大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第54号
-閲覧予約- 予約一覧参照 ● 閲覧予約に関する詳細はこちら
大阪府公文書館トップページ>[大阪あーかいぶず第54号]
大阪あーかいぶず

第54号  平成31年3月大阪府公文書館発行

「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。

「平成」の終わりと、次の時代の公文書管理……………… ………1
加奈陀、加奈太、カナダ〜 第五回内国勧業博覧会の外国館………2
デジタル時代のアナログ~ 公文書館所蔵地形図の意義……………10
明治初年大阪の法律事務所 ―北洲舎(1874-1880)―………18
「臥薪30年」、臨時停車場 "ラグビー場前" だった頃……………25
明治初期における府域の変遷②………………………………………29
平成30年度公文書館運営懇談会を開催しました!…………………34



「平成」の終わりと、次の時代の公文書管理

 
「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。
第54号  平成31年3月
大阪府公文書館発行

 
 
 
 
大阪府広報担当副知事「もずやん」
目   次
「平成」の終わりと、次の時代の公文書管理 …………………………1
加奈陀、加奈太、カナダ 〜 第五回内国勧業博覧会の外国館 ………2
デジタル時代のアナログ ~ 公文書館所蔵地形図の意義……………8
明治初年大阪の法律事務所 ―北洲舎(1874-1880)―………16
「臥薪30年」、 臨時停車場"ラグビー場前"だった頃………………23
明治初期における府域の変遷②…………………………………………27
平成30年度公文書館運営懇談会を開催しました!…………………32
 
 
平成30年度、大阪府公文書館では企画展示など明治150年を記念した取り組みを行ってきました。迎える平成31年度は「明治」「大正」「昭和」を経て、「平成」が最後の年度となります。
先の改元の際、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の文字を掲げていたのが、そんなに遠い過去のことではないように思え、時の流れの速さを思い知るところです。
大阪府公文書館は昭和60年11月に開館し、今年で34年目を迎え、その活動はまさに平成の時代とともにありました。
当初、住吉区帝塚山にあった建物は平成23年に中央区大手前の本館1階へ移転。これは大阪府の財政再建策の一環でしたが、設立当時から大阪府公文書館運営懇談会委員に、府政中枢での公文書館の存在感と利用者の利便のために本館への公文書館設置を推奨されており、より理想の形へ近づいたと言えます。
さらに、平成29年2月には府庁耐震化工事に伴い、本館5階へ移転。現在、大阪府庁正庁の間と隣り合い、展示スペースには多くの府庁見学者が訪れ、文化的価値も高まっています。
 
 
また、平成15年には行政文書管理システムと歴史的文書管理システムが本格稼働しました。公文書を電子媒体で管理する取組は、当時の地方自治体としては先進的でした。現在、現用文書のほぼ100%が行政文書管理システムで管理され、そのうち歴史的文化的価値が認められるものについては、行政文書管理システムから歴史的文書システムへ移管され、紙文書とともに公文書館に引き渡されています。
 
公文書管理についてはここ数年、いろいろな場面で取り上げられる機会も多い中、国では2026年を目処に、文書は電子ファイルを原本とする基本方針案の骨子を取りまとめました。
そうなれば、将来、歴史展等で使われる公文書の史料は、デジタル画面に表示されたデータになるのでしょうか。紙資料そのものにも歴史的価値があるとの考え方もあり、歴史展等で、古い紙史料を見ることにも独特の情趣があるような気もしています。次の時代の公文書管理を、興味深く見守っていきたいと思います。  
(公文書館事務局)

