[5] 後藤象二郎は、天保9(1838)年に、土佐藩士・後藤助右衛門の子として生まれる。後藤家は、戦国時代の猛将・後藤又兵衛の子孫とされる。若い頃、義理の叔父・吉田東洋の少林塾に学び、吉田の推挙を受けて、御近習目付、普請奉行として活躍するも、吉田の暗殺後に失脚。江戸の開成所で蘭学や航海術、英学を学んだ。のち、山内豊信に登用されて藩政の中心を担う。坂本竜馬の影響を受け、幕府に大政奉還を建白するよう土佐藩を動かしたことは有名である。維新後、参与・外国事務掛・外国事務局判事など中央政府の要職を歴任した人物である。大阪府知事の在任期間は明治元年7月12日~2年2月18日。(『日本の歴代知事 第二巻(下)』歴代知事編纂会、1981年、233頁)。
[6] 高麗橋に言及する文献は主として、堀田暁生「近代の国際交流(1)~開化大阪と来阪外国人」(『大阪の国際交流史』(財)大阪国際交流センター編、東方出版、1991年)270~271頁、同「明治初年における外国人とのトラブル」(『大阪春秋』第17巻2号、1988年)、露の五郎「高麗橋 初の鉄橋は設計ミスで寸足らず」『なにわ橋づくし』(朝日新聞社、1988年)、松村博『大阪の橋』(松籟社、1987年、177~184頁)、「くろがね橋・高麗橋」『実記・百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部、1987年)、米谷修「東横堀川 その三 高麗橋とその周辺(中)」(『大阪人』1979年4月号、1979年4月1日発行)。薮内吉彦「高麗橋今昔」、加藤政一「明治の橋づくし」『大阪春秋』(第7巻第1号、1979年)、「鉄橋通り」(『大阪百年』毎日新聞社、1968年)などを挙げることができる。
[7] たとえば、前掲「くろがね橋・高麗橋」では、後藤象二郎大阪府知事が本木昌造の鉄橋論を受け入れたことによって高麗橋の鉄橋事業が始まったと記している。本稿が後述するように、この鉄橋事業には当時の大阪府権判事だった五代友厚も関わっていた。
[12] 本木昌造は、文政7(1824)年7年6月、長崎新大工町の乙名北島家に生まれた。本木家の養子となるが、家は代々のオランダ通詞であった。天保6年、12歳で稽古通詞となり、海軍伝習所が長崎に設けられると蒸気船伝習係となる。ここで五代友厚と面識ができた。本木は、ほかに活字版摺方掛ともなり、オランダ人から西洋活字に関する技術を学んだ。のち37歳で長崎飽の浦の製鉄所の御用掛となっていたが、明治3年に退職した。(宮本又次『五代友厚伝』有斐閣、1981年、198頁)。
[13] 『五代友厚秘史』(五代友厚75周年追悼記刊行会、1960年)356頁。『五代友厚小伝』(大阪商工会議所発行、1968年)、20~21頁。宮本又次『五代友厚伝』(有斐閣、1981年)199~200頁。
[17] 前掲『五代友厚伝』200頁。前掲『五代友厚小伝』では、五代の「斡旋尽力により、英国ロンドンから橋材を購入して架橋に従事し、同三年九月竣工した」と述べている。
[18] 以下の全9条の契約の内容は、明治4年4月15日付、外務省から大阪府に送付した「鐵橋建設費に関する英國公使の訴」に添付された「鐵橋建造の契約書」(これらの件名は大阪市史の編纂者が付けたものと思われる)によるものである(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』270~272頁)。
[24] 「往卅七號(朱書) 未四月卅日差立貳通ノ内、別紙ヲールト勘定書壹通添、是ハ午雜書翰貳百八號之附属也」(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』273頁)。
[26] 「第五拾六號(朱書) 七月十七日本府より來ニ付、外務省え回答有無并來意之趣取扱振為問合、本紙相添懸合及候。」(前掲『明治大正大阪市史 第七巻 史料編』272頁)
[27] 前掲『大阪の橋』183頁から引用。
[30] 佐々木葉「橋を愉しむ、物語を読み解く」(『大阪人』第56巻7月号、2002年)34頁。
明治初期における大阪府域の変遷①
はじめに
明治元(1868)年から数えて150年目にあたる本年は、大阪府が誕生して150年目の年でもあります。
そこで、本稿では大阪府誕生からの大阪府域の変遷に注目します。なぜなら、江戸時代、現在の大阪府にあたる摂津(7郡。東成郡・西成郡・住吉郡・島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡)・河内・和泉の3国
1には大きな藩の領地はなく、幕府の直轄地、大名や旗本、宮家の所領、寺社領等、175にものぼる領主の所領で細分化されていました。また、1つの村に複数の領主がいる相給(あいきゅう)の村も数多くありました。それらの村々が大阪府の管轄となっていく過程はあまり知られていません。もちろん、明治時代初期に大阪府と堺県があったことは周知の事実であり、また、一時期、河内県や摂津県、豊崎県等があったことも『大阪百年史』等で紹介されています。しかし、これらの府県の府域・県域がどのようなものだったのか、どれくらいの期間存在していたのかについて、具体的に図示しているものはありません。
したがって、慶応4(明治元・1868)年
2に大阪府が誕生してから明治20(1887)年に奈良県が再置され大和地域が大阪府から離れるまでの、約20年間の大阪府域の変遷の図示を試みます。支配・管轄の変遷については『大阪府全志』
3に詳しくまとめられているので、それを参考にします。
