団体見学を希望される方は、公文書館へご連絡下さい。皆様のお越しをお待ちしております。
大阪府庁が建てられた大正時代(平成28年12月 歴史講座より)
はじめに ~ 大阪府庁竣工90年
現在の大阪府庁が出来て90年となる。竣工が大正15年(1926年)10月31日であり、この年は大正の終わり、同年12月25日から元号は昭和となった。
大阪府庁は現存する都道府県庁舎(旧庁舎を含む)では最古のものの一つで、もはや歴史的建造物となっている。かねてより大阪城を望む東館部分の耐震改修工事を進めてきたところ、今般その完成をみた。もともと、現庁舎建設の際は関東大震災直後ということで、一定の地震対策は施されており、阪神淡路大震災でも持ち堪えたのだが、一層の耐震性能の向上と老朽化した内装・設備の更新を実施した。これにより、大手前庁舎は1世紀を超えて存続することとなろう。
本稿は、耐震工事完了を機に開催された府政学習会(平成28年12月18日)において、府庁竣工の頃の時代背景を概説した際のものである。
現在の中央区大手前に大阪府庁が建つまで、大阪府庁は現在の西区江之子島にあった。地下鉄阿波座駅に近い場所である。周辺には川口外国人居留地や雑喉場の魚市があり、現在の様子とはずいぶん違ったものであった。
江之子島から大手前への移転は、行政事務の拡大に伴う庁舎の狭隘化を背景に計画立案され、大阪府会での決定は大正10年12月のことである。つまり、大正時代はまさに大阪府庁新庁舎の準備が着々と進められた時代ということができる。
大阪府庁の立地
大阪府が取得した府庁移転先の土地は、陸軍第四師団用地の一部であった。当時、大阪城周辺に広がる第四師団の兵舎や練兵所、さらに隣接する陸軍砲兵工廠も含めた師団全体の移転が盛んに論議されていた。この背景としては、資本主義の発達に伴い都市部の拡大と人口増加が進み、住宅難の解決に軍用地を利用したいという意向があったためである。また、流れ弾の多発などの住民の安全面の懸念等もあった。しかしながら、関東大震災の際の東京での騒擾を契機に、師団の移転は沙汰やみとなり、太平洋戦争を迎えた。その結果、終戦前日の大阪大空襲で砲兵工廠のあった京橋駅界隈は灰燼に帰すこととなる。
大手前の現庁舎は上町台地北端という安定地盤の上にある。国土地理院の土地条件図を見ても、大阪市内を南北に延びる太古からの陸地である上町台地の突端に大阪府庁が位置することがよく判る。
大阪市は淀川、大和川の沖積平野に市域が広がっているが、歴史的には両川は合流し大阪湾に注いでいた。大和川の付け替え工事が完成したのは 宝永元年(1704年)と、さほど古い時代ではない。上町台地の東側は北行する大和川水系の低湿地であった。
ちなみに、この大和川付替事業の推進役であったのは、河内の農民、中甚兵衛であり、付替地点の柏原市安堂には彼の像が建っている。大阪府公文書館では、中甚兵衛の生家とも言われる東大阪市今米の庄屋、川中家の文書を所蔵している。
大正時代の日本と世界
人類史上初めての総力戦と呼ばれる第一次世界大戦が勃発したのは大正3年(1914年)のこと、戦争中に起きたロシア革命に続き、社会主義国家としてソビエト政府が誕生したのは大正6年(1917年)である。大戦の反省から平和への協調を目指して国際連盟が大正9年(1920年)に発足するという、振幅の極めて大きな世界情勢であった。
日本国内に目を転じると、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパから遠く離れていたこともあり、国力の消耗を免れるばかりか、戦時下の好況により資本主義の発達をみるという側面もあった。大正7年(1918年)の原敬内閣により政党政治の枠組が作られたことも特筆に値する。世にいう大正デモクラシー揺籃の時を迎えた。
一方で、都市農村の格差拡大による社会の歪みも拡大し、全国各地で米騒動が発生するに至った。そこに起きたのが大正12年(1923年)の関東大震災である。大災害がもたらした深刻な不況、そのような中で大阪府庁の移転が企図された訳である。
大正時代の大阪
近年、日本における大阪の経済面での地盤低下が取り沙汰されて久しいが、大正時代には関東大震災の影響による相対的な地位上昇に加え、産業振興も相俟って大阪の存在感は大きなものがあった。就中、關一市長を戴く大阪市の発展ぶりは、市域の拡大により東京市を凌ぐ人口となるとともに、交通体系の整備など、目覚ましいものがあった。南東の一部地域、湾岸の埋立地を別とすれば、既にこの段階で現在の市域とほぼ等しくなった。