 
加奈陀、加奈太、カナダ 第五回内国勧業博覧会の外国館

明治の万博
 見上げると高さ日本一のビル、あべのハルカス、視線を地上に戻すと、レトロな雰囲気を醸すチンチン電車、阪堺電気軌道阪堺線、JR天王寺駅界隈は奇妙な混交を見せる。ひと昔前には、谷町筋を挟んだ天王寺公園の入口には青空カラオケ屋台が立ち並び異界の雰囲気が漂っていた。それが撤去された今は、てんしばと名付けられた芝生広場と飲食店などが並ぶエントランスエリアとなっている。そこを抜けて西に進めば動物園。この一帯は過去に幾度かの変遷を経てきた場所で、その画期となったのが明治36年の第五回内国勧業博覧会である。現在の天王寺公園とほぼ同じ区域、大阪城公園に匹敵するこの都市空間が博覧会場となった。
 明治政府が殖産興業を眼目に明治10年に東京上野で開催した第一回に始まり、明治28年の第四回は京都、そして大阪となる。第五回であるとともに最終回ともなったこの内国勧業博覧会は、あらゆる指標でそれまでの回を上回り、海外からの出品も多くを数え、もはや”内国”ではなく”万博”的な色彩を帯びることになった博覧会であった。農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、通運館など、産業分野別に設けられた”内国”産品を展示するパビリオンに加え、参考館と命名された海外からの出品を集めたパビリオンが設けられた。その中にあって、参考館内の展示ではなく独立した展示館を設けた唯一の国がカナダである(当時の資料では「加奈陀」または「加奈太」と表記されている)。

a separate building
 「第五回内國勧業博覧會要覧」に付された大阪市街図を見ると、その会場は現在の天王寺公園とピタリと一致する。前頁の市街図には会場の南西部分の拡大図を挿入している。これを見ると、南端には鉄道線路(関西鉄道)があり来場者のための特設停車場も描かれている。機械館や通運館には展示品搬入のための引込線も敷かれている。この平面図で「凸」の字形のようになっているのがカナダ館である。現在の天王寺動物園のカバ舎あたりになる。隣の「コ」の字型の大きなスペースは海外からの出品を集めた参考館、本来であればカナダからの出品はここに展示されたはずである。
 第五回内国勧業博覧会開催にあたり、明治政府は各国に出品を慫慂した結果、14ヶ国の出品をみたが、もともとカナダに宛がわれたスペースは100坪だった。それでは意図する展示が出来ないとのカナダ側の申し出により折衝が繰り返され、最終的に参考館への出品ではなく、単独のパビリオンを自前で建設することで決着をみる。
 当時の駐モントリオール領事、能勢辰五郎に宛てたカナダ農務大臣シドニー・フィッシャーの書状を見てみよう。これは参考館とは別棟で、建設費5000円を負担して展示館を設ける件のコンファメーションレターである。書面には、“I wish to confirm my previous telegram accepting the offer contained in the cable for a separate building and to pay 5,000 yen as a contribution to its construction.” とある。
なお、カナダ館建設の請負人は大林芳五郎、現在の大林組であり、カナダ館のみならず博覧会のほとんどのパビリオンがこの地場企業に委ねられた。

 カナダ館には何が…
 再び「第五回内國勧業博覧會要覧」に戻ってカナダ館の展示内容を見てみよう。
 「正面の入口には日章旗と加奈太国旗とを飾り、場の中央には方形なる冷蔵庫あり。其四面を玻璃(ガラス)張と為し其内部に陳列棚を設け、皿盛りの林檎(りんご)数十種を陳列し、尚ほ牛酪(バター)、乾酪(チーズ)及びコンデンスミルク等を列ね、裏面を鏡張となして反映せしめ、燦爛目を奪はんとするの有様あり、而して同庫外面の上部は粟(あわ)穂(ぼ)及麦稈(むぎがら)其他各種農産物の實花葉及び茎等を以て紋様に装飾を施したるは頗る美麗にして其精巧なるに驚かざるを得ず、特に玉蜀黍(とうもろこし)を横断し之れを飾り附けしは菊花御紋様にも似て大に趣味あるの意匠を示せり」
 独立のパビリオンとして設けられたカナダ館は、建坪面積が208坪に及び日本政府案の倍の規模となった(参考館は1458坪)。同館での展示は、上記の叙述がいみじくも示すように農産品を前面に押し立てたものであった。