なお、紙幅の都合により、今回は図示する前段階の、大きな流れのみにとどめ、次稿で実際に図示します。
1.大阪府の成り立ち
本項では、大阪府の成り立ちを、主要な府県ごとに時系列でみていきます。
1)大阪府
慶応3年10月14日に大政奉還、同月24日に将軍職を辞職した徳川慶喜は、12月13日に大坂城へ入りました。翌慶応4年1月3日には、鳥羽伏見の戦いが起こり、大坂城へ入っていた慶喜は6日夜、江戸へ退却しました。翌7日には慶喜追討令が出され、江戸幕府は朝敵となりました。この流れの詳細については、数多くの研究成果があるため、具体的な内容はここでは割愛します。
1月22日、大阪鎮台が置かれ、総督に醍醐(だいご)忠順(ただおさ)、副総督に伊達(だて)宗城(むねなり)が就任しました。また、現在の庁舎にあたるものは、仮設のものが本町4丁目西本願寺掛所(津村別院)に設けられました。
1月27日には大阪鎮台が大阪裁判所に改称され、総督に醍醐、副総督に伊達が引き続く形で就任しました
4。その後、2月2日に内本町橋詰町の元西町奉行所に庁舎を移転しました。
閏4月21日、政体書の公布にともなって府藩県三治体制が敷かれることとなり、5月2日、大阪裁判所が廃止され、大阪府が置かれました。大阪裁判所総督の醍醐が初代府知事として任じられました。
また、同年2月21日、内海(うつみ)多次郎(たじろう)が摂津・河内両国の旧支配地を差配し、谷町一丁目の旧代官役邸に庁舎を設け、旧代官附属の役人数名を起用して事務を開始しました。この時は大阪裁判所司農方という名称で、大阪裁判所管轄の郡村における民政租税の事務にあたりました。のちに誕生する司農局の前身です。その後、5月2日大阪府司農局となり、6月8日には司農局が南北に分けられ、河内国を南司農局、摂津国8郡(東成郡・西成郡・住吉郡・島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡・川辺郡)を北司農局が管轄することになりました。南司農局は大阪府判事の税所(さいしょ)篤(あつし)が局長を兼任し、幕府代官鈴木町の役宅を使用することとしました。一方の北司農局は大阪府権判事の陸奥(むつ)宗光(むねみつ)が局長を兼任し、谷町一丁目の元司農局を続けて使用することになりました。明治2年1月20日、南北司農局の所管地を大阪府から独立させ、南司農局管轄地を河内県、北司農局管轄地を摂津県としました。
明治4年7月14日の廃藩置県の後、11月20日には摂津国にあるそれまでの8県(高槻・麻田・芝村・加納・深津・額田・印旛・淀)を廃し、大阪府と兵庫県の管轄としました。この時、大阪府域は摂津国の住吉・東成・西成・島上・島下・能勢の7郡となりました
5。
明治5年10月に大阪裁判所を置き、大阪府が担当していた司法を分離し、行政と司法の分離がはかられました。また、明治7年7月19日には、庁舎を江之子島に移転しました。
明治12年2月7日、廃県となる堺県を合併しましたが、明治20年11月4日には、奈良県が再置されることとなり、大和国を分離し、ほぼ現在と同じ形となりました。
2)堺県
慶応4年1月27日に大阪裁判所の開庁にあたり、旧堺町奉行所に庁舎を設け、大阪裁判所調役と手代数名を派遣しました。閏4月12日には堺役所と改称され、5月2日、大阪裁判所が大阪府になるにあたり、小河(おごう)弥右衛門(やえもん)が大阪府判事に任じられ同役所へ派遣されました。
6月22日には、堺県を置いて和泉国を所管することになり、和泉国は大阪府から堺県へ移管されました。そして、大阪府判事として堺役所に勤めていた小河が初代堺県知事として任じられました。
明治2年8月2日に河内県を合併しました。さらに、明治4年7月14日の廃藩置県の後、11月22日に河内・和泉両国内にあった16県(岸和田・伯太・丹南・吉見・五条・淀・小泉・膳所・西大路・神戸・郡山・加納・深津・栃木・茨城・群馬)を廃し、堺県へ合併されました。
明治6年3月には、庁舎を神明町の西本願寺へ移転しました。
明治9年4月18日には、第2次府県統合により奈良県が廃県となり、堺県へ吸収されました。この時、堺県の管轄は、河内・和泉・大和の3国となりました。
明治14年2月7日、府域が狭小で財政難であった大阪府を支えるため、大阪府へ吸収されました。
3)河内県
河内県は、明治2年1月20日に大阪府から分離し設置された県で、大阪府南司農局の管轄地を引き継ぎました。したがって、南司農局局長を勤めていた税所が知事に任命されました。しばらくは大阪鈴木町大阪府南司農局の庁舎をそのまま使用していましたが、4月27日に若江郡寺内村の大信寺に庁舎を移転しました。
しかし、8月2日には廃県となり、堺県に吸収合併されました。庁舎はしばらくの間、堺県の出張所として、大和川以北の村々の諸願届等の取り扱いを行っていましたが、明治3年9月7日、出張所を廃止し、諸願届等はすべて本庁での取り扱いとなりました。
4)摂津県
摂津県は河内県と同様に、明治2年1月20日、大阪府北司農局の管轄地を引き継ぐ形で設置された県です。北司農局局長を勤めていた陸奥がそのまま県知事に就任しました。庁舎も北司農局のものをしばらく使用していましたが、3月に西成郡山口村崇禅寺へ移転しました。
同年5月10日に豊崎県へ改名されましたが、8月2日には廃県となり、兵庫県へ合併されました。この時、現在は大阪府にある摂津国7郡が兵庫県になりました。
2.大阪府域の変遷
次に、大阪府域の変遷をたどります。
大阪府の前身である大阪裁判所の管轄は、大坂町奉行所・堺町奉行所の支配地、大坂城代直轄地及び摂津・河内両国における代官内海多次郎の支配地のみでした。
