大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第52号
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大阪あーかいぶず

「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。

目   次
明治150年 ~ 大阪府公文書館はこんな企画で…1頁
明治18年、淀川大洪水の頃……………………2頁
「府庁山」探訪 ~ 遡れば、昭和3年………………8頁
戦前と終戦直後期における大阪府の台湾出身者について        
          -大阪府の歴史的公文書から読みとく- …10頁
江戸時代の指名手配書………………………………18頁
平成29年度 古文書講座フォローアップ………………21頁
公文書館 見学者募集!…………………………………24頁
 

明治150 大阪府公文書館はこんな企画で

平成30年、巷間では「明治150年」と耳にすることが多くなっている。明治元年から起算すると今年は明治151年なのでやや誤解を招きかねないが、要は満150年。つまり、日本の近代の歴史が始まって1世紀半の年月が流れたことになる。大阪府が誕生したのも、明治元年のこと。大阪府150周年でもある。
この節目にあたる今年、政府においても、「明治以降の歩みを次世代に残す施策」、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ向けた施策」への取組に注力するとしている。それに呼応し、大阪府公文書館でも「大阪あーかいぶず」で明治期を重点的に取り上げるとともに、所蔵する明治期の公文書・私文書の中から、明治時代の大阪のようすを鮮明に伝えるものを選び、今年度は別表のとおり、年代に沿って三期に分けた企画展示を予定している。明治生まれ世代が僅かとなった現在、明治150年を機に、大阪府の近代の歩みを振り返ってみたい。
 
 
4月から7月までは、明治初期の重要な公文書の展示とともに、本号の「明治18 年、淀川大洪水の頃」で触れている大阪府知事の上奏文や、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の五代友厚・藤田傳三郎の名前で出された請願書などを、淀川資料館、枚方市立枚方宿鍵屋資料館からお借りした貴重な資料とともに展示する。これらは当時の模様を生々しく伝え、今を生きる我々の防災意識を喚起するものと言える。多くの府民の方のご来館を期待したい。 
8月以降については、近代化を象徴する、殖産工業、博覧会をテーマにし、明治期の大阪の姿を、歴史的資料を展示して振り返る。なお、館報「大阪あーかいぶず」や企画展示と連動して、明治期をテーマにした歴史講座も開催する。

 
【公文書館専門員 的場 茂】
 

明治18年、淀川大洪水の頃

明治18年の天気図

小学生の頃、夏休みの宿題の絵日記が嫌だった。書くのもさることながら、まとめて片づけようとしたら毎日の天気に困った。それを思うと今は便利な世の中で、ちょいとネット検索すれば、夏休みの天気どころか100年以上前にも遡ることができる。
 
さて、上図は明治18年のものだから、現在見慣れているものとはずいぶん違う。天気マークは変わりないが、等圧線は相当に粗い。HIGH-LOWで高気圧・低気圧は示されていても、あるはずの前線の位置も示されていない。気圧の表示はhPaでもなければmbでもなく。水銀柱ミリメートルとなっている。(標準気圧=1013hPa=760 mmHg)
日付は6月17日、なぜこの日かというと、これが明治18年の淀川大洪水が起きた日のものだからだ。これを遡る数日間にわたり本州を横断する梅雨前線の活動が活発で、ついにこの日の夜間に淀川の決壊に至る。淀川洪水は二波にわたって発生し、同月中の降水量が嵩んだ結果、大阪市内の主要な橋が悉く流失するのは翌月初めの洪水によるものだ。当時の報告書は生々しい状況を伝えている。
大阪府知事からの上奏
大阪府公文書館に残る建野郷三大阪府知事の上奏に係る文書で淀川洪水の状況を振り返ってみる。この文書に貼られた付箋には「廣島山口岡山三縣御巡幸ノ路次神戸行在所ニ於テ上奏セラレシモノ」とある。朱が入り手直しがあるので上奏案と思われる。
「今茲明治十八年六月淫雨荐ニ臻リ其十七日本河愈々暴漲シ午後十一時終ニ伊加賀村ノ堤防決潰セリ村ハ茨田郡枚方駅西ニ在リ堤防一タビ決スルヤ忽チ数十戸ヲ押流シ奔流滔々倐チ茨田郡ニ盈チ漸ク南進シテ讃良郡及東成郡ニ入リ 百数十ノ村落檐ヲ没スルニ至ル」
 三日にわたる集中豪雨の結果、淀川(上奏文中では「澱河」と表記されている)が南南西から西南西に流路を変えるあたり、現在の枚方大橋の南詰附近の伊加賀村で堤防が決壊し、南方淀川左岸の河内国茨田(まった)郡、同じく讃良(ささら)郡、摂津国東成郡に浸水範囲が及んだとある。現在の市域で言えば、枚方、寝屋川、守口、門真、四條畷、大東、東大阪、大阪市東部と恐ろしく広域である。だが、洪水の勢いはとどまるところを知らない。