大阪府政に目を転ずると、方面委員制度(現在の民生委員の魁)に象徴される社会政策に特質がある。また、後述する予算三部制ならびに郡役所の廃止に見られる行政機構の簡素化など、大正時代に実施された事柄も数多い。
大正時代の大阪府知事
大正時代の大阪府知事は、第14代の大久保利武知事から第19代の中川望知事まで6名である。この頃の知事は新憲法下のような公選ではなく、国が任命する官選知事であった。6名の知事の経歴を見ると全員が各地の知事を歴任したあと大阪府に赴任している。また、大阪府出身者は皆無である。在任期間をみると、5年弱の大久保知事が最長で、土岐知事に至ってはわずか3か月という短期間である。同時期の大阪市長は、池上四郎(大正2年10月~大正12年11月)、關一(大正12年11月~昭和10年1月)の2人で、それぞれ十年以上も市長を務めたのとは対照的である。
在任期間の長短もあって、各知事の事績にも多寡があるのは否定できない。この時期で最長となる大久保知事は法学博士である小河滋次郎を府の救済事業指導嘱託として招き、社会政策の拡充への道筋をつけた。小河博士は次の林知事の代にも留任し、現在の民生委員制度の淵源にあたる方面委員制度を創設するに至った。
池松知事の時代は大阪府庁舎新庁舎の建設が決定したときである。同知事は府立学校の増設、寝屋川の改修などの事績を残した。その後、井上知事、土岐知事、中川知事と続き、短期間で知事が頻繁に交代するという時期となる。井上知事は衆議院議員と兼務(現在は国会法第39条で禁止されている)という変則的な状況、土岐知事は在任中に発生した関東大震災への海運による救済支援活動への傾注が目を引く。
米騒動(大正7年)、戦後の反動不況(大正9年)、震災(大正12年)と続く社会情勢激変の時代に、首長が次々と代わる事態は府議会でも問題視され、中川知事の着任後の府議会では異例の内務大臣宛ての意見書が採択されている(後に撤回)。曰く、「近來我大阪府知事ノ屢々更迭アルハ府政上遺憾尠カラズ爾今相當ノ考慮ヲ拂ハレンコトヲ望ム」。これは一年間に4人目の知事を迎えるという時期のことであり、国の府政運営に対する府議会の不満、懸念の様が窺える。
こうした時期を経て中川知事の時代、大正の終わりに現在の大手前庁舎が竣工する。以来90年、大手前庁舎は大阪大空襲でも被害を免れ現在に至り、今般の改修工事を迎えたわけである。
明治から大正にかけての郡制度
大正時代の大阪府行政において特徴的なものに、大正末期に実施された「郡役所の廃止」と「三部制経済の廃止」がある。これらは、明治時代から続いた行政の枠組変更であり、その後に大きな影響を与えることになる。「郡」をキーワードに、この大正期の行政改革を振り返ってみたい。
現在においては、行政の分野で「郡」という上の名称を意識することはほとんどない。各種の行政サービスの担い手である市町村は日常生活で最も縁が深いものであるし、県民性などで話題になることも多い都道府県も、教育機関や公共施設の設置主体として馴染みがある。
ところが、「郡」となると、市域に暮らす人には無縁だし、町村域に暮らす人にとっても、郡の行政窓口があるわけでもないので、県内のやや広い地域名称という受け止め方だろう。郵便の宛先にことさら郡名を書かなくとも問題なく届くのは周知のとおりである。
ところが、大正時代には「郡」はれっきとした行政機関であり、郡役所も存在した。町村と都道府県の間の組織が実体を伴い、行政が三階建てになっていた訳である。
もともと律令制の統治機構として郡が始まっているので「郡」の歴史は長い。時代を経て形骸化が進み、現在のような地理的名称に過ぎないものとなった。「郡」が復権を遂げるのは、明治11年(1878年)の「郡区町村編制法」制定によって国の行政組織の一つに位置付けられた結果である。爾来、大正10年(1921年)に「郡制廃止法」が公布されるまで、約半世紀にわたり「郡」が行政の一翼を担った。
遅かった大阪府の郡制
大阪府で郡制が施行されたのは明治31年なので、法律の制定から20年も経過している。これは、郡制の実施には前提となる体制の整備が必要なため、ある程度の移行期間が必要だったためである。
つまり。郡制への移行は、先ず町村制を施行している府県であることが必要で、内務大臣訓令によって町村制施行のためには町村・郡の統合・再編成を経ることが必要とされていたからである。
従来の郡は地域的には狭く、かつ錯綜していたため、財政基盤の面からも郡の統廃合が必要ということで、強力な行政指導により「明治の大合併」が進められたわけである。その結果、全国の町村数は従前の約1/5になった。大阪府についても、それまで27あった郡が1/3に集約されることになる。