この時の内海以外の旧代官の知行所と管轄は以下の通りです。
摂津・河内両国の高槻藩の預所、和泉国岸和田藩の預所、摂津・河内両国の代官小堀(こぼり)数馬(かずま)支配地、河内国の代官多羅尾(たらお)織之(おりの)助(たすけ)支配地、代官木村(きむら)宗右衛門(そうえもん)支配地は、引き続き当人が管轄しました。
摂津国の代官斎藤六蔵の支配地、摂津国の京都所司代松平(まつだいら)定敬(さだあき)の知行所、大坂城代牧野(まきの)貞明(さだあき)(貞直(さだなお))の知行所、一橋家の領地、田安家の領地は、尼崎藩と三田藩の管轄となりました。
河内国の代官斎藤六蔵の領地、摂津国の京都所司代松平定敬の知行所、京都守護職松平(まつだいら)容保(かたもり)の知行所は、狭山藩の管轄となりました。
和泉国の代官内海多次郎支配地、京都守護職松平容保の知行所、一橋家の領地、田安家の領地は岸和田藩と伯太藩の管轄になりました。
これらのうち和泉国の代官内海多次郎の領地は、慶応4年2月24日、司農局の管轄となり、また、同月、和泉国の小堀数馬の領地も司農局の管轄となりました。
したがって、慶応4年2月時点での大阪裁判所の管轄地は、大坂城代直管の大坂城地、大坂町奉行支配の大阪市街地、豊島郡岡町、和泉国南郡貝塚、堺町奉行支配の堺市街、和泉国大鳥郡の堺町奉行支配地、代官内海多次郎支配地、和泉国和泉郡の代官小堀数馬支配地となりました。
3月1日、摂津・河内・播磨3国の旧代官斎藤六蔵の支配地だった、尼崎藩・三田藩・狭山藩・龍野藩・赤穂藩の管轄地域は、大阪裁判所から兵庫裁判所の所管へ移りました。
5月10日の行政官布告により、各府藩県内の社家寺院等を最寄りの府藩県の所管となりました。しかし、土地・貢租は依然として社寺が所有していました。明治4年1月5日の布告で上知を命ぜられるまで続きました。
5月23日、兵庫裁判所を廃止し兵庫県を設置することになり、兵庫裁判所の管轄地だった旧代官斎藤六蔵の支配地の摂津国西成・東成・豊島・川辺の4郡及び河内国茨田郡を大阪府に移管しました。
5月24日には、1万石以下の領地(宮・堂上家(とうしょうけ)領、旗本領)も社寺領と同様に最寄りの府県に属することになりました。河内・和泉・摂津の川辺郡以東8郡内の万石以下の領地は大阪府に属しました。しかし、社寺領同様、土地・貢租は依然として旧領主が所有し、明治2年12月2日の布告で上知を命ぜられるまで続きました。。
5月晦日、一橋・田安両家が藩屏に列せられるにあたり、摂津国の尼崎藩・三田藩、和泉国の岸和田藩・伯太藩の管轄となっていた地域は、両家の領地に戻され、一橋藩・田安藩となりました。
6月、京都守護職松平容保・京都所司代松平定敬・大坂城代牧野貞明(貞直)の知行所、小田原藩の領地を大阪府へ移管されることになり、河内国の京都守護職・京都所司代の知行所は狭山藩、摂津国の大坂城代の知行所・京都所司代の知行所は尼崎藩・三田藩が管轄していた地域が大阪府の管轄地となりました。また、小田原藩の領地は6月10日に大阪府へ移管されました。
6月22日、小堀数馬・多羅尾織之助・木村宗右衛門の支配地が大阪府へ移管されました。。
7月2日、河内国の御領の狭山藩取り締まり分が免じられました。
7月12日、摂津国有馬郡走尾村・柳谷村、八部郡西小部村の小堀数馬支配地は大阪府へ移管されました。
7月19日、大阪府内の田安家領地を引き渡すこととなり、大阪府の管轄地は河内国と摂津国8郡になりました。
8月7日の布告により、旧旗本領没収分は最寄りの府県・諸藩預所の所管になりました。
10月24日、大和川中央に大阪府と堺県の府県境を設けることとなり、これにあわせて、摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡の郡境も移動しました。
明治2年1月20日、南北司農局が河内県・摂津県になったことにより、大阪府の府域は大阪市街地のみとなりました。また、1月晦日、摂津県管轄の大阪市街に接続する西成・東成両郡の地を大阪府へ編入しました。これは、江戸時代、大坂三郷に隣接していたために市街地化した村々が該当します。
9月19日には摂津県から兵庫県へ移管された地域のうち、住吉・東成・西成の3郡を大阪府へ移管しました。
12月26日、一橋・田安両藩が廃藩となり、西成郡にあったものは大阪府へ、島下・豊島両郡にあったものは兵庫県へ移管されました。
明治3年10月4日、飯野藩の付替上知が行われ、大阪府へ移管されました。
12月24日、島上・島下・能勢の3郡にある高槻藩預所が兵庫県へ移管されました。明治4年8月、兵庫県の県域が東に拡大したことにより、兵庫県の出張所を武庫郡西宮から豊島郡池田村へ移転しました。
前述の通り、明治4年11月20日、摂津国の従来の8県(高槻・麻田・芝村・加納・深津・額田・印旛・淀)を廃し、大阪府と兵庫県の管轄となったことにより、大阪府域は摂津国の住吉・東成・西成・島上・島下・能勢の7郡となりました。高槻藩の管轄であった丹波国桑田郡も大阪府になりましたが、すぐに京都府の管轄に移りました。
明治6年10月5日、京都府乙訓郡山崎村を摂津国島上郡へ編入し、大阪府の所管地としました。
明治7年8月4日には、淀川や大和川を隔てて飛び地となっていた、西成郡北大道村・南大道村・橋寺村・橋寺村新田を茨田郡へ、島上郡磯島村を交野郡へ、住吉郡七道領を大鳥郡へ編入し、堺県の管轄としました。
明治12年2月7日、堺県を合併し、摂津7郡、河内・和泉・大和が所管地となりました。
明治20年11月4日、奈良県が再置されることになり、大和国を分離し、現在とほぼ同じ府域となりました。
