してから任じる。また、区長や正副戸長は、選挙結果を府庁が「詮議」したうえで任命した。つまり、伍人組頭の場合は区長が、区戸長の場合は府庁(=大阪府知事)が選挙結果を「点検」・「詮議」し、不適当な選挙結果であると見做せば任命しないこともできたのである。
3)大阪府の大区小区制
さて、大阪府ではこうした戸籍区が実施されたが、大区小区制度が実施されることとなったため、明治8年(1875)4月30日、大阪府は大区小区制を実施することとなった。大蔵省の達にも関わらず、大阪府が大区小区制を直ちに実施しなかった背景には、市街地域と郡村地域とで、行政区域のあり方や行政系列が異なっていたため、統一した制度の実施が困難だとの認識があったためであった
[83]。
大阪府で実施された大区小区制の区画は、表1の通りである
[84]。大阪市街地については、東西南北の4大組を
[85]、郡村部については各郡を単位に大区を設定した。また、大区を複数の小区に分割している。この小区は従来の区(1万石規模)がそのまま基礎となった。特徴的なのは、市街地と郡村部とで、制度が異なるこ
表1:大阪府における大区小区制
大区名 |
小区数 |
番組 |
町村数 |
管轄区域 |
第1大区 |
23小区 |
― |
152 |
東大組 |
第2大区 |
14小区 |
― |
93 |
南大組 |
第3大区 |
23小区 |
― |
189 |
西大組 |
第4大区 |
20小区 |
― |
93 |
北大組 |
第5大区 |
3小区 |
33組 |
62 |
東成郡 |
第6大区 |
5小区 |
45組 |
125 |
西成郡 |
第7大区 |
2小区 |
19組 |
53 |
住吉郡 |
第8大区 |
5小区 |
52組 |
102 |
島下郡 |
第9大区 |
3小区 |
29組 |
59 |
島上郡 |
第10大区 |
3小区 |
33組 |
86 |
豊島郡 |
第11大区 |
2小区 |
13組 |
36 |
能勢郡 |
とである。結局、大阪府では、都市部と郡村部との統一的制度が実施できないまま、大区小区制に至る。
市街地では、大区に区長(1等~3等)、小区に区長(4等)及び戸長(1等~3等)が置かれた。しかし、明治9年(1876)5月、大区に区長(1等~2等)、小区に戸長を置くこととした。一方、郡村部では、大区が設けられたものの、大区に区長は置かれなかったようで、小区に区長を、各組村(第○番組村という)に戸長が従来通り配置された。伍人組は戸籍区のときと同様で、明治8年(1875)6月に伍人組頭は伍長と改称される。
(市街地)
大阪府(知事)―大区(区長)―小区(戸長)
(郡村地)
大阪府(知事)―大区―小区(区長)―組村(戸長)
大阪府は、明治8年(1875)6月7日、「区戸長仮職制並取扱心得」
[86]を出し、区戸長の職制を定めている。区戸長は、官省の命令を遵法し、上意下達・下情上通させる(第1条)、管轄区域内の安寧保護や行財政を遂行する(第2条)などが職務内容とされた。区戸長の選任は、従来通り公選であったが、「決スルハ府庁ノ権ニ任ス」(第3条)と最終的な任命権は府知事の手にあることが強調された。戸長の任免は例えば、次のように行われた
[87]。
第●大区▲小区〇等戸長
氏名 〇〇 〇〇
依願戸長差免候事
明治〇年〇月○日
大阪府権知事 渡邉 昇
あるいは、
第5大区3小区第1番組〇〇村
氏名 〇〇 〇〇
第○大区△小区第□番組〇等戸長申付候事
明治〇年〇月○日
大阪府権知事 渡邉 昇
つまり、区戸長は辞める際は、知事の「免」を得る必要があり、当選後は、知事に「申付」られなければならなかった。ここに当時の「公選」制の特質があるといえよう。
さて大阪府では、明治9年(1876)11月30日になって、「町村総代人選挙法並投票規則」
[88]を定めた。これは、各町村に2名の総代人を置くものであった。
この総代人制度は
[89]、同年10月17日、政府が制定した「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」(太政官第130号布告)に基づくものである。同規則は町村の財政的行為の処理方法に関する最初の全国的な法規であった。同規則は、区および町村の金穀公借や共有の地所建物等の売買、土木の起功につき、正副戸長と町村内不動産所有者のうち6割以上の連印を必要条件とすることを規定し、総代人に区町村内の不動産所有者の代理者としての役割を担わせるものであった。この制度の意義は、従来、区戸長が、区町村の財政的行為を専断し、区町村内の住民との間に対立が生じていたため、区町村の財政的行為に対する区町村住民の参画を認めようとするところにあった。
ところが、この総代人の選出方法等についても、決して統一的なものではなく、各府県に一任されたという特徴がある。
大阪府では、区内に在籍し、区内に1年以上在住する21歳以上の者で、100円以上の不動産所有者に総代人の被選挙権が(第1条)、区内に在籍し100円以上の不動産を所有する者に選挙権が与えられた(第2条)。なお、懲役1年以上の実刑を受けた者や破産者、「著しく品行不正の者」は選挙・被選挙権がはく奪された(第3条)。
総代人制度の登場で、大阪府では、従来、区戸長らの行政吏が置かれていなかった町村に、総代人という役職がはじめて置かれることとなった。この結果、町村住民は町村代表者である総代人を通じて、区町村の財政的行為に参画できることとなったのである。
さらに大阪府は、明治10年(1877)9月14日に郡村部の組村(番組)制度を廃止した。従来の組村の戸長も廃止され、区長・戸長・村用掛の役職が改めて設置された(「郡中区戸長並村用掛ノ設置」)。具体的には
[90]、各小区に区長1名・戸長3名が、各村に村用掛1~3名が置かれた。各村の村用掛は、総代人や伍長と協議して、村内の事務を司ることとなった。
(市街地)
大阪府(知事)―大区(区長)―小区(戸長)―町(総代人)
(郡村地)
大阪府(知事)―大区―小区(区戸長)―村(用掛・総代人)
こうして、大阪府では、従来、行政区画として認められていなかった町村に、総代人(明治9年)・村用掛(明治10年)の役職が置かれ、町村が事実上の行政区画となった。彼らは、区戸長の監督下で、町村代表者として町村の行財政行為に携わることとなった。