こうして、ようやく移行した郡制だが、もう大正10年には郡制廃止法が公布される。こちらも移行期間を経て、大阪府では2年後に郡会が廃止される。さらに3年後に郡長と郡役所も廃止となる。結局、大阪府で自治体としての郡が存在したのは30年足らずということになる。
行政組織としての郡のすがた
行政機構としての郡は町村の上位に位置し、郡長、郡会が設けられた。郡会議員は町村会議員による選挙と大地主の互選により選出される仕組となっていた。郡長は選挙によらず、知事の任命によるものであった。したがって、府民が選挙で選ぶのは町村会議員または市会議員となる。女性に参政権はなく、男性も一定金額以上の納税者に限られた。
町村会議員については二級選挙、市会議員については三級選挙という仕組になっており、納税額により1級から2級または3級にランクされた有権者が、それぞれ定数の1/2あるいは1/3を選ぶという制度である。府会議員については直接選挙ではなく、市会と郡会による選出、つまり複選制が敷かれていた。制度上、有力者の意向が選挙結果に反映されやすいという仕組になっていた。また、この時代の知事は中央政府の任命であるため、郡部について見ると、中央政府~知事~郡長~町村長というヒエラルキーが顕著であった。一方の市長も内務大臣が選任するため、中央政府の意向が知事・郡長・市長を通して地方自治をコントロールできる仕組であったと言える。
大阪府に設置された郡
この時に実施された郡制では、大阪府はどんなふうになっていたのか。それを示すのがこの地図である。
大阪府には9つの郡が置かれた。表の各郡の名前の後の町村名は郡役所が置かれたところを示している。現況欄に示すように、傘下の町村の市昇格に伴い4つの郡が消え、現存するのは5つの郡である。残った郡についても市域が拡大し、大正時代の郡からは領域がはるかに縮小している。
短命だった郡制度
郡制についての批判は当初からあり、実施後も事業規模として町村にも及ばない状況が続き、存在意義が疑問視された。帝国議会での二度にわたる法案は審議未了となったものの、大正10年の郡制廃止法の成立となる。その結果、大阪府の郡制は30年足らずの短命に終わった。その理由は、次に列挙するようなところになる。 自治体としての郡は府県や町村より後発であり、住民に郡という単位での自治意識、帰属意識が希薄であった。② 府県と町村の中間に位置する郡として実施すべき事業については、既に府県や町村により対応されていることが多く、郡が担う行政分野は限定的であった。③ 面積や人口規模の面で、郡の下での町村の規模が相対的に大きく、郡の上位の府県は相対的に小さいという状況で中間的組織の存在意義が小さかった。郡が地方自治体として行政の表舞台にあった時期は明治から大正にまたがる一時期に止まる。皮肉なことに、「平成の大合併」に際して隣接市町村が統合された結果、昔の郡に近い領域に拡大し、旧郡名が市名として復活した事例も散見される(兵庫県宍粟市、千葉県匝瑳市、宮城県登米市など)。かつての郡で問題視された広域の自治体への住民帰属意識という点は古くて新しい問題と言える。
三部経済 ~ 府財政における市部と郡部
大阪府においては、大正12年(1923年)に郡会を廃止し、大正15年(1926年)に郡長と郡役所の廃止を実施した。これを以て、行政機関として「郡」の実体が消滅することとなる。
これに先立つ大正14年(1925年)に府予算の三部制(三部経済とも呼称される)が廃止されている。ここでは府予算の三部制における「郡部」について見てみたい。
行政機関である「郡」とは実施期間が重なっており、そもそも言葉の類似のために混同され易いが、これらは別の次元の概念である。行政単位としての「郡」、都市部と対比したときの「郡」部、大正時代の「郡」には二通りの意味合いがあるので注意を要する。「郡役所」は前者の枠組であり、三部経済は後者の範疇となる。
三部経済の実際
三部経済は、明治13年以降、郡部と市部との事情が乖離し受益負担が不均一となる府県で実施されたもので、大都市を抱える大阪府、東京府、神奈川県、広島県、京都府、兵庫県、愛知県の7府県で実施された。
三部経済の実施期間は明治14年から昭和15年に及ぶが、府県によりその期間は異なり、大阪府では明治14年から大正14年と、比較的短い期間だったことが判る。