おわりに
江戸時代の支配体制から明治時代に府県へと移り変わっていく過程で、幕末における領主が幕府方か新政府方かによって、管轄や移管の頻度に差が生じました。朝令暮改にも近いこの状況を、当時の人々がどのように受け止めたのかは史料の制約もあり、はかり知ることはできません。
明治初期における大阪府域は、和泉・河内は大きく変動することはありませんでしたが、摂津は大阪府であったり兵庫県に入ったり、再び大阪府になったりと、大きく変動しました。幾度か離合を繰り返した摂津国が、現在の大阪府と兵庫県の府県境に決まったのは、慶応4年4月に大阪裁判所司農方の名義で内海多次郎が出した「和泉・河内両国一円全大阪裁判所支配、摂津武庫・有馬・菟原・八部都合4郡、播磨国は兵庫裁判所支配と被仰出可然奉存候、阪地より距離僅の差ひに候得共、便宜に随ひ候儀に御座候」という建言が大きかったといわれています。
本稿では大阪府になる地域が近世の支配体制から近代のものへと移り変わる過程を追いました。次稿ではこの過程を村ごとに色分けして可視化します。
(注)
1大阪府域が現在の形になるのは、昭和33(1958)年4月1日に京都府南桑田郡樫田村(現在の高槻市樫田地区)が高槻市に編入合併されてからです。明治初期の高槻市樫田地区は山城国南桑田郡に属していました。
2 慶応4年9月8日、明治に改元されました。この時、「慶応4年を明治元年とする」とありますが、本稿では改元前日の9月7日までを慶応4年とします。
3 『大阪府全志』巻之一、大正11年。昭和60年復刻版、清文堂出版。
4 ここに出てくる鎮台とは、維新政府が鳥羽伏見の戦いの後に幕府領を没収し、それを直轄するための行政機関として置いたものです。したがって、この当時の大阪鎮台や大阪裁判所は、陸軍の部隊や司法を取り扱う、のちの大阪鎮台や大阪裁判所とは別のものです。
5 明治4年10月25日から11月22日かけて、大規模な府県統合が行われ、全国35府県になりました。この時の府県統合では、各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編されました。
【公文書館専門員 市原佳代子】
昭和26年、大阪府の野球熱
大阪=阪神タイガース、ではない
「阪神が勝った日はどこよりも長く、負けた日はどこよりも短く」前日の試合を報じる大阪ローカルのワイドショー番組がある。まるで大阪人の全てが阪神タイガースファンかのようで、他チームファンならチャンネルを替えてしまいそうだ。そもそも阪神タイガースのフランチャイズは兵庫県であり、大阪府ではない。現在、大阪府をフランチャイズとするのはオリックス・バファローズだけだが、かつては南海ホークス、近鉄バファローズが大阪府を本拠としていた。それぞれのホームグラウンドは大阪球場と日生球場、現在はその球場自体が存在しない。両球場が開場したのは昭和25年、この時期に大阪府は両球場に対する資金援助を行っている。大阪球場建設には3年間にわたり4500万円、日生球場には300万円という助成金が交付された。戦後間もないこの頃、行政が民間の球場建設や整備を支援した経緯・背景などを大阪府公文書館に残る資料を中心に振り返ってみると、この時代の野球熱が伝わってきて興味深いものがある。
戦後まもなくの野球事情
昭和26年に締結されたサンフランシスコ講和条約により我が国は独立を回復したが、戦前に発足したプロ野球は戦時中・占領下においても引き続き行われており、主に甲子園球場(大正13年開場)や西宮球場(昭和12年開場)で試合が開催されていた。大阪府内にも藤井寺球場(昭和3年開場)、中百舌鳥球場(昭和14年開場)が存在したものの、都心から離れた立地のため集客の問題がつきまといプロ野球の試合開催頻度は低かった。在
阪の南海ホークス、松竹ロビンズ(現、横浜DeNAベイスターズ)、近鉄パールズなども専ら兵庫県内の両球場で興業を行っていた。プロ野球にフランチャイズ制度が導入されるのは昭和27年のシーズンオフのことである。 つまり、人口稠密な大阪市内にプロ野球開催球場がなく、観戦のためにはファンは甲子園球場、西宮球場まで出向く必要があったということである。
まさに戦後の復興が本格化する頃、物不足、食糧不足が残るなかで、学生野球やプロ野球の観戦は数少ない娯楽のひとつであった。観るだけではなく、公園や運動場での草野球、空き地での三角ベースなど、野球は大人から子供に至るまで親しまれていたスポーツであった。
大阪スタヂアム建設への気運
野球人気が盛り上がるなか大阪市内での球場建設への意欲を高めたのは南海ホークスである。ターミナル駅難波近くの専売局跡地の払い下げを受けホームグラウンドを建設するという計画が立てられたが、建築資材の調達での障碍が生じる。戦後復興の時期、球場を建てるよりも住宅建築に資材を回すのが妥当といった当局の反対もあったとき、援軍となったのがGHQ経済科学局長のマッカート少将である。地元にホームグラウンドを持って当たり前という米国野球流の発想から資材割当等への便宜供与が行われる。当時、日本はまだ占領下である。

昭和24年に株式会社大阪スタヂアムが設立され、資材割当の申請を建設大臣に、建築認可申請を大阪府知事に提出の運びとなる。あわせて大阪府への補助金の申請が行われた。この補助金はそもそも大阪市と折衝していたものだったが、最終段階で申請先が大阪府に変わったという経緯がある。昭和24年9月2日付の「スタヂアム建設助成に関するお願い」と題する知事宛ての申請書は次のとおりである。
