大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第51号
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大阪あーかいぶず

「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。

目   次
南海トラフ巨大地震と公文書館……………………………………1頁
日満急行、まぼろしの「小浜ルート」………………………………2頁
平成29年度 大阪府公文書館第1回企画展を振り返って………10頁
平成29年度 古文書講座アンケート結果について………………12頁
平成28年度 公文書館 事業の推移  …………………………  14頁

第51号 平成29年9月 大阪府公文書館発行 

「南海トラフ巨大地震と公文書館」

熊本の大地震発生から早1年以上の月日が経った。損壊した熊本城は、修復に10年以上かかると言われている。大阪も22年前に阪神淡路大震災を経験したが、大阪に住む者にとって、近年、南海トラフ巨大地震は、大きな関心事である。発生した際は、大阪で最大13万人余りが死亡すると推定されており、被害を最小限にとどめられるよう、前もって対策が検討されている。
この巨大地震、周期的に発生している事が分かっているが、何故それが分かるのか。その理由は、過去の地震の記録が残っていたからである。
発生が確実とされている地震は過去8回。
○684年  白鳳地震 
○887年  仁和地震
○1096年 永長地震
○1361年 正平(康安)地震 
○1498年 明応地震 
○1707年 宝永地震 
○1854年 安政地震 
○1944・1946年 昭和地震
記録の残る最古の白鳳地震は、奈良時代に書かれた   『日本書紀』に記録されている。 
大阪府公文書館では、1854年に発生した安政地震を記録した資料を所蔵している。その資料は『諸国大阪 大地震大つなみ末代噺』(KA-0002-52)である
当該資料は、和紙に印刷された江戸時代の「瓦版」で、津波によって沖に停泊中の大船が川を遡り、橋や川端の人家土蔵を破壊した事などの被害が、記載されている。
このように、記録が残っていたおかげで、周期的に発生していた事や被害状況等が分かり、未来に向けて対策を立てることができる。この事から、地震学者も古文書に注目しているそうである。未来を考える場合、過去から学ぶ事は、少なからずあるのではないだろうか。
この資料を見る度に、公文書館に勤める者として、 記録を後世に伝えていく事の大切さを痛感する。
【公文書館 大倉竜一】