大阪府は最も早く大正の終わりに制度を廃止し、他の府県も昭和の初期には廃止に至っている。この表では広島県が短い期間実施されているのが目を引くが、日清戦争が起きた明治27年には広島に大本営が置かれ、明治天皇も一年近く滞在したといった重要地であったことも背景にある。
上の表は、大正11年に例をとって、市部と郡部の負担割合を示している。予算規模で言うと、市部は郡部の約2倍で、かつ府下のもう一つの市である堺市は郡部に含まれるため、大阪市の規模が圧倒的である。市部、郡部での税収等の歳入のうちから、市部・郡部の共管となる事業のために「連帯」に予算を回すというやり方で運営されていた。大正11年においては、市部から260万円、郡部から170万円、合わせて430万円が連帯予算に回っていることが判る。負担比率では、6:4である。
当時の池松知事が議会で予算案の説明をおこなったとき、ポイントとして述べているのは次のような内容である。
連帯部では、道路改修土木費、師範学校拡充、機械工業奨励施設、メートル法統一準備、警官増員。
市部では、高等女学校増設・改築、図書館増築、私立学校補助費、河川浚渫、海外貿易・同業組合振興、派出所増設、消防費増強。
郡部では、道路・橋梁改修、寝屋川改修、中学校開校、農学校移転、農業試験場設備。
各部で道路・河川などの土木関係事業が多いことに加え、教育関係のインフラ整備に力を入れていることが判る。
三部経済の廃止
この「三部経済」についても、制度が始まったころから批判的な声が多く、廃止論が絶えなかった。
連帯部があることで、市部と郡部からそこへの拠出が必要になるとともに、予算管理が三分割となって大変煩わしくなるという実務的な問題に加え、市部と郡部では予算の使い道や負担の在り方で、何かと利害対立が起きやすいという弊害があった。
もともと、郡部と市部の状況が異なることで導入された制度だが、経済発展に伴い郡部の都市化が進んで行くと、市と郡の関係が緊密になり、その格差も縮小する傾向が明らかになった。大阪府では大正14年4月に東成郡、西成郡が大阪市に編入されたことで、市域が大きく広がり、この傾向に拍車をかけた。
そして、最終的に三つに分けて予算管理をする意味合いが薄れたということで、三部経済の廃止に至る。大阪府が他府県に先駆けて廃止に踏み切ったのは、大阪市域が拡大された大正14年のことである。
その結果、これまで大阪府会のなかに、郡部会、市部会と別れていたものが消滅し、府会一本に統一されることになる。それまで実施されていた事業については、市部での継続事業はなく、郡部の農学校建築、寝屋川第二期改修工事等は継続事業とされた。
つまり、大正時代の終わりとともに、行政機関としての郡も、府予算の三部制(三部経済)も終焉を迎えることになる。
おわりに ~ 大正時代関連の企画展示
もはや大正生まれ世代が少数となった現在、研究者や歴史好きの人を除けば、この時代と縁遠くなったことは否めない。大阪府公文書館では、府庁竣工90年周年を記念し、平成28年度は大正時代関連の企画展示を行った。下期には別稿で書かれているとおり、「モダン建築と庶民生活」をテーマに、当時のようすを表す多数のビジュアル資料を供覧した。現在につながる大変化が起きた時代を、多数の来館者の方々に感じとっていただけたのではないかと考える。
(公文書館専門員 的場 茂)
平成28年度 古文書講座フォローアップ
はじめに
公文書館では、平成28年10月7日(金)、14日(金)の2日間にわたって「古文書講座 願書」を開催しました。本稿はさらに理解を深めていただくために補足説明をするものです。なお、講座当日に配布したテキストと解答は、大阪府公文書館のホームページからダウンロードできますので、ご参照ください。
1.古文書の紹介
本項では、教材に用いた「乍恐書付を以御願申上候」(KZ-0004-60)を紹介します。まず、この古文書は、当館所蔵の「川中家文書」という古文書群に属する古文書です。この「川中家文書」は、河内国河内郡今米村(現在の東大阪市今米周辺)で代々庄屋をつとめ、宝永元年(1704)の大和川付替工事の実現に尽力した、中甚兵衛にゆかりのある川中家に伝わってきた古文書群で、明治期のものも含めた6000点あまりが、昭和60年9月に当館に寄贈・寄託されました。
「乍恐書付を以御願申上候」は「願書(ねがいがき)」と呼ばれる史料で、村・農民から村役人・領主に、許可を得るために提出されたものです。願書には差出人の名前の下に押印されます。控えや下書きの場合は、押印の代わりに「印」という文字が書かれています。