「戦後職業野球に対する府市民の関心洵に著しいものがあるにかかわらず大阪府には御承知の通りこれが適切な球場設備が皆無の状態でありますので府市民プロ野球を観るためには他府縣所在の球場に赴かねばならぬ現状であります。倖に戦時中燒失した元大阪地方專賣局の廳舍跡約二万坪はその位置、市内繁華街に近接し絶好の立地條件を具備していますのでこの地に球場を設けたならば一般府市民にとり時間的にも経済的にも便益極めて大であろうことは想像に難くないのであります。
然しながら終戦以来物價昂騰の今日球場建設には莫大な資金を要し而も高率の入場税の負担を余儀なくされる関係上到底経営上の採算は取り得ないことは言を俟たないところであります。
本球場建設の暁には府民に対し健全娯樂を提供するのみならず靑少年に対しては体育文化の向上ともなり加えて入場税収により地方財政にも寄與するところ少なくないと考えますので御廳におかれては適当な助成方法を御考慮下さいますようお願い申上げる次第であります。」
入場税は100%
助成申請書に書かれた入場税は現存しないため、ここで説明が必要になるだろう。昭和13年から平成元年に消費税が導入されるまで入場税が存在した。戦費調達を目的として税率10%でスタートした入場税は、終戦直前には税率200%まで引き上げられた。昭和23年に地方税に移管されるとともに税率150%となり、内訳は都道府県が50%、市町村が100%とされた。昭和25年にシャウプ勧告を受けて税率100%に引き下げられると同時に都道府県税に一本化された。引き下げられたとはいえ100%という税率は戦時中の奢侈税的なものを引き摺っていて異様である。国民が入場料として支払う料金の半分が税金、興業主の取り分は半分に過ぎないということである。大阪スタヂアムへの助成金申請先が大阪市ではなく大阪府に替わったということ、申請を受けた大阪府が前向きに取り組んだことには、この入場税を巡る動きが大きく関わっている。
株式会社大阪スタヂアムへの助成
大阪府にしてみれば、野球場建設への助成が厚生政策としてのスポーツ振興もさることながら、入場税として得られる収益が魅力であったことは否定できない。大阪府の乗り気具合は、後に大阪スタヂアムの依頼を受け、当時の大阪の主要産業であった繊維関係各社に安定株主となるよう慫慂状を発信していることにも窺える。
助成金申請を受けた大阪府は、大阪球場建設に対し4500万円以内3年分割での交付を契約している。正確な助成額はMin(入場税の1/3,4500万円)、つまり集客が悪ければ入場税の1/3で済み4500万円に達しない、集客が良くても4500万円以上の助成は行わず大阪府は入場税収入で潤うという仕組である。行政としてリスクを取らず、あわよくば税収増という話に思えるが、興業実績がある程度予測可能なプロ野球であれば、さほど振れは大きくないとも言える。現に、その後3年間の実績をみると、入場税の1/3は4500万円を少し上回る程度でバランスしている。
府議会でのやりとり
この株式会社大阪スタヂアムへの助成は、行政の中立性、公平性の観点から疑義ありとする向きもあろう。大阪府議会でも本件は大義名分に欠く助成であるとして、次のような質問が昭和25年の9月定例大阪府会速記録に見える。
「入場税の三分の一を三ヶ年にわたって助成をする、その金額はおよそ五千万円、かような方法で一株式会社、一個人経営の施設に対して、入場税を対象として助成をするということに相なりますれば、およそ事のいかんを問わず、その撰別がきわめて困難な点が生まれてくるのではないか」
この助成は税金のキャッシュバックあるいは減免に近い措置であり、今後発生しうる案件に際して公平性は担保できるのかという趣旨だろう。これに対して当時の赤間文三知事の答弁は次のようなものである。
「今回のスタヂアムは、電車賃を拂い、他府県にそうそうの入場料を出しておる大阪にこの施設がない、こういう事例のものにつきましては、府の財源を涵養する意味において必要なことであると私は考えておるのであります(「そんなええかげんなことではいかん」と呼ぶ声あり)」
知事の答弁は率直である。府政事業を行う裏付けとなる税収確保は最大の命題であり、何とか府域から流出することを防止したいという本音が出ている。しかし、行政にとって線引きの問題を避けて通れない。本件は、初めにルールありきではなく、後付けで助成の理屈を考えるようにも見えるわけで、目先の税収に囚われ原理原則が疎かになっているという質問者の指摘は蓋し正論でもある。そして、その懸念は現実のものとなる(後述)。
続く日本生命球場への助成
株式会社大阪スタヂアムへの助成に踵を接して、日本生命球場への助成案件が持ちあがる。昭和26年、日本生命から大阪府にスポーツ振興助成金16,413,000円の申請が提出された。
日生球場は大阪球場にわずかに先立つ昭和25年6月に竣工している。大阪球場が当初からプロ野球の興業を第一義としたものであったのに対し、日生球場はアマチュア野球を柱にするということで、性格を異にする。また、大阪球場が建築資金であるのに対し日生球場の場合は既設設備の整備資金であるという点においても違いがある。
申請書では、戦後日本における文化国家建設およびスポーツ興隆の重要性に始まり、府内における当該施設拡充の必要性を訴えるとともに、プロ野球の興業による府財政への寄与の可能性についても述べられている。野球場の建設にとどまらず、「将来的には一大綜合運動場として府民各位の御利用を願える事を最終の目的」とのビジョンまで書き加えられている。