「日満急行、まぼろしの「小浜ルート」」

What’s 日満急行 ?
 「日満急行」、何とも奇異な名称、「満」はもちろん大陸、満州のことだ。日本と満州を繋ぐ鉄道、といっても海底トンネルで朝鮮半島に渡る訳ではない。大阪から真っ直ぐ北へ、若狭湾まで一直線、そこから日本海を越えて大陸に向かうという意味を込めた気宇壮大なネーミングである。そんな路線の特許申請書が大阪府公文書館の古い資料として残っている。申請は昭和8年のことだ。この申請は却下され、鉄路が敷かれることはなかったが、もしも実現しておれば、一世紀近く前に「小浜ルート」が出来ていたことになる。
 北陸新幹線の敦賀以西のルートの選定が難航し、敦賀〜小浜〜京都〜松井山手〜新大阪のルートで決着したのは最近のこと、最後に浮上した案の前に選択肢としてあったのは、①小浜ルート(敦賀〜小浜〜新大阪)、②湖西ルート(敦賀〜京都)、③米原ルート(敦賀〜米原)の三つだった。そのいずれでもないルートに落ち着いたわけだが、京都はさておき大阪中心に考えると、北陸、日本海側へのアクセスは小浜ルートが最短である。現在も最短経路に鉄道が通っていないこの地域を貫く路線が戦前に構想され特許申請にまで至っていたのはとても興味深い。 
 昭和8年の小浜ルート
それでは日満急行が想定していた路線とはどういうものだったのだろう。申請時の路線予測図からそれを見てみよう(次頁の地図参照)。説明は読者の便を考慮して現在の行政区域名・地名で行う。
日満急行の起点は現在のJR大阪駅の北側、終点はJR小浜線の若狭本郷駅付近である。大阪駅の北側、すなわちかつての梅田貨物駅、現在は再開発されてグランフロント大阪となったあたりが起点とされている。ここに新大阪と結ぶなにわ筋線の地下駅が計画されているのも何かの因縁だろう。
大阪駅から北上する路線は現在の新十三大橋のあたりで淀川を渡り、阪神高速空港線のコースを一直線に池田に向かう。猪名川の手前で方向を東寄りに変えて余野川左岸を進む。現在の国道423号摂丹街道に沿うルートだ。
両府の境を越えて京都府亀岡市に入る。桂川右岸の亀岡盆地の縁を北上する道筋は、今は京都縦貫自動車道が走っている。JR山陰線の八木駅付近で交叉したあと、桂川を渡り、標高500mほどの山地を越えて、世木ダム、日吉ダムが建設されている桂川上流に至る。日吉駅付近で西に迂回していたJR山陰線と再び出逢う。
日吉から先は概ね京都府道19号園部平屋線に沿うルートだが、合併して南丹市となる前の日吉町から美山町への山越え、つまり淀川水系と日本海に注ぐ由良川との分水嶺の越えかたは、府道がトンネルで抜ける神楽坂ではなく少し西の海老坂を選択し、より直線に近く距離的にも短くなっているのが目を引く。
美山町静原で国道162号周山街道のルートに重なり、堀越峠を越えて福井県に入る。いくつかある鯖街道のひとつだ。そのまま周山街道を行くと、大飯郡おおい町名田庄納田終(なたしょうのたおい)棚橋あたりから小浜に向かって東に大きく方向が変わるが、予定路線はあくまで最短で若狭湾岸を目指す。最後の一山を越えて北に下ると、佐分利川の流れに沿い一気にJR小浜線若狭本郷駅に至る。
新幹線なら緩いカーブで極力直線的に繋ぐことになるから、途中の市街地や集落を避けトンネル区間の割合が高くなるのは間違いないにせよ、この日満急行計画線と就かず離れずのコースとなった可能性は高い。結局は実現に至らなかった日満急行、なかなかの最短ルートと言えるだろう。
日満急行特許申請書
この特許申請書の名称は、「日滿急行電鐵敷設並ニ運輸榮業特許申請書」という。書類には昭和8年10月1日の受付印が押されている。申請書本文には先の路線予測図に記載の通過地点が順次列挙されたあと、「沿道各地附近ニ於ケル交通運輸ノ便ヲ助ケ其開發ヲ圖ルト共ニ我國北門ノ商港タルベキ小濱灣ヲ經テ對岸雄基、羅津、清津、元山、釜山ノ各港ト直通ノ便ニ供スルノ目的ヲ以テ日滿急行電鐵株式會社ヲ創立シ電氣軌道ヲ敷設シテ旅客並ニ貨物運輸ノ業相營ミ度候間何卒特別ノ御詮議ヲ以テ至急御許可被成下度軌道法ニヨリ別紙起業目論見書、線路豫測圖、建設費槪算書、運輸事業ノ收支槪算書並ニ軌道ヲ道路ニ敷設スル事ヲ得ザル事由書相添ヘ此段願上候也」との趣旨・目的が述べられている。
 小浜湾と日本海を隔てた朝鮮半島の5つの港の名前が、直行するとして列挙されている。これら5港のうち、雄基(ウンキ)、羅津(ラソン)、清津(チョンジン)は現在の北朝鮮、ロシア国境に近い港である。昭和8年といえば、満州と朝鮮の境である豆満江(トマンガン)を渡る図們(トゥーメン)橋が開通し、羅津〜新京間を直通する急行「あさひ」が走り出した頃である。この3港に通じる路線は朝鮮総督府鉄道局線でありながら満鉄の管理下にあり、この3港を経由することが、満州国の首都新京への最短経路であったことは間違いない。当時、日本側の港は小浜ではなく敦賀、後に新潟が加わる。ちなみに、従来からの満州へのメインルートである釜山〜京城〜平壌〜奉天〜新京には、「ひかり」「のぞみ」と命名された急行列車が走っていた。
