大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第53号
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大阪あーかいぶず 第53号  平成30年9月大阪府公文書館発行

「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。

目次

【巻頭知事挨拶】明治150年記念号に寄せて
   ~大阪府誕生150年、公文書に感じる息遣い~………… …………………1
明治24年、空振りのおもてなし~国土脊梁“鉄路”形成の頃……………………2
明治3年高麗橋の鉄橋化事業……………………………………………………10
明治初期における大阪府域の変遷①   …………………………………………17
昭和26年、大阪府の野球熱   ……………………………………………………21
はじめての出張講座 ~ 大阪府立中央図書館にて……………………………26
平成29年度公文書館事業の推移 ………………………………………………28


明治150年記念号に寄せて ~大阪府誕生150年、公文書に感じる息遣い~

 今年は、6月の大阪府北部を震源とした地震のほか、7~9月には豪雨や台風などが相次ぎ、多くの府民が罹災し、大きな被害を受けました。この場を借りて、改めてお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りするとともに、被災された皆様へお見舞い申し上げます。
 
 今年、平成30年は、明治元年から満150年であると同時に、大阪府の誕生からも満150年にあたります。
昭和60年に誕生した大阪府公文書館では、約18万点の公文書(近世の古文書等も含む)を所蔵しており、この貴重な史料から明治期の大阪の歩みを振り返ってみると様々なできごとがあったことがわかります。
 
 明治初期には大阪府病院と付属医学校(大阪大学医学部の前身)や舎密局(京都大学の前身)の設置に、西洋の最新科学が導入されたほか、中期からは、国内最初の近代的大規模紡績工場の創業や、大阪築港の建設などの工業化が進み、日本の近代化は大阪で先導されてきました。
 
 一方、明治18(1885)年には、大災害も起こっています。活発な梅雨前線の活動により、淀川が現在の枚方大橋南詰め付近で決壊し、寝屋川を越えて、現在の東
大阪市のほぼ全域まで浸水した淀川大洪水です。知事が天皇に報告した上奏文の草案が残っており、当時の府民の窮状が窺えます。
 
 さて、2025年万博の大阪・関西への誘致が今、佳境を迎えていますが、明治36 (1903)年には、現在の天王寺公園一帯で小さい万博とも言われた第5回内国勧業博覧会が開催されました。この博覧会は、それまでの産業奨励会としてだけではなく、初めて諸外国が出品するなど、国内最大規模のものでした。およそ120年の時を超え、万博によって当時以上の活気がこの大阪に満ちることを大いに期待しています。
  
 近来の電子化の進展で公文書の形も大きく変わっていますが、歴史の証人としての公文書の重要性は変わることがありません。百年以上前の公文書から大阪のために尽力した人々に思いを馳せると、知事としての責務に改めて身の引き締まる思いです。

【大阪府知事】


 
明治24年、空振りのおもてなし 国土脊梁鉄路形成の頃


奉迎狂騒曲
 東京の街中にいると、時折、道路が規制されパトカーに先導された黒塗りの車が走り抜ける光景に遭遇する。皇室関係だったり国賓クラスの移動であることが多いが、よほどのことでない限り気に留める人は多くない。ましてや新幹線の移動だったら、発着駅はともかく、途次はあっという間のこと。ところが、公文書に残る明治24年の歓迎行事では、鉄道沿線の各駅に小学生まで動員されるといった力の入れようである。外国からの賓客へのおもてなしの精神は今も昔も同じにせよ、世界における日本の立ち位置を窺わせるものでもある。鹿鳴館時代の直後、まだ不平等条約の改正が完了していない時期のことである。
 それでは、明治24年に大阪府および奈良県で企画されたある歓迎行事の内容を振り返ってみよう。大阪府にも奈良県にも当時の公文書が残っている。その頃としては異例に近いと思われる活字での手順書、つまり歓待マニュアルがある。これは、府内、県内の各郡および関係各所に配付徹底されたものだ。歓迎行事の概要をまとめると別表のようになる。
 コースそのものは中高生の修学旅行のような感じだが、その歓迎態勢には力こぶが入っている。正装した要職の人たちの送迎、全行程の随伴、各寺社での住職・宮司による応対、沿道の飾り付けに府県職員および近隣学校の生徒の歓迎、饗応時の楽曲、まさに府県挙げての態勢である。そして至る所で花火(烟火と表記されている)が打ち上げられるという段取り、さぞ賑やかなことであったろう。
 大阪府の手順書には、別表記載の事項に加え、「右ノ外鐵道線路各停車場ニ於テハ所轄郡長書記等の吏員及ヒ最寄小學校生徒送迎の事」という記述がある。つまり、府から通過する鉄道沿線の郡役所に対する要請である。例えば、大阪から奈良に向かう途上の八尾郡役所について見ると、最終的に生徒数は総計で240名となっている。対象となった学校数は5校、中河高等小学校と亀井、植松、久宝寺、八尾の4つの尋常小学校である。いずれも鉄道路線からほど近い場所に立地する学校である。停車場近辺で整列し歓迎するということで、高等小学校の男子生徒の一部は軍装携銃で、概ね男子は洋装、女子は袴着用という念の入れようである。小旗を打ち振ってとまでは書かれていないが、まさに歓迎一色の様相である。
 なお、歓迎行事等の中に緑門という言葉が頻出するが、祝賀の際などに建てる常緑樹の葉で包んだアーチ状の門のことで、運動会の入場門といった感じのものである。

椿事!

 大阪府、奈良県で万全の準備を整え、翌日からの歓待に備えていたとき、思わぬ出来事が起き歓迎行事は全て取り止めとなる。未実施となって顧みられることもない行事内容が、百年を超えて公文書に残っていたわけだ。
 もうお解りのとおり、この賓客とはロシア皇太子(後の皇帝ニコライ二世)のこと、来阪の前日、5月11日に起きた椿事とは大津事件である。事件の内容とその後の成り行きについては、数多の文献が存在するので、ここでは高校の日本史教科書の記述を引用するに留める。
「訪日中のロシア皇太子が琵琶湖遊覧の帰途、滋賀県大津市で警備の巡査津田三蔵によって切りつけられ負傷した事件。ロシアとの関係悪化を苦慮した日本政府(第1次松方内閣)は犯人に日本の皇族に対する大逆罪を適用して死刑にするよう裁判所に圧力をかけたが、大審院長児島惟謙はこれに反対して津田を適法の無期徒刑に処させ、司法権の独立を守った。」(山川出版社「詳説日本史」平成24年3月文部科学省検定済)
 当時の国内の騒然たる様相は想像に難くない。驚天動地、大阪・奈良での歓迎行事など一瞬にして吹っ飛んでしまった。この二日間の動きは別掲のとおりである。これを見ると、当時38歳、明治天皇のフットワークの軽さに驚く。事件当日には京都滞在中の皇太子ばかりか、母国のアレクサンドル三世、マリア皇后へ(皇后から)親電を打ち、翌日の6:30発の列車で京都七条駅21:10着というのだから恐れ入る。国難回避へ明治政府としては皇室外交に頼るしかなかったことが窺える。近畿では前年秋に串本沖でトルコ軍艦の遭難事件があったばかり、同じ外国使節の遭難でも、こちらは日土関係史に残る美談のようにはいかない、まさに国難の到来である。

 事件後の新聞記事が公文書と一緒に綴られている。別掲は大阪府の資料の中にある大阪朝日新聞のもので、この事件に関しては報道管制が敷かれていたようで、「國家治安上の戒飭(かいしょく)は之を遵奉(じゅんぽう)せざるを得ず暫(しば)らく明々に記載することを憚(はばか)り今日を以て之を看客(かんきゃく)に報道することとせり噫(ああ)何等(なんら)の狂漢ぞ我々をして此(この)不祥の文字を紙上に記すに至らしめたるは實に國家のために慨嘆(がいたん)に堪(たへ)ざるなり」とある。

 余談になるが、明治24年当時の滋賀県知事は元鳥取藩士の沖(おき)固守(もりかた)である。着任直後の重要任務として、ニコライ皇太子を三井寺や完成したばかりの琵琶湖疏水に案内するなど接待に努めたものの、事件の責任をとり就任後わずかひと月で更迭となる(当時の知事は官選)。翌月には懲戒を解かれ、和歌山県知事を経て、明治31年に第10代の大阪府知事となる。

歓迎が、見舞に

 本来であれば、歓迎行事の実施状況やそのときの地元の様子などが公文書にも残されたはずだが、事情が事情だけに、公文書には御見舞関係の書類が多数綴られている。一例を挙げれば、大阪府側では西成郡長は府内各郡長を代表して早々に侍従長宛てに見舞状を届けている。ニコライの日記には大阪から見舞品を満載した三艘の船がやって来たとの記述があるようだが、公文書にはそれを窺わせるようなものは見当たらない。幾分かは政府の意向が働いたにせよ、民間の篤志家の行為ということであろう。事件を詫びる遺書を残した女性の自殺者が出たほどのことである。
 大阪、奈良の予定がキャンセルとなった結果、府県の職員や小学生に至るまでの動員が行われることはなかったが、準備態勢が解除となるのは皇太子が5月19日に神戸を発ったときである。人の手配はともかく、当然のことながら、飾り付けや花火、さらには沿道の整備等で歓迎に係る費用は投じられている。先の大阪府の手順書には、花火の寄付者の名前も書き添えられおり、官署だけではなく民間の協力もあったことが判る。行政にしても、府や県のレベルだけでなく郡町村でも応分の負担をしていたようで、奈良県の公文書では、「縣下(けんか)人民歡迎ノ誠意ヲ以テ道路脩築候段(しゅうちくそうろうだん)奇特ニ付左記之金額宮内省ヨリ下賜相成候(かしあいなりそうろう)」等の記述が見え、事後に国から費用の補填があったことが窺える。その日付は事件から2か月経った7月であり、大津事件の裁判の判決も出ており世情もやや落ち着きを取り戻しつつあったと思われる。
 
渓谷のミッシングリンク

 さて、行われなかった歓迎行事の記述に戻る。日程のはじめ、大阪から奈良への移動に関して、奈良県側の手順書の記載は次のようになっている。

「五月十二日(假定(かてい))午後二時大阪天王寺停車場御發車同二時三十五分龜瀬(かめのせ)御着、龜瀬ヨリ稲葉山迄人力車同停車場ニ於テ滊車ニ召替ヘ直ニ御發車午後三時三十分奈良停車場ニ御着」

この行程には不思議な箇所がある。天王寺から現在のJR関西線で奈良に向う一行が途中で人力車に乗り換え、再び列車に乗車する段取りとなっている点だ。そのため、天王寺から奈良まで1時間半を要している。現在なら大和路快速で30分程度で到達するし、むしろ近鉄特急を利用するところだろう。そもそも、奈良に向かうなら大阪を経由せず、京都から奈良へ直行するのが今なら普通だ。京都・奈良間には15分毎に近鉄特急が走っている。つまり、当時、近鉄の奈良線や京都線は影も形もなく、鉄道を利用するには大阪経由しか方法がなかったわけだ。しかも、その鉄道でさえ途中を人力車で繋ぐという。
府県境から少し東、奈良県側に入ったところで当時は線路が途切れていた。距離にしてわずか、その間が人力車での移動になる。亀瀬と稲葉山が両終端の停車場、この間を繋ぐトンネルを掘っていた最中だった。今はJR関西線だが、当時は私鉄の大阪鉄道、起点の湊町から天王寺を経て八尾、柏原を通り、府県境を大和川に沿って進み、亀瀬まで到達していた。一方の奈良側は郡山、王寺を経て同じく大和川沿いの稲葉山まで。その間、約500m、ここに亀瀬トンネルが完成するのは、この歓迎行事のすぐ後、明治25年2月のことである。もう少し工事が早ければ、皇太子は列車で奈良に直通する運びとなっただろう。
 