「生命保険本来の業であります済世利民の一部をも併せ實行致し度い」とはするものの、大阪球場に助成するのであれば日生球場にも大阪府の支援をという申請側の気持ちも透けて見える。外部への供用が過半とは言え、日生球場は社有グラウンドで、企業の厚生施設としての性格を併せ持つことも事実である。戦後間もない時期で食糧難も続く時代、日本生命は京都府綴喜郡三山木村に社員のための農場を経営していたほどである。助成金申請の趣旨は高邁であっても、恵まれた企業に対する支援であることに、大阪府も慎重姿勢で臨んだのであろう。
日本生命から申請のあった内容に対し、最終的に大阪府が決定した助成金額は300万円に留まる。入場無料のものが多数を占める日生球場の場合、開場から一年余り、同年9月までの日生球場の入場税額は500万円程度であり、大阪球場のような助成の裏付けとなる税収が見込めないことが助成金額にも反映している。その一方で、助成に際して日本生命から大阪府庁職員の厚生施設としての球場無償利用に関する覚書を差し入れているのは、広く府民一般の利用に供するという精神を担保する意味合いもあるが、微妙なところである。
昭和26年度上期の日生球場の利用状況は上表のようになっている。プロ野球以外、一般大会や団体・企業への供用が圧倒的に多い。現在に至るまで日本生命はノンプロ強豪チームを擁していることからも解るように、アマチュア野球に特化していたことが窺える。近鉄バファローズの準本拠地となってプロ野球開催が増加するのは昭和33年以降である。なお、一般大会の範疇にレッドソックスという球団名が見えるが、これは昭和25〜26年の短期間に存在した女子プロ野球チームで、三共製薬が親会社であった。平成22年に始まった現在の女子プロ野球とは別のものである。
昭和26年のプロ野球
大阪市内2球場が誕生した昭和25年、プロ野球のセパ2リーグ制が、セントラル8球団・パシフィック7球団でスタートしている。現在の各6球団よりも多い。シーズンオフに西日本と西鉄の合併があり、昭和26年からは両リーグ7球団となる。同年の成績は下表のとおりで、セリーグは巨人、パリーグは南海が独走で優勝している。大阪球場フル稼働に花を添えたことになる。
当時の球団親会社をみると、鉄道8、新聞2、芸能2、漁業1、親会社なし1という分布で、鉄道関係の多さが際立っている(昭和26年、名古屋は名鉄が経営)。関西地区の球団は6球団(私鉄4社と松竹、毎日)を数える。このような状況下、大阪市内でのプロ野球開催は自然な要請であり、民間の資金力に限度もあるなか、一部を公的支援に頼るという流れが生じたとも言える。昭和27年にはフランチャイズ制の施行があり、まさにこの時期はプロ野球の激動期であった。
もちあがった行政訴訟
大阪スタヂアムへの助成がほぼ終了しようとしていた昭和28年1月になって、大阪府監査委員宛てに「大阪府知事違法不当行為制限措置請求書」が提出される。発信者は弁護士の清水嘉市氏である。大阪スタヂアムおよび日本生命への助成を違法と糾弾するもので、その論点は次の二点であった。
①地方自治法231条「普通地方公共団体はその公益上必要がある場合においては、寄附又は補助をすることができる」(現232条の2)の主旨に反する違法な補助金である。
②地方財政法4条1項「地方公共団体の経費は、その目的を達成するための必要且つ最少の限度を超えて、これを支出してはならない」との規定より見ると、全く違法または不当の支出である。
両案件は営利企業に対し入場税の払戻しの性質を有する助成金を交付するものであり公益性に欠ける上に、過剰な金額であるという主張であり、これに基づき監査が行われることになる。
監査に先立ち提出された知事の意見書では、①両案件は「府民厚生施設に対する助成方針(別掲)」に則り、議会承認等の正当な手続きを経て執行したものであること、②支給対象が営利企業であることは産業貿易振興等のための価格補給金奨励金などの例もあり、相手方云々ではなく目的で判断すべきであること、③大阪スタヂアムに対する助成は入場税の払戻しではなく、助成金限度額を算定する計算基礎にしたに過ぎない、等の反論が記載されている。
本件助成に関しての違法性は認められないとする監査の結果が通知されたところ、清水弁護士はこれを不服として同年2月に大阪府知事を被告とする行政訴訟を大阪地方裁判所に起こすに至る。
府民厚生施設に対する助成方針
一、趣旨
社会経済事情の推移にかんがみ文化、芸能、娯楽、運動競技等広義の厚生施設に対して次のような要領により助成を行う事とする。
二、要領
次のような条件を満たす厚生施設に対し府の財政事情の許す範囲内において府費を持って助成するものとする。
(一)他府県にあって本府内になく、しかも将来他の類似施設を設けることが困難であると思われるもの。
(二)施設の内容、位置等から見て老若男女を問わず府民が広く利用し得るもの。
(三)直接間接、経済復興に寄与し府の財源の涵養となるもの。
行政訴訟の内容は、①助成金残額の支出差し止め、②支出済助成金の大阪府への補填を求めるものであった。大阪府側はこれに応訴し、同年4月から昭和34年5月に及び13回の公判が実施される。
私企業が経営する野球場への助成が公益に叶うものであるのかどうかで、双方の見解は相容れない。野球場経営を通じ利潤追求を目的とする企業への助成は公益に沿ったものでないとする立場と、健全な厚生慰楽である野球競技(および観戦)の機会を大阪府内で提供することは公益に沿ったものであるという見解の隔たりは大きい。詰まるところ、助成に関して府議会の議決を経て、予算としても府議会の承認を得ており、何ら手続的な瑕疵はないという府側の主張の前に、原告側が勝訴の見込薄と判断し訴えを取り下げ、7年に亙る訴訟は終結を迎える。
終わりよければ…?