天皇行幸
 第五回内国勧業博覧会に際し明治天皇は大阪に行幸し、2週間にわたり会場を視察している(皇后行啓と交互)。以下は「風俗画報臨時増刊 第五回内国勧業博覧會図會」に掲載されたカナダ館視察に関する記述である。
「直に御馬車にて加奈太館に入らせらる。同館にては館前にくさぐさの樹木草花を以て極めて趣味ある裝飾の意匠を凝らし。長崎式部官は、先着し。同國農務大臣フィッシャー、事務官長ハッチソン及び事務官田村新吉氏其他の館員と共に御待受申上げ 陛下には卽ちフィッシャー氏の御先導にて。館内右側よりロッキー山太平洋模型、菓實の壜詰、室内裝飾物、金屬製天井寢臺車、麥粉、麭麥(パン)の製造、冷藏庫、同機械類、製紙の原料及び其プロセスと順次に御覽。フィッシャー氏より一々御說明をなし。長崎式部官之を通譯申し上げしに。陳列法、裝飾意匠の御賞詞ありて。氏は大に面目を施せりとぞ。」
 明治天皇にとっては、カナダ館での産品のディスプレイ方法やデコレーションが印象的であったようである。「第五回内國勧業博覧會要覧」の紹介文と平仄がとれている訳で、機械類の出品もあるにせよ、農林産品がカナダ館の出品の中心であったことは間違いない。
 なお、明治天皇の長期滞在は博覧会視察だけが目的ではなかった。博覧会視察に先立ち神戸沖で海軍の観艦式が挙行され、軍艦等69隻が結集して多数の見物人が集まる。まさに滞在先の京都を含め、京阪神を舞台にした一連の国家的イベントが繰り広げられた。言わば「帝国の博覧会」であり、吉見俊哉氏が言うところの「帝国主義のプロパガンダ装置」の色彩が濃厚であった。
「第五回内國勧業博覧會要覧」の緒言に曰く、「日清役に於ては空前の大勝利を博し、北清擾乱に際しては天下をして悉く吾能力を認めしめ、而して遂に日英同盟を締結して世界列強と共に比肩することとはなれり、国家威信の発揚せられたること亦此の八年間に於ける如く顕著なるはあらず」として、前回の第四回以降の状況を振り返っていることにも、この博覧会の位置付けが明瞭に見て取れる。

なぜ、カナダは前のめりだったのか
極東の島国で開催される”内国”博覧会に、太平洋を隔てたカナダから自前で単独パピリオンを建ててまで出品したのは何故なのだろう。これは第五回内国勧業博覧会のひとつの謎と言ってもいいだろう。
「第五回内國勧業博覧會要覧」の記述では、「加奈太政府が遠く我が博覧會に特に一館を設けて其の國産を示すに至りし眞意は蓋し今回の好機に乗じ自國の特産たる小麦粉及木材等を我國に輸出せんとするは勿論将来益々相接近して大に相互貿易の發達伸張を来さむことを希望するに外ならざるべし」とある。それはそれで間違いないところではあるが、もう少し背景を掘り下げてみたい。
 今でこそG7の一角を占め先進国として押しも押されぬ地位にあるカナダだが、その歴史は浅い。15世紀末の英仏両国による探検以降、両国間での数次の紛争を経てフランス系住民を内包したまま英国の植民地となる。連邦国家たる自治領カナダ連邦が成立したのは1867年のこと。和暦だと慶応3年、大政奉還の年である。平成30年、我が国では「明治150年」と喧伝されたが、カナダが建国150年を祝ったのはその前年のことである。
自治領という名が示すように、明治36年当時のカナダはあくまでも大英帝国の一員、国家としての外交権はなく厳密な意味での主権国家ではなかった。米国のように独立戦争を経たわけではなく、1982年のカナダ憲法制定まで長い年月をかけて漸進的に宗主国からの独立へ歩んだカナダが「大英帝国の忠誠な長女」と言われる所以である。
1851年のロンドン万博、1855年のパリ万博に始まる「博覧会の時代」において、国家としてのプレゼンスを顕示することは、カナダにとって政治的な意味合いも少なからずあっただろう。第五回内国勧業博覧会では、アンドリウス・エンド・ジョージ館(米国)、ホーン館(米国)、ヘルラー館(オーストリア)、ワインベルゲル館(ドイツ)など、自前の別館パビリオンが建てられ、主に機械類が展示されたが、いずれも会社レベルものであり、国家としてはカナダのみである。英国や米国、フランス、ドイツ等の政府からの出品が参考館での集合展示に留まったことを思うと、会場を訪れた五百万余の人々のみならず、日本政府に対するカナダという国のアピール効果は絶大だったと思われる。