洪水被害の拡大
「水愈々暴漲将ニ南寝屋川堤ヲ衝破センノ勢アリ若シ更ニ之ヲ決セハ其災ノ及ホス所測ルヘカラス此ヲ以昔享和ノ災野田村堤防ヲ断チ以テ猛暴ナル湛水ヲ放注セシ故轍ニ依リ輒チ臣等僚属ヲ率ヒテ野田大長寺ニ次シ直ニ截断ノ工ヲ創メ二十日午後疏通ノ功成ル」
 淀川の洪水は南下し寝屋川に至り、寝屋川堤(徳庵堤、得庵堤)の決壊も懸念される事態に至る。洪水発生から三日後、現在の都島区網島の堤防を切開して淀川本流に水を戻すために、意図的な堤防破壊(わざと切り)が実施された。なお、文中にある「昔享和ノ災」とは
、享和2年(1802年)に起きた淀川洪水のことである。
 この措置は淀川洪水が大和川と合して、一層の被害拡大となることを未然に防ぐ意味合いであったが、それをあざ笑うかのように自然の猛威が続く。
「二十八日午後暴雨再ヒ下リ越テ七月一日ニ至リ雨益々猛暴ヲ加ヘ漲水益々激ス此ニ於テ伊加賀村決所嚢ニ築塞竣功ニ乗ントシテ更ニ壊ルヽモノ百五十間餘旦前水ノ河内南部ニ入ラサリシハ寝屋川堤防ノ拒障ヲ為セシニ因ルモ後水ハ既ニ其堤上ヲ溢レテ南進シ若江河内渋川ノ三郡ニ及ホシ逾渺其津涯ヲ見サルニ至ル」
遂に恐れていた事態の到来となる。小康の後、月をまたいで再び集中豪雨となり、頼みの綱であった寝屋川堤防も決壊する。淀川と寝屋川の水は南へ進み大和川以北が水没するに至る。果てしなく水面が広がる大仰な表現は、古代に上町台地の東に存在した河内湖の復活を思わせる。大阪市内についても浸水被害は甚大である。
上奏文と同時期に作成された「洪水状況一班」という資料によれば、7月2日になり雨は止んだものの、河川の増水は1時間あたり約5cmにおよび、上町台地である東区と南区の一部を除き、265町が浸水、深いところで2m弱、浅いところで脛を没する有り様となる。「梅田停車場ノ如キハ浸水四尺餘ニ達シ汽車ノ往來ヲ断チタリ」とある。加えて、明治初期に架橋された近代橋も含め、大阪市内の橋梁は壊滅的な被害を被った。
「自二日至四日ノ間ニ於テ淀川、土佐堀川、堂島川、安治川、木津川ニ架シタル著大ノ諸橋ハ僅ニ難波橋北部ヲ殘シ盡ク相踵テ流出尚東橫堀川其他ヲ合セテ市街三十二橋ヲ失ヒタリ」
 江戸時代には幕府が直轄管理する公儀橋であった難波橋、天神橋、天満橋は浪華三大橋と称される。このうち、難波橋は明治9年に鉄橋に架け替えられていたが、天神橋、天満橋は木橋であり、洪水による流失後にドイツ製の鋼材による鉄橋に架け替えられた。
大阪府民の窮状
 淀川大洪水に少し先立つ明治18年3月に内務卿(最後の内務卿となった山県有朋が当時在任)に府下の貧民の状況を報告する草案文書がある。この時期の大阪府内の庶民の窮状を伝えるものであり、ここで併せて触れておきたい。淀川大洪水は大和川から北の地域に被害が及んだが、この資料では主に大阪府の中南部の窮迫について述べている。つまり、この時期は大阪府の全域で困難な状況が起きていたことになる。
「管内民間ノ状況一昨年来漸次衰頽ニ傾キ近來到ル處困難ヲ告ケサルナク而カモ郷村ヲ最モ甚シトス其細民ニ至リテハ糊口ノ術ヲ失ヒ或ハ飢餓旦夕ニ迫ルノ徒往々有之其甚キ部分ハ河内南方ノ各郡(古来河内木綿ト稱シ世ニ行ハレタル産物ヲ出ス所ニ係ル)泉摂両國沿海ノ部落(農耕ノ傍ラ漁業或ハ街賣又ハ土工稼等ニ従事スル者多ク其地況ハ年々多少ノ水旱災ヲ免レサル新田村落多キニ居ル)トス」
 河内木綿を産する河内南方の各郡と、半農半漁あるいは街商や土工仕事に従事する摂津・和泉の沿岸部の住民、後者は水害や旱魃の影響を受けやすい新田の住民でもあり、彼らの困窮度が著しいとしている。
 それでは、その貧窮の拠って来たるところが何かについては、先立つ不景気に要因を求めている。前々年の旱魃、前年の風水害、米価低下の農業への打撃、金融活動の低迷、地場の商業活動の萎縮、設備投資の抑制等による負のスパイラルが顕著であると述べる。
 そのため、河内木綿生産地では農業の傍ら生計を支えていたこの地場産業が休止状態に至っているとしている。また、沿岸部では風水害の被害に加えて、近海水運の発達が逆風となって他府県からの水産物に押され沿岸漁業の不振に繋がっている。同時に、営繕工事などの需要もなく日当稼ぎによる収入の道が閉ざされているともしている。
「恰モ商戸ノ不景氣ニ依リ農家其職ヲ失ヒ農家ノ窮迫ニ依リ商業振ハサルノ状況ニテ其勢ヒ農商相竢テ窮域ニ至ルモノノ如ク其原タル天災ト世變トニ起因シ已ムヲ得サル次第ニハ候ヘ共畢竟農民ハ數年閒ノ豐饒ニ慣レ漸ク奢侈ニ流レ敢テ備虞ノ念ナカリシノ致ス所其窮民ヲ見ルニ十中七八ハ惰民ニシテ平生餘資ヲ存スルノ思念ナキ輩ニ有之モ目下大ニ悔ル處アルモノノ如クニシテ又憫諒スヘキ次第ニ付曽テ郡長ヲシテ有志者ノ諭シ夫々救濟ヲ施シ居リ候義ニ有之本年收麥ノ後ニ至リ候ハハ少ク挽回ノ色ヲ見ルヘクト被存候」
 景気の悪化が農家副業の壊滅を招き、農家の窮状が商業の不振に波及したという単純な循環論の感がある。ここで気になるのは、天災や経済環境の変化が貧民窮迫の要因だとしても、以前の好況に気を良くし奢侈に流れて蓄えを怠った彼ら自身の問題でもあると、いささか上から目線での叙述である。現在の行政なら考えられないような言い方であるが、時は明治初年、行政官が二本差しだった時代からさほど隔たってはいない。また、各地で郡長以下有志者により指導強化に務め事態は改善に向かうだろうと、やや楽観的な物言いにも見える。
 この報告が纏められた直後に淀川大洪水が起きるのである。まさに貧しい人たちにとってはダブルパンチのようなものである。中長期的には経済活性化に繋がる建設工事等の復興需要をもたらすにしても、経済活動の低迷期に発生した大規模自然災害からの復興への道は険しいものがある。さらに、近世からの商都としての歴史を持つ大阪にとって、第一次産業、第二次産業のみならず、商業活動の再起こそ喫緊の課題でもあった。
琵琶湖疏水への懸念
 淀川大洪水の直後に書かれた大阪府知事宛の請願書が残っている。明治18年9月14日の日付で、請願者は大阪商法会議所会頭五代友厚の代理として副会頭藤田傳三郎の名がある。藤田傳三郎は淀川洪水の罹災地を買い取り、そこに大阪本邸(網島御殿、現在は藤田美術館、太閤園、藤田邸跡公園など)を建てた人物でもあり何やら因縁めいている。
 大阪商法会議所とは大阪商工会議所の前身であり、藤田傳三郎は五代友厚の後を襲い二代目会頭となる著名実業家である。明治大阪の経済界を支えた大物二人が名を連ねた請願書には何が書かれていたのだろうか。
「本年我府下ノ水災タル古今未曾有ノ惨狀ヲ極メ當地商業上ノ如キモ其損害ノ及ブ所實ニ測ルベカラザルモノアルヲ以テ當會議所本分ノ存スル所ニ對シ充分此ニ盡ス所ナカルヘカラズ而カシテ此際現在ニ感覚スル所ヲ以テ後来ニ之ガ防害ノ道ヲ討尋論究セントスルニ就テハ固ヨリ其事端多シト雖モ就中琵琶湖疏水ノ一事ハ他日竣功ノ上ハ直接ニ当府下水理上ニ影響ヲ與フベク而カシテ今般ノ水災ニ於テハ毫モ関係ヲ有セザルハ言ヲ俟タザル所ナルモ的面這回ノ水災ニ遭遇セルニ於テ右疏水ハ果シテ當府下ニ害ヲ及ボスベキヤ否ヤ将其害ノ深浅如何トノ講究ヲナシ之ニ處スルノ道ヲ求ムルハ決シテ忽カセニスベカラザルコト」
淀川大水害が起きた明治18年、その年の6月に琵琶湖疏水が着工されている。第1疏水の完成は明治23年のことであり、淀川大洪水と疏水工事との関係はない。しかし、ここで大阪商法会議所が示している懸念は次のようなものである。
琵琶湖疏水完成の暁には疏水を経て淀川に流れ込む水量の増加が見込まれるため、今回のような集中豪雨ならずとも、梅雨期の増水でも浸水被害発生の惧れがある。今回の水害では、倉庫に蓄積した商品の直接的損害は概算百万円に及び、浸水防止や浸水後処理に係る費用、更には販路滅失や貸倒れに伴う損失を含めると膨大な金額となった。琵琶湖疏水の影響を過大視するものではないが、世間の疑念に発する諸国の荷主などに及ぼす風説被害も無視できないものであるとしている。大阪商法会議所の立場として、大阪経済への負のインパクトに警鐘を鳴らしていると言えよう。
疏水の計画はひとり京都府の成すものではなく、関係府県、つまり滋賀県及び大阪府への影響を勘案し、中央政府内務省の認可となったものであり、大阪府が等閑視されていたとは見ないが、実際の工事実施に当たっては適宜の変更も発生しうるし、水量調節に際しての閘門の開閉という問題では利害相反の惧れもある。さらに、内務省から派遣された技師、田邊某氏の言として「大阪府下ニハ幾分ノ害ヲ與フベキモ之ヲ防止スルノ道ヲ盡セバ即チ其害ヲ免カレ得ベシトノ見込ナリ」と一定の悪影響が予見されており、京都府の負担において大阪府下淀川流域の堤防工事を行う事が認可の条件となっていたと漏れ聞いている状況である。技術的根拠については大阪商法会議所として云々できる立場ではないが、府下の住民や商業者、ひいては各地の荷主の安心が最大の関心事であることを繰り返し力説している。
請願はどうなったか
この大阪商法会議所の請願書はその後どう取り扱われたのだろうか。明治18年11月26日付で内務卿官房長心得内務権大書記官久保田貫一の発信名義で知事宛の文書が残っている。曰く、「本年十月十三日付ヲ以テ貴府商法会議所請願ノ儀ニ付御内申相成處該會議所ハ其資格上右等事件ニ對し請願ヲ爲シ得ヘカラサル者ニ付該請願書ハ受理相成ヘキ限リニ無之ト存候條別紙御返却此段及御通牒候也」という何とも素っ気ないものである。
12ベージにも及ぶ請願書は、内容の重複も多く表現も回りくどく冗長で、必ずしも読みやすいものとは言えない。しかしながら、大阪の商業発展の弊害となるかも知れない水害発生の風評被害を抑止するため、琵琶湖疏水の影響有無を改めて精査すべきと諄々と訴えるものである。ところが、大阪府からの内申に対する中央政府からの回答は肩透かしに近い。
ここで請願者要件を満たさないとして退けているのは、明治15年12月の太政官布告第58号の「請願規則」に拠るのであろう。回答には根拠条項が明示されていないので判断が着かないが、第5条の「府縣郡區總代又ハ結社總代ノ名ヲ以テ請願スルコトヲ得ス」、第6条「請願書ヲ上程スルニハ代人ヲ以テスルコトヲ許サス」、第13条「凡ソ事ノ建白ニ属スヘキ者ハ人民各自ノ利害ニ係ルヲ以テ請願スト雖モ受理セス」としている辺りが根拠と思われる。明治22年公布の大日本帝国憲法第30条で「日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」と定められる以前のことである。いずれにせよ、大阪商法会議所の請願書はそのまま大阪府に留置されることとなる。
その後も琵琶湖疏水の事業は進められ、明治23年には第1疏水、明治45年には第2疏水が完成し、現在に至っているのは周知のとおりである。結果だけをみれば、五代、藤田の懸念は杞憂に終わったとも言える。
蘭人、デ・レーケ
琵琶湖疏水の立役者であり、日本の近代土木工学の礎を築いたと称される田邉朔郎を“田邉某”と呼ぶ一方で、大阪商工会議所の請願書で全幅の信頼を寄せていたのがオランダ人技師、デ・レーケである。「内務省御雇蘭國人デレーキ氏ハ有名ノ水理博士ニシテ嘗ツテ淀川流域ニ係ル御用ヲ担任シ數年間淀川水理上ニ従事シ最モ實際ニ明ラカナル人タリ」として、現在は本国に帰国中であるが年内に再来日した暁には、「同氏カ精確ナル測定ヲ得テ障害ノ有無深浅ニ係ル疑義ヲ決シ実ニ進止ヲ定ムルノ外ナシト思考セリ」と結論付けている。つまり淀川治水に長年の経験を持つデ・レーケの分析判断の結果、問題なしとのお墨付きが得られれば、ネガティブな風聞を一掃して大阪の商業発展に資することになると強調している。ここには、明治新政府の下での国造りにおいて、各方面で重用された御雇外国人への評価の一端を示すものがある。
 デ・レーケの足跡は現在も残されていて、筆者は山歩きの際に何度か遭遇したことがある。それは、淀川流域とは言っても大阪府よりも上流、京都府や滋賀県にある。次図は京都府木津川市のJR奈良線棚倉駅付近の地図と写真である。駅の近くのトンネルの上は山でなく川である。木津川支流の不動川が天井川となっており、付近の集落のずいぶん上を流れている。これは、東側の山地を侵食した土砂の堆積の結果であるが、この不動川上流にはデ・レーケの築いた堰堤があり、現在は不動川砂防歴史公園となっており彼の胸像もそこにある。
 もうひとつは滋賀県大津市、瀬田川支流の天神川流域に築かれたデ・レーケゆかりの鎧(よろい)堰堤である。地図上にはダム湖が表示されているが、いま現地にそんなものはない。地図に記された水面は完全に土砂に埋まり、山中に原っぱが広がっている。明治の堰堤はその役割を終え、外側に新しいダムが二重構造のように建設されている。
 これらはいずれも地質的には花崗岩地帯であり、脆く崩れやすいところに、近世の皆伐で禿山となったことが土壌流出に拍車をかけた。淀川の治水のためには遥か上流から手を付けないと成果が得られないということから、手がけられた事業が明治の遺産として姿をとどめている。
御雇外国人の足跡
 本稿の冒頭に掲げた天気図は明治18年のものだが、その2年前、明治16年から天気図の作製が始まっているので最初期の天気図と言える。明治17年からは毎日3回の天気予報が開始された。ただ、それ自体は全国の予報を一文で表現する程度のものであり、放送等のない時代のこと、派出所に掲示されたという。現在の観測体制や予報精度と比べれば昔日の感がある。ここでも御雇外国人であるドイツ人クニッピングという名前が残っている。先立つ気象観測機器の導入に際しても英国人技師たちの活動が記されている。
 こうしてみると、明治18年の淀川大洪水の前後、治水や気象観測の分野で近代化への大きな動きが起きていたことになる。往時の大災害防止には直結しなかったものの、明治初期に導入された西洋の先端技術はその後の防災の礎となったものとも考えられる。
未来への糧
毎年のように水害を中心とする自然災害が繰り返されている日本列島、過去の災害の記憶を風化させないために、大阪府でもホームページ上で「大阪府を襲った主な災害」の項を設けている。そこで取り上げられているのは、昭和9年室戸台風、昭和25年ジェーン台風、昭和27年7月豪雨、昭和28年台風13号、昭和36年第二室戸台風、昭和42年7月豪雨、昭和47年7月豪雨、昭和47年台風20号、昭和57年台風10号及び豪雨、平成7年7月豪雨、平成11年8月豪雨と、枚挙に暇がないほどである。しかしながら、ここには明治18年の淀川大洪水の記述はない。“明治は遠く…”、もはやそれを経験した人はこの世にいない。
「大阪百年史」には明治18年の被害状況として、府下全域の合計で堤防決壊211、浸水町村997、流失家屋26,121戸、死者293人との記載がある。昭和以降の大阪府内の市街化や人口増を勘案すると、数字の単純比較だけでは当時の深刻さの度合は推し量れない。
経済低迷期に襲った大災害であったため、その後の復興に向けた動きにも予算面での壁は厚かった。象徴的なものは、大阪市内で落橋した木橋の鉄橋での再建で、この措置を講ずるにも事業期間の延長(3年を6年に)や、国への支援要請を絡めてようやく予算案が成立するという状況であった。抜本的な対策として求められたのは、大阪市内中心部を縦横に流れる淀川下流の水を迂回させることであり、現在の淀川、即ち放水路としての新淀川の開削がその後に進められることになる。その完成は淀川大洪水から四半世紀近く経過した明治42年のことである。ちなみに、かつて淀川に合流していた大和川が付替られて堺に西流するようになったのは1704年(宝永元年)のことで、新淀川の完成から約2世紀も遡る。自然相手の取組は時間軸がとても長い。
前述の「洪水状況一班」の中に、80年前あまり前を振り返るくだりがある。曰く、「今ヲ距ル八十餘年享和度ニ洪水アリ枚方ノ下決潰セシモ其浸水スル所三郡ニ過キス当度ノ水害ハ之ニ幾倍シ實ニ前代未聞ノ洪水ナリシ」
これは、中央政府に復旧の困難度と大阪府の窮状を訴えるための書きぶりではあるが、決して誇張ではないだろう。明治となってから満150年の平成30年、130年あまり前の、淀川大洪水を改めて振り返る意義はあろう。
 