明治24年の鉄道事情

 大阪と奈良を結ぶ鉄道路線が途切れていた明治24年、それでは国内の鉄道敷設の全容はどうなっていたのだろう。実は、ニコライ皇太子の外遊には鉄道が深く関係している。ともかく、日本に到着した皇太子の行程は、鉄道が未整備の西日本の移動では海路、神戸に到着して初めて鉄道を利用するというスタイルになっている。

 国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページに、この明治24年を挟む、明治22年と明治26年の日本鉄道線路図が掲載されている。明治22年というのは新橋から神戸まで東海道本線が全通したエポックメーキングな年である。明治26年には山陽鉄道(現JR山陽線)は三原まで延びたが、明治24年段階では倉敷が西の端だった。皇太子は自国軍艦で来日しているという理由はあるにせよ、日本国内の移動に鉄道を利用したくとも利用できない事情があったわけである。一方で、15時間近く要したとはいえ、明治天皇の事件翌日の京都行幸が可能だったのは東海道線の賜物である。
 明治24年は、東日本に目を転ずると、日本鉄道が上野〜青森間を全通させた年である。つまり、日本列島の脊梁となる鉄路が青森県から岡山県まで繋がったということになる。同時期、北海道炭礦鉄道は炭鉱と積出港を結ぶ数本の路線、九州鉄道(現JR鹿児島本線)は門司〜熊本間という敷設状況であった。近畿地方については、件の大阪鉄道のほか、三重県側から奈良・大阪を目指して関西鉄道の建設が進められていた。また、大阪鉄道よりも歴史の古い阪堺鉄道(現南海電気鉄道)は、明治24年段階で大阪と堺を結ぶ路線を完成させていた。
 明治26年の日本鉄道線路図に記載されている官設、私設あわせた営業距離は1400km足らず、しかしその後の鉄道敷設の進行があり、おもに軍事面での有用性の観点から幹線となる私設鉄道が国有化される明治の終わりには総延長は5000kmに近づく。
 こうしてみると、前述の大阪鉄道に着目すれば500mほどの未成区間があっただけだが、日本列島全体では未成区間だらけ、「未成線路」として明治26年の日本鉄道線路図には、甲武鉄道の新宿〜三崎町(現JR中央線新宿〜神田)、山陽鉄道の三原〜赤間関(あかまがせき)(現JR山陽線三原〜下関)など、押しも押されもせぬ幹線の名前が見える。近畿地方では、大阪鉄道の湊町〜梅田(現JR大阪環状線)と高田〜桜井(現JR桜井線)が記載されている。営業路線の表示だけで事足りるはずのところに添えられた未成路線の表には、国土を網羅する路線網の早期実現への当時の人々の願望が滲み出ているかのようだ。

皇太子のミッション

 別掲は皇太子の全行程図、文献に残る訪問地をプロットして繋いだものである。足掛け10か月、この時代に正にユーラシア大陸一周という、途轍もない大旅行であったことが知れる。
ウィーンからトリエステへはオーストリア=ハンガリー帝国内であり、世界遺産となっている最初のアルプス越え路線、ゼメリング鉄道を経由したと推測される。そして、海路ギリシャに渡り、従兄弟にあたる同国のゲオルギオス王子を同道し、スエズ運河を抜け南回りの海路で日本に向かう。一行は、エジプト、英領インド、英領セイロン、英領シンガポール、仏領インドシナ、蘭領東インド、タイ、英領香港、清国を歴訪した後、長崎に到達した。その後、鹿児島に立ち寄り神戸に至る。大津での遭難の後、神戸を発った皇太子はウラジオストクに向い、シベリアを横断して首都サンクトペテルブルクに戻る。言ってみれば、17世紀の英国貴族階級に淵源を持つグランドツアーの拡大版、19世紀ロシア皇室版の様相である。
 ニコライ皇太子は日本訪問に期待するところ大であったようで、各地での大歓迎に満足している様子が日記にも窺える。長崎(稲佐)と京都(祇園)ではお忍びでの遊興もあったようだ。
大津事件ばかりが注目されるが、その際の皇太子の負傷は比較的軽微で、以降のシベリアでの日程を順調にこなしている。全行程図には、戦後抑留世代が数少なくなった現在ではあまり馴染みのない、シベリアの地名が多数登場する。皇太子はこれらの土地を馬車や川船で移動し両親の待つ王宮に戻る。
当時、シベリア鉄道は存在せず、と言うよりも、ニコライ皇太子はロシアの太平洋岸ウラジオストクでシベリア鉄道の定礎式を行い、皇帝アレクサンドル三世の勅諭を伝えるというミッションがあった。それが極東へ遥々と足を運んだ目的でもある。東京への訪問を取りやめ、5月19日に神戸を発ちウラジオストクに到着したのは5月23日、シベリア鉄道の定礎式が挙行されたのは5月31日のことである。国策として進める一大事業であることを鮮明にするため、ニコライ皇太子は帰国翌年にシベリア横断鉄道委員会のトップに就いている。
シベリア鉄道はロシア中部チェリャビンスクからウラジオストクまで総延長7,416 kmの世界最長の路線(モスクワからだと9,000km超)であり、最後まで残ったバイカル湖のフェリー区間が鉄路で繋がったのは日露戦争終結の1905(明治38)年のことである。また、東清鉄道の短絡線でなくロシア国内だけを経由するルートの完成は1916(大正5)年まで待たなければならない。
シベリア鉄道は、清国や日本に対抗する軍事目的での東方進出の切り札であったものの、難工事による遅れや線路状態が悪くかつ単線という問題もあり、兵站としての機能は充分に果たせなかった。
なお、現在では、第二シベリア鉄道と称されるバイカル・アムール鉄道も完成している。より北方、厳寒の地でのこの鉄道建設には多数のドイツ人、日本人の捕虜が動員された。実際の完成は2003(平成15)年である。

ラストエンペラー

 明治24年5月の日本訪問の際、ニコライ皇太子は23歳。面影を残す程度であったろうが奈良県の公文書にはニコライ皇太子9歳の肖像の写しが綴じられている。
 帰国後5年経った1896(明治29)年、皇太子はロシア皇帝ニコライ二世として即位するが、その後の治世は波乱に満ちたものとなる。ロシアは世紀末に起きた義和団の乱に乗じて満洲を占領し極東進出を進め、日露戦争(1904(明治37)年~1905(明治38)年)に繋がる。日本海海戦での殲滅的打撃で敗戦に至った後、1905年の「血の日曜日事件」、1917年の二月革命と続く民衆蜂起の末、皇帝退位を余儀なくされる。シベリアに配流された後に一族とともに銃殺され、ロマノフ王朝は絶える。文字通りのラストエンペラーである。
 我々が歴史として知るその後の世界の激動を振り返るにつけ、大津事件は歩み出したばかりの近代国家を震撼させた大事件であったことが実感される。世界史にも記されるような出来事の陰に、大阪府と奈良県では準備されたものの終に実施されなかった歓待計画があったわけである。
 当時、鉄道に関しては日本同様にロシアもまだ途上国、気の遠くなるような長大路線の起工を宣明する予定の皇太子が、極東の島国の鉄道の未成区間を人力車で移動するとき、亀の瀬の大和川の流れをどのような思いで眺めただろうか。
 
 
 
column  亀の瀬、今昔
 
本稿に登場する、鉄路が途切れていた亀の瀬とはどういう場所なのか、まず陸軍参謀本部陸軍部測量局から国土地理院に至る地形図で附近のようすを見てみよう。

 最初期の地形図は明治22年の測量であり、この時点では大和川沿いに鉄道は存在しない。鉄路が大阪側の柏原から亀瀬まで伸びるのは明治23年、奈良側で王寺から稲葉山まで伸びるのは明治24年2月である。中央の亀瀬の地名表記から北東方向につづく道筋に峠村の表記がある。丘陵地を越えるまさに峠には地蔵尊が祀られ、峠八幡神社が隣接している。伊勢物語にある「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ」という歌に詠まれたたつた山とはこの一帯の丘陵地のこと、亀の瀬はその山麓である。いま国道25号となっている車道は左岸に付いているが、大和と河内を結ぶ古道は右岸である。現在、車の通行は可能だが、対向には難渋する道幅である。明治の賓客が人力車で通過する道は、在原業平が高安の女の許に通った道でもあっただろう。
 大正11年測量の地形図には鉄道路線が描かれている。大阪・奈良間を全通させたのは大阪鉄道であるが、明治 33年には關西鐵道が譲り受け、さらに鉄道国有法により明治40年には国有化される。この地図には大和川の流れに顔を出している亀瀬岩の表記があるとともに、左岸、南側に明神山の名前が出ている。標高こそ300mに満たないものの明石海峡大橋まで見通せる眺めのよい山である。ここからは眼下に亀の瀬の地形が手に取るように分かる。
そして、現在の地形図では右岸の峠あたりの丘陵地に、枝分かれした多数の道路が見える。何よりも鉄道路線が右岸から左岸に付け替わっているのが大きな変化である。
大阪府と奈良県は、生駒山から信貴山に連なる山系と、二上山から金剛山に連なる山系が境界となっている。この二つの山系の狭間を縫うのが大和川であり、川に沿い国道25号とJR関西線が並走する。そこが亀の瀬である。ここは交通の要衝であるとともに、名にし負う地滑り地帯でもある。昭和7年に起きた大規模な地滑りにより亀の瀬トンネルは崩壊し、関西本線は1年近く不通となる。奇しくも明治24年に人力車で繋いだ区間が再び徒歩での連絡となった。そして、長らく埋もれていた亀の瀬トンネルの遺構が発見されたのは平成20年のことである。
 
 亀の瀬一帯では国土交通省近畿地方整備局による地滑り対策事業が継続している。俯瞰写真でゴルフコースのように見えるところには、巨大な集水井や排水トンネル、さらに地滑りを抑止するための杭などが存在する。地図に示された道路はこれらの施設を繋ぐ道である。この工事の過程で見つかったのが約80年前に崩壊した亀の瀬トンネルというわけだ。現在、この辺りに人家はない。札付きの危険地帯ということである。昭和の初めに起きた地滑りでは大和川がここで閉塞し、上流の王寺町はダム湖のようになったという。大和川の大阪府への出口である亀の瀬が塞がったとき、奈良県側の浸水、自然ダムが崩壊したときの大阪府側への土石流が及ぼす被害は、人口稠密地帯だけに相当なものとなろう。国が力を入れて取り組むのは故ないことではない。大和川河川事務所では、「でかけよう、大人の社会見学」というキャッチコピー、「地下に広がる大規模空間。亀の瀬地すべりとの闘いがここにある」という謳い文句で「亀の瀬地すべり見学会」を実施し啓蒙に努めている。そのなかには亀の瀬トンネルの遺構見学も組み入れられている。電車や車でここを通り過ぎるのはあっという間だが、地表には現れない多数の構造物は一見の価値がある。 