4)堺県の戸籍区制
堺県では、明治5年(1872)2月、行政区画を改正し、戸籍区制が実施されている
[91]。
堺県でも、県の下に区を設けた。和泉国を25区に、河内国を29区に区画した。区は、約1万石前後を基準に設置された。
当初、各区に正副戸長が一人ずつ置かれたが、従来の総年寄・町年寄(堺市街地)、庄屋・年寄(郡村地)などが民生一般事務を取り扱っていた。堺県では、明治5年(1872)4月9日(太政官第117号)の太政官の布告を受け、4月28日に年寄等を廃止した。同月30日には、各区の正副戸長を正副区長と改称し、村に正副戸長を置くこととした。区・戸長の選出は公選によるものとしている。なお、この時の選挙・被選挙権資格は、貧富に関わらず「小前」の者にまで付与されていたところ
[92]に特徴がある。
ただし、厳密には、戸長は江戸時代以来の各村に置かれたわけではなく、およそ1000石前後で1名置くものとした。そのため、1村で1000石に満たない場合は、2ヵ村以上を組み合わせて1000石規模にすることとされたのである。また、大阪府と同様、堺県でも、公選ではあるものの、最終的な任命権は堺県知事が有していた。
また堺県でも、正副戸長の管轄内で家数およそ五軒を基準とする五人組が設けられ、組合内の選挙で組頭が置かれた。組頭の任命権は区長にあった
[93]。
一方、堺市街地では
[94]、市街地を4区に分画し、市街地の195ヵ町をおよそ10町毎20の小区に分類した。区には正副区長が、小区には正副戸長2~3名が置かれた。
(市街地)
堺県(知事)―区(正副区長)―小区(正副戸長)
(郡村地)
堺県(知事)―区(正副区長)―連合町村(正副戸長)
このように、堺県でも、大阪府と同様に、市街地域と郡村地域とで、区制のあり方に違いが存在していた。このことは、堺県でも大阪府と同様に、市街地と郡村部との間で、従来の行政区域や行政系列のあり様が異なっていたという問題が存在したのであろう。このため、堺県でも、市街地と郡村部での統一した制度の実施は困難であるとの認識があったのではなかろうか。こうした事情もあって、堺県でも、大阪府と同様に、明治7年(1874)1月になってから、大区小区制度への移行を行った。
5)堺県の大区小区制
堺県では、明治7年(1874)1月22日、従来の区制を廃止し、大区小区制度を実施した。堺県の大区小区制の概要は表2の通りである。
県内を6つの大区(河内国3大区・和泉国3大区)に区分し、各大区を複数の小区(全29小区)に分けた。同
表2:堺県における大区小区制(~明治9年)
大区 |
小区 |
組合 |
町村数 |
旧国 |
管轄区域 |
第1 |
4 |
8 |
195 |
和泉
|
堺市街地 |
第2 |
5 |
48 |
220 |
大鳥・和泉・南郡 |
第3 |
5 |
44 |
139 |
南・日根郡 |
第1 |
6 |
54 |
226 |
河内 |
丹北・八上・丹南・志紀・古市・石川・安宿部・錦部郡 |
第2 |
5 |
49 |
184 |
丹北・志紀郡・茨田・渋川・若江・高安・河内郡 |
第3 |
4 |
45 |
151 |
茨田・讃良・交野郡 |
年4月には、小区の下に組合村(郡村部)・組合町(市街地)を約1500石を目安に設置した。役職者としては、大区に大区長(明治8年3月に区長に改称)が、各小区に小区長(同月に副区長に改称)が、組合町村に戸長が、各町村に副戸長が置かれた。大小区長・正副戸長の選出は、記名投票による公選とされた(同年1月25日・3月4日)。
大区(大区長)―小区(小区長)―組合町村(戸長)―町村(副戸長)
また、明治9年(1876)6月28日、堺県では区
戸長投票規則を改正している(堺県甲第25号)。区戸長の選挙・被選挙権は、地所・家屋等の不動産所有者および質取人、つまり有産者に付与された
[95]。選挙区は、区長は大区、副区長は小区、正副戸長は組合町村・町村であり、各選挙区内の選挙権者の投票で選出された。
さらに、堺県では、明治9年(1876)10月24日、区画の改正を実施している
[96](23頁の表3参照)。これは、同年4月18日に奈良県が廃止され、旧奈良県域が堺県の管轄となったための措置であった。
この改正では、和泉国第1大区を従前通りとしたほか、その他を10の大区(和泉国2大区、河内国3大区、大和国5大区)に再分画した。小区は、紆余曲折を経て和泉・河内両国については従前通りとし(12月7日)、従来の組合町村は廃止した。
大区(区長)―小区(副区長)―町村(正副戸長)
旧奈良県域(大和国)については、同年10月25日、5大区24小区に分画(奈良県時代は10大区125
小区)した。
表3:堺県における大区小区制(明治9年~)
大区 |
小区 |
町村 |
旧国 |
管轄 |
第1 |
2 |
195 |
和泉
|
堺市街地 |
第2 |
5 |
212 |
大鳥・泉・南郡 |
第3 |
5 |
138 |
南・日根郡 |
第1 |
6 |
217 |
河内 |
丹北・八上・丹南・志紀・古市・石川・安宿部・錦部郡 |
第2 |
5 |
176 |
丹北・渋川・志紀・若江・茨田・高安・大県・河内・讃良郡 |
第3 |
4 |
152 |
茨田・讃良・交野郡 |
第1 |
5 |
431 |
大和 |
添上・山邉郡 |
第2 |
4 |
281 |
添下・添上・平群・式下・廣瀬・葛下郡 |
第3 |
4 |
296 |
十市・式下・山邉・式上・宇陀郡・高市郡 |
第4 |
4 |
225 |
渋川・高安・高市・葛上郡 |
第5 |
7 |
342 |
宇智・吉野郡 |
明治10年(1877)1月5日には、堺県は、再び区戸長選挙投票規則を改正し(県甲第25号)、各大区
に区長1名、各小区に副区長1名(但し、堺市街地は2名)・戸長1名・副戸長2名・各町村に総代1名を置き、それぞれ区内の選挙で選出するものとした。もっとも、町村の総代は「衆人の嘱望指票する所にして、人民に代りて議事に干与し、一切の村務を担任すべき義務ある」者だという理由から、一般的に無給(名誉職)であった。
大区(区長)―小区(副区長・正副戸長)―町村(総代)