【参考文献】
大阪府資料「秘書綴 明治17年~明治19年」
(請求記号 B0-0059-11)
「明治18年大洪水被害詳細上奏案奉呈案」
   (件名番号0000099119)
内務卿へ御内申案[琵琶湖疏水工事が水災を及ぼすかについて商法会
 (件名番号0000099138)
草案[管内民間窮民の状況]
(件名番号0000099112)
請願書[琵琶湖疏水工事が水災をもたらすかについて]
  (件名番号0000099139)
大阪府「大阪百年史」
    (請求記号 C0-0059-1903)
高倉史人「戦前における大阪の自然災害と府の対策」
大阪府公文書館「大阪あーかいぶず」第27号 平成12年9月
https://archives.pref.osaka.lg.jp
淀川資料館ホームページ
http://www.yodo-museum.go.jp
近畿中国森林管理局ホームページ
http://www.rinya.maff.go.jp
気象庁ホームページ
http://www.jma.go.jp
大阪府ホームページ
http://www.pref.osaka.lg.jp
 
(大阪府公文書館専門員 的場 茂)
 


「府庁山」探訪 遡れば、昭和3


奇妙な名前の山がある
「日本国」という名前の山(新潟県村上市と山形県鶴岡市の境)もあるぐらいだから、この程度で驚いてはいけないが、「府庁山」とは変わった名前だ。大阪府河内長野市に実在する600mほどの低山、国土地理院の地図では非表示だ。さて、どんなところだろうと出かけてみた。
 ここに登る人もいるようで、市販の登山地図にはコースが書き入れられているし、ちょっと詳しいガイドブックなら載っている。南海電車の千早口から天見まで周回するのが一般的なようだ。私は天見駅から歩き出して、石見川沿いの小深に下山した。
 
天見駅の横の踏切を渡って東側の谷に入る。10分ほど行くと左に旗尾岳への道が分かれる。登山地図にも実線表示されているだけにしっかりした道が付いている。林間の道は徐々に勾配がきつくなり、やがて尾根に達する。1/25,000地形図の破線は誤りだ。こんなところまで現地踏査はできないし、地元自治体の情報をあてに記載するとよく起きることだ。逆に航空写真で確認できる送電線の位置は正確だ。送電線の鉄塔周辺は切り開かれていて展望が得られるが、大概は植林帯だ。1時間ほどで登り着いた旗尾岳(別名、天見富士)も林の中で山頂からの眺望はない。ここから東へ稜線を進むと、向こうから中年登山者が一人。
「どちらから登って来たんですか」
「天見からです。そちらは」
「千早口からクヌギ峠経由です。蜘蛛の巣が多くてねえ」
「いや、こっちも多くて。でもこれから先は、だいたい取れてますから」
「ははは、こっちもですよ」
誰もいないと思っていたのに、別の登山者とすれ違うとは。蜘蛛の巣も掃われてお互い助かるというもの。この人は標準ルートで来たようだ。小深への降り口は判らなかった由。ということは、この先、しっかり地図読みしなくては。案の定、府庁山から先の分岐地点と思しき箇所に標識の類はない。1/25,000地形図と勘を頼りに北東方向に折れ、登山道とも山仕事の道ともつかぬ急斜面の踏み跡を伝って小深口バス停に無事辿り着いた。
府庁山登頂
 さて、小さなアップダウンを繰り返して到着した府庁山山頂には三角点があるわけでもないし、地図に独立標高点の表記もない。等高線の具合からほぼ標高610mと推定できるだけだ。樹林に囲まれたわずかな切り開きの真ん中には背の高いスギが一本。その足元には近くの尾根筋でも見かけた、一文字「府」と彫り込まれた標石、なるほどいかにも府庁山らしい。
 そもそも、どうしてこんなヘンな名前が付いたのか、ガイドブックには「大阪府がこの山一帯を借り上げて植林を行ったことから府庁山と呼ばれるようになった」という類の記述があり、ネット上ではその引用と思しきものが目につく。
府庁山のルーツを探る
 なんとなく府庁山の命名の謂れは判ったのだが、それはいつ頃のことなんだろうか。府庁山一帯の樹木は年輪を重ねているから、昨日や今日のことではなさそう。ネット上をあちこち彷徨っているうちに、植林時期を1929年としているものが見つかったので、その頃に大阪府で何があったのかを調べてみた。
当時、大規模な植林事業を大阪府が手掛けたとすれば、必ず府議会に予算が提出されているはず、「大阪府會史」には「記念造林事業」の記述があり、昭和3年(1928年)以降10年間にわたり、府直営または府下町村への補助金として多額の支出が行われたことが記されている。10年間の総額は60万円を超え、現在の価値にすれば10億円超が投じられたことになる。
今回、歩いた府庁山あたり、すなわち南河内郡天見村は、豊能郡枳根荘(きねしょう)村、北河内郡田原村、泉南郡東鳥取村と並び、最初期に事業化された場所で、昭和4年12月までに造林が施行されている。通常、スギの造林サイクルは50年と言われるので、既に90年近い年月を経ている現在、私が目にした植林帯は第二次のもののようだ。
何の記念だったのか
昭和3年の府議会で決議された造林事業は、その年の11月に京都御所で昭和天皇即位の大礼が行われることに関係するものである。大阪府では大礼に伴い、奉祝関連費用(117,317円)、警備関連費用(105,000円)、記念事業費関連費用を予算化し、記念事業としてはこの造林事業(初年度46,410円)のほか、労働者救護費、乳幼児保護施設費からなる社会事業(12,391円)の二本立てであった。
即位の大礼は大々的な国家行事の位置づけで、府下の多数の人士が参加する行事関係費用の多さが目立つ。また、前年の名古屋地方特別大演習の際に起きた直訴事件の影響や、京都府隣接という地理的条件も勘案して警備関連費用も多額に及んでいる。
本論の造林事業に戻ると、府議会で当時の力石雄一郎知事は「永年に亙って事業を経営して或る事柄を記念する、殊に今回の如き御大典を記念し奉ると云うことに就ては、最もふさはしい自然の事業であると考へまする」と、説明している。
具体的には、大阪府下の公有林8700町歩のうち、無立木地粗悪地で至急植林を要するものが2000町歩存在するという調査に基づき、1000町歩を府直営で、1000町歩を町村への補助金支給にて10年間で事業を推進するという計画であった(1町歩=0.99ha)。さらに、造林事業の効果として、国土保安、水源涵養、外国材の輸入防止といった事柄が挙げられているとともに、50年後の伐採時には2000万円の収益を見込むとも力石知事は述べている。
確かに、一過性の記念事業ではなく、長いスパンを見据えた植林事業への府の取組は評価できることだ。しかし、その後に起きた、安価な輸入材の流入、林業の担い手の減少などにより、必ずしも企図したとおりにはならなかったようだ。今回、現地を歩いていても、間伐はされているものの横たわったままの樹木が散見されて手入れが十全とは言い難い。将来に向けて緑の山の景観は維持されたものの、この時期以降に植林された大量のスギのおかげで、春先の涙や鼻水という悩みを抱えることになってしまったのだから、ちょっと複雑なものがある。
別稿では明治18年の淀川大洪水に触れているが、治水事業には上流地域の保水が不可欠と言える。息の長い植林は重要な取組である。淀川大洪水は昭和3年から遡ること43年、当時には大阪府を襲った大災害の記憶を留める人も少なからずいたはずだ。
(公文書館専門員 的場 茂)
 