さて、先の本文の後には、発起人9名の連署が続く。宛先は内務大臣と鉄道大臣の連名である。申請書本体は僅かこれだけに過ぎない。あまりにもシンプルである。付属書類については、後で触れることにするが、この本文において注目すべきことがいくつかある。それは、この申請の内容が「特許」であり、「認可」でも「許可」でもないこと、準拠法が「軌道法」と明示されていること、申請先が鉄道大臣だけでなく内務大臣宛てでもあることだろう。これは、当時の鉄道敷設に関する法律に起因する。
鉄道ではなく、軌道
 本稿で取り上げた大阪府公文書館の文書綴の標題は、「鉄道軌道 自昭和8年 至昭和14年」となっている。そこには鉄道に関する申請書類と軌道に関する申請書類が纏められており、両者をことさら区別しているふうはない。ただ、両者は法律的には区別されている。現在も鉄道事業法と軌道法は別個の法律として存在する。鉄道が敷設されるようになった明治期以降の、法律の変遷は次のとおりである。
 昭和8年当時の法制において、地方公共団体または私人が公衆の用に供するために新たに鉄道を敷設する際の準拠法は、地方鉄道法になる。しかし、ここでいう地方鉄道には軌道法により管轄される軌道は含まれない。日満急行が軌道法に準拠して申請されているのは、地方鉄道法に比べ軌道法の規制が緩く申請が通りやすいという実際的な理由があったと思われる。
例えば、明治38年に開業した阪神電気鉄道は、軌道法の前身である軌道条例(所管は内務大臣)に基づいて敷設された鉄道である。背景には私鉄の敷設に寛容な内務省と、厳格な鉄道省(当時は逓信省鉄道局)という、官庁間の縄張り争いがあり、それが以降も受け継がれていたということであろう。鉄道と軌道、両者の違いは曖昧ではあるが、いちおう次のように整理できる。
 ただ、敷設要件の点ではそれぞれに例外規定があり、鉄道と軌道は峻別されていないのが実態である。結局は既設路線との競合などに絡む許認可の難易度が申請者にとっての最大の考慮点となる。
 日満急行の特許申請書に戻ると、付属書類の「軌道ヲ道路ニ敷設スルコトヲ得ザル事由書」に、軌道として申請するが、実際には道路に敷設しない根拠が示されている。曰く、「本軌道ヲ道路ニ敷設スルコトヲ得ザル事由ハ左記ノ通リニ候間此段本書ヲ以テ開陳仕候。一、距離ヲ短縮スルタメ可成直線ニ採リタル事。二、一般交通ノ安全ト運行時間ノ短縮ヲ期スルタメ全線ヲ専用軌道トナス事」
 できるだけ直線のコースをとり、一般の道路交通の妨げとならないよう専用軌道を敷設するとしている。全て専用軌道というなら、鉄道としての申請が妥当ではないかとの突っ込みも入れたくなる。そもそも、軌道法第二条には「軌道ハ特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外之ヲ道路ニ敷設スへシ」とあるのだ。
 「軌道ヲ道路ニ敷設スルコトヲ得ザル事由書」で、「特別の事由」を示しているということになるが、この程度の説明で軌道法に準拠した申請が成り立ち、いちおう書類が受理されるというのは驚きでもある。もっとも、当時は全国各地で地元の資本により鉄道インフラが拡充していった頃、かかる便法の横行は時代背景を想起しないといけないのだろう。今となれば、実現に至った地方鉄道や軌道でも相当数は廃線となり、各地にわずかな痕跡が残るだけである。そんな廃線跡探訪に特化した鉄道マニアのカテゴリーさえあるぐらいだ。
どれだけの投資なのか
 私鉄である限り、敷設して運輸営業を行い収益が得られるかどうかがポイントとなる。しかし、昭和初期の技術レベルでは、中央分水嶺を越え直線ルートで日本海側に至る路線建設が難事業であることは想像に難くない。官営の山陰本線は明治期に京都から日本海側に達しているが、山岳地を避け極力谷沿いのルートをとっている。同じく官営で陰陽連絡の幹線である伯備線(岡山・倉敷〜伯耆大山・米子)が全通したのは、直前の昭和3年のことである。それを思うと、当時の当局者としても眉に唾しながら特許申請書を読んだのではないかと想像する。ともあれ、建設費概算書には各項目の数字が列挙されている。
 これによれば、複線軌道、延長65哩(マイル)(約105km)の建設費総額は2000万円となっている。現在の価値にすれば、300億円を超える程度の巨額と推定される。
内訳で言えば、用地費336万円、土木費297万円、橋梁溝橋費383万円、隧道費250万円、軌道費300万円が大どころである。現在の感覚からすると、用地費が少ない気もするが、昭和初期の市街地化の進展度合いからすれば、あり得ることかも知れない。それよりも、隧道費(当時、墜道と表記)に注記された「海老坂外二ヶ所ニテ約貳哩」が気になる。わずか3km強がトンネルというのは、日満急行の直線ルートに照らして納得しがたいものがある。中央分水嶺の海老坂をトンネルで抜けるのは当然にしても、先の路線予測図を分析する限り、合計3ヶ所、総延長3km強のトンネルどころで済むはずがない。一方の橋梁溝橋費には「淀川神崎川大堰川外二拾四ヶ所」と妥当と思われる注記が施されているだけに、隧道費の曖昧さが際立つ。
 それにしても、残る資料はこれだけである。この数字の積算根拠を示す明細書の類は添付されていない。こんなアバウトなもので特許申請が出来るのかというのが、率直な感想である。まさか、鉛筆を舐め舐めのアウトプットではないとは思うが、いったい、受け取った側がどのようにしてこれを審査するのだろうかとの素朴な疑問が湧いてくる。