長引いた裁判は、司法の判断が下されることなく結末を迎えたが、その昭和34年と言えば、今上天皇の御成婚の年であり、「ミッチーブーム」を機にテレビの普及に拍車がかかったときである。すでに昭和28年にスタートしていたプロ野球中継の人気は益々高まっていた。このシーズンから読売ジャイアンツには新人として王貞治選手が入団し、6月25日に後楽園球場で行われた巨人-阪神戦は天皇皇后両陛下を迎えた初の天覧試合となり、村山実投手から長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打を放つ。ペナントレースはセリーグで巨人が5連覇、パリーグは南海が4年ぶりに優勝し、鶴岡一人監督率いる南海ホークスは史上初の日本シリーズ4試合ストレート勝ち(勝利投手は全て杉浦忠投手)で、5度目となる対決で巨人を破った。セパ2リーグとなって以来初めての日本一であった。シリーズ終了翌々日の10月31日には、沿道に20万人が集まったという「涙の御堂筋パレード」が行われ語り草となっている。
大阪スタヂアムへの助成に絡む行政訴訟の取り下げがあったのは、それから間もない11月27日のことである。
そして現在、大阪スタヂアム跡を再開発して出来た、なんばパークスのペデストリアンデッキには、往時のホームベースの位置に記念碑が埋め込まれている。足早に行き交う人々で、足許のモニュメントに目を遣る人はほとんどいない。
【参考文献】
大阪府資料「大阪スタヂアム助成金一件綴 昭和26年度」(請求記号 BB3-0026-4)
大阪府資料「大阪スタジアム関係綴 昭和26年度」(請求記号 BB3-0026-5)
大阪府資料「大阪スタジアム助成関係書類(袋入り) 昭和26年」(請求記号 BB3-0026-6)
大阪府資料「大阪スタジアム助成関係書類(袋入り) 昭和28年」(請求記号 BB3-0028-7)
大阪府資料「大阪スタジアムに対する助成金の支出についての不服審査関係書類(袋入り) 昭和28年」(請求記号 BB3-0028-8)
大阪府資料「助成金不当支出措置要求事件 昭和28年」(請求記号 BB3-0028-11)
大阪府資料「日生球場助成に関する書類 昭和26年10月」(請求記号 BB3-0026-3)
「日本生命九十年史」 日本生命保険相互会社 昭和55年4月(請求記号 C2-1990-518)
「南海電気鉄道百年史」 南海電気鉄道株式会社 昭和60年5月(請求記号 C2-0060-197)
「近畿日本鉄道100年のあゆみ」 近畿日本鉄道株式会社 平成22年12月(請求記号 C2-2012-69)
「大阪スタヂアム興業の足跡 歓声とともに半世紀 ありがとう大阪球場」
大阪スタヂアム興業株式会社 平成10年9月
「白球で綴る半世紀 日本生命球場史」
株式会社日本生命球場 平成10年4月
「プロ野球70年史 歴史編」 ベースボール・マガジン社 平成16年12月
坂田哲彦「昭和レトロスタヂアム 消えた球場物語」 ミリオン出版 平成22年10月
宮﨑刀史紀「文化政策へのまなざし –入場税撤廃運動の変遷と意義-」 文化経済学第3巻第3号 平成15年3月
桑原稲敏「女たちのプレーボール 幻の女子プロ野球青春物語」 風人社 平成5年6月
谷岡雅樹「女子プロ野球青春譜1950 戦後を駆け抜けた乙女たち」 講談社 平成19年9月
【大阪府公文書館専門員 的場 茂】
はじめての出張講座 ~ 大阪府立中央図書館にて
府庁から飛び出す
今年度、大阪府立中央図書館との共同事業として明治150年にちなんだテーマで出張講座を3回にわたって実施しました。
例年であれば大阪府庁舎で実施する歴史講座ですが、従来にはなかった試みとして、場所を東大阪市の大阪府立中央図書館の多目的室(定員80名)に移し、上記のテーマで、事前申込制ではなく当日自由参加という運営で開催しました。平日の開催、大阪都心部から離れた場所での公開講座ということで、多くの方にお越しいただけるか懸念しましたが、各回とも多数のご参加を得て終了することができました。
当日、来場者からいただいたアンケート回答をもとに、今回の講座を振り返り、今後の課題について考えてみたいと思います(以下に示す数値は3回分のアンケート回答者の延べ数)。
恐るべし、中高年パワー
Q あなたの年齢は?
1.10代 0人
2.20代 0人
3.30代 1人
4.40代 8人
5.50代 18人
6.60代 58人
7.70代 62人
8.80代 1人
9.その他 0人
計 148人
生涯学習、生涯スポーツなどと言われて久しいですが、この歴史講座の参加者を見ても60歳以上の方々の意欲の高さに驚かされます。平日ということで現役世代の参加が難しいという要因はあるにしても、複数回参加の方も多く見受けられるなど、知的好奇心の衰えない中高年の方々の多いことに感心するばかりです。
アクセスばかりは…
Q あなたの居住地は?