今回の願書は、河内郡日下村池端にある春日神社の修復にともない、春日神社の別当を務める神宮寺と日下村の村役人が、大坂町奉行所へ修復許可と台帳の記載内容の訂正依頼のために提出したものです。したがって、川中家がある今米村に直接関係のある古文書ではありません。おそらく、同様の事例が今後発生した時に備えて今米村の庄屋が書き写したのではないか、と考えられます。そのため、差出人の名前の下には「印」の文字が書かれていません。
また、一見、基本的な願書のように見えますが、願書の返答にあたる大坂町奉行所の寺社役人の文言が奥書のさらに奥に書かれているため、どういった性格の古文書なのか、初見では判断が難しい体裁になっています。
2.「乍恐書付を以御願申上候」について
「乍恐書付を以御願申上候」に書かれている文字は、クセがあるようにも見えますが、全体的に基本的なくずし字で書かれているため、本講座は初級者向けとしてご案内しました。
本項では、判読のポイントを紹介します。特にことわりがない限り、挿入画像は古文書のものです。
まず表題の「乍恐」です。「乍」の形は、右図上もしくは右図下「作」の旁(つくり)にあるような形で書かれることがほとんどです。したがって、覚えてしまうと「乍」、「作」、「昨」などに応用できます。
次に、よく似た形の文字を紹介します。
はじめに、「当」、「両」、「番」です。「南」もよく似た形で書かれていますが、文脈から判断しやすい文字なので、参考までにあげておきます。(下図左から「当」、「両」、「番」、「南」)
「当」と「両」は、旧字体の「當」と「兩」で考えるとイメージしやすいでしょう。まず起筆に注目すると、「当(當)」は縦棒から、「両(兩)」横棒から始まっています。まずはここで判別できます。そして「両」は「兩」の「入」が1個に省略されて書かれています。一方の「当」は、「當」の「田」の部分に「此」のくずし字に似たものが書かれています。
ところで、「當」と「番」は「田」の部分が全く違う形で書かれていますが、これは、「當」は「小」「ワ」「口」「田」、「番」は「米」「田」で構成されており、また、「当」は「小」、「番」は「田」が部首といった違いがあるためです。
今回の古文書は本文1行目に「別当」という言葉あるので比較できますが、どちらか一つしかなく文字だけで判別できない場合は、文脈から判断します。例えば本文3行目3文字目ですが、この場合、「宮」という文字が後に続くので、「当宮」もしくは「両宮」となります。さらに「共」と続くため複数系であることが推測でき、「両宮共」となります。 次に、本文2行目「氏神」の「氏」と、本文5行目「此末社」の「此」です。こちらもよく似た形で書かれていますが、起筆に注目すると、右図上の「氏」は左払いから、右図下の「此」は縦棒から始まっていることがわかります。
差出人の「善根寺村」の「寺」と、奥書の「本多豊前守内」の「守」も、大変よく似た形で書かれています。1画目2画目に注目すると、右図上の「寺」は「土」、右図下の「守」は「ウ」(実際は「ワ」になっています)から始まるので、1画目から2画目へ向かう筆の運びが異なっています。今回の古文書には出てこなかった「専」(右図)
1も大変よく似ているので、3つあわせて覚えておくとよいでしょう。
最後に人名です。
紛らわしいのは「右衛門」と「左衛門」でしょう。上図の左2人が「左衛門」で、真ん中の2人が「右衛門」です。この2つを区別する方法は、矢印の箇所「○衛門」部分の1文字目、2画目が左払いから右に真横へいくのか、左払いから右上へ上がるのか、に注目します。前者が「右」、後者が「左」になります。「衛門」の部分は、「衛」が原型をとどめていないことがほとんどのため、最後の文字が「つ」のようになっていれば「門」と判断でき、「門」が最後にくる人名は「右衛門」か「左衛門」と考えてよいでしょう。
上図の右端「松本儀太夫」ですが、「夫」という字が最後にあるので「太夫」という名前だと判断できます。しかし、字面だけみていると「太」が「左」にもみえる書き方がされています。
したがって、右から2番目の「生駒」の下の名前は「彦太右衛門」と考えられます。「生駒」という名前は、『浪花袖鑑』
2では確認できず、「河内国日下村庄屋長右衛門記録」
3のこの春日宮の屋根修復に関する資料では、「生駒彦太夫」という人物が確認できます。また、「寺西勝左衛門」は、『浪花袖鑑』には「寺西諸左衛門」とあり、「生駒彦太右衛門」と「寺西勝左衛門」は、今回の古文書を書いた人物が書き間違えたものだと推測できます。