【参考文献】
大阪府資料「明治廿三年四月皇后陛下行啓に関する書類 露国皇太子殿下来遊書類 皇太后陛下奉迎書類」
(請求記号 : B0-0059-18)
奈良県資料「明治廿四年露国皇太子款待書綴」(添上外四郡役所文書)
(請求記号 : 2・1-M4-18f  資料ID : 556000892)
大津市歴史博物館「企画展 大津事件」
大津市歴史博物館 平成15年2月
笹山晴生、佐藤信、五味文彦、高杢利彦 「詳説日本史」 山川出版社 平成24年3月
野村義文「大津事件 露国ニコライ皇太子の来日」 葦書房 平成4年10月
保田孝一「最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記」 講談社学術文庫 平成21年10月
礫川全次「大津事件と明治天皇 封印された十七日間」 評論社 平成10年8月
歴代知事編纂会「日本の歴代知事」第二巻(下) 歴代知事編纂会 昭和50年3月
クリスティアン・ウォルマー「世界鉄道史 血と鉄と金の世界変革」 安原和見・須川綾子訳   河出書房新社  平成24年2月
クリスティアン・ウォルマー「鉄道の歴史 鉄道誕生から磁気浮上式鉄道まで」 北川玲訳  創元社 平成28年4月
ハーモン・タッパー「大いなる海へ シベリヤ鉄道建設史」鈴木主税訳 フジ出版社 昭和46年10月
地図資料編纂会「明治前期関西地誌図集成 : 1884(明治17)年~1890(明治23)年  柏書房, 平成元年10月
陸地測量部「二万五千分の一地形図『大和高田』」 陸地測量部 大正15年2月
国土地理院「地理院地図(電子国土Web)」http://maps.gsi.go.jp/
国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所ホームページ「地すべりを防ぎ、開かれた地域をめざして 亀の瀬」
https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/guide/landslide/index.html
国立公文書館アジア歴史資料センターホームページ
「知ってなるほど 明治・大正・昭和初期の生活と文化」〜「明治の旅 ~ 新たな旅のはじまり ~」
https://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/index.html
 
※ 景観写真については筆者撮影のもの
※ ニコライ皇太子の行程図(2種)は筆者作成のもの

 
【大阪府公文書館専門員 的場 茂】
 


明治3年高麗橋の鉄橋化事業
 
■はじめに
江戸時代の大阪は「浪華八百八橋」と呼ばれていた。『大阪府誌』(1903年)ではそれを次のように表現している。
 
 大阪市は水の都と稱し、其の生命となせるものは實に淀川の巨流にして、幹線の街衢を貫ける宛然人體に於ける動静二脉の如く、左右幾多の川分流は恰全身を循環せる血管に似たり。故に橋梁の市内に參差せるもの夥しく、世に八百八橋の稱あり。[1]
 
江戸時代の大阪は橋が非常に多いというイメージであった。江戸時代の橋を属性で大別すれば、官費で架替修繕を行う「公儀橋」と、橋所在地から一定の範囲内の町人が経費負担する「町橋」という二種類の橋があった。大阪の地では、約200橋のうち、公儀橋が天満橋・天神橋・難波橋・京橋・野田橋・鴫野橋・備前島橋・高麗橋・本町橋・農人橋・日本橋・長堀橋の12橋でしかなく、残りはすべて町橋であった。「浪華八百八橋」と呼ばれる所以は、実はこの町橋が多かったからである[2]

その12公儀橋のうち、昔から交通の要地であり、格式が最も高い橋は、高麗橋であった。
高麗橋は、慶長9(1604)年に大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かる、擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋であった。高麗橋という橋名の由来については諸説がある。その主なものとしては、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが挙げられる。元禄時代から、高麗橋筋には三井呉服店や三井両替店をはじめ様々な業種の店が軒を連ね、人々の往来が絶えなかった。江戸時代に入り、交通の要地に位置する高麗橋は幕府が直接管理する公儀橋となった。また、高麗橋が大阪から諸国への里程の起点とされ、物流、人力車などの運送費用はすべてここを基にして計算されたといわれている[3]
明治維新前後、開市と開港の影響により、大阪という地はいち早く文明開化の波を受けることとなった。このことは橋づくりにも影響を及ぼし、「鉄」という全く新しい材料が用いられるようになった[4]。高麗橋がいち早くこの波に乗り、明治3(1870)年に大阪初の鉄橋として完成した(全国では3番目)。大阪府公文書館所蔵の歴史的公文書『大阪府歴史料 明治7年~明治11年』(B0-59-8)には次のような資料が残っている。
 
 東横堀川高麗橋〔長三拾七間条 幅三間〕知事後藤象次(ママ)郎在府ノ時在留英商人オールト成者一申付鉄橋ニ架換明治三午年九月廿二日往来ヲ開ク於府下初テ鉄橋架ス堅固ナルコト萬代不朽ト云
 
資料の文面から、東横堀川の高麗橋は、後藤象二郎[5]2代目大阪府知事がイギリス商人オールトに架換を依頼した形で、大阪府初の「堅固ナル」「萬代不朽」の鉄橋として、明治3年9月22日に開通した、ということがわかる。
それでは、なぜ、大阪府最初の鉄橋は高麗橋だったのか。明治維新直後、大阪府が誕生して間もない時期に鉄橋の製作をどのように海外の商社に依頼することができたのか。これらの疑問点に対して、高麗橋の鉄橋架換に言及する文献や先行研究[6]が少なくはないが、必ずしも十分に答えたとは言いがたい[7]。また、実は、大阪府と英国商社のオールトとの間に外交上の問題ともなりかねない契約上のトラブルがあった。ほとんどの先行研究は、そのような事態に至った原因について当時の大阪府が契約の概念に弱かったと指摘している。しかし、時代は明治の最初期、日本が本格的に西洋型近代法を継受する以前の時期である。その契約締結に至る過程を歴史的コンテクストのなかに位置づけながら、トラブルが生じた原因を探求した方が建設的ではないかと考える。
本稿では、高麗橋に関する諸先学の論考に学びつつ、契約上のトラブルについて『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』に収録されている大阪府と外務省との往復文書を中心に若干の検討を加え、筆者が提起した問題点への回答を試みる。
 
一、慶応4(1868)年の淀川洪水
 高麗橋が大阪初の鉄橋として架け替えられた理由の一つには、淀川の洪水被害が挙げられる。
慶応4(1868)年5月、大阪市内は淀川からの洪水に見舞われた。被害の様子について『大阪市風水害誌』(1935年)が次のように記している。
 
 この年四月下旬から淫雨止まず、五月に入って一層激しく、十二日の夜になつて終に大水となり、各川の水は溢れ、当時の住吉郡中野村大和川堤防百八十間が真先きに決潰し、安立町の人家三十戸流失した。大阪市街では土佐堀二丁目邊から中ノ島一帯にかけて河水が路面を浸し、さらに南は道頓堀から木津・難波邊りも一面の泥海と化した。この時山城國、淀の板橋は流されて天満橋に横はり、八番杭迄を切断してこれを落すなど物凄い勢いであつた。更に十四日の洪水は福島を浸して大仁村の住民は避難し、曽根崎村付近一圓に浸水した。[8]
 
 『淀川百年史』(1974年)では、洪水被害の状況について、「東成郡11カ村、西成郡6カ村、住吉郡6カ村(以上大阪市)と島上郡31カ村(高槻市、島本町)、島下郡56か所(吹田市、三島町)、豊島郡21カ村(ほとんど大阪市)の計165カ村で、各地で洋々たる大湖をつくった」[9]と記されている。市内の橋の被害の状況については、「百十ケ所」の橋が流され、損傷を受けた橋が「その数を知らざるの惨状を呈した」[10]という様子を呈した。木造橋の高麗橋もこの時に流失してしまったといわれている[11]
 
二、高麗橋の鉄橋化
高麗橋が大阪初の鉄橋として架け替えられたもう一つの理由は、川口運上所にて関税以外の外国事務全般を監督する、外国官権判事兼大阪府権判事の五代友厚の存在である。
江戸時代の橋は公儀橋であっても、特別の材料が使われていたわけではなく、ほかの町橋と同様に木造橋であった。そのため、通行制限の実施や決まった年限での架け換えを余儀なくされ、また洪水や火事などの災害による破損もしばしば起きた。
洪水被害を目の当たりにし、明治元(1868)年5月24日より大阪府権判事を兼務することとなった五代は、かつて長崎遊学時代に親しくなった本木昌造[12]とともに、後藤象二郎大阪府知事に対して、現在の木橋はすべて鉄橋に改良すべしと建言した[13]。本木昌造は、当時の長崎飽浦製鉄所の頭取を務めており、「鉄橋の本木」という名で知られた人物であった。米谷修の研究によれば、日本最初の鉄橋=長崎浜ノ町大橋(長さ13間幅3間8分、明治2年8月1日完成)の架設は、本木の製鉄所が請け負ったものであったという[14]。五代らの建言を受け入れた大阪府は、予算の兼ね合いもあり、昔から交通の要地に位置し、かつ流失した高麗橋を大阪最初の鉄橋として架設することに決定した[15](高麗橋が選ばれたのは川幅が狭いという説もある[16])。
鉄橋の設計は本木昌造が担当するが、のちに本木の製鉄所には高麗橋の本体を製造する能力がないと判明した。というのは、長さ13間の長崎浜ノ町大橋と比して、高麗橋は、長さ約36間、幅約3間もあったからである。そこで、五代友厚の斡旋尽力で、大阪居留地の英国商社、オールト社が鉄橋本体の製造を受注することとなった[17]
明治元年11月4日、オールト社と大阪府営繕方との間で、銀7500両で高麗橋の製作に関する契約が取り交わされた。全9条の契約は次のとおりである[18](引用先には平仮名と片仮名が混在、以下同じ)。
 
  條約書
條約覺書洋暦千八百六十八年十二月十七日明治元年辰十一月四日大坂居留商人オールト商社、大坂政府之營繕方と左ノ通約條取結候。
ヲ(ママ)ールト商社左之圖面之通鐵橋相成丈ケ早ク取寄可申筈。
 
第一 橋長サ 三拾六間壹尺四寸 壹間ハ英尺六尺五寸ナリ
   橋幅 欄干内三間
   高サ川底ヨリ橋中央ノ裏迄貳丈一尺五寸、橋東端高サ川底ヨリ一丈八尺五寸、橋西端高サ川底ヨリ一丈七尺五寸ナリ。
第二 柱ハネジ繼之鐵柱ナリ。縦横桁木共鐵ナリ。而シテ適當ニ鐵柱等附着セシムベシ。
第三 橋ワク木ノ間西端之間三ツ間ハ三丈ヨリ以上、其餘ハ右ト端ニ相成候筈。
第四 橋上ハ極厚板ニテ製シ、丈夫ニ桁木エ鐵釘ニテ附着セシムベシ。而テ破瓦并西洋チヤンニテ固ムベシ。
第五 橋之西側并道之取付迄、美麗之鐵欄干ヲ置キ、如圖丈夫ニ附着セシムベシ。橋板取替之節者、
第六 好ニ任セ鐵製之分ヲ不動シテ、板而己自由取替ラルベシ。鐵柱之燈青硝子ニテ、橋両端并中央ニ二ツ、油ニテ用ベク置付候筈。
第七 代價銀通寶七千五百兩ニテ、右之橋取寄、其場所え造營致ベク候。右之内御打建ノ節用候日本人・西洋人之手間并入用品相込メ有之候。尤道際之石及石段造營等ハ營繕方之入費ニテ被成候筈。
第八 此度ハ試之事ニ候故、萬一七千五百兩之上ニ越候哉モ難計、其節ハ營繕方ヨリヲ―ルト商社え御償ひ可被下候。
第九 三千七百兩丈ケ者條約調印之日御拂被下、残金ハ品物大坂着之節御拂可被下候。
 
右違亂無之為證印致置候
ヲールト商社
大阪府 印
 
 契約の内容を要約すると、以下の通りである。第1~6条は、橋の大きさ(橋長が71・7m、有効幅員が5・9m)、橋の構造と意匠(柱と縦横桁が鉄材で製作する、美しい鉄欄干を取りつける)などを規定する。第7条は、銀通宝7500両で、オールト社が橋の製作架設を行うことと、道際の石や石段の造営は大阪府営繕方が行うことと規定する。第8条は、万一、7500両を越える場合、その超過分を大阪府営繕方が支払うことと規定する[19]。この第8条が後日の大阪府とオールト社とのトラブルの原因となった。
さて、高麗橋の本体は明治3年9月9日にロンドンから送られてきた[20]。ところが、鉄橋の本体は、本木の設計上のミスか、オールト社のロンドンへの発注ミスかは不分明だが、川幅より短い橋となっていた。そこで、両岸から橋台を突き出すように作り直してやっと川に架設することができた。そして、9月22日に鉄橋としての高麗橋は竣工・開通した。ちなみに、突き出す橋台の建設費は大阪府営繕方の負担であった。
 