以上のように、堺県でも、区制―大区小区制が実施されたが、大阪府と同様に、当初は、江戸時代以来の町村は、必ずしも、行政区画としては認められておらず、制度上の役職も置かれていなかった。しかし、上述のように、堺県でも、次第に、町村に制度上の役職を置き、町村を行政区画として認可していった。
6 大阪府・堺県における地方民会の整備
最後に、明治時代初期の大阪府と堺県における、地方民会の整備の過程についてみておきたい。
この地方民会とは、現在でいう、府県議会のことを意味する。府県会(府県議会)というものが正式に設置されるのは、明治11年(1878)の三新法体制以後のことである。しかし、明治5年(1872)頃から、愛知県や滋賀県、宇都宮県や印旛県などで区戸長連絡会議のような組織が設けられていた。これらが府県会の先駆的形態としてあげられる。
既にみてきたように、大区小区制下では、府知事・県令らは、比較的、広い裁量の自由を容認されていたため、独自の地方法令として、中央政府の法令にはない、さまざまな創意工夫が、地方行財政上に施されていた。地方民会もまた、その例に洩れず、地方民会が開かれた地域と開かれなかった地域があった。明治8年(1875)時点で、地方民会が開かれていたのは7県、区戸長会が開かれていたのは1府22県、地方民会等がまったく開かれていなかったのは2府17県(その他不明)といった状況であった
[97]。
1)大阪府における地方民会
大阪府では、明治6年(1873)11月15日、「区戸長会議ノ開設」
[98]によって、公選区戸長を議員とする府会を設けた。
この区戸長会議は、「上下ノ情実ヲ疎通」すること、「府下人民ノ利益ヲ図リテ一事ヲ創立」すること、「病害ヲ徐テ一事ヲ廃シ、民費ヲ増減」することについて「公議」するためのものであった。大阪府では、これらを「公議」するための代議人を区戸長に求めたのである。というのも、大阪では、区戸長公選制を採用しており、区戸長が「人民一般ノ名代人」であると考えたからである。したがって、大阪府ではひとまず、区戸長を議員として「事ヲ衆議ノ公平二決シ、府下ノ幸福ヲ永世ニ保ツテ基礎ヲ開」こうと考えたのである。さらに大阪府では、明治7年(1874)7月8日、会議の議決内容を一般人民に周知するため、「会議決定簿」(会議録)の写しを、各区会議所に配布すること、20人を限度に会議傍聴を許可するなど
[99]、議事内容の公開を進めていたことは注目される。
また、大阪府では、明治9年(1876)5月11日に、小区会議の開会を認めた
[100]。ただ、この小区会議については、開会を希望する者は会議規則書を添えて府庁に申し出ること、とされていることから、大阪府が全ての小区で小区会議の開会を実施した訳ではなかった。あくまでも開会は、小区の任意とされた。
とはいえ、大阪府では、区戸長会の開催や会議録の公表・会議の傍聴の許可、そして、区域の裁量に委ねた小区会議の開会許可など、渡邉(権)知事による独自の創意工夫が施されていたといえよう。
2)堺県における地方民会
堺県では、明治5年(1872)5月(日付不詳)、「区長会議規則」
[101]で区長会を設けた。この区長会も地方民会の萌芽というべきものである。区長会の会議は「即今制度変正ノ際、従来ノ陋習ヲ一洗シ、利害ヲ審シ、緩急ヲ量リ、各見込ヲ記シ、衆ニ示シテ評論ス」るものであるから、「旧弊ヲ除キ、無用ヲ省ク」ことを第一義とし、「猥ニ宴会ヲ開キ、故ナク客舎ニ滞留スル」ことなどは禁止されていた。
堺県ではさらに、明治9年(1876)7月12日、「県会議事仮規則」
[102]を達し、県会を設けている。この県会は通常、毎年2回開かれる。同規則では、県会の目的は「上下ノ情誼ヲ通シ、管内ノ裨益ヲ起シ、施政上ノ便否ヲ斟酌シ、公議ヲ尽シ、以テ県治ヲ永遠ニ期スル」ことだとされた(第1条)。そして「人民代義人」としての議員定数は50名(大和国25名・河内国13名・和泉国12名の合計50名)(第4条)で、正副区長のなかから、正副区戸長一同で投票で選挙されることとなった。堺県では、正副区戸長公選制を採用していたため、県会の議員は、地域住民の直接選挙ではなく間接選挙で選ばれた「代義人」たる性格を付与された。とはいえ、議員は区長でなくてはならなかったから、県レベルの区長会といえよう。しかし、議員は区長であるとはいえ、議場に出る場合には「一般人民ニ代リ、協同公議ス」るようにともされた(第2条)。
また、堺県では、明治10年(1877)6月2日、この県会に町村総代の列席を認めているから
[103]、大阪府同様、町村代表者に議事内容の傍聴を許し、公開に努めていたものと考えられる。
むすびにかえて
本稿では、明治時代初期における、大阪府という行政組織の骨格が形成されるに至る経緯をみてきた。この時期の府県制度・地方制度は、極めて複雑であるといえる。しかし、この時期の地方史は、非常に面白いともいえる。それは、各府県における地方官の独自の政策が展開されており、地方官の個性を見ることが出来るからである。既にみたように、この時期の中央政府は、各地方官に、かなり広い裁量を与えていた。そのため、地方では、中央政府の法令にはないような様々な独自の施政が展開されていたのである。
戸籍区制・大区小区制という地方制度は、中央政府による統一的な地方制度に関する規定が出される前段階のものであった。そのため、制度内容は、地域で多様でもあった。府知事・県令が独自の創意工夫を行う余地があったためである。
大区小区制度では、伝統的・自治的組織、伝統的法制、伝統的・自治的慣行の打破、および新統治単位、新統治組織の創出が企図されたところに、その特質がある。江戸時代の分権的な権力を中央政府に集中し、全国を中央政府の集権的統治下におくためには、全ての行政が中央政府―官僚の行政系列を通じて行われることが要求された。そのため、住民の政治参加の道は、閉ざされる傾向があった
[104]。
大区小区制度の時代に、徴兵令反対一揆や地租改正反対一揆、学制反対一揆といった人民闘争が全国的に生じた背景にはこうした状況があった。しかし、大阪府・堺県では、町村に制度上の役職を置き、町村を行政区画として認可することで、町村代表者を、町村の行財政的行為に携わらせていた。彼らは公選で選任された者であった。実際に任用された区戸長らも、江戸時代の村の庄屋・年寄・百姓惣代などの村役人をつとめた人物であったようである