戦前と終戦直後期における大阪府の台湾出身者について―大阪府の歴史的公文書から読みとく―


■はじめに
本稿は、大阪府公文書館所蔵の歴史的公文書などの資料を利用し、従来あまり知られていなかった戦前と終戦直後期の大阪府に在留した台湾出身者(行論の便宜上、以下では「在大阪台湾人」と呼ぶ)の実態について調査した成果の一部を紹介するものである。
近年、海外旅行先としての「台湾」、あるいは訪日観光客としての「台湾人」は、各方面から大いに注目される。たとえば、2016年度の日本の高校の海外修学旅行先の調査では、台湾は262校4万1878人で米国を抜いてトップに立った 。また、2017年の訪日外国人観光客(2869万人)のうち、人口約2300万の台湾は3位の456万人だったが、旅行消費額(4兆4161億円)が2位の5744億円であった 。
一方、日本の地域社会には、戦前の日本に渡り、戦後も引き続き在留する台湾人が居る。
周知のように、1945年以前の日本は、台湾・樺太・関東州・朝鮮・南洋群島などの「外地」を有する「帝国日本」であった 。日本「内地」の人が植民地などの「外地」に移動したり、あるいは「外地」の人が日本「内地」に移動したりする事例は決して珍しいことではなかった。「帝国日本」の崩壊以前、「外地」に居住していた日本人は300万人を超えたという 。一方、「内地」に居住していた占領地・植民地出身の人は、1946年2月28日の調査によると、「朝鮮人」が156万1358人、「中国人」が5万6051人、「台湾省民」が3万4368人だった 。ちなみに、「台湾省民」 というのは台湾出身者を示す用語である。
ところで、戦前の在日外国人研究において、在日台湾人研究は在日朝鮮人研究よりはるかに立ち遅れていることが否めない 。また、戦後の東アジアを取り巻く複雑な国際的環境のもと、在日台湾人を華僑として見なす傾向があり、在日台湾人は、ほとんどの場合、中国大陸出身者を対象とする在日華僑研究のなかで付随的にしか扱われてこなかった 。
確かに、2016年末現在、大阪府の在留中国人5万6217人に対して、在留台湾人は5951人である 。いわゆる中華系外国人のうち中国出身者が圧倒的に多い。しかし、1948年7月末、法務庁国勢調査課の調査によると、大阪府の在留台湾人は2976人、中国人が1656人であった 。また、1952年1月末法務省の調査では、大阪市の台湾出身者が2896人であり、中国大陸出身者の1,787人よりも多かった 。さらに、1964年4月の留日大阪華僑総会の調査結果によると、華僑全体6566人のうち、台湾出身者が約7割の4411人であった 。中国大陸出身者が急増する1980年代までは、大阪の華僑界においては、実は台湾出身者が多数派であった。
在大阪台湾人は、戦前の大阪府に渡り、戦後も大阪府、あるいは近畿地方に残って実業家として一定の社会的成功を収めた者が少なくない。しかしながら、台湾出身者がどのような目的で戦前の大阪に渡ったのか、また、終戦直後期においてどのような境遇に置かれていたのか、いまだ解明されていない点が多いように思われる 。
 上述の課題の解決に少しでも接近するには、大阪府の歴史的公文書を利用することが一つの方法として考えられる。以下、本稿では、『大阪府統計書』、『知事事務引継書』など大阪府の歴史的公文書のうち、在大阪台湾人に関連する箇所をビックアップしたうえ、行政側が彼らをどのように把握しているのかを紹介しながら、戦前と終戦直後期の在大阪台湾人の実態の一端を明らかにしたい。これにより、グローバル化が進む今日においては、訪日観光客としての台湾人だけではなく、日本の地域社会のなかの台湾人への理解が少しでも深めることができれば幸いである。
なお、現在の人権意識からすれば適切でない用語は歴史的公文書で使用している場合がある。本稿では、そのような用語を当時の雰囲気を伝える言葉として、あえてそのまま引用する。この点については予めお断りしておく。

■『大阪府統計書』
まず、本稿で調査対象とした時期の在大阪台湾人の人口を正確に把握する必要がある。ところで、管見の限り、既存の研究では、在大阪台湾人の人口について、戦後占領期の統計データはあるが、戦前のそれはない 。
そこで、戦前の大阪府発行の『大阪府統計書』でその手掛かりとなるものを探してみた。というのは、『大阪府統計書』は、府下の土地、人口、経済、社会、文化など各分野にわたる統計資料を体系的に収録し、府政全般の現状と推移を知ることができる最も基礎的な資料だからである。そこに植民地出身者を含めた外国人が統計資料として残っていると考えられる。
台湾出身者が統計の対象として初めて登場したのは、1926年の『大阪府統計書 大正十五年昭和元年』である。

当該統計書の「管内在留ノ植民地人及外国人」 という統計表には「臺灣人」という項目があった〔資料1〕。それによれば、台湾人が1923年末では22人となっているが、それ以前のデータがない(「-」と表記)。1924年と25年ともに「?」と表記され、1926年末では42人(女子が8人)となっている 。ちなみに、同時期のもう一つの植民地朝鮮の出身者は3万5229人である。
しかし、このデータは正確でない可能性がある。というのは、翌年度の統計書では、同じく「管内在留ノ植民地人及外国人」という統計表があるが、1924年から1927(昭和2)年までの台湾人の数をすべて「?」と表記しているからだ〔資料2〕。

その後、1930年度までの統計書では台湾人の数がすべて「?」と表記されている 。1931年以降の統計書では「臺灣人」が統計対象から外されている(〔資料3〕は1931年のもの )。

「臺灣人」が統計対象としてまともに取り扱われなかった戦前の状況は戦後になって変わったのであろうか。戦後、1940年に停刊となった大阪府公式統計書が復活したのは『昭和25年 大阪統計年鑑』である。それによると、「昭和22年臨時国勢調査外国人表」のうち、「台湾省民」という表記の欄はあるが肝心のデータがない。欄外の注で確認すると、「台湾省民を中華民国人の中に包含されてゐる」という記述がある。なるほど、台湾出身者を「中華民国人」として計上しているのである 。このように、戦後復刊第一号の統計書からも在大阪台湾人の人口を明確に確認することができない。
以上のように、戦前戦後の大阪府の公式統計資料だけでは、在大阪台湾人の人口を正確に知ることが難しい。それでは、本稿が調査対象とした時期の在大阪台湾人の人口を知る術はないのだろうか。実は、次の『知事事務引継書』にその手掛かりとなる資料が残っている。

■『知事事務引継書』
周知のように、戦前の府県知事は中央政府(内務省)による官選であった。明治6(1873)年太政官達第251号「府県事務請受渡規則」は、「廃府県又ハ長官転任免職等ノ節ハ奉職中ノ事務并取懸リノ事件後来ノ見込ヲ詳記セル演説書ヲ作リ先前ヨリ継送ノ書并現今取扱ノ諸簿冊目録ヲ添へ土地人民引渡新任旧官互ニ受渡ノ証書ヲ交付スヘキ事」と規定し、知事が交代するたびに、前任知   事に知事事務引継書の作成を義務づけていた。官選知事の任期は平均して2年に満たないほど頻繁に人事異動が行われていた。新任知事にとって、府県地方情勢をいち早く把握するために作成されたのが『知事事務引継書』である。そのため、戦前の当該書類は、管内の情勢をかなり詳しく記録しているものとなり、「近代日本の府県行政一級資料」であるといわれている 。
戦後にも知事の事務引継書類の作成が義務付けられている。地方自治法(1947年法律第67号)および地方自治法施行令(1947年政令第16号)では、知事は事務を引き継がなければならず、その場合は書類、帳簿及び財産目録の調整等をしなければならないと規定されている。しかし、各府県の事情もあり、すべての知事事務引継書が必ずしも残されているとは限らない 。
以下では、大阪府公文書館が所蔵する『知事事務引継書』のうち、本稿の調査に関連する箇所を中心に紹介する。