 この投資の裏付けとなる資金に関しては、「起業目論見書」に、資本金2000万円、一株50円、40万株の株式会社組織という記載があるだけで、誰がどれだけ出資する見込なのかは不明だ。
採算はとれるのか
 肝心の運輸事業収支概算書を見てみよう。鉄道路線の存廃決定において、公共インフラとしての価値が顧みられることは少なく、専ら採算性であるのは近年の傾向である。そのことの当否は措いて、私有鉄道が赤字覚悟で設立されることはありえないから、日満急行の収支概算でもそれなりの数字が計上されている。旅客・貨物あわせての収入は252万円、営業費が106万円と記されており、利益は145万円となる。
  先の建設費が2000万円なので利益の割合は7.3%、営業費には路線の維持費も含んでいるとすると、単純計算で14年で建設費を償却できるということになる。いくらなんでもそれは、という気もするが、さりとて画餅と決めつけることもできない。
旅客部門では、一車平均で20人の乗車、一日224回の運行の前提で、年間延べ人員を約1600万人と見込んでいる。一日一哩あたり約700人という数字である。これをJR西日本の日本海側と結ぶ路線について、現在の指標である平均通過人員(人/日、1kmあたり)と比較してみたのが下表である。大きく時代も異なる中での相当乱暴な比較であるが、日満急行の相対的な位置づけを類推する程度はできそうだ。大阪市街に近接の区間では一定の需要が見込まれそうだが、既に山陰線が走っている北部地域ではどうだろうか。表にある三江線(三次(みよし)~江津(ごうつ))は平成29年度末の廃止が決定しているし、木次(きすき)線(備後落合~宍道)も存廃が取り沙汰されている路線である。もし日満急行が実現していたら、その後、湖西線に生まれ変わった江若(こうじゃく)鉄道のようになったか、それとも大阪~鳥取の短絡線、智頭(ちず)急行(沿線町名は智頭(ちづ))のような存在感を持つに至ったか、あれこれと想像が膨らむ。
なお、収支概算書に軌間として記載されている「四呎八吋二分ノ一」とは4フィート8.5インチのことであり、1435mmに相当する。これはJR在来線で採用されている3フィート6インチ(1067mm)の狭軌ではなく、欧米諸国や新幹線、さらに多くの関西私鉄で採用されている標準軌である。関西では主流の考え方であるが、国営鉄道との接続や乗り入れにはあまり考慮せず、それに対抗するような単独での路線営業を前提としていたことがここにも窺える。
本郷軌道!
 軌道敷設に関する特許申請書は地方長官(知事)を経由して所管の鉄道大臣・内務大臣に提出される。道路に敷設する軌道は要するに路面電車であり、通常は○○市電、せいぜい都市郊外に延びる程度だから、路線が敷かれる予定の都道府県知事が主管というのは頷ける。もっとも、ウィーン(オーストリア)とブラチスラバ(スロバキア)の両首都を国境を越えて結ぶ路面電車もあったぐらいだから、どこにでも例外はある。
 この日満急行は三府県にまたがる路線なので、大阪府としては当然に京都府と福井県に照会を行っている。福井県知事からは昭和8年11月25日付の回答が返ってきている。
「一、軌道敷設ハ地方ノ利便資源開發ノ爲事業ノ成功確實ナル上ハ適當ノ企業ト認ム。二、縣下大飯郡佐分利村本鄕村間ニ軌道ヲ經營セル本鄕軌道株式會社アリ本事業成立ノ上ハ影響甚シク經營困難ナリト認ム」
 この軌道が実現すれば地元の開発に寄与すると認める一方で、本郷村と佐分利村を結ぶ本郷軌道が既にあるため、同社の経営に打撃を与えるだろうというものだ。
 ここに登場する本郷軌道とは何か。小浜湾に注ぐ佐分利川沿いの平坦地を大飯郡おおい町父子(ちちし)と同本郷を結ぶ人車軌道である。距離にして5kmあまり、先の日満急行路線予測図での若狭湾に向かう最後の区間、鹿野~本郷の半分程度に当たる。終点の父子には石灰石を産出する鉱山、途中の野尻には銅山があり、その運搬を目的として、大正3年から昭和29年まで運行していた。人車軌道というのは、トロッコを人力で押して走行するもので、鉱石運搬専用の本郷軌道は軌間667mmだったというから、1435mmの標準軌・複線の旅客鉄道とは比ぶべくもない。
 当時、大阪府で本郷軌道の存在が認識されていたかどうか定かではない。本郷軌道の件は特許申請の審査過程で福井県からもたらされた新事実だったのかも知れない。
戦前、産業用輸送手段として鉱山鉄道や森林鉄道が山間僻地に延びていた時代である。旅客輸送を行っていたものでも今となっては最早忘れられた鉄道・軌道も少なくない。先の日満急行予定路線図の範囲に限っても、本郷軌道、犬見鉱業(福井県)、国鉄舞鶴線支線、愛宕山鉄道(京都府)、妙見鋼索鉄道上部線、国鉄有馬線、日本無軌道電車、篠山鉄道(兵庫県)などの名前が挙がる。地方のトロッコが知られていないくとも不思議ではない。
内務大臣所管
 昭和8年に特許申請があった後、二年間ほどの期間の文書は綴られていない。大阪府の土木部と申請者との間で、日満急行のフィジビリティスタディが詳細に行われたはずだが、残念ながらその折衝経緯を確認することはできない。大きなプロジェクトとなるため、その実現可能性を綿密に検証する必要があるし、行政処分の内容は特許の可否、つまり排他的な独占を認めるか否かだけに尚更である。