三、契約のトラブル
高麗橋は大阪初の鉄橋ということで、「くろがね橋」と呼ばれ、たちまち人気の観光名所となった。しかし、その後、大阪府では「ひっくり返るような騒ぎ」[21]が起きた。
明治3年の10月25日、一通の請求書が大阪府に届いた。オールト社から残金約8014両の支払を求める内容であった[22]。これに驚愕した大阪府は、契約第7条の7500両を鉄橋の到着の際にすでに支払済とし、超過分8014両の支払を拒否した[23]。 
大阪府がなかなか支払わないので、オールト社は英国公使館を通じて外務省、日本政府に圧力をかける行動に出た。翌4年4月13日、英国代理公使「ヱフ オ アダムス」から澤宣嘉外務卿宛に一通の文書を送付した。その内容は次のとおりである。
 
 以手紙致啓上候。然者我英國商民之訴訟、左之通入御覧申候。扨テ去ル辰年十一月四日、兵庫大坂在留商社オルト大坂府と別紙寫之通條約取結び、其趣意者額銀七千五百兩之代金ニテ鐵橋一カ所を取寄、大坂ニ於テ造營可致儀ニ候處、右條約書第八ケ條ニテ、此度ハ試之事ニ候故、萬一七千五百兩之上ニ越候哉モ難計、其節ハ營繕方ヨリヲ―ルト商社え御償ひ可被下候。然レ者普請出來候上ニ至、總入費最前積り候高ヨリ、餘程相越候儀ニ付、委細書附其筋え差出シ、殘金高之儀者第八ケ條ニ隨ひ御皆濟有之度趣申立、且其後もオルト商社并我岡士ガー氏毎度及催促候得共、未皆濟無御座候。右金高ハ昨千八百七十年十月廿日迄、總〆高洋銀八千十四枚九十一セントニ相成、其他同日ヨリ皆濟之日迄利足一ケ月一歩之割合ニ受申度旨、同商社より申出候。依テ右苦情尤之事ニ存候間、其筋え相達、拂方之儀御取計被下度存候。右之趣可得御意如此御座候。以上。
 
この文書は、高麗橋の残金8014両91銭と、「同日(10月20日:筆者注)ヨリ皆濟之日迄利足一ケ月一歩之割合」の延滞料金とを合わせて日本政府に請求する、という趣旨のものである。8000両もの超過代金を請求する根拠は、契約の第8条によったものとオールト社が主張している。事態がここに至ると、もはや一地方と外国商社との契約上のトラブルにとどまらず、超大国・英国と明治新政府との間の外交問題にまで発展しかねない様相を呈したのである。
外務省がすぐさま4月15日に、上記の文書を大阪府に移牒するとともに、「事実御取調早々御申越被成候」と大阪府に命じた。4月30日、大阪府は、弁明書とともに、大阪府のコメントが散見される「不都合之勘定書」(オールト社の請求書)を添付して外務省に送付した[24]
まず、大阪府は、「抑右鉄橋之儀者、約定之節第七ケ條之通リ、輸入雑用并取建方諸雑費共相加へ、七千五百兩ニ而充分落成之段」とし、橋本体の代金と諸雑費は全て込みで7500両であるというのが契約第7条の趣旨だと主張している。添付の「不都合之勘定書」には、本体代金が「洋銀壹萬四百六拾九枚四合四勺…但シ利足壹歩」という請求に対して、大阪府は次のような朱書のコメントシートを添付している。
 
本文擧而了解不致其所者、定約書オールト氏より之
第七條 金高壹歩銀七千五百兩ヲ以て鐵橋輸入シ、其場所へ造營シ、勞費其他用品ヲ償ベシ。石垣并土臺石ハ營繕方之雜費タルベシ。
 第九條 代價之内金二千七百五十兩ハ約定書調印之時拂ベシ。殘金ハ鐵橋到着之時拂ベシト有之ニ付、最早約定通リ七千五百兩相拂相濟、仍之本文分明セズ。且亦利足之拂方ハ無之筈ニ候事[25]
 
 約1万4百両の橋本体の請求金額に対して理解に苦しむ大阪府の様子がうかがえる。なぜならば、先述したように、川幅より短い橋を架設するための橋台の建設費は大阪府の負担だったし、橋本体の代金も橋の到着日にすでに支払済だったからである。ほかの請求項目に対して、「本文可拂條理無之」「此利足可拂筋了解不致」などの朱書コメントが添付している。
つぎに、オールト社の超過分請求については次のように説明している。
 
 ヲ(ママ)ールト請負申出候間、代價減少不申談、其代としてランプ壹對差加へ候様申談、於同人義承引致シ、其論末ニ至リ、既ニ七ケ條ニ而請負高七千五百兩ト取極置候得共、初而試之ため致輸入候鉄橋ニ付、自然些少相進候儀も可有之、其分營繕方ヨリ償呉候様と之儀ニ付、聊之出金ニ候ハヾ、如何様共可致候得共、假令以上ニ相成候共、八千兩ヲ限り可申候段、互ニ約諾致し置候儀ニ有之、
 
 契約の交渉では工費の過不足について議論が交わされていた模様である。まず、工費が7500両より少ない場合、別段の「申談」は不要だが、そのかわりにランプ一対をサービスするという大阪府の提案に対して、オールト社が同意した。つぎに、工費が7500両を超過する場合、「聊之出金ニ候ハヾ、如何様共可致候得共、假令以上ニ相成候共、八千兩ヲ限り可申候段」という文言になっている。そして、このことは「互ニ約諾」した。先述した大阪府の主張では契約のことを「約定」と表現しているので、ここでの「約諾」という表現は口約束のことであると考えられる。
この大阪府の説明をみる限り、問題の箇所は「假令以上ニ相成候共、八千兩ヲ限り可申候段」というところであろう。なぜならば、この箇所をめぐって少なくとも二通りの解釈ができると考えられる。
まず、一つ目は、その箇所を弁明書全体のコンテクストから解釈する場合である。大阪府は当初から、初めての鉄橋なので、「自然些少相進候儀も可有之、聊之出金ニ候ハヾ、如何様共可致候得」と説明している。「聊之出金」、つまり多少の予算超過は容認する立場だった。この立場から問題の箇所をみると、「八千兩ヲ限り可申候段」というのは、「聊之出金」を超過した場合を指すものと考えるのが自然であろう。つまり、超過代金について、橋本体の代金7500両より500両微増の8000両までは工費の限度だ、ということである。超過代金請求書に接した大阪府の驚愕した様子からすれば、この解釈は契約交渉の場における大阪府の意思だったのではないかと考えられる。倍以上の代金を請求してきたオールト社が理不尽だと思えなくもない。
しかし、もう一つは、オールト社の超過代金請求がちょうど8000両だったことを重視する場合である。つまり、問題の箇所をオールト社が理解したのは、7500両より500両微増の8000両ではなく、7500両以外に発生した工費の限度が8000両までだ、ということである。それゆえ、後日にオールト社が大阪府に対して約8014両の請求を行ったのである。この解釈からすれば、オールト社が「約諾」=口約束を守ったかのようにも見える。
以上、大阪府の説明に限ってみれば、契約交渉の段階において、大阪府とオールト社との間に、あってはならない思い違いが生じたと考えて間違いないであろう。そして、工費の過不足に対する双方の認識が書面化されず、単に「約諾」=口約束という形で処理されてしまったことがトラブルを助長する原因の一つであると思われる。すでに述べたように、契約の書面は、「萬一七千五百兩之上ニ越」える場合、その分は「營繕方ヨリヲールト商社え御償ひ可被下候」のみとなっている(第8条)。つまり、代金が7500両を超えた場合、それがいくらであろうとも大阪府營繕方が全額支払わなければならないという恐ろしい内容になっている。
いずれにせよ、上記の事情により、高麗橋の代金が第7条の金額より倍以上になったのである。大阪府は、弁明書の最後において「オールト儀今ニ至前約ヲ狂シ、只書面八ケ條而己ヲ以論、莫太之増金申出候者、甚以不條理」だと必死の抗弁を行った。
同年7月3日付、外務省から事態が収拾したという趣旨の文書が大阪府に届いた[26]。その文書では事態が収拾した経緯について次のように述べている。
 
 御府東堀鐵橋代價差縺レ一件ニ付、御回答之趣委細承知いたし候。右者素よりヲ丶ルト申出之金高不相當ニハ候得共、畢竟約定面不都合より生じ候儀ニも有之、旁以結局右之代價丈ケハ、不拂遣候而ハ難成筋合ニも相聞へ、然ル處昨午正月中ニ至り、最前之請負高ニテハ難出來段、同人申出之砌、御談判ノ末凡壹萬三千兩程も可相懸候旨申立候。(中略)。縷々英公使え遂引合候處、無餘義事情了解いたし、一件落着相成、…
 
外務省は、オールト社の「申出之金高不相當」とし、大阪府の弁明に一定の理解を示している。ただし、今回のトラブルは、「畢竟約定面不都合より生じ」たことなので、オールト社の言い分も認めざるを得ない。そして、このトラブルは、外務省がオールト社と「談判」を行った結果、英国公使の同意も取りつけて、1万3000両程度で片を付けることにした。結局、大阪府は、第7条の7500両以外に、追加請求分の5500両を支払わざるを得なかったのである。
 
■むすびにかえて

以上、明治の最初期、大阪最初の鉄橋=高麗橋の架設事業、とくに外国商社との契約上のトラブルについて、主に外務省と大阪府の往復文書に基づいて検討した。
高麗橋が大阪府最初の鉄橋として落成したのは、明治元年の淀川の洪水被害によって木橋が流失したことと、当時大阪府の役人に勤めた五代友厚と「鉄橋の本木」こと本木昌造の建言によるものであった。また、大阪府が英国商社との間に鉄橋化事業の契約が結ばれたのは、五代友厚の斡旋に負うところが大きかった。そして、大阪府と英国商社との契約上のトラブルは、契約の書面にみた大阪府が契約の概念に弱かったという従来の指摘に加えて、契約交渉の段階に生じた工費に対する大阪府と外国商社のオールト社との思い違いも一因として作用していたのではないかと考えられる。
外国商社の言い分がほぼその通りに通ったことは、誕生して間もない明治新政府にとって諸外国、とくに超大国の英国との軋轢はできるだけ避ける必要があったかもしれない。それでも、延滞料金を含めて総工費が15500両以上のものを13000両程度で決着をつけたことは、明治新政府の外務省も相当踏ん張ったと評価することができよう。
完成後の高麗橋は、たちまち大阪の名所となり、連日、見物人が絶えなかったという。当時発行された錦絵の説明文は次のように書かされている。
 
欄干、桁、橋杭にいたるまで、ことごとく鉄でないところはない。その上、美しい彩 色を施し、左右の欄干の柱の頭には、ガラスの燈籠を設け、毎夜、燈をともして橋上を往来する人々の助けとし、人々が縦横に行き来するのを容易にするためである。同じ年の秋の末には全て完成し、その壮観は言語に絶する[27]
 