さて、先ほど「つ」のようになっていれば「門」になると述べましたが、「門」がある「間」や「聞」は右図のようになります。そして「門」の中の文字が大きくなるのが特徴です。 本文1行目や本文4行目にあるように、「者」が「先」のように書かれています(右図)。しかし、「春日宮之儀」から「元来私別当」や「八年以前丑年」に続くという文脈から考えて、「先」ではなく「者」とするのが妥当でしょう。このように、文字だけでは判断できない場合は、文脈から判断することも大切です。
おわりに
教材として使用した古文書は、全体的にクセが少なく、基本的なくずし方で書かれているため、基礎固めに反復練習することをおすすめします。
今回はこの願書を作成した日下村の庄屋の、同時期の史料を参照したことで、願書の内容や書かれた経緯などが明らかになりました。このように、1つの古文書を読み込むだけでなく、他の史料と突き合わせることで、古文書が書かれた当時の人々の姿がより鮮明になり、古文書に親しみが出ることと思います。
(公文書館専門員 市原佳代子)
(注)
1 児玉幸多編『くずし字用例辞典』(東京堂出版、平成14年)より引用。
2 大阪市史編纂所『難波雀・浪花袖鑑―近世大坂案内―』大阪市史史料第53輯、平成11年。享保13年(1728)5月に刊行された、大坂城代や奉行などの幕府役職だけでなく、三郷の惣年寄、問屋や職工、飛脚など、武家から商家の所付けが掲載されている冊子。
3 森長右衛門編著/日下古文書研究会編『日下村森家庄屋日記』享保十三年度、日下古文書研究会、2005年。
平成28年度 古文書講座アンケート結果について
平成28年10月7日(金)、14日(金)の2日間にわたって開催した「古文書講座 願書」では、延べ91名の方のご参加をいただきました。その際、アンケートを実施し、参加者の皆様からのご意見、ご感想をお聞きしました。
その集計・分析について、次のとおり取りまとめましたので、概要を報告させて頂くとともに、今後の古文書講座等の充実に向けての検討に役立てて参りたいと思います。
■参加者■
10月 7 日(金) 48名
10月14日(金) 43名
■アンケート実施日■
10月14日(金) 42名提出
■設問1■あなたの性別を教えてください。
男性 21名 / 女性 21名
■設問2■あなたの年代を教えてください。
30歳代以下 1名 / 40歳代 3名
50歳代 6名 / 60歳代 18名
70歳代以上 14名
設問1と設問2をグラフ化すると、下図のとおりです。
平日昼間の開催ということもあり、参加者の過半数が60代以上の方です。今回、全体では男女同数でしたが、60代までは女性の割合が多いという特徴がありまし
た。また、ご夫婦で参加された方が昨年より増えたような印象でした。
■設問3■今回の講座を知られたきっかけは何ですか。
府のホームページ(催し案内) 21名
ツイッター 2名
公文書館のホームページ 2名
友人・知人 8名
その他 7名
(メール 4名 / fax 1名 / 未記入 2名)
未回答 1名
今回は発行時期や紙面の制約から、紙媒体の「府政だより」には掲載できませんでした。そのため、府のホームページ、ツイッター、公文書館のホームページといったインターネットを用いて情報を得られた方が約6割、友人・知人から情報を得た方が2割いらっしゃいました。また、事前に登録いただいたメールアドレスやfax番号での講座案内で情報を得られた方もおられました。
■設問4■今回初めて2回(2日間)連続講座を試行しましたが、いかがでしたか。
良かった 24名 / やや良かった 11名
普通 4名 / やや良くない 0名
良くない 1名 / 未回答 1名
毎年、「回数を増やしてほしい」という声を多くいただいていました。そこで今回、試行というかたちで初めて連続講座を開催しました。1日目は古文書の基礎的な内容について、2日目は古文書の解読、という構成としました。例年、古文書の解読は参加者の皆さんに初見の状
態で取り組んでいただいていましたが、今回は宿題として事前に目を通していただくことにより、さらに理解を深めていただけたのではないかと思います。
■設問5■今回の講座の内容は難しかったですか。
難解 2名 / やや難解 15名 /普通 21名 やや平易 3名 / 平易 0名
今回の古文書は、一紙もの、「願書」という基本的な形式、クセが少なく基本的なくずし字を用いて書かれているという点に重点を置いて選びました。6割近くの方が「普通」「やや平易」と回答されていることから、教材に選んだ古文書の難易度はちょうどいいレベルだった思います。