[105]。そのため、江戸時代以来の町村・町村役人と明治初年における行政区画・区戸長ら吏員との間には、地理的・人的に継承関係が存在していた。また、民心の慰撫や上意下達機能を補てんするための区戸長会・県会などの地方民会も設けられていた。
しかし、注意されなければならないのは、大阪府や堺県で実施された地方制度も、現代におけるような民主的手続きの構築を目的とするものではなく、中央政府の諸政策を地方において円滑に遂行するための手段にすぎなかったことである。
戸長は江戸時代の庄屋らの村役人と人的な継承関係を有しており、その職務内容もまた、近世社会で行われていた事務手続きを継承したものではあったが、その一方では、戸長は明治政府の新たな政策・方針を各町村で実行する重要な役割を果たさなければならなかった
[106]。いわば、中央政府の諸政策を、実地において周知・徹底する末端の地方行政官吏の補助者としての役割であったといえよう。
さて、大区小区制度の下では、既にふれたように全国的な反政府人民闘争を惹起した。加えて、明治10年(1877)には、中央政府は、西南戦争という最大の反政府士族による反乱にも直面した。こうしたなか、維新の元勲の一人・大久保利通は明治11年(1878)3月11日、「地方体制等改正之儀上申」を上申、今後の国家による統治の基本構想を示す。
大久保はこのなかで、大区小区制度という統治機構を反省し、その矛盾を克服することで、人民の抵抗を緩和しつつ、摩擦なく行財政を遂行しえるような、統一的・安定的な地方制度を構築しようと考えたのである。大久保は、明治11年(1878)5月、紀尾井坂の変で暗殺されたが、彼の基本構想は、同年7月22日、「郡区町村編制法」(太政官第17号布告)・「府県会規則」(太政官第18号布告)・「地方税規則」(太政官第19号布告)の三法の制定で具体化されることとなった。この三つの法を基軸とする国家体制は、いわゆる地方「三新法体制」と称されている。
この三新法体制とは、行政区画を江戸時代以来の郡―町村制に戻すことで、固有の慣習に一定の配慮を示すこと、同時に、他府県出身者で構成される、府知事・県令の下部統治機構に地方の「名望家」層を組み込み、彼らの「名望」=支配力・郷土連帯感を利用して、町村の統治を円滑に行い、人心収攬と体制の安定化を図ろうと企図したものであった
[107]。
さて、中央政府における三新法体制の構築を受けて、大阪府では明治12年(1879)2月10日に、堺県では明治13年(1880)4月23日になってから、大区小区制を廃止して、三新法体制へと移行することとなった。
大区小区制度の下では、地方官らの創意工夫による様々な制度的経験が、伺い・上申・届出といった形で地方官から中央政府に提出されていた。これらの情報が次の制度形成の参考にされるという、上下反覆の過程を経て、地方制度は体系化されていくこととなる
[108]。その一つの到達点が、三新法体制であった。この三新法体制を起点に、中央集権的・全国統一的な地方制度が、漸次、形成されていくのである。
(公文書館専門員 矢切 努)
【矢切専門員新天地へ】
本稿執筆者の矢切努(やぎりつとむ)氏におかれては、平成16年(2004)9月から、公文書館専門員(非常勤嘱託員)として、当時、大阪市住吉区帝塚山所在の大阪府公文書館に奉職され、以来、公文書館業務の企画運営に携わってこられました。
その一方で、関西大学大学院、大阪大学大学院において、日本経済史や日本法制史の学術研鑽に努められ、平成25年(2013)には、大阪大学より「日本地方財政調整制度成立史」で博士(法学)を授与されています。
このたび公文書館専門員の職を辞され、新年度より中京大学法学部において法史学の教鞭を執られることになりました。
矢切さん、長きに渡って公文書館の整備充実に御尽力して頂き、ありがとうございました。
公文書館として、矢切さんのさらなる飛躍、御活躍を祈念いたします。
[1] 『大阪府史』第7巻近世編Ⅲ(大阪府、1989年)585頁(担当:武知京三)によると、文化5年(1808)頃には、「大坂」の字が不吉な文字とされていたようである。もともと「坂」と「阪」の字は同字であって、両字の併用は当時、それほど問題とはならず、そのまま明治年間に受け継がれたといわれる。
例えば、「太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三十一巻・官規・任免七」(国立公文書館所蔵)によると、「醍醐忠順伊達宗城ノ大坂鎮䑓ヲ改テ大坂裁判所総督及副総督ト為シ…」と「坂」が用いられながら、同資料の後半では「今度醍醐大納言大阪へ下向ニ付…」と「阪」が用いられている。大阪府の公文書でも同様で、大阪府(権)知事:渡邉昇は、公文書に「大坂府権知事渡邉昇」と署名しながら「大阪府権知事渡邉昇」の官職印を押していた(同上、586頁)というから、両字の併用には、相当無頓着であったといわれる。「大阪」の用字が完全に定着するのは、明治43年頃であったようである(同上)。こうした理由から、本稿ではすべての表記を「大阪」で統一している。
[2] 本稿では、大阪府公文書館所蔵資料については、請求記号を〔 〕内に付しているので、参考にされたい。
[3] 以下の大手前庁舎に関する記述は、社団法人大阪府建築士会編『近代大坂の建築』(明治・大正・昭和初期)(1984年、ぎょうせい)35頁〔C2-0060-1674〕による。
[4] 読売新聞大阪本社社会部『実記百年の大阪』(1987年、朋興社)718~719頁〔C2-1995-39〕。
[5] 天野御民編『日本現法略』(風萍堂、1877年)第3章「太政官」第2款「正廳」の項、5~7頁参照。
[6] 『大阪府会史』第3編下巻(大阪府内務部、1933年)39~41頁〔C0-0059-2048〕。
[7] 『大阪百年史』(大阪府、1968年)302~303頁〔C0-0059-1903〕。
[9] 山中永之佑「明治前期における地方制度の展開―幕藩体制下の村から明治17年の改正まで―」(山中・中尾敏充・白石玲子・居石正和・飯塚一幸・奥村弘・馬場義弘編『近代日本地方自治立法資料集成Ⅰ』弘文堂、1991年)4頁〔C2-1994-2〕、山中永之佑『日本近代地方自治制と国家』(弘文堂、1999年)66頁。
[10] 前掲『大阪府史』第7巻554~577頁(担当:布施啓一)〔C0-1991-600〕。