1.東大阪市 38人
2.大阪市 49人
3.「1、2」を除く大阪府 43人
4.奈良県 6人
5.その他の府県 7人
合計 143人
東大阪市、近鉄けいはんな線の荒本駅にほど近い大阪府立中央図書館は、都心部ではないため各方面からの来場という訳にはいかなかったようです。来場者の地域分布を見ても、地元の東大阪市、大阪市の他は近鉄で繋がっている奈良県が目立つ程度で、下鉄中央線~近鉄けいはんな線というアクセス経路が主だったと考えられます。今回、外部での出張講座を開催したことで、より多くの地域の方に大阪府公文書館の活動を知っていただく意義を感じられたのですが、府内他地域も視野に入れた開催場所の設定も一考の余地がありそうです。
評価が励みに
Q 講演の感想は?
1.大変良かった 54人
2.良かった 65人
3.普通 15人
4.良くなかった 2人
5.全然良くなかった 0人
合計 136人
出張講座は初めての試みで、しかも連月の連続講座であもあり、大阪府立中央図書館との事前調整に始まり、事務局での細部確認や広報、講演者の資料作成やプレゼンテーション準備など、通常の歴史講座と比べて時間と労力を費やすことになりましたが、来場者の方々から、ありがたい評価をいただくことになりました。
これからも、多くの可能性に積極的に挑戦していく姿勢を持ち続けたいと思います。
広報のあり方にも工夫を
Q 講座を知ったきっかけは?
1.中央図書館のチラシや掲示 46人
2.府立施設のチラシ 14人
3.インターネット 32人
4.中央図書館のメルマガ 23人
5.市町村立の図書館にあったチラシ 20人
6.市町村立の公民館等にあったチラシ 10人
7.知人・友人 6人
8.その他 6人
合計 157人
従来の歴史講座の場合、大阪府の公報誌やホームページでの告知、さらには過去の参加者へのメールなどが主な広報手段でしたが、事前申込制でない今回は、違った取組が必要となりました。会場でもあり共催でもある大阪府立中央図書館でポスター、チラシ、メールマガジン等でPRしていただいたことに加え、大阪府公文書館としても府立の公共機関へのチラシ配布などの取組み、ネットTVでの告知、あるいは職員人脈活用での口コミという泥臭い手法まで動員して集客に努めました。それらが相俟って、閑古鳥を駆逐することに成功したのかも知れません。
下のグラフは、この講座を知ったきっかけについて尋ねたアンケート結果です。特定のルートに偏することなく、様々な経路から情報を入手されていることが判ります。今後の広報のあり方について示唆に富んでいるものだと思います。
やはり基本はコンテンツ
Q 講座に参加した理由は?
1.テーマ(内容)に興味・関心があったから 133人
2.講演者に魅力を感じたから 7人
3.大阪府立図書館の主催事業だから 10人
4.その他 6人
合計 156人
今回の共同事業に先立ち、大阪府立中央図書館では明治150年企画展示が行われ、大阪府公文書館からも多数の歴史的史料を貸し出しました。また、第1回の講座の翌日6月9日(土)には、「明治の万博」第五回内国勧業博覧会をメインテーマとした橋爪伸也氏の基調講演とが行われました。大きなテーマである「明治150年」に連動した特色のあるサブテーマを三人の専門員が順次担当することで、単発の講座では得られない相乗効果が出たのではとも思います。
来場者のアンケート回答でも、参加理由として「テーマ(内容)に興味・関心があったから」とした人数が圧倒的であり、当たり前ではありますが、改めてテーマ設定の重要度を感じさせます。
【公文書館事務局】
平成29年度 公文書館 事業の推移
来館者数
来 館 者 内 訳 平成27年度 平成28年度 平成29年度
公文書総合センター ① 16,739人 19,507人 19,005人
府政情報センター ② 3,697人 4,067人 3,908人
公文書館 ③ 13,042人 15,440人 15,097人
※「公文書総合センター」に、「公文書館」と「府政情報センター」設置(要綱設置)
①は、公文書総合センター入口設置の自動計測入場者数、②は府政情報センター窓口受付数、①-②=③を
公文書館来館者数とし、府政学習会の庁舎見学者等も含む。
閲覧申出件数
内訳 平成27年度 平成28年度 平成29年度
閲覧申出件数 377件 292件 290件
複写申出件数 170件 195件 186件
歴史的文書資料類の登録状況
分 類 累計登録点数 平成27年度 平成28年度 平成29年度
近世・近代資料等 12,910点 161点 0点 9点
府行政文書 17,992点 673点 1,049点 436点
行政刊行物・官報・公報他 143,064点 2,292点 1,504点 1,752点
合計 173,966点 3,126点 2,553点 7,308点
【公文書館事務局】
大阪府公文書館 利用案内
◆ 所在地 大阪府庁本館5階(大阪市中央区大手前2丁目1-22)
◆ 閲覧時間 月曜日~金曜日 午前9時00分~午後5時15分
※
複写申請は閉館の30分前までにお願いします。
◆ 休館日 土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
年末年始(12月29日~1月3日)
_________________________________________________________________
大阪府公文書総合センター (公文書館、府政情報センター)
開館時間 9:00~17:15
正庁の間 一般公開日 水・金曜日10:00~17:00
大阪府公文書館 『大阪あーかいぶず 』第53号 平成30年9月30日発行
〒540-8570 大阪市中央区大手前2丁目1-22(大阪府庁本館5階)/TEL06-6944-8374/FAX06-6944-2260
ホームページ
https://archives.pref.osaka.lg.jp/ (
大阪あーかいぶずの電子版も掲載しています)