しばらくは、高麗橋の名は忘れられたかのように、「鉄橋、鉄橋」と呼び、橋の西通りは「鉄橋通り」にもなったという[28]。鉄橋の高麗橋が完成して以降、毎年のように鉄製の輸入橋が相次いで架設されるようになった。明治5年に新町橋、明治6年に心斎橋、明治8年に難波橋北側、明治10年に長堀橋などがあり、明治15年ごろまで十数橋がすでに鉄橋となっている[29]
こうして鉄橋の高麗橋がその建設過程においても、完成後の姿においても、ある意味で、明治初期の大阪の人々に与えた、いわゆる「文明の衝撃」がいかに絶大だったかは容易に想像することができよう。
ちなみに、明治になって首都の東京では、九州の石橋職人を呼んでヨーロッパの古典的な石造りアーチ橋をまねた橋を永久橋として架けたようである。これに対して、大阪はまったく新しい鉄の橋を海外から直輸入したのである[30]。このような東西両大都市の性格の違いを示す橋造りの考え方が興味深いところであり、われわれの関心を引き寄せるものであろう。この点の究明は今後の課題とする。

【大阪府公文書館専門員 謝政德】
 
 
 

[1] 大阪府編『大阪府誌 第四編』(1903年発行〔思文閣1970年復刻〕)1234頁。
[2] 国土交通省近畿地方整備局大阪国道事務所HP「大阪八百八橋」https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/road_dat/bridge.html (2018年8月16日確認)。
[3] 大阪市の橋ホームページhttp://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022255.html(2018年8月16日確認)。ちなみに、明治9年には橋の東詰南角に「里程元標」が設置された。
[4] 『明治大正大阪市史 第一巻 概説篇』(日本評論社、1934年)306頁。
[5] 後藤象二郎は、天保9(1838)年に、土佐藩士・後藤助右衛門の子として生まれる。後藤家は、戦国時代の猛将・後藤又兵衛の子孫とされる。若い頃、義理の叔父・吉田東洋の少林塾に学び、吉田の推挙を受けて、御近習目付、普請奉行として活躍するも、吉田の暗殺後に失脚。江戸の開成所で蘭学や航海術、英学を学んだ。のち、山内豊信に登用されて藩政の中心を担う。坂本竜馬の影響を受け、幕府に大政奉還を建白するよう土佐藩を動かしたことは有名である。維新後、参与・外国事務掛・外国事務局判事など中央政府の要職を歴任した人物である。大阪府知事の在任期間は明治元年7月12日~2年2月18日。(『日本の歴代知事 第二巻(下)』歴代知事編纂会、1981年、233頁)。
[6] 高麗橋に言及する文献は主として、堀田暁生「近代の国際交流(1)~開化大阪と来阪外国人」(『大阪の国際交流史』(財)大阪国際交流センター編、東方出版、1991年)270~271頁、同「明治初年における外国人とのトラブル」(『大阪春秋』第17巻2号、1988年)、露の五郎「高麗橋 初の鉄橋は設計ミスで寸足らず」『なにわ橋づくし』(朝日新聞社、1988年)、松村博『大阪の橋』(松籟社、1987年、177~184頁)、「くろがね橋・高麗橋」『実記・百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部、1987年)、米谷修「東横堀川 その三 高麗橋とその周辺(中)」(『大阪人』1979年4月号、1979年4月1日発行)。薮内吉彦「高麗橋今昔」、加藤政一「明治の橋づくし」『大阪春秋』(第7巻第1号、1979年)、「鉄橋通り」(『大阪百年』毎日新聞社、1968年)などを挙げることができる。
[7] たとえば、前掲「くろがね橋・高麗橋」では、後藤象二郎大阪府知事が本木昌造の鉄橋論を受け入れたことによって高麗橋の鉄橋事業が始まったと記している。本稿が後述するように、この鉄橋事業には当時の大阪府権判事だった五代友厚も関わっていた。
[8] 『大阪市風水害誌』(大阪市、1935年)26~27頁。
[9] 『淀川百年史』(建設省近畿地方建設局、1974年)303~304頁。
[10] 『明治大正大阪市史 第三巻 経済編中』(日本評論社、1934年)935頁。
[11] 『五代友厚秘史』(五代友厚75周年追悼記刊行会、1960年)356頁。
[12] 本木昌造は、文政7(1824)年7年6月、長崎新大工町の乙名北島家に生まれた。本木家の養子となるが、家は代々のオランダ通詞であった。天保6年、12歳で稽古通詞となり、海軍伝習所が長崎に設けられると蒸気船伝習係となる。ここで五代友厚と面識ができた。本木は、ほかに活字版摺方掛ともなり、オランダ人から西洋活字に関する技術を学んだ。のち37歳で長崎飽の浦の製鉄所の御用掛となっていたが、明治3年に退職した。(宮本又次『五代友厚伝』有斐閣、1981年、198頁)。
[13] 『五代友厚秘史』(五代友厚75周年追悼記刊行会、1960年)356頁。『五代友厚小伝』(大阪商工会議所発行、1968年)、20~21頁。宮本又次『五代友厚伝』(有斐閣、1981年)199~200頁。
[14] 前掲「東横堀川 その三 高麗橋とその周辺(中)」第33巻242~243頁。
[15] 前掲『大阪百年』22頁。
[16] 前掲『実記・百年の大阪』109頁。
[17] 前掲『五代友厚伝』200頁。前掲『五代友厚小伝』では、五代の「斡旋尽力により、英国ロンドンから橋材を購入して架橋に従事し、同三年九月竣工した」と述べている。
[18] 以下の全9条の契約の内容は、明治4年4月15日付、外務省から大阪府に送付した「鐵橋建設費に関する英國公使の訴」に添付された「鐵橋建造の契約書」(これらの件名は大阪市史の編纂者が付けたものと思われる)によるものである(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』270~272頁)。
[19] ここでの契約に関する叙述は、前掲『大阪の橋』182頁を参考にした。
[20] 鉄橋の高麗橋が大阪に到着した日付は、「大阪府トオールト商社引合勘定書」(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』274頁)による。
[21] 前掲『実記・百年の大阪』109頁。
[22] 「大阪府トオールト商社引合勘定書」(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』274~278頁)。
[23] 前掲『実記・百年の大阪』24頁。
[24] 「往卅七號(朱書) 未四月卅日差立貳通ノ内、別紙ヲールト勘定書壹通添、是ハ午雜書翰貳百八號之附属也」(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』273頁)。
[25] 前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』274~275頁。
[26] 「第五拾六號(朱書) 七月十七日本府より來ニ付、外務省え回答有無并來意之趣取扱振為問合、本紙相添懸合及候。」(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』272頁)
[27] 前掲『大阪の橋』183頁から引用。
[28] 前掲『大阪百年』23頁。
[29] 前掲『大阪の橋』21~22頁。
[30] 佐々木葉「橋を愉しむ、物語を読み解く」(『大阪人』第56巻7月号、2002年)34頁。
 



 明治初期における大阪府域の変遷①


はじめに

 明治元(1868)年から数えて150年目にあたる本年は、大阪府が誕生して150年目の年でもあります。
 そこで、本稿では大阪府誕生からの大阪府域の変遷に注目します。なぜなら、江戸時代、現在の大阪府にあたる摂津(7郡。東成郡・西成郡・住吉郡・島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡)・河内・和泉の3国には大きな藩の領地はなく、幕府の直轄地、大名や旗本、宮家の所領、寺社領等、175にものぼる領主の所領で細分化されていました。また、1つの村に複数の領主がいる相給(あいきゅう)の村も数多くありました。それらの村々が大阪府の管轄となっていく過程はあまり知られていません。もちろん、明治時代初期に大阪府と堺県があったことは周知の事実であり、また、一時期、河内県や摂津県、豊崎県等があったことも『大阪百年史』等で紹介されています。しかし、これらの府県の府域・県域がどのようなものだったのか、どれくらいの期間存在していたのかについて、具体的に図示しているものはありません。
 したがって、慶応4(明治元・1868)年に大阪府が誕生してから明治20(1887)年に奈良県が再置され大和地域が大阪府から離れるまでの、約20年間の大阪府域の変遷の図示を試みます。支配・管轄の変遷については『大阪府全志』に詳しくまとめられているので、それを参考にします。
 なお、紙幅の都合により、今回は図示する前段階の、大きな流れのみにとどめ、次稿で実際に図示します。
 

1.大阪府の成り立ち
 本項では、大阪府の成り立ちを、主要な府県ごとに時系列でみていきます。

1)大阪府
 慶応3年10月14日に大政奉還、同月24日に将軍職を辞職した徳川慶喜は、12月13日に大坂城へ入りました。翌慶応4年1月3日には、鳥羽伏見の戦いが起こり、大坂城へ入っていた慶喜は6日夜、江戸へ退却しました。翌7日には慶喜追討令が出され、江戸幕府は朝敵となりました。この流れの詳細については、数多くの研究成果があるため、具体的な内容はここでは割愛します。
 1月22日、大阪鎮台が置かれ、総督に醍醐(だいご)忠順(ただおさ)、副総督に伊達(だて)宗城(むねなり)が就任しました。また、現在の庁舎にあたるものは、仮設のものが本町4丁目西本願寺掛所(津村別院)に設けられました。
 1月27日には大阪鎮台が大阪裁判所に改称され、総督に醍醐、副総督に伊達が引き続く形で就任しました。その後、2月2日に内本町橋詰町の元西町奉行所に庁舎を移転しました。
 閏4月21日、政体書の公布にともなって府藩県三治体制が敷かれることとなり、5月2日、大阪裁判所が廃止され、大阪府が置かれました。大阪裁判所総督の醍醐が初代府知事として任じられました。
 また、同年2月21日、内海(うつみ)多次郎(たじろう)が摂津・河内両国の旧支配地を差配し、谷町一丁目の旧代官役邸に庁舎を設け、旧代官附属の役人数名を起用して事務を開始しました。この時は大阪裁判所司農方という名称で、大阪裁判所管轄の郡村における民政租税の事務にあたりました。のちに誕生する司農局の前身です。その後、5月2日大阪府司農局となり、6月8日には司農局が南北に分けられ、河内国を南司農局、摂津国8郡(東成郡・西成郡・住吉郡・島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡・川辺郡)を北司農局が管轄することになりました。南司農局は大阪府判事の税所(さいしょ)篤(あつし)が局長を兼任し、幕府代官鈴木町の役宅を使用することとしました。一方の北司農局は大阪府権判事の陸奥(むつ)宗光(むねみつ)が局長を兼任し、谷町一丁目の元司農局を続けて使用することになりました。明治2年1月20日、南北司農局の所管地を大阪府から独立させ、南司農局管轄地を河内県、北司農局管轄地を摂津県としました。
 明治4年7月14日の廃藩置県の後、11月20日には摂津国にあるそれまでの8県(高槻・麻田・芝村・加納・深津・額田・印旛・淀)を廃し、大阪府と兵庫県の管轄としました。この時、大阪府域は摂津国の住吉・東成・西成・島上・島下・能勢の7郡となりました
 明治5年10月に大阪裁判所を置き、大阪府が担当していた司法を分離し、行政と司法の分離がはかられました。また、明治7年7月19日には、庁舎を江之子島に移転しました。
 明治12年2月7日、廃県となる堺県を合併しましたが、明治20年11月4日には、奈良県が再置されることとなり、大和国を分離し、ほぼ現在と同じ形となりました。

2)堺県
 慶応4年1月27日に大阪裁判所の開庁にあたり、旧堺町奉行所に庁舎を設け、大阪裁判所調役と手代数名を派遣しました。閏4月12日には堺役所と改称され、5月2日、大阪裁判所が大阪府になるにあたり、小河(おごう)弥右衛門(やえもん)が大阪府判事に任じられ同役所へ派遣されました。
 6月22日には、堺県を置いて和泉国を所管することになり、和泉国は大阪府から堺県へ移管されました。そして、大阪府判事として堺役所に勤めていた小河が初代堺県知事として任じられました。
 明治2年8月2日に河内県を合併しました。さらに、明治4年7月14日の廃藩置県の後、11月22日に河内・和泉両国内にあった16県(岸和田・伯太・丹南・吉見・五条・淀・小泉・膳所・西大路・神戸・郡山・加納・深津・栃木・茨城・群馬)を廃し、堺県へ合併されました。
 明治6年3月には、庁舎を神明町の西本願寺へ移転しました。
 明治9年4月18日には、第2次府県統合により奈良県が廃県となり、堺県へ吸収されました。この時、堺県の管轄は、河内・和泉・大和の3国となりました。
 明治14年2月7日、府域が狭小で財政難であった大阪府を支えるため、大阪府へ吸収されました。