その一方で、約4割の方が「難解」「やや難解」と回答されているため、講座の内容やレベル設定に工夫が必要だと考えています。
■設問6■今後、公文書館の講座として取り上げてほしいテーマや、ご意見、ご感想について、ご自由にお書きください。
≪今後講座で取り上げてほしいテーマ≫
・大坂の近世経済史。近世大坂の経済・政治などの資料とともに解説してほしい。
・巡見使について。村々の様子、役人、庄屋等、周辺の状況について。
これらの他にも、戦国武将や豊臣秀吉の頃の書簡、浄瑠璃丸本の読み解きや世話物のようなくだけたものの解読を希望される声もありました。
また、歴史講座に該当するテーマとして、大阪の私鉄・国鉄の発達、大阪府成立の歴史、府内の個別地域の歴史、所蔵資料の解説、戦時中の事、船場ことば、なつかしい大阪弁などの希望がありました。
≪ご意見、ご感想≫
・従来通りの資料で今までの様な講義で良い。例とか数を増やして慣れて読めるようになりたい。
・くずし字についてもっと教えてほしい。やはり動画は必要。
・古文書が書かれた当時の文書における約束事・慣習等の説明が欲しいです。欠字、平出、台頭は参考になった。
・実践編の最後に、文書全体を通読してほしかった。
・説明の仕方、教え方をもう少し一考願います。
・学び方や基礎がある程度わかったのでよかった。
・解説がゆっくりだったので、わかりやすかった。
・よく学べた。もっと読みたいと思った。
・古文書講座が初めてなので難しかった。
・とても楽しかったです。
・2日間での実施の方が良い。今回は多少理解できた。(前回が初めての古文書講座)
・2回で宿題があったのが良かった。より身近に古文書を感じることができたと思う。
・2回の講座で時間的にもちょうどよかった。
・古文書講座中級編。大阪府の歴史等の古文書があればベター。
・古文書講座の回数を増やしてほしい。
・継続的なコース(5~10回)を希望。
・古文書を解読してホームページで公開してほしい。
・平池家文書も取り上げてほしい。
今回初めての試みだった2回連続講座ですが、事前に古文書に目を通す時間や解説の時間に余裕ができたため好評でした。アンケートのご意見を参考にして、より充実した古文書講座につなげたいと思います。
(公文書館事務局)
平成28年度 大阪府公文書館企画展を振り返って
■はじめに
大阪府公文書館では、大阪府の歴史に関連する題材をテーマに所蔵資料を用いて企画展示を開催しています。これは、公文書館に足を運ばれた府民の皆様に、歴史的価値のある公文書を収集・保存することの重要性を理解していただくために実施するものです。
■第1回企画展
平成28年4月1日から同年9月30日まで、「大阪府庁が建てられた時代 大正時代の大阪~郡役所の廃止~」をテーマとする企画展を開催しました。
大阪府庁本館が竣工した大正時代、大阪府は現在の民生委員制度の前身となる方面委員制度を立ち上げ、増大し続ける行政事務に対応するために大手前庁舎の新築を行いました。さらに、三部経済制と郡役所の廃止も行い、財政負担を公平化するとともに、行政機構の効率化を図りました。第1回企画展は、このような大正時代の様子を公文書館の行政文書から振り返りました。
本資料は、明治11(1878)年の郡区町村編制法によって設置された「郡」という行政区画が、大正15(1926)年に廃止された際に作成された事務文書書類の綴りです。
大正12年4月、郡制が廃止され、郡長・郡役所は、自治体としての性格を失い、行政官庁として存続することになりました。しかし、自治体としての性格を失った郡長・郡役所の必要性は、ますます低下し、同15年6月4月の閣議決定により、郡長・郡役所は、廃止されることになりました。
三部経済制は、明治14(1881)年2月、太政官布告第8号の「三府神奈川県郡部会規則」により導入されました。これは、東京・京都・大阪三府および神奈川県では、府県会を区部(都市部)会・郡部(農村部)会に分けるというものでした。
明治11年の「地方税規則」では、地方税を区部・郡部(都市―農村)を問わず一様に徴収する規程となっていました。これによって、府県全域にわたる行政費は、府県会で議論し、都市部のことは区部で、農村部のことは郡部で議論することとなりました(例えば、道路が未整備の農村の道路整備に要する費用を都市域の住民が負担するのはおかしい、都市部で不足する緑地公園整備費を農村住民が負担するのはおかしい、といったもの)。