① 『知事事務引継書 昭和16年1月』(B2-0063-11)
まず、1941年1月、半井(なからい)清(きよし)から三邊(みべ)長治(ながはる)への知事事務引継書である(『三邊知事事務引継書』)。終戦間際、大阪府は重要文書の疎開という保全策を採ったが、その疎開先で空襲を受けたことで、疎開文書が焼失してしまった経緯があった 。この『三邊知事事務引継書』は、疎開作業の手違いで、府庁の倉庫に残された結果、奇跡的に焼失から免れたという 。
さて、この引継書には、「特高課関係事務引継書類」という資料が含まれている。「特高課」というのは、戦後に廃止され現存しない警察組織であるが、1912年10月に、社会運動を取り締まるために、大阪府警察部の高等警察課から独立して設けられた特別高等警察課のことである。いわゆる特高警察は、社会主義者、社会運動の取締にあたったので、思想警察ともいわれている 。
「特高課関係事務引継書類」のうち、「第一章 在住台湾人ノ概況」の「第一節 台湾人増加ノ状況」では台湾人の人口データが記されている〔資料4〕。
前述の『大阪府統計書』にはない在大阪台湾人の統計データが、特高警察の資料では昭和8年から昭和15年まで存在している。これによると、台湾人が昭和8(1933)年にわずか62人(男性39)だったものが、昭和15(1940)年6月末には、1472人(男性1222)まで増加したことが記されている。ちなみに、朝鮮出身者は、昭和8年では14万277人、昭和15年末では31万2269人である 。
さらに、当該資料には戦前の在大阪台湾人の実態の一端を
窺わせる記述が続く。

 殊ニ近年急激ノ増加ヲ来タシ多クハ労働ヲ目的ニ渡来セルモノニシテ其ノ原因ノ主タルモノハ内地ニ於ケル殷賑産業労働者ノ需要激増セル為渡来希望者ノ続出セル結果ニシテ現在ニ於ケル台湾人在住者ハ 当初鮮人ニ比シ 稍々教育程度高ク実直勤勉ナリシガ数ノ増加ト共ニ 漸次民族的反感ニ依リ 内鮮人トノ間ニ摩擦ヲ生ジツヽアリ 然モ一般工場経営者等ハ労働者拂底ノ折柄其ノ雇傭ヲ歓迎シツヽアル状態ナルヲ以テ 嚴重取締ヲ加へツヽアリ 尚在住台湾人中ニハ 教師二名醫師開業三名其他機械設計製図学院ヲ開設セルモノ会社事務員等アリ 斯クシテ漸次社会的経済的地歩ヲ獲シツヽアリ

近年急増した在大阪台湾人の多くは「労働ヲ目的ニ渡来」しており、その背景には、「内地ニ於ケル殷賑産業労働者ノ需要激増」ということが挙げられている。在大阪台湾人は、おおむね「教育程度高ク実直勤勉」であるが、人数の増加とともに、「漸次民族的反感」が高まり、「内鮮人」との間にトラブルが生じ始める。戦争徴兵のため若年の日本人労働者が少なくなる工場では、台湾人の労働力を歓迎する傾向が強まってきたことに対して大阪府の特高警察が「嚴重取締」で臨んだ。なお、2名の教師と3名の開業医をはじめ会社事務員などのインテリ台湾人も居ったと観察されている。
この1472人の在大阪台湾人の動向について、「第二節 思想傾向」では次のように説明している。

 在住台湾人ハ一般ニ極端ナル拝金主義者多ク人情稀薄ニシテ 内地人ト交遊少ク 支那事変ニ対スル態度モ積極的愛國心ナク 一見平静ヲ装ヒ居レルモ 其ノ胸底ニ潜在セル民族意識ハ数ノ増加ト共ニ團結力トナリ 既ニ内地在住台湾人ヲ折ツテ一丸トスル親睦團体「台湾同郷会」ノ組織活動ヲ為サントセルモノアリ 尚台湾人学生ノ間ニハ「蓬友会」ナル名称ノ下ニ卒業生送別会等ノ 開催ニ藉口シ学友会ヲ結成スベク奔走セルモノアリテ 之等ハ内台間ノ諸種ノ連絡機関トシテ活動スルコトヲ予想セラレ将来民族主義思想醸成ノ温床タルノ虞アルヲ以テ嚴重注意中ナリ

在大阪台湾人は「支那事変」(1937年の盧溝橋事件)が起きても「積極的愛國心」を見せることがなかった。しかし、それは「一見平静ヲ装」っていたものであって、「其ノ胸底ニ潜在セル民族意識」は、人数の増加とともに、在大阪台湾人間の「團結力」となっていく、ということを大阪府の特高警察は予見している。その裏付けとしては、在日台湾人の親睦団体「台湾同郷会」と、留学生の「蓬友会」の結成が挙げられている。これら団体の活動に対して、「将来民族主義思想醸成ノ温床タルノ虞」があると大阪府の特高警察が判断し、強い懸念を抱いている。

② 『知事事務引継書  昭和21年1月』(B2-0063-12)
次は、終戦翌年の1月に作成された新居(あらい)善太郎(ぜんたろう)から松井(まつい)春生(はるお)への知事事務引継書である(『松井知事事務引継書』)。
終戦直後の時期というのは、在日外国人の送還事業が行われた時期でもあった。在日外国人の送還は、第一期1945年9月~46年3月、第二期46年3月~12月、第三期は47年~50年という三つの段階に区分することができる。第一期の送還は、GHQの通知により在日朝鮮人や台湾人などが自発的に地方援護局に集合し、日本政府によって行われていた 。『松井知事事務引継書』の作成時期は第一期にあたる。
それでは、大阪府の在大阪台湾人を含めた外国人送還事業がどのように行われたのであろうか。この点について、『松井知事事務引継書』には、大阪府内政部民政課が作成した「外国人ニ関スル件」という資料が残っている。この資料の作成時期は不明であるが、1945年下半期の状況がまとめられている模様である。大阪の外国人の人口データが記されている〔資料5〕。
 続いて「台湾人計画輸送ニ関スル件」は、台湾人の送還事業について次のように述べている。

  當府在住者中帰國希望者約四千名アリテ現在帰國申込済ノモノ七二四名ナリ 厚生省ニ於テハ朝鮮人計画輸送ノ取扱ニ準ジテ立案中ナルヲ以テ近ク呉港ヨリ乗船ヲ以テ本計画輸送開始セラルヽ予定ナリ

以上の資料からは、終戦直後の時期において在大阪台湾人が4329人であり、そのうち約4千人が帰還を希望していたことがわかる。在大阪台湾人の送還輸送事業について、厚生省が「朝鮮人計画輸送ノ取扱ニ準ジテ立案中」で、「近ク呉港ヨリ乗船」するとしている。興味深いのは、約9割の在大阪台湾人がふるさとの台湾に戻る意思を持っていたのに対して、中国大陸出身者1300人全員が残留することである。ただ、在日台湾人の法的地位がまだ確定していない段階 のはずだが、なぜか台湾出身者が中国人として計上されている(一応、内訳で区別するが)。

③ 『知事事務引継書  昭和21年6月』(B2-0063-13)
つぎに、1946年6月に作成された松井春生から田中(たなか)広(こう)太郎(たろう)への知事事務引継書(『田中知事事務引継書』)である。これにも外国人送還事業に関連する資料が残っている。
②で述べた在大阪台湾人の送還事業はすでに開始されている。当該事業について大阪府公安課が作成した「公安課関係事務引継書」という資料で確認することができる。
「四、渉外関係事項  二、中國関係 (一)在住者数及送還状況」では次のようなことが記されている。
まず、在大阪台湾人の呼称に変化があった。『松井知事事務引継書』での「台湾人」から「台湾省民」へと変わったのである。そして、昭和21(1946)年6月現在の在大阪台湾人の人口が2396人であり、そのうち、約76%の1838人が台湾帰還希望者であった〔資料6〕。
在大阪台湾人の団体についての記述もある。在大阪台湾人の帰国希望者の調査や生活安定の確保などの事業は、台湾省民が立ち上げた「大阪華僑聯合総会」が担当した。「大阪華僑聯合総会」は、中国大陸出身者が設立した「中華民国華僑聯合総会」と同じ建物(旧満州ビル)に入っており、「領事館設定迄の過渡的代行機関として居留民団的性格を有する団体」として活動していた
実は、終戦後、日本各地では別々に結成されていた台湾同郷会や台湾省民会と、中国大陸出身者からなる華僑団体などとの合併が進んでおり、1946年4月、各地華僑団体の代表は、熱海で会議を開催し、全国性の「留日華僑総会」と都道府県ごとに統一した華僑聯合会の設立を決議したといわれている 。ところで、『田中知事事務引継書』は、1946年6月という時点の台湾出身者の団体を「大阪華僑聯合総会」で表記している。

④ 『知事事務引継書  昭和22年2月』(B2-0063-14)
つぎに、1947年2月に作成された田中広太郎から大塚兼紀(代理)への知事事務引継書である(『大塚代理知事事務引継書』)。
当該資料のうち、「第三國人一般情勢 一、中国関係」は、在大阪台湾人について次のように記している。
1947年2月までの在大阪台湾人が少なくとも2935人であったと確認することができる〔資料7〕。在大阪台湾人の人口が1946年1月の4329人から47年2月の2935人になったのである。ただし、当初、4329人のうち約4000人が台湾送還を希望していたが、上記の資料では、送還希望者の約3割の1394人しか減少していない。
また、在大阪台湾人の団体については、まず、「大阪華僑聯合総会」の名称が「台湾省民華僑聯合会」(会長:陳承家)に変わったと記している。そして、在大阪台湾人の動向については次のように述べられている。