3)河内県
 河内県は、明治2年1月20日に大阪府から分離し設置された県で、大阪府南司農局の管轄地を引き継ぎました。したがって、南司農局局長を勤めていた税所が知事に任命されました。しばらくは大阪鈴木町大阪府南司農局の庁舎をそのまま使用していましたが、4月27日に若江郡寺内村の大信寺に庁舎を移転しました。
 しかし、8月2日には廃県となり、堺県に吸収合併されました。庁舎はしばらくの間、堺県の出張所として、大和川以北の村々の諸願届等の取り扱いを行っていましたが、明治3年9月7日、出張所を廃止し、諸願届等はすべて本庁での取り扱いとなりました。

4)摂津県
 摂津県は河内県と同様に、明治2年1月20日、大阪府北司農局の管轄地を引き継ぐ形で設置された県です。北司農局局長を勤めていた陸奥がそのまま県知事に就任しました。庁舎も北司農局のものをしばらく使用していましたが、3月に西成郡山口村崇禅寺へ移転しました。
 同年5月10日に豊崎県へ改名されましたが、8月2日には廃県となり、兵庫県へ合併されました。この時、現在は大阪府にある摂津国7郡が兵庫県になりました。
 


2.大阪府域の変遷
 次に、大阪府域の変遷をたどります。
 大阪府の前身である大阪裁判所の管轄は、大坂町奉行所・堺町奉行所の支配地、大坂城代直轄地及び摂津・河内両国における代官内海多次郎の支配地のみでした。
 この時の内海以外の旧代官の知行所と管轄は以下の通りです。
 摂津・河内両国の高槻藩の預所、和泉国岸和田藩の預所、摂津・河内両国の代官小堀(こぼり)数馬(かずま)支配地、河内国の代官多羅尾(たらお)織之(おりの)助(たすけ)支配地、代官木村(きむら)宗右衛門(そうえもん)支配地は、引き続き当人が管轄しました。
 摂津国の代官斎藤六蔵の支配地、摂津国の京都所司代松平(まつだいら)定敬(さだあき)の知行所、大坂城代牧野(まきの)貞明(さだあき)(貞直(さだなお))の知行所、一橋家の領地、田安家の領地は、尼崎藩と三田藩の管轄となりました。
 河内国の代官斎藤六蔵の領地、摂津国の京都所司代松平定敬の知行所、京都守護職松平(まつだいら)容保(かたもり)の知行所は、狭山藩の管轄となりました。
 和泉国の代官内海多次郎支配地、京都守護職松平容保の知行所、一橋家の領地、田安家の領地は岸和田藩と伯太藩の管轄になりました。
 これらのうち和泉国の代官内海多次郎の領地は、慶応4年2月24日、司農局の管轄となり、また、同月、和泉国の小堀数馬の領地も司農局の管轄となりました。
 したがって、慶応4年2月時点での大阪裁判所の管轄地は、大坂城代直管の大坂城地、大坂町奉行支配の大阪市街地、豊島郡岡町、和泉国南郡貝塚、堺町奉行支配の堺市街、和泉国大鳥郡の堺町奉行支配地、代官内海多次郎支配地、和泉国和泉郡の代官小堀数馬支配地となりました。
 3月1日、摂津・河内・播磨3国の旧代官斎藤六蔵の支配地だった、尼崎藩・三田藩・狭山藩・龍野藩・赤穂藩の管轄地域は、大阪裁判所から兵庫裁判所の所管へ移りました。
 5月10日の行政官布告により、各府藩県内の社家寺院等を最寄りの府藩県の所管となりました。しかし、土地・貢租は依然として社寺が所有していました。明治4年1月5日の布告で上知を命ぜられるまで続きました。
 5月23日、兵庫裁判所を廃止し兵庫県を設置することになり、兵庫裁判所の管轄地だった旧代官斎藤六蔵の支配地の摂津国西成・東成・豊島・川辺の4郡及び河内国茨田郡を大阪府に移管しました。
 5月24日には、1万石以下の領地(宮・堂上家(とうしょうけ)領、旗本領)も社寺領と同様に最寄りの府県に属することになりました。河内・和泉・摂津の川辺郡以東8郡内の万石以下の領地は大阪府に属しました。しかし、社寺領同様、土地・貢租は依然として旧領主が所有し、明治2年12月2日の布告で上知を命ぜられるまで続きました。。
 5月晦日、一橋・田安両家が藩屏に列せられるにあたり、摂津国の尼崎藩・三田藩、和泉国の岸和田藩・伯太藩の管轄となっていた地域は、両家の領地に戻され、一橋藩・田安藩となりました。
 6月、京都守護職松平容保・京都所司代松平定敬・大坂城代牧野貞明(貞直)の知行所、小田原藩の領地を大阪府へ移管されることになり、河内国の京都守護職・京都所司代の知行所は狭山藩、摂津国の大坂城代の知行所・京都所司代の知行所は尼崎藩・三田藩が管轄していた地域が大阪府の管轄地となりました。また、小田原藩の領地は6月10日に大阪府へ移管されました。
 6月22日、小堀数馬・多羅尾織之助・木村宗右衛門の支配地が大阪府へ移管されました。。
 7月2日、河内国の御領の狭山藩取り締まり分が免じられました。
 7月12日、摂津国有馬郡走尾村・柳谷村、八部郡西小部村の小堀数馬支配地は大阪府へ移管されました。
 7月19日、大阪府内の田安家領地を引き渡すこととなり、大阪府の管轄地は河内国と摂津国8郡になりました。
 8月7日の布告により、旧旗本領没収分は最寄りの府県・諸藩預所の所管になりました。
 10月24日、大和川中央に大阪府と堺県の府県境を設けることとなり、これにあわせて、摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡の郡境も移動しました。
 明治2年1月20日、南北司農局が河内県・摂津県になったことにより、大阪府の府域は大阪市街地のみとなりました。また、1月晦日、摂津県管轄の大阪市街に接続する西成・東成両郡の地を大阪府へ編入しました。これは、江戸時代、大坂三郷に隣接していたために市街地化した村々が該当します。
 9月19日には摂津県から兵庫県へ移管された地域のうち、住吉・東成・西成の3郡を大阪府へ移管しました。
 12月26日、一橋・田安両藩が廃藩となり、西成郡にあったものは大阪府へ、島下・豊島両郡にあったものは兵庫県へ移管されました。
 明治3年10月4日、飯野藩の付替上知が行われ、大阪府へ移管されました。
 12月24日、島上・島下・能勢の3郡にある高槻藩預所が兵庫県へ移管されました。明治4年8月、兵庫県の県域が東に拡大したことにより、兵庫県の出張所を武庫郡西宮から豊島郡池田村へ移転しました。
 前述の通り、明治4年11月20日、摂津国の従来の8県(高槻・麻田・芝村・加納・深津・額田・印旛・淀)を廃し、大阪府と兵庫県の管轄となったことにより、大阪府域は摂津国の住吉・東成・西成・島上・島下・能勢の7郡となりました。高槻藩の管轄であった丹波国桑田郡も大阪府になりましたが、すぐに京都府の管轄に移りました。
 明治6年10月5日、京都府乙訓郡山崎村を摂津国島上郡へ編入し、大阪府の所管地としました。
 明治7年8月4日には、淀川や大和川を隔てて飛び地となっていた、西成郡北大道村・南大道村・橋寺村・橋寺村新田を茨田郡へ、島上郡磯島村を交野郡へ、住吉郡七道領を大鳥郡へ編入し、堺県の管轄としました。
 明治12年2月7日、堺県を合併し、摂津7郡、河内・和泉・大和が所管地となりました。
 明治20年11月4日、奈良県が再置されることになり、大和国を分離し、現在とほぼ同じ府域となりました。
 
おわりに
 江戸時代の支配体制から明治時代に府県へと移り変わっていく過程で、幕末における領主が幕府方か新政府方かによって、管轄や移管の頻度に差が生じました。朝令暮改にも近いこの状況を、当時の人々がどのように受け止めたのかは史料の制約もあり、はかり知ることはできません。
 明治初期における大阪府域は、和泉・河内は大きく変動することはありませんでしたが、摂津は大阪府であったり兵庫県に入ったり、再び大阪府になったりと、大きく変動しました。幾度か離合を繰り返した摂津国が、現在の大阪府と兵庫県の府県境に決まったのは、慶応4年4月に大阪裁判所司農方の名義で内海多次郎が出した「和泉・河内両国一円全大阪裁判所支配、摂津武庫・有馬・菟原・八部都合4郡、播磨国は兵庫裁判所支配と被仰出可然奉存候、阪地より距離僅の差ひに候得共、便宜に随ひ候儀に御座候」という建言が大きかったといわれています。
 本稿では大阪府になる地域が近世の支配体制から近代のものへと移り変わる過程を追いました。次稿ではこの過程を村ごとに色分けして可視化します。
 

(注)
1大阪府域が現在の形になるのは、昭和33(1958)年4月1日に京都府南桑田郡樫田村(現在の高槻市樫田地区)が高槻市に編入合併されてからです。明治初期の高槻市樫田地区は山城国南桑田郡に属していました。
2 慶応4年9月8日、明治に改元されました。この時、「慶応4年を明治元年とする」とありますが、本稿では改元前日の9月7日までを慶応4年とします。
3 『大阪府全志』巻之一、大正11年。昭和60年復刻版、清文堂出版。
4 ここに出てくる鎮台とは、維新政府が鳥羽伏見の戦いの後に幕府領を没収し、それを直轄するための行政機関として置いたものです。したがって、この当時の大阪鎮台や大阪裁判所は、陸軍の部隊や司法を取り扱う、のちの大阪鎮台や大阪裁判所とは別のものです。
5 明治4年10月25日から11月22日かけて、大規模な府県統合が行われ、全国35府県になりました。この時の府県統合では、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編されました。

【公文書館専門員 市原佳代子】




昭和26年、大阪府の野球熱

大阪=阪神タイガース、ではない
「阪神が勝った日はどこよりも長く、負けた日はどこよりも短く」前日の試合を報じる大阪ローカルのワイドショー番組がある。まるで大阪人の全てが阪神タイガースファンかのようで、他チームファンならチャンネルを替えてしまいそうだ。そもそも阪神タイガースのフランチャイズは兵庫県であり、大阪府ではない。現在、大阪府をフランチャイズとするのはオリックス・バファローズだけだが、かつては南海ホークス、近鉄バファローズが大阪府を本拠としていた。それぞれのホームグラウンドは大阪球場と日生球場、現在はその球場自体が存在しない。両球場が開場したのは昭和25年、この時期に大阪府は両球場に対する資金援助を行っている。大阪球場建設には3年間にわたり4500万円、日生球場には300万円という助成金が交付された。戦後間もないこの頃、行政が民間の球場建設や整備を支援した経緯・背景などを大阪府公文書館に残る資料を中心に振り返ってみると、この時代の野球熱が伝わってきて興味深いものがある。
 