大正期に入ると、第一次世界大戦を契機に日本資本主義が発展し、文化・インフラ整備が進展するなか、都市農村の境界線が現実的に曖昧になり、区部・郡部の分離が却って、議決機関内において各部の利害対立を引き起こし、自治体の隣保相助、共存共栄を損ない、国益に反するという趣旨で、三部経済制は廃止されました。
大阪府の三部経済制の廃止は大正14年4月1日で、神奈川(昭和2年)、京都・広島(昭和6年)、東京(昭和7年)に先立つ最も早い時期の廃止でした。
■第2回企画展
平成28年10月1日から平成29年3月末まで、「大阪府庁が建てられた時代 大正時代の大阪~モダン建築と庶民生活~」をテーマとする企画展を開催しました。
大阪府庁が建てられた大正時代の大阪は、新世界や千日前、道頓堀などの繁華街が活気に溢れ、人々がいきいき暮らした時代でした。現在の大阪府庁本館をはじめ、旧大阪ビルヂングや旧大阪市役所などのモダン建築が大正時代の大阪のまちに続々と建設されました。第2回企画展は、こうした大正時代の大阪の様子を、『大阪府写真帖』(大正3年[G0-2006-6])、『大阪市大観』(大正14年[G0-2006-7])や「大阪市パノラマ地図」、その他の写真や地図で大正時代の大阪を振り返りました。
大正時代には、市庁舎を中心とする中之島付近一帯は「公館区」と呼ばれていました。大阪市役所、府立図書館、中央公会堂、日本銀行大阪支店などはここにあり、堂島川を挟んで向かい側には、大阪控訴院、堂島ビル、堂島米穀取引所などが林立していました。
明治37(1904)年に大阪府初の図書館として開館し、すでに100年を超えています。平成8(1996)年に東大阪市の大阪府立中央図書館に主要な機能が移った後も、中之島図書館への大阪人の愛着は強いものがあります。
明治33年、大阪府会で図書館建設予算約5万円について審議中、住友家から建設費と図書購入費25万円の寄付を受け、緑のドームと玄関のギリシャ風列柱が特色の明治中期を代表する建築が誕生しました。昭和49(1974)年には国の重要文化財に指定されました。
明治44年2月、大阪市会において、新庁舎の位置は「本市ノ経済上及社交上ノ中枢ニ位シ且全国交通ノ要衝ニ接セル中之島公園」として現在地を選定、設計は懸賞公募されました。一席となったのは台湾総督府技師の小川陽吉で、これを基に片岡安らが実施設計を行い、大正10年5月、鉄骨・鉄筋コンクリート、地上5階・地下1階、約2万900平方メートルの新庁舎が竣工しました。塔矢まで約52mあり、当時では市内で最も高いビルでした。昭和57(1982)年12月、現在の庁舎と交代しました。
■おわりに
今後とも、このような企画展示を開催し、府民の皆様に親しまれ、身近な公文書館となるよう努力していきたいと考えておりますので、一層のご協力、ご支援をよろしくお願いいたします。(公文書館専門員 謝政德)
■参考文献
山中永之佑『近代日本地方自治制と国家』
大阪市『写真でみる大阪市100年』
サンケイ新聞『写真集 おおさか100年』
第31回 公文書館運営懇談会
平成28年12月15日(木)午後2時30分から4時まで、大阪府公館におきまして、第31回大阪府公文書館運営懇談会を開催いたしました。
下記議題につきまして、意見交換をさせていただきました。
【委員】 5名
川崎 和代(大阪夕陽丘学園短期大学
キャリア創造学科教授)
佐賀 朝 (大阪市立大学 大学院文学研究科教授)
中尾 敏充(奈良大学 教養部教授)
三阪 佳弘(大阪大学 大学院高等司法研究科教授)
三成 美保(奈良女子大学 研究院生活環境科学系教授)
(三成委員は今回欠席)
【議事】
1.公文書館の運営状況について
2.レファレンスの概要について
3.公文書館、府庁本館5階への移転について
傍聴者0名
大阪府公文書館 利用案内
◆ 閲覧時間
月曜日~金曜日 午前9時00分~午後5時15分
※
複写申請は閉館の30分前までにお願いします。
◆ 休館日 土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
年末年始(12月29日~1月3日)
大阪府公文書総合センター (公文書館、府政情報センター)
開館時間 9:00から17:15
正庁の間 一般公開日 水・金曜日10:00から17:00
大阪府公文書館 『大阪あーかいぶず 』第50号 平成29年3月31日発行
〒540-8570 大阪市中央区大手前2丁目1-22(大阪府庁本館5階)/TEL06-6944-8374/FAX06-6944-2260
ホームページ
https://archives.pref.osaka.lg.jp/ (大阪あーかいぶずの電子版も掲載しています)