 実際に行われたであろう企業化調査にかかる検討内容は不明であるが、書類としては発起人の身元調査結果が残っている。ここで、軌道法による許認可が鉄道大臣と内務大臣との共管であることに思い至る。一義的には地方行財政や土木を所管するのは内務省なので、軌道敷設についての許認可権限を持つのは順当だが、内務省の傘下には警察組織がある。実際に、各発起人の住所を管轄する警察署を通じ、巡査が身元調査に当たっている。
職業・年齢、動産・不動産の資産状況、直接国税の納付額、禁治産・準禁治産宣告の有無、破産宣告等の有無、罰金等の処分の有無、信用の程度などの項目につき具に報告が上がっている。この案件では発起人に大きな問題は見当たらないようだが、さりとて盤石な陣容とも言えない感がある。
このような調査は戦前の内務警察特有のものかと言うと、そうでもない。例えば、現在の公益法人認定においても、理事・監事・評議員の反社会的勢力との関係の有無については、普通に警察に照会されていることである。
どんでん返し
 福井県からの返事と違い、京都府からの回答日付は昭和10年12月18日と、何故かずいぶん間がある。その内容は次のとおりだ。
「發起者中●●、●●ハ大正十五年六月二日本件經過地ト同樣ノ路線ヲ以テ日露支通運電鐵敷設免許ヲ申請ナシタルニ對シ昭和八年八月八日監第一四三五號不許可トナリタル事實アリ前示會社ノ企業不許可ニ代リテ申請シタルモノト認ムベク之カ效果ニ付テハ大阪市ヲ中心トシテ若狹方面ニ連絡スル最捷路タルヲ以テ開通ノ曉ハ沿道地方ノ開發ニ資スルニ大ナルモノアルモ府下船井郡世木村以北ハ鐵道敷設法中『京都府殿田附近ヨリ福井縣小濱ニ達スルモノ』トシテ豫定線トシテ決定セラルルノミナラズ通過地ノ多クハ山岳重疊シ難工事ハ能ク民間ノ企業ヲ以テ到底事業ノ完成ヲ期スルコト不可能ト認メ候條可然御取扱相煩度」
 思わぬ展開である。大阪府に日満急行の特許申請を行った発起人は7年前に同様の申請を行い、日満急行の申請の直前に不許可になったというのだ。しかも、日満急行予定路線の後半分は鉄道敷設法で今後の建設予定路線とされているものに等しいとしている。さらに、その部分は相当な山岳地であり民間企業での鉄道建設など不可能とまで断じている。言ってみれば、日満急行の発起人たちは懲りない人たちだとのニュアンスが行間に漂うような回答文である。日満急行の命運はこれで尽きたと言っても過言ではないだろう。
 以前に申請した際の会社名が「日露支通運電鉄」、満州どころかロシア、中国まで視野に入れたネーミングとは恐れ入る。たんに誇大妄想に取り付かれた人たちなのか、山師に近い人物なのか、それとも大陸雄飛の志を抱くまっとうな実業家なのか、本稿では探偵の領域にまで立ち入るつもりはないので、現存資料の範囲に留めておくことにする。
鉄道敷設法
 ここで、京都府の回答にある鉄道敷設法について触れる必要がある。前掲の法制の変遷に示すように、前身の法律から昭和62年の鉄道事業法となるまで、鉄道敷設法は長きにわたって国営鉄道の敷設について定めていた法律である。国家の重要インフラである鉄道は基本的に国営で営業されるべきであるという考えの下に、全国で建設を予定する路線が法律の別表として掲げられていた。その路線数は149にも及ぶ。京都府の指摘があった路線は第79号「京都府殿田附近ヨリ福井縣小濱ニ至ル鐡道」として確かに明示されている。国が敷設する予定だから、民間は手を出すなということである。
 問題の別表、近畿地方に限ってみても、その後実現した小浜線、舞鶴線、宮津線・宮福線(後に北近畿タンゴ鉄道)、篠山線(一部、後に廃止)、有馬線(後に廃止)、播但線、加古川線、鍛冶屋線(後に廃止)、信楽線(一部、後に信楽高原鐵道)、和歌山線、桜井線などの路線が並ぶ一方で、実現に至らなかった路線も多い。河瀬直美氏がカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞した「萌(もえ)の朱雀(すざく)」の舞台となり、予定軌道跡の専用道路も使う日本最長の路線バスで有名な五新線(五条〜新宮)などはその典型である。若狭湾岸に抜けるルートとして、若江線も予定線に名を連ねていたが、近江今津〜小浜間の国鉄バスは先行して運行されたものの、結局は未成に終わっている。
 モータリゼーション前夜に制定された法律が昭和の終わりまで生き残り、地元自治体や地元選出の国会議員などのロビー活動の拠り所となって、国鉄経営の悪化を招く一因となったのは周知のとおりである。本来国営となるはずの路線のいくつかは、第3セクター経営の地方鉄道として辛うじて命脈を保っているのは何とも皮肉なことだ。
とどめの一撃
 ここに至って日満急行特許申請の大勢は決した感があるが、最後に福井県から追加の照会に対する回答がある。昭和11年7月11日付である。
「一、本鄕村港灣ノ現狀。港灣設備トシテハ何等見ルヘキモノナク現在ハ佐分利川東方沿岸ニ架設シアル棧橋二ヶ所ト同川西方護岸等ヲ利用シ石灰其他僅少ノ荷役ヲ行フモノトス。河口ヨリ約百五十米ノ海面ハ水深約三米以上ヲ有スルヲ以テ之レニ適應スル施設ヲ爲スニ於テハ相當船舶ノ接岸荷役モ出來得ル見込アルモ改修ノ計畫ナシ。