戦後まもなくの野球事情
 昭和26年に締結されたサンフランシスコ講和条約により我が国は独立を回復したが、戦前に発足したプロ野球は戦時中・占領下においても引き続き行われており、主に甲子園球場(大正13年開場)や西宮球場(昭和12年開場)で試合が開催されていた。大阪府内にも藤井寺球場(昭和3年開場)、中百舌鳥球場(昭和14年開場)が存在したものの、都心から離れた立地のため集客の問題がつきまといプロ野球の試合開催頻度は低かった。在
阪の南海ホークス、松竹ロビンズ(現、横浜DeNAベイスターズ)、近鉄パールズなども専ら兵庫県内の両球場で興業を行っていた。プロ野球にフランチャイズ制度が導入されるのは昭和27年のシーズンオフのことである。 つまり、人口稠密な大阪市内にプロ野球開催球場がなく、観戦のためにはファンは甲子園球場、西宮球場まで出向く必要があったということである。
まさに戦後の復興が本格化する頃、物不足、食糧不足が残るなかで、学生野球やプロ野球の観戦は数少ない娯楽のひとつであった。観るだけではなく、公園や運動場での草野球、空き地での三角ベースなど、野球は大人から子供に至るまで親しまれていたスポーツであった。

大阪スタヂアム建設への気運
野球人気が盛り上がるなか大阪市内での球場建設への意欲を高めたのは南海ホークスである。ターミナル駅難波近くの専売局跡地の払い下げを受けホームグラウンドを建設するという計画が立てられたが、建築資材の調達での障碍が生じる。戦後復興の時期、球場を建てるよりも住宅建築に資材を回すのが妥当といった当局の反対もあったとき、援軍となったのがGHQ経済科学局長のマッカート少将である。地元にホームグラウンドを持って当たり前という米国野球流の発想から資材割当等への便宜供与が行われる。当時、日本はまだ占領下である。

昭和24年に株式会社大阪スタヂアムが設立され、資材割当の申請を建設大臣に、建築認可申請を大阪府知事に提出の運びとなる。あわせて大阪府への補助金の申請が行われた。この補助金はそもそも大阪市と折衝していたものだったが、最終段階で申請先が大阪府に変わったという経緯がある。昭和24年9月2日付の「スタヂアム建設助成に関するお願い」と題する知事宛ての申請書は次のとおりである。
 「戦後職業野球に対する府市民の関心洵に著しいものがあるにかかわらず大阪府には御承知の通りこれが適切な球場設備が皆無の状態でありますので府市民プロ野球を観るためには他府縣所在の球場に赴かねばならぬ現状であります。倖に戦時中燒失した元大阪地方專賣局の廳舍跡約二万坪はその位置、市内繁華街に近接し絶好の立地條件を具備していますのでこの地に球場を設けたならば一般府市民にとり時間的にも経済的にも便益極めて大であろうことは想像に難くないのであります。
然しながら終戦以来物價昂騰の今日球場建設には莫大な資金を要し而も高率の入場税の負担を余儀なくされる関係上到底経営上の採算は取り得ないことは言を俟たないところであります。
 本球場建設の暁には府民に対し健全娯樂を提供するのみならず靑少年に対しては体育文化の向上ともなり加えて入場税収により地方財政にも寄與するところ少なくないと考えますので御廳におかれては適当な助成方法を御考慮下さいますようお願い申上げる次第であります。」

入場税は100%
助成申請書に書かれた入場税は現存しないため、ここで説明が必要になるだろう。昭和13年から平成元年に消費税が導入されるまで入場税が存在した。戦費調達を目的として税率10%でスタートした入場税は、終戦直前には税率200%まで引き上げられた。昭和23年に地方税に移管されるとともに税率150%となり、内訳は都道府県が50%、市町村が100%とされた。昭和25年にシャウプ勧告を受けて税率100%に引き下げられると同時に都道府県税に一本化された。引き下げられたとはいえ100%という税率は戦時中の奢侈税的なものを引き摺っていて異様である。国民が入場料として支払う料金の半分が税金、興業主の取り分は半分に過ぎないということである。大阪スタヂアムへの助成金申請先が大阪市ではなく大阪府に替わったということ、申請を受けた大阪府が前向きに取り組んだことには、この入場税を巡る動きが大きく関わっている。

株式会社大阪スタヂアムへの助成
大阪府にしてみれば、野球場建設への助成が厚生政策としてのスポーツ振興もさることながら、入場税として得られる収益が魅力であったことは否定できない。大阪府の乗り気具合は、後に大阪スタヂアムの依頼を受け、当時の大阪の主要産業であった繊維関係各社に安定株主となるよう慫慂状を発信していることにも窺える。
助成金申請を受けた大阪府は、大阪球場建設に対し4500万円以内3年分割での交付を契約している。正確な助成額はMin(入場税の1/3,4500万円)、つまり集客が悪ければ入場税の1/3で済み4500万円に達しない、集客が良くても4500万円以上の助成は行わず大阪府は入場税収入で潤うという仕組である。行政としてリスクを取らず、あわよくば税収増という話に思えるが、興業実績がある程度予測可能なプロ野球であれば、さほど振れは大きくないとも言える。現に、その後3年間の実績をみると、入場税の1/3は4500万円を少し上回る程度でバランスしている。
 
府議会でのやりとり
この株式会社大阪スタヂアムへの助成は、行政の中立性、公平性の観点から疑義ありとする向きもあろう。大阪府議会でも本件は大義名分に欠く助成であるとして、次のような質問が昭和25年の9月定例大阪府会速記録に見える。
「入場税の三分の一を三ヶ年にわたって助成をする、その金額はおよそ五千万円、かような方法で一株式会社、一個人経営の施設に対して、入場税を対象として助成をするということに相なりますれば、およそ事のいかんを問わず、その撰別がきわめて困難な点が生まれてくるのではないか」
 この助成は税金のキャッシュバックあるいは減免に近い措置であり、今後発生しうる案件に際して公平性は担保できるのかという趣旨だろう。これに対して当時の赤間文三知事の答弁は次のようなものである。
「今回のスタヂアムは、電車賃を拂い、他府県にそうそうの入場料を出しておる大阪にこの施設がない、こういう事例のものにつきましては、府の財源を涵養する意味において必要なことであると私は考えておるのであります(「そんなええかげんなことではいかん」と呼ぶ声あり)」
 知事の答弁は率直である。府政事業を行う裏付けとなる税収確保は最大の命題であり、何とか府域から流出することを防止したいという本音が出ている。しかし、行政にとって線引きの問題を避けて通れない。本件は、初めにルールありきではなく、後付けで助成の理屈を考えるようにも見えるわけで、目先の税収に囚われ原理原則が疎かになっているという質問者の指摘は蓋し正論でもある。そして、その懸念は現実のものとなる(後述)。

続く日本生命球場への助成
株式会社大阪スタヂアムへの助成に踵を接して、日本生命球場への助成案件が持ちあがる。昭和26年、日本生命から大阪府にスポーツ振興助成金16,413,000円の申請が提出された。
日生球場は大阪球場にわずかに先立つ昭和25年6月に竣工している。大阪球場が当初からプロ野球の興業を第一義としたものであったのに対し、日生球場はアマチュア野球を柱にするということで、性格を異にする。また、大阪球場が建築資金であるのに対し日生球場の場合は既設設備の整備資金であるという点においても違いがある。
申請書では、戦後日本における文化国家建設およびスポーツ興隆の重要性に始まり、府内における当該施設拡充の必要性を訴えるとともに、プロ野球の興業による府財政への寄与の可能性についても述べられている。野球場の建設にとどまらず、「将来的には一大綜合運動場として府民各位の御利用を願える事を最終の目的」とのビジョンまで書き加えられている。
 「生命保険本来の業であります済世利民の一部をも併せ實行致し度い」とはするものの、大阪球場に助成するのであれば日生球場にも大阪府の支援をという申請側の気持ちも透けて見える。外部への供用が過半とは言え、日生球場は社有グラウンドで、企業の厚生施設としての性格を併せ持つことも事実である。戦後間もない時期で食糧難も続く時代、日本生命は京都府綴喜郡三山木村に社員のための農場を経営していたほどである。助成金申請の趣旨は高邁であっても、恵まれた企業に対する支援であることに、大阪府も慎重姿勢で臨んだのであろう。
日本生命から申請のあった内容に対し、最終的に大阪府が決定した助成金額は300万円に留まる。入場無料のものが多数を占める日生球場の場合、開場から一年余り、同年9月までの日生球場の入場税額は500万円程度であり、大阪球場のような助成の裏付けとなる税収が見込めないことが助成金額にも反映している。その一方で、助成に際して日本生命から大阪府庁職員の厚生施設としての球場無償利用に関する覚書を差し入れているのは、広く府民一般の利用に供するという精神を担保する意味合いもあるが、微妙なところである。
 昭和26年度上期の日生球場の利用状況は上表のようになっている。プロ野球以外、一般大会や団体・企業への供用が圧倒的に多い。現在に至るまで日本生命はノンプロ強豪チームを擁していることからも解るように、アマチュア野球に特化していたことが窺える。近鉄バファローズの準本拠地となってプロ野球開催が増加するのは昭和33年以降である。なお、一般大会の範疇にレッドソックスという球団名が見えるが、これは昭和25〜26年の短期間に存在した女子プロ野球チームで、三共製薬が親会社であった。平成22年に始まった現在の女子プロ野球とは別のものである。

昭和26年のプロ野球
大阪市内2球場が誕生した昭和25年、プロ野球のセパ2リーグ制が、セントラル8球団・パシフィック7球団でスタートしている。現在の各6球団よりも多い。シーズンオフに西日本と西鉄の合併があり、昭和26年からは両リーグ7球団となる。同年の成績は下表のとおりで、セリーグは巨人、パリーグは南海が独走で優勝している。大阪球場フル稼働に花を添えたことになる。
 当時の球団親会社をみると、鉄道8、新聞2、芸能2、漁業1、親会社なし1という分布で、鉄道関係の多さが際立っている(昭和26年、名古屋は名鉄が経営)。関西地区の球団は6球団(私鉄4社と松竹、毎日)を数える。このような状況下、大阪市内でのプロ野球開催は自然な要請であり、民間の資金力に限度もあるなか、一部を公的支援に頼るという流れが生じたとも言える。昭和27年にはフランチャイズ制の施行があり、まさにこの時期はプロ野球の激動期であった。

もちあがった行政訴訟
 大阪スタヂアムへの助成がほぼ終了しようとしていた昭和28年1月になって、大阪府監査委員宛てに「大阪府知事違法不当行為制限措置請求書」が提出される。発信者は弁護士の清水嘉市氏である。大阪スタヂアムおよび日本生命への助成を違法と糾弾するもので、その論点は次の二点であった。
①地方自治法231条「普通地方公共団体はその公益上必要がある場合においては、寄附又は補助をすることができる」(現232条の2)の主旨に反する違法な補助金である。
②地方財政法4条1項「地方公共団体の経費は、その目的を達成するための必要且つ最少の限度を超えて、これを支出してはならない」との規定より見ると、全く違法または不当の支出である。
 両案件は営利企業に対し入場税の払戻しの性質を有する助成金を交付するものであり公益性に欠ける上に、過剰な金額であるという主張であり、これに基づき監査が行われることになる。
監査に先立ち提出された知事の意見書では、①両案件は「府民厚生施設に対する助成方針(別掲)」に則り、議会承認等の正当な手続きを経て執行したものであること、②支給対象が営利企業であることは産業貿易振興等のための価格補給金奨励金などの例もあり、相手方云々ではなく目的で判断すべきであること、③大阪スタヂアムに対する助成は入場税の払戻しではなく、助成金限度額を算定する計算基礎にしたに過ぎない、等の反論が記載されている。
本件助成に関しての違法性は認められないとする監査の結果が通知されたところ、清水弁護士はこれを不服として同年2月に大阪府知事を被告とする行政訴訟を大阪地方裁判所に起こすに至る。
 