  昨年暮に帰國希望者の台湾への送還を実施したが、現在大阪に在住する台湾省民は比較的親日的で日本に永住する気持の者が多いが闇生活に依存する者が多く莫大な新円を獲得した連中も相当ある。
 
1947年2月現在も引き続き大阪に在留する台湾人には「比較的親日的で日本に永住する」意思を持つ者が多かった模様である。しかし、その多くは「闇生活」に依存しており、さらに「莫大な新円を獲得した連中」も相当数いると観察されている。

■その他の歴史的公文書
 これまで『知事事務引継書』で在大阪台湾人に関連する箇所をみてきた。調査した限りでは、他にも同時期の在大阪台湾人に言及する歴史的公文書が存在する。

① 『府参事会議案原稿綴 昭和21年 自3月至5月    第15号~第25号』(B2-59-172)
 この資料には、昭和21(1946)年2月18日、厚生省社会局長から大阪府に発した「昭和20年度在住台湾省民生活援護費国庫補助ニ関スル件」(厚生省発社第14号)という行政文書が含まれている。
日本政府が「終戦後在住台湾省民ノ生活ハ失職送金杜絶等ノ事由ニ因リ相当困難」のある要援護在大阪台湾人1487人に対して、生活援護費1人当たり月150円を支給することを決めた、という内容のものである〔資料8〕。終戦直後の在大阪台湾人4329人のうち、約4割が要生活援護者であった。この「台湾省民」に対する生活援護の実施期間は不明であるが、終戦直後、大半の在大阪台湾人の生活は厳しいものだったと推察することができる。

② 『地方行幸書類 昭和22年6月』(BB3-22-6)
 この資料は、戦後復興のために行われた昭和天皇の大阪行幸を詳細に記録する行政文書であるが、そのなかに在大阪外国人関連の「二、在住者数(アジア人関係)」という調査資料が残っている。それによれば、1947年6月の時点では在大阪台湾人の人口が3219人であった〔資料9〕。
これまでみてきた行政側が把握した在大阪台湾人の人口は、送還事業などにより、終戦直後の4329人から1947年2月現在の2935人に減少した。ところで、この1947年6月の調査資料では在大阪台湾人の人口が4か月の間に逆に微増している。それはなぜか。その背景には主に台湾における政治・社会の状況の変動が要因ではないかと考えられる。
終戦後、台湾は中華民国の領土となった。しかし、中華民国の国民党政府による台湾統治は、「国語=北京語」を知らないなどの理由で台湾人に対する社会的差別を意図的に行い、経済的には国共内戦などによるハイパーインフレーションも生じたため、日本の植民地統治より苛酷なものであったといわれている。さらに、1947年2月28日に発生した「二・二八事件」 で迫害を受けた台湾人が密かに日本に渡った事例も少なくなかったという 。このような台湾社会の現実を目の当たりにして、ふるさとの台湾に留まるよりも、むしろ日本に戻ったほうがよいではないかと考える送還者も出ようと思われる。
 さて、同調査資料には「思想傾向」という興味深い項目が続く。これは、在住外国人の思想を終戦直後から調査してまとめたものであるが、台湾人に関連する箇所は次のとおりである。
  
終戦直後において台湾人及び朝鮮人は従来の被圧迫民族としての反発として浅薄な戦勝国民としての優越感と解放民族としての立場を曲解して法令道徳を無視し経済違反と不法越軌行為を敢行して治安紊乱の要因をなしたのであるが、一面これが取締の衝に当たる警察はそれらに対する法権の帰属が判然としなかったのと警備力の不足によって充分取締を加えることができなかった。
  
 終戦直後の日本は混乱を極めた時期であった。食糧や生活用品などが極端に不足する時期に乗じて、闇市の取引などに手を出して金儲けに走る旧植民地出身者が少なくなかった。
  
  然しながら昨年2月法権問題が明確になると共に警察の武装化によって強力な取締を実施することが出来るやうに八月一日闇市場を閉鎖して経済撹乱の根源を断つと共に不法建物の撤去によって警察の威信は回復し、これを楔機として第三国人の犯罪も減少し遵法観念も漸く昻揚されるやうになった。
  (中略)
  中国人の中大陸出身者は概ね温順であるが台湾省民は本年三月以降中国代表団から華僑臨時登記證が交付せられ台湾省民に対する刑事裁判権が軍事裁判所へ移管されて以来登記證を特別の権利を証明するものの様に考へこれを悪用して優先的な乗車證の購入と優先乗車によって集団的な食糧買出しその他経済違反を敢行して経済撹乱の重大な原因となり国内秩序の回復に癌となってゐる。

 1946年2月の法権問題が明確になった とともに、在日外国人の監督・管理が軌道に乗り、戦災で自然発生した闇市も同年8月1日に閉鎖が命じられ 、さらに警察の武装化などにより、大阪府の治安秩序が徐々に回復した。そのようななか、1947年3月、在日台湾人に中華民国政府から華僑臨時登記証を交付された。これにより、「台湾省民に対する刑事裁判権が軍事裁判所へ移管」されることとなり、日本政府の刑事裁判権が在日台湾人に及ばなくなったのである。戦後の在日台湾人の法的身分がようやく確定された。しかし、中華民国華僑になった一部の在大阪台湾人が、連合国民の身分を「悪用」してさまざまな「経済違反を敢行」した。行政側はそのような行為を「経済撹乱の重大な原因」、「国内秩序の回復に癌と」なるものとして捉え、相当厳しい言葉を並べている。

■むすびにかえて
 以上、本稿は、大阪府の歴史的公文書などの資料に基づいて、戦前と終戦直後期において大阪府は台湾出身者をどのように把握していたのかをみてきた。
本稿が調査対象とした時期の在大阪台湾人の人口については、『大阪府統計書』にはその記載が明確ではなかったが、『知事事務引継書』をはじめとする大阪府の歴史的公文書で確認したところ、下図のとおりにまとめることができる。

在大阪台湾人の人口は、1926年の42人から、1945年の4329人までに増加したのである。戦後の送還事業が行われる当初、中国大陸出身者と異なり、在大阪台湾人全体の約9割がふるさとの台湾送還を希望していたことも記録されている。その後、戦後から減少傾向をみせた在大阪台湾人が、台湾側の政治的・社会的事情などによって、1947年6月の3219人まで逆に増えた。
戦前の大阪に渡った主な理由としては、内地の労働力の不足を補う形での出稼ぎが目的だったようである。そして、在大阪台湾人は、おおむね教育レベルが高く、人数の増加とともに民族意識が芽生えてきたと把握された。
終戦直後の混乱期のなか、生活が困窮した一部の在大阪台湾人は日本政府から生活援護を受けていた。日本の国内秩序が回復しつつあるなか、在大阪台湾人が1947年3月に中華民国から華僑として認定された。これでようやく在日台湾人の法的身分が確定されることとなったが、一部の在大阪台湾人が戦勝国民の身分を利用して不法行為に走ったということも資料に残っている。
 以上は、大阪府の歴史的公文書など公的な史料から確認した在大阪台湾人の概観である。それはあくまで行政側の視点から捉えたものであって、在大阪台湾人の本当の姿を解明するには、私文書をはじめ民間の史料をも利用し、さらに厳密な検証を行わなければならない。また、終戦前後、大阪の台湾人が中国大陸出身の華僑とどのような形で関わり合っていたのか、という問題が在日台湾人研究だけではなく、華僑研究の関心を引く課題でもあるように思われる。これらについては今後の課題としたい。
【公文書館専門員 謝 政徳】

※本文中に(B〇-〇〇-〇〇〇)という表記は大阪府公文書館所蔵資料の請求記号を示すもの。



江戸時代の指名手配書


 
はじめに
 写真や印刷の技術が進んだ現代、指名手配犯は顔写真や似顔絵が公表され、日本全国のあらゆる場所に掲示されます。では、写真のなかった江戸時代、どのような方法で周知されていたのでしょうか。
 時代劇では、似顔絵が高札に掲げられている場面をしばしば見かけます。しかしこれは演出であって、実際は、名前、年齢、出身地、身体的特徴や服装等、個人を特定できる情報を文字だけで書いたものが廻達されました。この人物の特徴が書かれた書面を「人相書(にんそうがき)」と呼びます。コピー機のない時代ですから、書き写す人の画力に左右されない方法といえます。
 今回紹介する史料は、今から約180年前の天保8(1837)年2月19日に起きた、大塩平八郎の乱の際に作成された人相書「〔書付、大塩平八郎ほか同胞の人相書写〕」(KY-0008-61。以下、本史料)1です。

1.史料の概要
1)大塩平八郎の乱について
 天保年間(1830-44年)は全国的に凶作が続き、なかでも天保3年から始まった天保の飢饉では、収穫が平年の半分以下になるなど厳しい飢饉となりました。大坂でも飢饉の影響は大きく、米不足が起こり餓死者が相次

ぎました。そのような状況下で、豪商たちは米の買い占めをはかり、大坂町奉行の跡部(あとべ)良弼(よしすけ)は豪商から買い入れた米を、江戸へ廻送していました。
 かつて大坂町奉行所の与力を勤めた平八郎は、良弼に窮民の救済を求め、豪商らに救済資金の貸し出しを求めましたが、それらは断られました。そこで平八郎は、自身の蔵書を売却し窮民救済に充てました。しかし一向に救済策を講じない良弼2と豪商に腹を立てた平八郎は、2月19日朝、蜂起しました。ところが、前日に町奉行所に情報が漏れたこともあり、乱は半日で鎮圧され、平八郎を中心とした主要メンバーは敗走の後、それぞれ自首、自害、捕縛されました。平八郎は蜂起から約40日後の3月27日、忰(せがれ)の格之助とともに大坂靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏しているところを見つかり、その場で自害しました。
 幕府の重要な直轄地である大坂で、幕府の元役人が反乱を起こしたことは、幕府に強い衝撃を与えました。
2)作成日
 本史料の日付は「酉二月廿一日申上刻書」とあります。「酉」は酉年、つまり丁酉(ひのととり)年の天保8年を指します。また、「申上刻(さるのじょうこく)」は、申刻(午後3時から5時)を40分ごとに3つに分けた、はじめの40分のことを指します。したがって、天保8年2月21日の午後3時に書かれたものであることがわかります。
 このように時刻まで書かれていることから、次々と情報が入ってくる、混乱した状況であったと推測できます。
 なお、「高槻役所」とあるのは、この当時、平池村が高槻藩領であったためです。