一、本鄕軌道ノ一般狀勢。本會社ノ運輸貨物ハ主トシテ軌道ノ起點地方ヨリ産出スル石灰原料石ニシテ其ノ外製品タル石灰ヲ多少運送スルモノナリ。石灰ノ搬出先ハ兵庫縣、京都府、石川縣等ニシテ年々增加ノ傾向アルモ會社ノ經營狀態ハ順調ト稱スルコトヲ得ス每期缺損ヲ續ケ昭和十年度下半期ノ決算ニ於テ漸ク缺損ヲ免カレ稍好況ヲ示シタル狀況ニシテ昭和十年中取扱貨物ハ約五千七百頓ニシテ主ニ石灰原石並ニ雜貨ナリ」
 本郷軌道についての詳細の確認よりも、本郷村の港湾の現状のほうがより重要だ。要は、現状では本郷には日本海を渡航可能な船舶が寄港できるような港湾設備は存在しないということである。すなわち、特許申請書に特筆大書された「對岸雄基、羅津、清津、元山、釜山ノ各港ト直通ノ便ニ供スル」というくだりは絵空事に過ぎないということになる。大規模な築港工事をすれば不可能でないにせよ、そのような計画はないし、その事業に日満急行自身が手を染めることも考えられない。加えて、既に大陸との航路が開設された敦賀港が、同じ若狭湾岸に存在するという現実がある。もっとも、大陸側の雄基と羅津は今では羅先(ラソン)という一つの都市になっているし、国内でも隠岐と結ぶフェリー航路がある境港(さかいこう)(鳥取県境港市(さかいみなとし))と七類港(しちるいこう)(島根県松江市)が近接しているような例があるにしても、当事者の福井県が改修計画無しとする以上、大型船舶が本郷港に姿を見せる可能性はゼロと言ってもいいだろう。
日満急行始末
 この期に及んでは、申請者に対して不許可処分を下すだけである。大阪府で起案されたのは昭和11年8月2日で、8月11日には決裁されている。最終権限者は鉄道大臣および内務大臣なので、大阪府からは意見具申ということになるが、これが実質的な最終決定と見做してよいだろう。起案内容に記された不許可相当とする理由を簡潔に示すと次のようなものとなる。
①大阪〜池田の区間には阪神急行電鉄(現阪急電鉄)宝塚線が既に営業中であり、新路線設置の必要性に乏しい。
②起点の大阪駅付近は都市計画区域に属するため、軌道敷設の計画を変更し、高架または地下とする必要がある。
③池田より北は山岳地帯であるため難工事必至であり、工事費は見込を遙かに上回ることとなり、所期の収益を実現することは困難である。
④終点の本郷付近には見るべき港湾設備がないうえ今後の改修予定もないため、日本海対岸の満州と結ぶ計画の実現性は疑わしい。
上記に加え、日満急行の特許申請は直前に不許可となった日露支通運電鉄の焼き直しに過ぎないと付言している。
 申請から3年を経過し、日満急行の案件は決着した訳である。日露支通運電鉄の申請から数えると既に10年以上の年月が経過していた。
地方鐵道指針
 灯台もと暗し、国立国会図書館にも所蔵がない書籍が大阪市立中央図書館に残っていた。昭和2年に出版された「地方鐵道指針」という1000ページを超える大著だ。著者の堀江貞男氏は鉄道省監督局の官僚出身者である。鉄道関係実務については当局内の生き字引だった人と推測できる。これは、便覧、今で言うマニュアル本である。鉄道関係の申請手続や書式の記入要領、関連法規等に至るまで網羅し詳細に解説されている。当時の申請書類がどれも同じような体裁であるのは、この本と首っ引きで申請者が書類を作成したのだろう。新たに鉄道軌道を敷設しようとする人たちだけでなく、既設の事業者も諸変更手続などの際に参考としたはずだから、それなりの部数は出るとの判断での出版だったのだろう。鉄道建設熱が高い時代背景もあったのだろう。
 日満急行特許申請書を念頭に、「地方鐵道指針」を眺めていると、ある箇所に目が止まった。それは、次の記述である。大阪府の当事者にそのような考慮もあったかどうか、今となっては知る由もない。
「會社の發起人が免許を受けて會社設立前其の免許權を既設の地方鐵道會社に讓渡する場合がある。斯の如きは多くの場合事業の進行が速く小會社の分立するより基礎も堅實である。唯考慮すべきは例へば既設會社の鐵道に對し競爭線たる新免許線を攻略的に讓受けたとせば其の競爭線の建設は容易に實現しない。讓受けた目的は既設線の擁護のために新免許線の敷設を阻止するにあるからで交通機關の能率增進などは第二義以下の問題として扱はれることである。斯る傾向の讓渡は寧しろ認めないが公共的に利益かも知れない」
【参考文献】
大阪府資料「鉄道軌道 自昭和8年 至昭和14年」より
「日満急行電鉄敷設並ニ運輸営業特許申請関係」
(請求記号 B2-2000-19、件名登録番号0000127910)
小牟田哲彦「大日本帝国の海外鉄道」 東京堂出版 平成27年11月
田中完一「失われた鉄路をたずねて - 本郷軌道・犬見鉱山軌道 -」
(鉄道友の会福井支部報「わだち」No.7収録) 昭和57年3月
今尾恵介(監修)「日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線」
 新潮社 平成24年7月
三木理史「近代交通研究における史・資料」
(関西大学文学部地理学教室「地理学の諸相」収録)
 大明堂 平成10年3月
堀江貞男「地方鐵道指針」 鐵道新聞社出版部 昭和2年4月 
【公文書館専門員 的場 茂】