[11] 『新修大阪市史』第5巻(大阪市、1991年)12~14頁(担当:家近良樹)〔C1-1996-49〕。
[12] 『国史大辞典』第9巻(吉川弘文館、1988年)688~689頁〔C2-1993-137〕。
[13] 「太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第二十六巻・官規・任免二」(国立公文書館所蔵)。
[14] 山中永之佑『幕藩維新期の国家支配と法』(信山社、1991年)247頁。
[16] 『明治十二年 明治天皇御下命「人物写真帖」―四五〇〇余名の肖像 三の丸尚蔵館展覧会図録No.61』(公益財団法人菊葉文化協会、2013年)39頁。
[17] 「公文録・明治元年・第十五巻・戊辰一月~己巳六月・諸侯伺(伊達遠江守宗徳)」(国立公文書館所蔵)。
[18] 堀田暁生「川口居留地の形成とその特徴」(堀田・西口忠共編『大阪川口居留地の研究』思文閣出版、1995年)5頁〔C2-1997-34〕。
[20] 『大阪府布令集』1(大阪府、1971年)20頁〔C0-0060-5〕。
[21] 『大阪市 旧大阪府庁舎跡―(仮称)阿波座駅前プロジェクトに伴う旧大阪府庁舎跡発掘調査』(公益財団法人 大阪府文化財センター、2012年)7頁〔C0-2012-92〕。
[22] 前掲『新修大阪市史』第5巻15~17頁。
[25] 「官職製ニ係ル府史料 明治元年~明治31年」〔B0-0059-31〕。
[26] 明治4年 11月27日の「県治条例」(太政官第623)により、県の長官の名称は知事から令あるいは権令に改められた。
[28] 堀田・前掲「川口居留地の形成とその特徴」5~6頁。
[29] 『大阪府警察史』第1巻(大阪府警察本部、1970年)66~74頁、176~183頁〔C0-0060-12〕。
[30] 前掲『大阪府布令集』1、428~430頁。
[33] 「大阪裁判所ヲ改テ大阪府ト為シ総督醍醐忠順ヲ以テ知事ト為ス」(「太政類典草稿・第一編・慶応三年~明治四年・第六十六巻・地方・行政区二」国立公文書館所蔵)。
[35] 「後藤元燁ニ大阪府知事兼勤ヲ命ス」(「太政類典草稿・第一編・慶応三年~明治四年・第三十一巻・官規・任免二」国立公文書館所蔵)。
[38] 井上正雄『大阪府全志』巻1(清文堂、1985年)5頁〔C2-0061-13〕。
[40] 山中永之佑監修『堺市制百年史』(堺市役所、1996年)90~92頁(担当:北崎豊二)〔C1-2000-178〕。
[41] 北崎豊二「明治十年代の堺県再置運動(一)」『堺研究』第23号、1992年、2頁〔C1-2001-90〕。
[42] 前掲『新修大阪市史』第5巻、18~19頁。
[43] 『狭山町史』第1巻(狭山町史編纂員会、1967年)649頁、『国史大辞典』6(吉川弘文館、1980年)470~471頁〔C1-2000-406〕。なお、同時期には、吉井藩(現、群馬県)も同様に廃藩となり、岩鼻県(同上)の管轄となっている。
[44] 北崎・前掲「明治十年代の堺県再置運動(一)」5頁。
[45] 北崎・前掲「明治十年代の堺県再置運動(一)」16~22頁、山中・前掲『堺市制百年史』121~123頁。
なお、建議の内容については、北崎・前掲「明治十年代の堺県再置運動(一)」20~22頁所収。
[46] 北崎・前掲「明治十年代の堺県再置運動(一)」、同「明治十年代の堺県再置運動(二)」『堺研究』第24号、1993年〔C1-2001-91〕。
[47] 北崎・前掲「明治十年代の堺県再置運動(二)」52~53頁参照。
[48] 氏名・就任期間等は、前掲『大阪百年史』1307頁による。なお、出身地の表記は、現在の府県名とした。
[49] 山中・前掲『日本近代地方自治制と国家』69頁。
[50] 『日本の歴代知事』第2巻(下)(歴代知事編纂会、1981年)235頁〔C2-0060-970〕。
[51] 中央の文武官と府知事・県令を比較しておこう。(一等官)は太政大臣・左右大臣・参議・大将、(二等官)は大補・大判事・中将、(三等官)は大警視・権大判事・少将、(四等官)は権大警視・中判事・大佐、(五等官)は中警視・権中判事・中佐などである。したがって、知事は大警視・少将と、権知事・県令は権大警視・大佐と、権令は中警視・中佐と同等となる。
[52] 明治4年10月28日、太政官第560号で定められた「府県官制」では、府県の長官は「知事」あるいは「権知事」とされていたが、同年11月2日、太政官第563号で「新置ノ県知事ヲ県令ト改ム」とされ、県知事は県令(権知事は権令)に改称された。
[53] 前掲『日本の歴代知事』第2巻(下)、235頁。
[54] 大森久治『明治の小学校』(泰流社、1973年)第2章〔C2-0059-548〕。
[56] 『大阪府教育百年史』第1巻概説編(大阪府教育委員会、1973年)〔C0-0060-8〕64~65頁。
[57] 同上、49頁、福島雅蔵『近代的「学校」の誕生―堺県郷学校のことなど』(創元社、1991年)42~44頁〔C2-1992-107〕を参照。なお、「小学校心得書」では、「男女席を別々にして、常に手習いにつとめ」などのように、封建的・儒教的色彩を残しつつ勉学の注意や心得などが示されていたようである。また、「学制解釈」では、学制の趣旨の解説や教育の必要性を説き、就学の必要性の周知徹底を図ったものであった。
[58] 前掲『大阪府教育百年史』第1巻52~65頁。
学区とは、文部省の計画に基づいて設定されたものである。文部省は、行政区とは別に、全国を8大学区に分け、各1大学区を32の中学区に、1中学区に210の小学区を設け、各学区にそれぞれの数の小学校設置を義務付け、全国に5万3000余の小学校を設立する計画を立てていた。大阪府は当初第4大学区に属していた(のち第3大学区に変更)(同上、52~53頁)。
[59] 前掲『大阪市 旧大阪府庁舎跡』7頁。
以下、江之子島庁舎に関する叙述は、特にことわりのない限り、同書による。
[60] 「大阪府庁新築」(太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第百二巻・地方八・地方官庁制置一)(国立公文書館所蔵)。
[61] 前掲『日本の歴代知事』第2巻(下)150~151頁。