2.人相書
1)個々の人相
 指名手配犯となった6人の人相書は次のとおりです。なお、<  >内は筆者による現代語訳です。
 大塩平八郎
  一、年頃四拾五六才斗 〈45~46歳〉
  一、顔細く長く色白キ方〈顔は細長くて色白な方〉
  一、目はりつよき方  〈目張りは強い方〉
  一、額ハ開き月代薄キ方〈額は広く月代は薄い方〉
  一、鼻常体      〈鼻は普通〉
  一、背格好常体    〈中肉中背〉
  一、耳常体      〈耳は普通〉
   但し此筋剃髪いたし候由風聞も有之、其節着用黒陣羽織、其余着用不分
   〈ただし、剃髪したという噂あり。反乱当時は黒い陣羽織を着用、その他の着衣は不明。〉
 大塩格之助
  一、年廿七才     〈27歳〉
  一、色黒キ方     〈顔は色黒な方〉
  一、背低き方     〈背は低め〉
  一、鼻常体      〈鼻は普通〉
  一、目常体      〈目は普通〉
  一、眉毛濃き方    〈眉は濃い方〉
  一、上向歯二枚折有之 〈下の歯が2本折れている〉
 勢田済之助
  一、年頃廿五才斗   〈25歳〉
  一、色青キ方     〈顔は青い方〉
  一、背高肥肉     〈背は高くて太め〉
  一、目丸く二かわニ而大キ方
             〈目は丸く二重で大きい方〉
  一、月代薄ク小額有之 〈月代は薄く額は小さい〉
  一、鼻高キ方     〈鼻は高い方〉
  一、眉毛濃き方下り有之
             〈眉は濃く下がっている〉
 渡辺良左衛門
  一、年頃四拾壱才斗  〈41歳〉
  一、色青白方     〈顔は青白い方〉
  一、背低方      〈背は低め〉
  一、目二かわニ而大キ出目
             〈目は二重で大きく出目〉
  一、歯出歯      〈出っ歯〉
  一、月代常体     〈月代は普通〉
 近藤梶五郎
  一、年頃四拾才斗   〈40歳〉
  一、顔赤黒く丸き方  〈顔は赤黒く丸い方〉
  一、背低方      〈背は低い方〉
  一、目丸く常体    〈目は丸くて普通〉
  一、月代常体すみ抜有之
         〈月代は普通だが生え際に抜けあり〉
 庄司儀左衛門
  一、年頃四拾才斗   〈41歳〉
  一、色黒くおとかひ細キ方
          〈色黒でおとがい(あご)が細い〉
  一、左耳つぶれ有之  〈左耳がつぶれている〉
  一、目細キ方     〈目は細い方〉
  一、月代常体     〈月代は普通〉
 「常体」は、「普通」という意味です。平均的で特筆すべき特徴がないことを意味しています。
 年齢や顔の特徴、体格など、最低限の情報が簡単に書かれているのみですが、しゃべり方などの個人を特定できる、より詳細な情報が記載されることもあります。
 平八郎の情報に「目はり(目張り)」とあります。目張りは舞台化粧のアイメイクのことを指すため、平八郎が化粧をしていたとも取れる記述です。しかし、『大阪市史』に掲載されている平八郎の人相書3には「眼細ク釣候方」とあることから、実際は、目張りをしているかのような切れ長の目だったと捉える方が妥当でしょう。
2)手配文
 本史料は御触書として廻達されたため、前半部分にはその内容が書かれています。そこから、2月19日に大坂市中で乱暴を働いた賊は、元大坂町奉行与力の大塩平八郎、忰の格之助、勢田済之助(元与力の忰)、現職の大坂町奉行同心の渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司儀左衛門であったこと、2月21日の段階では生死不明の状態であったことがわかります。そして、これらの内容をふまえ、領内の寺院や村の百姓に、村内に立ち寄ったり立て篭もっている様子や怪しい場所があれば、近寄らずにすぐに知らせることを周知するよう指示しています。

3.錯綜する情報
 本史料と『大阪市史』やインターネットで閲覧できる平八郎の人相書4と比較すると、いくつかの相違点に気付きます。
 その中で最も注目すべき点は、平八郎の剃髪の情報です。本史料の平八郎の但し書きには「剃髪いたし候由風聞」もあると書かれていますが、この剃髪についての記述がある人相書は、ほとんどありません5。『大阪市史』に掲載されている、3月付の江戸幕府からの御触書には記載されていない情報であるため、剃髪については信憑性に欠ける、非常に不確かな情報であったと推測できます。実際に平八郎は格之助とともに剃髪した姿で発見されていることから、この情報を提供した人物は、乱発生後に平八郎と接触できた、平八郎を知る人物だと考えられます。
 剃髪の情報がある一方で、本史料には『大阪市史』の平八郎の人相書にある「鍬形付甲着用」や「言舌さわやかにて少大(尖ヵ)キ方」の情報は書かれていません。
 また、人相書の内容以外にも、徳島県立文書館のホームページで紹介されているものには「彼地両川口之内より乗船淡州へ押移候風聞も有之」6とあり、川口から船に乗り淡路へ逃亡したという噂もあったようです。
 これらのように書かれた時期や場所によって情報に違いが見られるのは、前述したように、様々な情報が入り乱れる混乱した状況であったためでしょう。

おわりに
 江戸時代の指名手配書を、大塩平八郎の人相書を題材に紹介しました。本史料で書かれている平八郎の人相書と肖像画を比較すると、肖像画は特徴を捉えて描かれていることがわかります。
 しかし、人相書の様式が不統一で捜査の手掛りになりにくい事例もあったため、明治6(1873)年7月30日に全国で統一されました7。また、手配写真が導入されたのが前年の9月8で、現代の指名手配書に近い、顔写真付きの指名手配書によって逮捕された有名な例が、同7年2月に起きた佐賀の乱のリーダー江藤新平でした。司法や警察の近代化を進めた人物が、それによって逮捕される皮肉な例となったのでした。

(注)
1 本史料は「平池家文書」に属する史料で、河内国茨田郡平池村(現在の寝屋川市)で庄屋をつとめた平池家に伝わる史料です。
2 大坂町奉行はできる限りの対策を取ったが限界があり、米不足が深刻化したという説もあります。(平川新『日本の歴史 12 開国への道』、小学館、2008年)
3 補触165、『大阪市史』第4下、清文堂出版、昭和54年復刻版、1269頁。この触は「御触留」からの引用で、「大阪発布の触書を輯録せる諸書に所見無し」とあり、3月付の江戸からの御触です。
4 インターネットで資料として閲覧できるものは次の2点です。
・徳島県立文書館「徳島の幕末・維新史シリーズ【第4回】 徳島藩内に回達された大塩平八郎の人相書 美馬郡東端山・武田文書「御触控」より」(http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/article/
0007303.html)
・早稲田大学図書館古典籍データベース「[大塩平八郎等人相書]」(http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_15562/index.html
 また、展示案内として紹介されているものは、次の2点です。
・和歌山県立文書館「これまでのケース展示 「犯人を指名手配する」(平成22年8月25日~11月28日)」(https://www.lib.waka
yama-c.ed.jp/monjyo/gyouji/case_ichirann.html)
・奈良市史料保存館「企画展示 幕末の奈良町」(http://www.city.
nara.lg.jp/www/contents/1504683843534/index.html)
5 管見の限り、本史料以外は前掲、奈良市資料保存館「企画展示 幕末の奈良町」の「中院町永代帳」(中院町自治会 寄託史料)の人相書のみです。2月24日付で差出人も違いますが、人相書の内容は本史料とほぼ同じものです。
6 前掲、徳島県立文書館「徳島の幕末・維新史シリーズ【第4回】 徳島藩内に回達された大塩平八郎の人相書 美馬郡東端山・武田文書「御触控」より」。
7『大阪府警察史』第1巻、大阪府警察本部、1970年、132頁。
8 蕉雨堂主人編纂「内外各種新聞要録.」第2号、萬巻樓、1872年。国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:
ndljp/pid/1886145)コマ番号27、28。
【公文書館専門員 市原佳代子】



平成29年度 古文書講座フォローアップ



はじめに
 大阪府公文書館では、平成29年6月16日(金)、「府政学習会in公文書館 古文書講座 はじめの一歩」を開催しました。本稿は古文書講座の内容について、さらに理解を深めていただくために補足説明をするものです。なお、講座当日に配布したテキストと解答は、大阪府公文書館のホームページからダウンロードできますので、ご参照ください。

1.古文書の紹介
 本項では、教材に用いた「宗門御改寺請幷家数人別帳」(KZ-0001-23。以下、本史料。)を紹介します。
 まず、本史料は、当館所蔵の「川中家文書」という文書群に属する古文書です。「川中家文書」は、河内国河内郡今米村(現在の東大阪市今米)で代々庄屋をつとめ、宝永元(1704)年の大和川付替工事の実現に尽力した中甚兵衛ゆかりの川中家に伝わってきました。明治期のものも含めた6000点あまりが、昭和60(1985)年9月に当館へ寄贈・寄託されました。
 本史料は一般的には「宗門人別改帳」と呼ばれ、宗門改めが行われる度に作成されました。宗門改めは、もともとはキリスト教禁制の徹底を目的とした制度でしたが、しだいに住民の戸籍調査としての性格が主となりました。そのため、「宗門人別改帳」には、各家ごとに檀那寺と個人名、年齢が記載されています。また、家人だけでなく奉公人も書かれています。本史料ではさらに各家の建造物の大きさが書かれている点が特徴です。