「平成29年度 大阪府公文書館第1回企画展を振り返って」

■はじめに
大阪府公文書館では、大阪府の歴史に関連する題材をテーマに所蔵資料を用いて企画展示を開催しています。これは、公文書館に足を運ばれた府民の皆様に、歴史的価値のある公文書を収集・保存することの重要性を理解していただくために実施するものです。 
■第1回企画展
平成29年4月1日から同年9月30日まで、「大阪府公文書館30周年―公文書にみる大阪府公文書館の誕生」をテーマとする企画展を開催しました。展示の趣旨は、公文書等の資料に基づいて、大阪府公文書館がどのような目的で、どのような経緯を経て創設されたのかを明らかにすることです。 
 『公文書館問題専門家研究会』は、大阪府が文書館設立に向けて立ち上げた「公文書館問題専門家研究会」の設置に関する公文書の綴りです。
 「公文書館問題専門家研究会の設置について(伺)」は、昭和57年6月10日に当時の大阪府総務部法制文書課によって起案され、同年6月15日に決裁を受けました。これにより、昭和57年7月に「公文書館問題専門家研究会」が設置されました。 
同研究会の設置趣旨は、「本府が保有する膨大な公文書、行政資料を適正に管理し、将来情報公開制度の円滑な運営に資するとともに、これら公文書等のうち、特に歴史的文化的又は行政的資料価値の高い公文書についてその保存の徹底を図るためには、公文書の保存、検索及び閲覧等の機能を有する公文書館の具体化を行うとともに、あわせて歴史的文化的又は行政的資料価値のある公文書等の評価基準及びその保存のあり方等について調査、検討を進めていく必要」がある、というものです。 
『部長会議 昭和58年度』は、昭和58年5月10日開催の大阪府の定例部長会議において、「公文書館問題専門家研究会」が岸昌知事に対して、「大阪府公文書館の基本構想について」の提言を行ったことを記録しているものです。
 この提言は、「大阪府公文書館の基本構想についての提言(要旨)― 行政情報センターの実現と歴史資料の保存のために ―」という報告書に基づいて行われたものでした。同報告書は、「行政情報を集中的に管理し情報の公開、提供等、情報利用ニーズに応えうる行政情報センターとしての機能と、公文書館の伝統的機能である歴史資料の保存、利用の機能を有する複合的施設」とし、二つの機能を備える「大阪府公文書館」を想定したものです。
「昭和60年 部長会議資料」は、大阪府内部の公文書館設置に関する意思決定過程を記録する公文書の綴りです。
大阪府は、昭和58年5月の「公文書館問題専門家研究会」の提言を受け、同年6月に、府庁内部に「公文書館問題検討委員会」を立ち上げました。
翌59年3月、委員会は、議論・検討を重ねて「大阪府公文書館(仮称)構想の具体化について」という試案を取りまとめました。この試案では、既存施設の大阪女子大学旧図書館を大阪府公文書館の施設として決定しました。
『公文書館設立計画』は、大阪府公文書館設立について大阪府がどのような設立計画を作成したのかを記録する公文書の綴りです。昭和59年5月、大阪府内部のプロジェクト「公文書館問題検討委員会」は、「大阪府公文書館(仮称)設立第1次基本計画」を策定しました。この基本計画は、「公文書館専門家研究会」の提言に盛り込まれた二つの機能のうち、当面緊急の課題である歴史的文書資料類の収集、保存とその利用にしぼり、既存の施設を有効利用して公文書館の実現を図る、ということを決定したものです。 
『昭和60年 部長会議資料』は、昭和60年10月29日開催の大阪府の部長会議において、「公文書館の開設について」という議題が検討されていたことを示すものです。約3年の検討を経て、昭和60年11月11日(月)、歴史的文書資料類等の体系的かつ適正な収集および保存を行うとともに、これを調査および研究に供するため、「大阪府公文書館」は、大阪市住吉区帝塚山の旧大阪女子大学図書館を転用して開設されることとなりました。  
■おわりに
 以上、昭和60年に開館した大阪府公文書館の設立過程を公文書などの資料に基づいて振り返ってきました。「歴史は鑑なり」という諺があります。今回の展示で示された公文書館創立の理念は、今後の大阪府公文書館がどうであるべきかについて多くの示唆を含むものです。
今後も、このような企画展示を開催し、府民の皆様に親しまれ、身近な公文書館となるよう努力していきたいと考えておりますので、一層のご協力、ご支援をよろしくお願いいたします。 
【公文書館専門員 謝政德】