[62] 川口居留地の整備などの詳細については、堀田・前掲「川口居留地の形成とその特徴」による。
[63] 前掲『実記・百年の大阪』、150~151頁。
[64] 井上・前掲『大阪府全志』巻1、281~282頁。
[65] 以下、建野の治績については、前掲『日本の歴代知事』第2巻(下)236頁。
[66] 大浦兼武の初代警部長抜擢については、前掲『大阪府警察史』第1巻、246~248頁を参照されたい。
[68] 松村博『大阪の橋』(松籟社、1987年)23~24頁〔C2-1991-15〕。
[69] 以下、小河の堺県政については、山中・前掲『幕藩維新期の国家支配と法』243~283頁、同「堺県の知事と住民―地方分権と自治の視点から―」『フォーラム堺学』第8集(堺都市政策研究所、2002年)124~133頁〔C2-2003-45〕による。
[70] 前掲『大阪府教育百年史』第1巻29頁、福島・前掲『近代的「学校」の誕生』36頁。
[71] 『堺市史』第3巻本編第3終(堺市役所、1966年)第87図版〔C1-0061-23〕。
[72] 前掲『明治十二年 明治天皇御下命「人物写真帖」67頁。
[73] 前掲『日本の歴代知事』第2巻(下)286頁。以下、税所篤の堺県政については、山中・前掲「堺県の知事と住民―地方分権と自治の視点から―」134頁以下、達については山中永之佑編『羽曳野史料叢書5 堺県法令集』1(羽曳野市、1992年)による。
[74] 山中・前掲「堺県の知事と住民―地方分権と自治の視点から―」134頁。
[75] 『国史大辞典』第11巻(吉川弘文館、1990年)467~468頁〔C2-1993-134〕。同書によると、薩摩藩では、明治初年の廃仏毀釈の運動が激しかったようである。税所の廃仏毀釈の徹底ぶりもまた、こうした薩摩藩での廃仏毀釈の激しさを表したものとも考えられる。
[76] 山中・前掲「堺県の知事と住民―地方分権と自治の視点から―」135頁。
[77] 福島・前掲『近代的「学校」の誕生』37~42頁。税所県政下の堺県の教育内容については、同書を参照されたい。
[78] 例えば、小河の治政時代には、堺県では明治2年10月25日に「窮民救助心得につき達」が出されている。この中では、「隣里村内ハ一体ノ思イ」をなすこと、窮民が出た場合窮民個人の「不仕合」=不幸と見て流すのではなく、村全体の「不仕合」と考えて救済することなどが達されており、小河の政治信条の一端を垣間見ることができる。
[79] 前掲『日本の歴代知事』第2巻(下)286頁。
[80] 「
堺県令税所篤免官并位階昇進ノ件」および「少書記官石黒務外二名福井県令其他ニ転任ノ件」(公文録・明治十四年・第二百七十二巻・明治十四年・公文録官吏進退内務省一月~三月)(国立公文書館所蔵)。
なお、吉田を税所のあとの堺県令とする説もあるようだが、明治14年2月2日、松方正義内務卿から三条実美太政大臣宛の資料(前掲「少書記官石黒務外二名福井県令其他ニ転任ノ件」)では、堺県大書記官の吉田をもって大阪府書記官へ仰せ付けられたいとされており、同年2月5日の「堺県令税所篤解官につき達」(山中永之佑編『羽曳野史料叢書5 堺県法令集』4(羽曳野市、1995年)264頁所収)も堺県大書記官吉田豊文の名で出されていることから、吉田は、堺県令にはならず、堺県大書記官として、堺県廃止までの事務を執り行い、大阪府合併に際して大阪府大書記官となったと考えられる。
[81] 以下の叙述は、ことわりのない限り、山中・前掲『日本近代地方自治制と国家』65~70頁による。
[82] 『新修豊中市史』第2巻通史2(豊中市、2010年)20頁(担当:中尾敏充)〔C1-2011-299〕。
[84] 井上正雄『大阪府全志』(清文堂,1985年)686~7
19頁、『大阪府布令集』2(大阪府、1971年)227~228頁。
[85] 東西南北の大組とは、従来の大阪三郷(北組・南組・天満組)が編成替えされたものである。大阪三郷は、明治2年6月4日の改正で四大組制に改められ、東大組(26番組―264町)・西大組(14番組―152町)・南大組(8番組―88町)・北大組(15番組―128町)となった(前掲『大阪百年史』197頁、前掲『大阪府布令集』1、160~176頁)。
[86] 前掲『大阪府全志』720~722頁、前掲『大阪府布令集』2、401~403頁。
[87] 「等内外巡査区戸長進退録 明治8年1月~12月」〔B0-0059-7〕。
[88] 前掲『大阪府全志』723~724頁、『大阪府布令集2』450頁。
[89] 以下の叙述は、山中・前掲『日本近代地方自治制と国家』84~85頁による。
[90] 前掲『大阪府全志』738~748頁、『大阪府布令集2』551~552頁。
[91] 前掲『大阪府全志』1064~1086頁、前掲『堺市制百年史』(担当:北崎豊二)93~95頁。
[92] 『羽曳野市史』第2巻(羽曳野市、1998年)501頁。
[93] 『東大阪市史』近代Ⅰ(東大阪市、1973年)38頁〔C1-0060-38〕。
[94] 前掲『大阪府全志』1086~1090頁。
[95] 被選挙資格は、原則20歳以上とされていたが、20歳未満であっても「人材名望アル者」には被選挙資格が認められたことは興味深い(前掲『羽曳野市史』第2巻、503頁)。
[96] 以下、堺県の大区小区制に関する叙述は、前掲『大阪府全志』1090~1189頁。
[97] 以上の叙述は、山中・前掲『日本近代地方自治制と国家』81頁による。
[98] 前掲『大阪府布令集』1、858~859頁。
[100] 前掲『大阪府布令集』2、398~399頁。
[101] 前掲『堺県法令集』1、344~345頁、北崎・前掲「県政期の堺」97~99頁。
[102] 山中永之佑編『羽曳野史料叢書6 堺県法令集』2(羽曳野市、1993年)349~351頁。
[103] 山中永之佑編『羽曳野史料叢書7 堺県法令集』3(羽曳野市、1994年)70~71頁。
[104] 山中・前掲『日本近代地方自治制と国家』85~86頁。
[107] 中央政府は、三新法体制への移行の一環として、明治10年7月29日、「県官任期令」(太政官第75号達)を制定している。その趣旨は、府知事・県令の任期の長期化と土着化を図り、府県人民の府知事・県令に対する親近感を植え付けようとするものであった。本稿で指摘したような、渡邉(第4代知事)や建野(第5代知事)、あるいは税所(第2代堺県知事〔令〕)の地方官としての長期間の治績は、この「県官任期令」によるところも大きい。