貿易、before / after
第五回内国勧業博覧会での独自パビリオンによって、カナダが自国農林産品の対日輸出拡大の梃入れを企図したことは確かであるが、より具体的に貿易の内容を見てみたい。
次に示す表は、博覧会の前年である明治35年と、博覧会の2年後の明治38年について、金額が一万円を超えた上位の貿易品目を並べたものである。双方の産業のありようが窺える。
日本からの輸出は茶、米、繊維関係が目立ち、一方のカナダからの輸入では鮭鱒塩漬が最大金額となっている。
各項目を見ると、この頃の日本の輸出品は一次産品が大きなウエイトを占めており、工業化は繊維産業中心の段階にあったことが窺える。同様にカナダも農林水産品が輸出の柱である。注目すべきは、博覧会後にはカナダの輸出一万円超の品目にバターが登場し、小麦粉は約4倍、木材関係は約3倍の規模に膨らんでいることだろう。どこまでが博覧会効果かの見極めは難しいものの、博覧会2年後という時点の数字としては、赫々たる実績と言えるだろう。
では、個別品目ではなく貿易高総体についてはどうだろう。いわゆる貿易収支、明治期において、この数字はずっとカナダの輸入超過で推移している。下図は明治20年からの20年間の推移を示している。輸出入は長期的に右肩上がりのトレンドを辿っている。特に輸入(カナダ→日本)の金額は博覧会以降に台替わりしており、輸出(日本→カナダ)の増加ペースを凌いでいる。小麦粉や木材の牽引によるものである。

5,000マイルも離れて
農産物の輸出を拡大するだけであれば単純な構造だが、小麦に代表される農産物に依存する経済を脱却し工業化の道を模索するという命題をカナダ政府は抱えていた。しかし、国内製造業を育成しようとすれば関税の強化に向かわざるを得ず、東部地域の製造業を利する一方で中西部の農家にとっては逆風となる。そのような背景でカナダの関税政策は揺れ動いた。1879年に始まったナショナルポリシーとして知られる保護主義は国内利害の対立を招くとともに、主要な貿易相手国である宗主国英国、隣国米国との関係の不安定化ももたらしていく。第五回内国勧業博覧会が開催された世紀の変わり目は、品種改良や農業機械の発達とも相俟って中西部の農地が拡がり生産量が増大している時期であり、新たな市場の開拓が求められていた。
カナダにおいても米国同様にフロンティアは東海岸から西海岸へ漸進した。きっかけは、1858年に現在のブリティッシュ・コロンビア州(西海岸)で金が発見されたことによるゴールドラッシュであり、1885年にはカナダ太平洋鉄道が完成し、1887年にはバンクーバー・横浜間に定期航路が開かれた。カナダ太平洋鉄道の太平洋航路に投入されたエンプレス・オブ・ジャパンは1891年にバンクーバーと横浜をわずか11日間で航行したという。地球は加速度的に小さくなって来ていた。
太平洋を隔てたカナダは日本からずいぶんと遠いが、地球儀を見れば明らかなように、バンクーバーはサンフランシスコよりも近い。そして、カナダの穀倉地帯を起点とすれば、大陸横断鉄道を経て、東海岸から英国に向かうのと、西海岸から日本に向かうのに大差があるわけではない。英国との貿易に馴染んでいるカナダからすれば、「距離の暴虐」という言葉はオーストラリアほどの意味を持たなかっただろう。