「平成29年度 古文書講座アンケート結果について」

平成29年6月16日(金)に開催した「府政学習会in公文書館 古文書講座 はじめの一歩」では、45名の方のご参加をいただきました。その際、主催の広報広聴課がアンケートを実施し、参加者の皆様からのご意見、ご感想をお聞きしました。その集計・分析について、古文書講座に関係のある項目を抜粋し、概要を報告します。 
■参加者■
  45名
■アンケート回答■
  45名 
■あなたの性別と年齢を教えてください。■
■性別
 男性 20名 / 女性 24名 / 未回答 1名
■年齢
 19歳以下   0名 / 20から39歳   1名
 40から59歳 14名 / 60から69歳  18名
 70歳以上  12名
平日昼間の開催ということもあり、参加者の過半数が60歳以上の方でした。また、40から59歳の方が14名おられ、幅広い年齢層の方にご参加いただいたことがわかります。さらに、今回は女性の参加が男性を上回るという特徴がありました。 
■府政学習会について■
■募集を何でお知りになりましたか【複数選択可】
  府政だより            25名
  府のホームページ(催し案内)  4名
  Facebook              0名
  大阪府メールマガジン       8名
  Twitter                0名
  府政学習会開催案内       3名
  知人から               7名
  その他                 0名
 今回は府政学習会と共催のため、「府政だより」に募集案内を掲載しました。したがって半数以上の方が「府政だより」をご覧になっての応募という結果になりました。その他にも「大阪府メールマガジン」に登録されている方の応募も多く、公文書館単独開催の古文書講座とは違った層の方からのご応募があったように感じ、より多くの方に公文書館を知っていただく機会になったと思います。
■参加された感想をお聞かせください。
  とても満足  16名 / 満足     24名
  不満      0名 / とても不満   0名
  未回答     5名
「府政学習会」全体をとおしての感想になりますが、ほとんどの方に満足いただけたようです。
■テーマ学習(古文書講座)について■
■説明時間の長さはいかがでしたか
 長い     2名 / ちょうどよい 29名
 短い    14名 / 未回答     0名
■説明はわかりやすかったですか
  とてもよくわかった   18名
  よくわかった       21名
  ややわかりにくかった  5名
  わかりにくかった     1名
  未回答           0名
これら3つの質問の、それぞれの感想をお聞きする項目では、
 ・楽しく学べた。
 ・古文書勉強のキッカケになった。
 ・古文書について一層興味が増した。
 ・もっと勉強したいと思った。
 ・古文書に興味があったが、より理解がすすんだ。
 ・テキストがとてもていねいでわかりやすい。
などの嬉しい感想をいただきました。その一方で、
 ・時間と資料のボリュームに問題あり。
 ・レジメの記載項目を減らすか講義時間を延長する必要がある。
 ・早すぎてついていけなかった。
 ・講義としては短すぎ。1回では満足出来かねる。
 ・スライドや実物で見たかった。
などのご意見もいただきました。
 今回の古文書講座は入門編ということで、古文書を解読するための基本的なポイントについてお話ししました。
 古文書の型式や文字、よく使われる語句、暦や時間、度量衡等の古文書解読に必要となる基礎知識についてお話しした後、「宗門御改寺請幷家数人別帳」(KZ-0001-23。いわゆる「宗門人別改帳」)の一部を抜粋した史料を解読しました。よく見る人名や漢字を、自習される際に役立てるよう「くずし字解読のコツ」に重点を置き、わかりやすいテキストと解説を心がけました。9割近くの方が「とてもよくわかった」、「よくわかった」との回答で、満足していただける内容をご提供できたと思います。
 しかし、限られた時間の中でできるだけ多くのことをお伝えしよう詰め込みすぎてしまい、最終的に時間が足りなくなるという課題が残りました。これは、3割の方が説明時間が「短い」とされていることや、1割の方が説明が「ややわかりにくかった」とお答えになっていることからもうかがえます。したがって、テキストの構成や時間配分等、講座の内容のより一層の工夫が必要だと感じました。
 アンケートのご意見を参考にして、より充実した古文書講座につなげたいと思います。
【公文書館専門員 市原佳代子】

「平成28年度 公文書館 事業の推移」
 

来館者数
来館者数内訳                平成26年度 平成27年度 平成28年度
公文書総合センター①           13,733人 16,739人 19,507人
府政情報センター②              3,695人 3,697人 4,067人
公文書館③                  10,038人 13,042人 15,440人
※「公文書総合センター」に、「公文書館」と「府政情報センター」設置(要綱設置)
①は、公文書総合センター入口設置の自動計測入場者数、②は府政情報センター窓口受付数、①-②=③を
公文書館来館者数とし、府政学習会の庁舎見学者等も含む。
 
閲覧申出件数
内訳                        平成26年度 平成27年度 平成28年度
閲覧申出件数                   221件    377件    292件
複写申出件数                   186件    170件    195件
歴史的文書資料類の登録状況
分類              累計登録点数 平成26年度 平成27年度 平成28年度
近世・近代資料等      12,901点  5,187点     161点      0点
府行政文書          17,556点    367点     673点  1,049点
行政刊行物・官報・公報他 141,312点 1,754点   2,292点  1,504点
合計              171,769点 7,308点   3,126点  2,553点

【公文書館事務局】

大阪府公文書館  利用案内
◆所在地   
大阪府庁本館5階 (大阪市中央区大手前2丁目1-22)
閲覧時間 月曜日~金曜日 午前9時00分~午後5時15分
          ※複写申請は閉館の30分前までにお願いします。
休館日   土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
          年末年始(12月29日から1月3日)
大阪府公文書総合センター (公文書館、府政情報センター)
               開館時間              9:00から17:15
正庁の間    一般公開日 水・金曜日10:00から17:00

大阪府公文書館 『大阪あーかいぶず 』第51号 平成29年9月30日発行
〒540-8570 大阪市中央区大手前2丁目1-22(大阪府庁本館5階)/TEL06-6944-8374/FAX06-6944-2260
ホームページ https://archives.pref.osaka.lg.jp/ (大阪あーかいぶずの電子版も掲載しています)

住所
大阪市中央区大手前2丁目1-22 大阪府庁本館1階
Tel
06-6944-8371
Fax
06-6944-2260
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