[108] 山中・前掲『日本近代地方自治制と国家』87~101頁。
【特別展示】
府庁本館移転後、初めて迎えた新春の2大特別展示として「大阪府庁舎本館が建てられた時代」と「平池家文書」いうテーマで実施いたしました。
「大阪府庁舎本館が建てられた時代」では、大阪府庁が大正15年(1926)に西区江之子島から現在の中央区大手前の地に、新築移転してきましたが、現大阪府庁舎が建設された時代の背景、大阪府の行政のあゆみ、大阪府を取り巻く当時のできごとなどを当館所蔵資料から振り返りました。
また、「平池家文書」は江戸時代に平池村(現在の寝屋川市域)で庄屋をつとめた平池家に伝わる古文書で、今回はこの「平池家文書」の一部を初めて公開し、江戸時代の人々のくらしを紹介しました。
期間中、464名の多数の方に御来館いただきまして、改めて御礼申し上げます。
〔開催日時〕
平成24年1月23日(月)~3月30日(金)
〔場所〕
大阪府庁本館1階・大阪府公文書館
【歴史説明会・体験講座&庁内見学ツアー】
特別展示に併せて、府政学習会の庁内見学ツアーとタイアップして、第一回は歴史説明会「大阪府庁舎本館建造時の歴史説明」、第二回は「初公開(平池家文書)の解説」、第三回は体験講座「古文書に親しもう」の企画イベントを、各回1時間ずつ行いました。
今回は、大阪府庁本館5階の「正庁の間」が初めて一般公開されたことから、この場所を利用して歴史説明会・体験講座を行いました。第1回の歴史説明会では、特別展示のテーマに沿って当館専門員が大阪府庁舎の変遷と大正末期の大阪の状況を解説しました。
また、第2回の「初公開(平池家文書)の解説」では、当館所蔵の平池家文書(江戸時代の庄屋文書)について当館専門員が古文書を解読しながら、当時の人々のくらしぶりなどを紹介しました。
第3回の体験講座「古文書に親しもう」では、株式会社工房レストアの代表取締役平田正和様より、古文書の保存や修復方法の説明を伺ったあと、参加者に裏打ちなどの修復作業を体験して頂きました。
今回のフェアは大阪府庁舎「正庁の間」の初公開に併せて府庁舎に関連する歴史や当館所蔵の平池家文書を解説するなど歴史に興味を持つ参加者にとっては素晴らしい一日になったものと思います。
(主任専門員 奥村由美男)
〔開催日時〕
平成24年2月7日(火)、9日(木)、15日(水)
〔場所〕
大阪府庁本館 正庁の間他
(参加者第1回:32名、第2回 29名、第3回 25名)
〈修復方法の説明会の様子〉
【参加者のご意見】
今回の歴史説明会・体験講座に参加された方からのご意見、ご感想等をご紹介します。
・面白い貴重なエピソードも聞くことができて、府庁舎を身近に感じることができた。
・指導に好感が持てた。古文書について読み書き等講演と講習を開いてほしい。
・古文書修復に興味があったので体験できよかった。
【親子歴史学習会】
企画展「大阪―新世界の歴史―明治から大正の新世界をふりかえる」をベースに、「大阪―新世界の歴史―新世界の誕生とにぎわい」と題する歴史学習会と大正時代の面影を残す庁舎の見学を通じて、大阪府の行政文書や大阪府の歴史を知っていいただくとともに、歴史を学ぶ面白さを存分に味わっていただきました。
当日は、定員いっぱいの13組、計25名の親子にご参加いただきまして、改めてお礼を申し上げます。
〈戦前の初代通天閣〉
平成24年(2012)、新世界は開設100周年を迎えました。この年の親子歴史学習会は、新世界のできる前から完成後に至る、大阪の発展・にぎわいについて、豆知識やクイズを交えながら、振り返りました。
20世紀のはじめ、大阪は日本を代表する商工業都市として発展してきました。このような大阪の発展を促したのは、明治36年(1932)に、今の天王寺公園と新世界の辺りで開催された「第5回内国勧業博覧会」でした。博覧会の西側の跡地が「大阪土地建物会社」を中心に「新世界」として開発が進められました。
大正元年(1912)、初代通天閣とルナパーク(遊園地)が開業し、今の新世界の形がつくられました。初代通天閣は、現在の2代目通天閣(100m)よりやや低い64メートルでした。当時においては、「東洋一」の高さを誇り、凱旋門の上にエッフェル塔を乗せた斬新なデザインでした。
ちなみに、
パナソニックの創業者、当時17歳の松下幸之助さんが、初代通天閣のイルミネーション工事に配線工として参加しており、10日間ほど通天閣の天井裏で暮らしていたというエピソードがあります。
初代通天閣は、新しいエレベーターが取り付けられており、展望台等の施設も完備したものです。当時はエレベーターを備える高いタワーはほとんどなかったので、エレベーターに乗ること自体が不思議な体験だったといわれていました。
また初代通天閣とルナパークのホワイトタワーの間にロープウェイが敷かれました。人を運ぶロープウェイは日本初でした。
ルナパークのホワイトタワーの下に、ビリケン堂が設けられていました。アメリカ発のビリケンさんは、幸運の神様と称され、ロープウェイとともに新世界の名物として広く親しまれることになりました。
初代通天閣とルナパークの開業と同時に新世界界隈には芝居小屋や映画館、飲食店などが数多く集まり、名実ともに大阪一の歓楽街として賑わいを見せるに至りました。さらに、大正4年(1915)には新世界に隣接して天王寺動物園も開園しました。このように、タワーを中心に、遊園地あり、飲食店あり、動物園あり、という新世界の街づくりは、大成功でした。
そのような中で、ルナパークは振るわず、大正12年(1923)に閉園となりました。昭和13年(1938)、初代通天閣は大阪土地建物株式会社の手から離れて、吉本興業に買い取られました。
また、昭和18年(1943)には、初代通天閣下部の「大橋座」という映画館から火がでて、それによってタワー全体がほぼ焼失してしまいました。戦争中ということもあり、初代通天閣は解体され、その金属が国に供出される運命をたどりました。さらに、昭和20年(1945)の大阪大空襲によって、新世界一帯は、壊滅的な被害を蒙りました。
戦争が終結した後、新世界は再び大阪ミナミを代表する歓楽街のひとつとして復興します。