府民厚生施設に対する助成方針
一、趣旨
社会経済事情の推移にかんがみ文化、芸能、娯楽、運動競技等広義の厚生施設に対して次のような要領により助成を行う事とする。
二、要領
次のような条件を満たす厚生施設に対し府の財政事情の許す範囲内において府費を持って助成するものとする。
(一)他府県にあって本府内になく、しかも将来他の類似施設を設けることが困難であると思われるもの。
(二)施設の内容、位置等から見て老若男女を問わず府民が広く利用し得るもの。
(三)直接間接、経済復興に寄与し府の財源の涵養となるもの。

 行政訴訟の内容は、①助成金残額の支出差し止め、②支出済助成金の大阪府への補填を求めるものであった。大阪府側はこれに応訴し、同年4月から昭和34年5月に及び13回の公判が実施される。
私企業が経営する野球場への助成が公益に叶うものであるのかどうかで、双方の見解は相容れない。野球場経営を通じ利潤追求を目的とする企業への助成は公益に沿ったものでないとする立場と、健全な厚生慰楽である野球競技(および観戦)の機会を大阪府内で提供することは公益に沿ったものであるという見解の隔たりは大きい。詰まるところ、助成に関して府議会の議決を経て、予算としても府議会の承認を得ており、何ら手続的な瑕疵はないという府側の主張の前に、原告側が勝訴の見込薄と判断し訴えを取り下げ、7年に亙る訴訟は終結を迎える。

終わりよければ…?
長引いた裁判は、司法の判断が下されることなく結末を迎えたが、その昭和34年と言えば、今上天皇の御成婚の年であり、「ミッチーブーム」を機にテレビの普及に拍車がかかったときである。すでに昭和28年にスタートしていたプロ野球中継の人気は益々高まっていた。このシーズンから読売ジャイアンツには新人として王貞治選手が入団し、6月25日に後楽園球場で行われた巨人-阪神戦は天皇皇后両陛下を迎えた初の天覧試合となり、村山実投手から長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打を放つ。ペナントレースはセリーグで巨人が5連覇、パリーグは南海が4年ぶりに優勝し、鶴岡一人監督率いる南海ホークスは史上初の日本シリーズ4試合ストレート勝ち(勝利投手は全て杉浦忠投手)で、5度目となる対決で巨人を破った。セパ2リーグとなって以来初めての日本一であった。シリーズ終了翌々日の10月31日には、沿道に20万人が集まったという「涙の御堂筋パレード」が行われ語り草となっている。
大阪スタヂアムへの助成に絡む行政訴訟の取り下げがあったのは、それから間もない11月27日のことである。
そして現在、大阪スタヂアム跡を再開発して出来た、なんばパークスのペデストリアンデッキには、往時のホームベースの位置に記念碑が埋め込まれている。足早に行き交う人々で、足許のモニュメントに目を遣る人はほとんどいない。
 
 
【参考文献】
大阪府資料「大阪スタヂアム助成金一件綴 昭和26年度」(請求記号 BB3-0026-4)
大阪府資料「大阪スタジアム関係綴 昭和26年度」(請求記号 BB3-0026-5)
大阪府資料「大阪スタジアム助成関係書類(袋入り) 昭和26年」(請求記号 BB3-0026-6)
大阪府資料「大阪スタジアム助成関係書類(袋入り) 昭和28年」(請求記号 BB3-0028-7)
大阪府資料「大阪スタジアムに対する助成金の支出についての不服審査関係書類(袋入り) 昭和28年」(請求記号 BB3-0028-8)
大阪府資料「助成金不当支出措置要求事件 昭和28年」(請求記号 BB3-0028-11)
大阪府資料「日生球場助成に関する書類 昭和26年10月」(請求記号 BB3-0026-3)
「日本生命九十年史」 日本生命保険相互会社 昭和55年4月(請求記号 C2-1990-518)
「南海電気鉄道百年史」 南海電気鉄道株式会社 昭和60年5月(請求記号 C2-0060-197)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ」 近畿日本鉄道株式会社 平成22年12月(請求記号 C2-2012-69)
「大阪スタヂアム興業の足跡 歓声とともに半世紀 ありがとう大阪球場」
大阪スタヂアム興業株式会社 平成10年9月
「白球で綴る半世紀 日本生命球場史」
株式会社日本生命球場 平成10年4月
「プロ野球70年史 歴史編」 ベースボール・マガジン社 平成16年12月
坂田哲彦「昭和レトロスタヂアム 消えた球場物語」 ミリオン出版 平成22年10月
宮﨑刀史紀「文化政策へのまなざし –入場税撤廃運動の変遷と意義-」 文化経済学第3巻第3号 平成15年3月
桑原稲敏「女たちのプレーボール 幻の女子プロ野球青春物語」 風人社 平成5年6月
谷岡雅樹「女子プロ野球青春譜1950 戦後を駆け抜けた乙女たち」 講談社 平成19年9月
 
【大阪府公文書館専門員 的場 茂】


 
はじめての出張講座        大阪府立中央図書館にて

府庁から飛び出す


 今年度、大阪府立中央図書館との共同事業として明治150年にちなんだテーマで出張講座を3回にわたって実施しました。

 例年であれば大阪府庁舎で実施する歴史講座ですが、従来にはなかった試みとして、場所を東大阪市の大阪府立中央図書館の多目的室(定員80名)に移し、上記のテーマで、事前申込制ではなく当日自由参加という運営で開催しました。平日の開催、大阪都心部から離れた場所での公開講座ということで、多くの方にお越しいただけるか懸念しましたが、各回とも多数のご参加を得て終了することができました。
当日、来場者からいただいたアンケート回答をもとに、今回の講座を振り返り、今後の課題について考えてみたいと思います(以下に示す数値は3回分のアンケート回答者の延べ数)。

恐るべし、中高年パワー

Q あなたの年齢は?

 1.10代    0人
 2.20代    0人
 3.30代    1人
 4.40代    8人
 5.50代   18人
 6.60代   58人
 7.70代   62人
 8.80代    1人
 9.その他   0人
 計      148人

 生涯学習、生涯スポーツなどと言われて久しいですが、この歴史講座の参加者を見ても60歳以上の方々の意欲の高さに驚かされます。平日ということで現役世代の参加が難しいという要因はあるにしても、複数回参加の方も多く見受けられるなど、知的好奇心の衰えない中高年の方々の多いことに感心するばかりです。

アクセスばかりは…

Q あなたの居住地は?
 1.東大阪市         38人
 2.大阪市           49人
 3.「1、2」を除く大阪府   43人
 4.奈良県           6人
 5.その他の府県       7人
 合計             143人

 東大阪市、近鉄けいはんな線の荒本駅にほど近い大阪府立中央図書館は、都心部ではないため各方面からの来場という訳にはいかなかったようです。来場者の地域分布を見ても、地元の東大阪市、大阪市の他は近鉄で繋がっている奈良県が目立つ程度で、下鉄中央線~近鉄けいはんな線というアクセス経路が主だったと考えられます。今回、外部での出張講座を開催したことで、より多くの地域の方に大阪府公文書館の活動を知っていただく意義を感じられたのですが、府内他地域も視野に入れた開催場所の設定も一考の余地がありそうです。

評価が励みに

Q 講演の感想は?
 1.大変良かった     54人
 2.良かった        65人
 3.普通          15人
 4.良くなかった      2人
 5.全然良くなかった   0人
 合計           136人


 出張講座は初めての試みで、しかも連月の連続講座であもあり、大阪府立中央図書館との事前調整に始まり、事務局での細部確認や広報、講演者の資料作成やプレゼンテーション準備など、通常の歴史講座と比べて時間と労力を費やすことになりましたが、来場者の方々から、ありがたい評価をいただくことになりました。
これからも、多くの可能性に積極的に挑戦していく姿勢を持ち続けたいと思います。

 
広報のあり方にも工夫を

Q 講座を知ったきっかけは?
 1.中央図書館のチラシや掲示         46人
 2.府立施設のチラシ              14人
 3.インターネット                 32人
 4.中央図書館のメルマガ          23人
 5.市町村立の図書館にあったチラシ    20人
 6.市町村立の公民館等にあったチラシ  10人
 7.知人・友人                  6人
 8.その他                     6人
 合計                       157人

 従来の歴史講座の場合、大阪府の公報誌やホームページでの告知、さらには過去の参加者へのメールなどが主な広報手段でしたが、事前申込制でない今回は、違った取組が必要となりました。会場でもあり共催でもある大阪府立中央図書館でポスター、チラシ、メールマガジン等でPRしていただいたことに加え、大阪府公文書館としても府立の公共機関へのチラシ配布などの取組み、ネットTVでの告知、あるいは職員人脈活用での口コミという泥臭い手法まで動員して集客に努めました。それらが相俟って、閑古鳥を駆逐することに成功したのかも知れません。
 下のグラフは、この講座を知ったきっかけについて尋ねたアンケート結果です。特定のルートに偏することなく、様々な経路から情報を入手されていることが判ります。今後の広報のあり方について示唆に富んでいるものだと思います。

やはり基本はコンテンツ

Q 講座に参加した理由は?
 1.テーマ(内容)に興味・関心があったから   133人
 2.講演者に魅力を感じたから             7人
 3.大阪府立図書館の主催事業だから       10人
 4.その他                         6人
  合計                          156人

 今回の共同事業に先立ち、大阪府立中央図書館では明治150年企画展示が行われ、大阪府公文書館からも多数の歴史的史料を貸し出しました。また、第1回の講座の翌日6月9日(土)には、「明治の万博」第五回内国勧業博覧会をメインテーマとした橋爪伸也氏の基調講演とが行われました。大きなテーマである「明治150年」に連動した特色のあるサブテーマを三人の専門員が順次担当することで、単発の講座では得られない相乗効果が出たのではとも思います。

 来場者のアンケート回答でも、参加理由として「テーマ(内容)に興味・関心があったから」とした人数が圧倒的であり、当たり前ではありますが、改めてテーマ設定の重要度を感じさせます。

【公文書館事務局】
 

 平成29年度 公文書館 事業の推移

来館者数
来 館 者 内 訳      平成27年度    平成28年度    平成29年度
公文書総合センター ①     16,739人     19,507人      19,005人
府政情報センター  ②      3,697人      4,067人       3,908人
公文書館       ③      13,042人     15,440人      15,097人

※「公文書総合センター」に、「公文書館」と「府政情報センター」設置(要綱設置)
①は、公文書総合センター入口設置の自動計測入場者数、②は府政情報センター窓口受付数、①-②=③を
公文書館来館者数とし、府政学習会の庁舎見学者等も含む。

閲覧申出件数
内訳              平成27年度    平成28年度     平成29年度
閲覧申出件数            377件        292件        290件
複写申出件数            170件        195件         186件

歴史的文書資料類の登録状況
分    類             累計登録点数   平成27年度   平成28年度   平成29年度
近世・近代資料等            12,910点       161点        0点         9点
府行政文書                17,992点       673点     1,049点       436点
行政刊行物・官報・公報他       143,064点     2,292点      1,504点      1,752点
合計                    173,966点     3,126点      2,553点      7,308点

【公文書館事務局】
 


大阪府公文書館 利用案内
所在地  大阪府庁本館5階(大阪市中央区大手前2丁目1-22)
閲覧時間 月曜日~金曜日 午前9時00分~午後5時15分
複写申請は閉館の30分前までにお願いします。
休館日  土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
年末年始(12月29日~1月3日)
_________________________________________________________________
大阪府公文書総合センター (公文書館、府政情報センター)
               開館時間              9:00~17:15
正庁の間     一般公開日 水・金曜日10:00~17:00


大阪府公文書館 『大阪あーかいぶず 』第53号 平成30年9月30日発行
〒540-8570 大阪市中央区大手前2丁目1-22(大阪府庁本館5階)/TEL06-6944-8374/FAX06-6944-2260
ホームページ https://archives.pref.osaka.lg.jp/ (大阪あーかいぶずの電子版も掲載しています)

 
住所
大阪市中央区大手前2丁目1-22 大阪府庁本館1階
Tel
06-6944-8371
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