2.古文書を読む~基礎編~の解説
1)建造物
 まず「屋鋪(やしき)」ですが、「屋」は基本的なくずし字で書かれています。「がんだれ[厂]」にも見える「しかばねたれ[尸]」の中に「至」が書かれています。「○○屋」のような屋号として頻出するため、覚えておくと便利です。「鋪」は、偏が一見「こざとへん[阝]」や「さんずい[氵]」にも見えますが、「かねへん[金]」です。これは書き癖による

もので、右図の「横」などの「きへん[木]」にも見られます。
 文字を分解する方法以外には、「屋」の後に「甫」がある名詞で、末尾に「〆棟数八軒」とあることから家に関する用語だと推測する方法があります。
 「土蔵」の「土」は見慣れない形ですが、これは最後に点(ヽ)が打たれていることから、「土」の異体字「圡」だとわかります。「蔵」はこの形で書かれることが多く、人名でもよく使われる文字なので、形を覚えておくと良いでしょう。
 「本家」、「小家」、「納家」、「門長家」の「家」です。テキスト24頁でも少し触れているように、「うかんむり[宀]」のくずし方にはいくつかのパターンがあります。①「う」のような形、②「なべぶた[亠]」のような形、③「わかんむり[冖]」のような形、④「カ」のような形。テキストではこの4つをあげましたが、本稿ではさらに、⑤「ゆ」のような形、を加えた5つとします。②は「宮」という文字で、③は「宜」という文字で見られます。上図の「家」は、④のくずし方で書かれています。「豕」の部分は、「縁付」の「縁」という文字にも使われており、猫背のような丸みと、最後の2画の右払いから左払いの形が特徴です。また、7画目8画目の左払い2つは「✔」のような形になります。
 「納家」の「納」ですが、「いとへん[糸]」は上図のような形以外にも、「子」のような形にもなります。
 ここで、それぞれの意味を簡単に説明しておきます。「屋鋪」は屋敷と同義で、屋敷地のことを意味します。「本家」は母屋、「小家」は離れ、「納家」は納屋とも書き、物置小屋のことで、農家では農具が納められていました。「門長家」は門長屋や長屋門ともいい、奉公人の住居や納屋、作業場として使用していました。
 「〆棟数八軒」の「数」は、「敉」という「数」の異体字で書かれています。「攵」だけでなく、前後の「棟」「八」から「数」と推測することができます。画数が多くなると、一部分だけ取り出して書かれる場合があります。
2)数字
 次に、数字についてです。古文書で使われている数字は、基本的には私たちが現在使っている漢数字と同じです。しかし助数詞(「棟数八軒」の場合は「軒」)を伴う場合、「1」は「壱」、「10」は「拾」と、大字(だいじ)と呼ばれる漢字を使います。大字は「一」「二」「三」などの単純な形の漢字の代わりに使われ、現代でも法的文書や会計書類などで、改ざんを防ぐ目的で使用されています。「壱」や「弐」は、現行紙幣の「壱万円」や「弐千円」で見覚えがあると思います。参考までに漢数字とあわせて以下の表で紹介します。なお、4~9、100や1000にも大字はありますが、古文書で使われることはほとんどないため、割愛します。


3)人名
 「右衛門」、「左衛門」、「兵衛」の見分け方についてです。本史料は戸籍としての役割を果たすため、個人名も比較的読みやすいくずし字で書かれています。
 まず、図①、②、③のように、3文字目が「つ」のような形になっていれば、「○衛門」と判断します。
 次に「右衛門」と「左衛門」違いです。「右」と「左」は楷書と違い同じ書き順(横棒→左払い)で書かれることが多くあります。したがって、2画目の左払いから右へ横棒や波状、点々のようになっていれば「右」、2画目の左払いから右上へ上がっていると「左」となります。「右」は「口」の部分の縦棒が、「左」は「エ」の部分の横棒が強調されています。「大阪あーかいぶず」第50号17ページで、本史料とは違うくずし方で書かれている「右衛門」と「左衛門」で同様の解説をしていますのでご参照ください。
 講座の中での質問にありました「衛」のくずし方について補足説明をしておきます。「衛」は「衞」が正式な形です。したがって、両側の「彳」と「亍」の部分が大きくくずれると、図①や図②の矢印部分のように、真ん中の部分だけが残るような形で書かれます。また、「衛」はカタカナの「ヱ」を用いる場合もあり、図③の矢印部分のような場合がそれだと考えられます。
 「兵衛」は、一番下の文字が図④、⑤、⑥のような形で、そのすぐ上の文字が「そ」や「ミ」のような形になっています。本史料では図④のくずし方で書かれていますが、一般的には、図⑤や図⑥(いずれもテキスト3頁の「証文之事」(KY-0009-589))のようなくずし方が多く見られます。また、「右衛門」「左衛門」と「兵衛」では、「衛」を異なったくずし方で書かれることがしばしばあり、図⑤と図⑥がそれで、図④の「衛」より多く見られます。図⑤は「四兵衛」、図⑥は「九郎兵衛」です。図⑥の「九郎兵衛」は解読が少し難しいですが、一番下の文字が「衛」と判読できることから「九○兵衛」と判断します。そして2文字目に「おおざと[阝]」があることから「九郎兵衛」と判断します。
 「衛」以外に部首を略して書く文字として、「国」や「圓」などの「くにがまえ[囗]」、「間」などの「もんがまえ[門]」や「聞」や「問」などの「門」を含む漢字、「しんにょう[辶辶]」や「趣」などの「そうにょう[走]」は頻出です。「くにがまえ[囗]」は左右の点々に、「門」は上の方で小さくなり、部首(「門」を含む漢字は「門」)以外の部分を大きく書く特徴があります。
 女性の名前は基本的に変体仮名(仮名のくずし字)で
書かれます。一般的に「古文書」と呼ばれる史料にはあまり使われないため、江戸時代の出版物で解読の練習をするとよいでしょう。

3.古文書を読む~実践編~の解説
1)作成年月日・差出人・受取人
 受取人の名前が用紙の上の方から大きく書かれているのは、小堀勝太郎が代官であるためです。一方で、テキスト3頁に「書き方」の例としてあげた「証文之事」という史料では、同格の人への文書であるため、受取人の名前は用紙の中ほどから書きはじめています。また、受取人が差出人より格下の場合は、差出人の名前が日付の下に大きく書かれ、受取人の名前は用紙の下の方に小さく書かれます。このように文字の大きさや書く位置で、差出人と受取人の家格の差を表します。
2)本文
 本文1行目と2行目に「他所江」がありますが、「所」が違うくずし方で書かれていることがわかります。これは、同じ文字が続いて出てきた場合には異なるくずし方で書くというのが、教養人の間では自身の教養をさりげなくアピールする手法だったようです。
 本史料では「者」が楷書ではっきりと書かれています(図⑦)。一方、テキスト8頁「平出」で例示した史料中には図⑧のような「者」が書かれています。これは、「者」を名詞「もの」とするか、助詞「は」とするかの違いです。文脈から判断できない場合のこれら2つの読み分け方は、楷書ではっきりと書かれている場合は名詞「もの」、図⑧のように大きくくずして書かれている場合は助詞「は」とするとよいでしょう。
 部首と旁が離れて書かれたり、文字間を詰めて書かれたりするため、文字の切れ目を見つけることが難しい場合があります。部首と旁が離れて書かれている例として、図⑨があげられます。それぞれ「羽」「立」「年」と解読できることから、「翌年」と読み解くことができます。一方、文字間を詰めて書かれている例として図⑩があげられます。行の下の方であったり頻出の言い回しで多く見られます。図⑩の場合、まず、1番上の「無」と1番下の「候」は、切れ目を見つけることができると思います。「候」の上の文字が「がんだれ[厂]」や「まだれ[广]」の文字に見えることから、この上が切れ目であると判断します。1文字目「無」の下は「御」です。「御」や「候」のような頻出漢字は、このように大きくくずれます。ある程度パターンが決まっているため、覚えてしまいましょう。ちなみに、図⑩は上に「相違」とあることから「無御座候」と、文脈から判断することができます。
 最後に、大きく形が変わる文字を紹介します。最も重要で頻出の漢字は、図⑩の「御」「候」です。特に「候」は「﹅」になることもあるため注意が必要です。図⑪は「等」の異体字です。名詞の下にいる「ホ」は「等」になります。その他にも、「所」「書」「出」などがあり、『くずし字用例辞典』(東京堂出版)で「特殊な形となるくずし字」として紹介されています。また、一部は「大阪あーかいぶず」49号、50号でも紹介していますので、参考にしていただければと思います。

おわりに
 くずし字を解読する方法として、①形を覚える、②運筆(筆の流れ)を追う、③文字を分解してみる、④文章の流れから推測する(言葉に慣れる)があります。教材として使用した古文書は、全体的にクセが少なく基本的なくずし方で書かれているため、基礎固めに反復練習することをおすすめします。
 中でも、実践編として用意した文章部分は、古文書講座の入門編としては少し文章量が多いですが、文章を解読する際に覚えておくとよい文言やくずし字が数多く含まれており、さらに願書のような形式で書かれているため、基本の勉強に大変役立つと思います。
【公文書館専門員 市原佳代子】

 
 

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