この復興の背景には、「通天閣が消えて寂しくなった新世界を復興しよう」という地元の声がありました。それに応じるために、新世界の22の町会連合会役員の手によって、昭和29年(1954)に通天閣観光株式会社が立ちあげられました。そして、通天閣再建の計画も進み、昭和31年(1956)には現在の2代目通天閣が完成・開業しました。13年ぶりに大阪のシンボルが新世界に帰って来たわけです。この2代目は世界初の円型エレベーターを備えた、当時の時代の先端をいくものでした。
現在の新世界は、大阪を代表する観光地のひとつとなっています。
(公文書館専門員 謝 政德)
〔開催日時〕
平成24年8月22日(水)
10:00~12:00
〔場所〕
大阪府庁本館1階・第2共用会議室
〔当日の様子〕
〈当日の親子歴史学習会の様子〉
夏休み親子歴史学習会には、多くの親子の方々にお越しいただきました。
特設会場での歴史学習会では、新世界と通天閣の歴史について、クイズや豆知識などを交えながら、参加者の皆様とともに辿ってみました。
親子歴史学習会の終了後には、新世界と通天閣に関する公文書館の企画展をご覧頂きました。
〈公文書館の企画展見学の様子〉
当日は、学習会・企画展コーナーの見学とともに、大阪府庁舎の見学も行っていただきました。
〈大阪府庁舎5階の正庁の間見学の様子〉
「正庁の間」について詳しく知りたい方は、本号2ページ以下の「近代以降の大阪府の歴史-庁舎の変遷と制度を中心にー」をご覧ください。
【参加者のご意見】
今回の夏休み親子歴史学習会に参加された方からのご意見、ご感想等をご紹介します。
・新世界の歴史が詳しくわかりました。
・知らないことがたくさんあったので、歴史を知ることができて楽しかった。
・通天閣に行ってみたいと思いました。
・親子で新世界の歴史に触れることができ、とても楽しい夏休みの一日になりました。
【親子歴史学習会】
「中之島の歴史を散策しよう~親子で歩く!!中之島~」をテーマとした歴史学習と大正時代の面影を残す府庁本館の見学をしていただく、「親子歴史学習会」を平成25年8月23日に開催しました。
残暑が厳しい夏休みの後半に、11組計29名の親子にご参加いただきました。
学習会の内容は、パワーポイントを使って、大阪府庁本館から中之島まで疑似散策しながら、憩いの場、文化の拠点、官庁街、商業の拠点といった様々な顔を持つ中之島の成り立ちや歴史について、公文書館所蔵資料を見ながら、学んでいただくというものでした。
〔開催日時〕
平成25年8月23日(水)
13:30~16:15
〔場所〕
大阪府庁本館1階・大阪府公館
〈親子歴史学習会 庁舎見学の様子〉
【参加者のご意見】
今回の夏休み親子歴史学習会に参加された方からのご意見、ご感想等をご紹介します。
・昔の中之島が分かって楽しかったです。
・よい季節に歩きながらの説明もあれば楽しそう。
・タイムスリップしたような話、面白かったです。
・一度、中之島を歩いてみたい。
【古文書講座】
「古文書に親しもう」をテーマに、公文書館所蔵の江戸時代の庄屋である「平池家」の古文書を題材にした古文書講座を平成26年1月29日に開催し、56名の方々にご参加いただきました。
当日は、お寒い中にも関わらず府内各地から大阪府本館までお越しいただき、熱心に聴講されました。
講座の内容は、古文書を見たこと触れたことは ないが、興味があるという方を対象とし、公文書館が所蔵する古文書の概要説明、古文書の取り扱い方や、古文書解読の基礎知識などを学習していただく、古文書に親しむための入門編でした。
〔開催日時〕
平成26年1月29日(水)
14:30~16:30
〔場所〕
大阪府庁本館2階・第一委員会室
〈古文書講座の様子〉
【参加者のご意見】
今回の古文書講座に参加された方からのご意見、ご感想等をご紹介します。
・古文書がこんなにたくさん保管されているとは知りませんでした。
・古文書を通じ歴史の一端を教えて欲しかった。
・府の歴史について古文書等から説明があればと思う。
|
来館者数
来 館 者 内 訳 |
平成23年度 |
平成24年度 |
平成25年度 |
公文書総合センター ① |
19,732人 |
17,557人 |
16,003人 |
府政情報センター ② |
9,442人 |
7,258人 |
5,207人 |
公文書館 ③ |
10,290人 |
10,299人 |
10,796人 |
※「公文書総合センター」に、「公文書館」と「府政情報センター」を設置 ①は、公文書総合センター入口設置の自動計測入場者数、②は府政情報センター窓口受付数、①-②=③を公文書館来館者数とし、府政学習会の庁舎見学者等も含む。
閲覧申出等件数
内 訳 |
平成23年度 |
平成24年度 |
平成25年度 |
閲覧申出件数 |
308件 |
282件 |
356件 |
複写申出件数 |
236件 |
233件 |
330件 |
複写枚数 |
22,136枚 |
7,361枚 |
21,903枚 |
歴史的文書資料類の登録状況
分 類 |
累計登録点数 |
平成23年度 |
平成24年度 |
平成25年度 |
近世・近代資料等 |
7,552点 |
1点 |
0点 |
1点 |
府公文書 |
15,467点 |
10点 |
2,040点 |
105点 |
行政刊行物・官報・公報他 |
135,763点 |
5,461点 |
1,090点 |
1,292点 |
合計 |
158,782点 |
5,472点 |
3,130点 |
1,398点 |
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大阪府公文書館 利用案内
◆ 閲覧時間
・月曜日~金曜日 午前9時00分~午後5時15分
※複写申請は閉館の30分前までにお願いします。
◆ 休館日 ・土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
・年末年始(12月29日~1月3日)
公文書館は、主に府が作成・入手した公文書や資料類のうち歴史的・文化的な価値があるものを保存し、皆さんにご利用いただく施設です。
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