日英同盟
第五回内国勧業博覧会の開催に先立つ明治27年には日英通商航海条約が調印され、明治32年に発効する。これで幕末以来の懸案であった不平等条約の解消まであと一歩となり、前年の明治35年には日英同盟が結ばれる。そもそもカナダ政府に外交権はないにしても、宗主国英国と日本は同盟関係にあるのだから、博覧会への出品や貿易振興の妨げにはならない。日本にとっても、大英帝国傘下の大国のパビリオンは万博としての面目を施し、国威発揚を喧伝する絶好の機会でもあった。冒頭に述べたカナダ政府からの出品申し出に対し、駐モントリオール領事がすこぶる積極的に動いた背景には、個人的信頼関係もさることながら、上記の事情も考慮すべきだろう。ともあれ、両国にとって第五回内国勧業博覧会はWin-Winの結果となるが、その一方で、カナダではアジア人移民制限の動きの中で、博覧会後まもなく日本からの移民制限も具体化していくことになる。

「坂の上の雲」を目指した時代
明治36年1月31日付で、モントリオール領事の能勢辰五郎から、外務大臣の小村寿太郎に宛てた機密文書がある。今般のカナダ館の出品に対し特別に褒賞を授与すべきと請願する内容である。 
「今回加奈太政府出品物ノ如キハ 単ニ一個人ニアラスシテ 政府ヲ代表シタルモノニテ 其出品物数ノ多キ 貨車十二輛以上ニ上リ 又特ニ事務官以下委員十余名ヲ特派シ 猶政府ハ代表者トシテ其主管者農務長官ヲ特派シ 我博覧会ニ参同セシムルニ至リ 其費用前後米金五万弗ヲ支出シタルハ 全ク同政府カ我博覧会ニ対シ 特ニ好意ヲ表スルモノニシテ 今回出品勧誘ヲ受ケタル各國政府若クハ各國商業団体中其類例ヲ見サルモノニ付 我政府於テモ加奈太政府ノ出品物ニ対シ 奨励ノ為特別ノ御詮議ヲ以テ 最高等ノ賞牌及賞状等 御贈与相成候様致度」
 大量の出品、多くのスタッフの日本への派遣、自前でのパビリオン建設など、カナダ政府の今回の取組は各国政府のうちでも類を見ない対応であり、最高レベルでの顕彰をお願いしたいと述べている。
「従来本邦及加奈太共ニ各其國情ヲ悉サス 就中加奈太人民ノ如キハ 北米合衆國人民ト異ナリ 本邦近時ノ発達ヲ知悉セス 于今本邦ヲ以テ猶東洋ノ一半開化國ト誤想スルモノ不少 為ニ日清両國ヲ混仝スルモノ往々有之次第ニテ 我國ニ勧業博覧会ノ偉挙アルナド寧ロ当国人ノ驚訝スル所ニ有之候 況ンヤ本邦政府ニ於テ各文明国ト均シク 出品物ニ対シ賞牌賞状等ヲ下付スル制度等存在スルヲ知悉スルニ至テハ 彼レ加奈太人民ト雖モ大ニ自ラ感悟スル所アリテ 将来一層本邦ニ対シ敬意ヲ表スルニ至リ可申」
 米国民とは異なり、カナダ国民の場合は昨今の日本の発展について知る者が少なく、東洋の発展途上国という認識であり、清国と区別がつかない者もいる状況である。日本が勧業博覧会を開催できるほどの国であって、外国からの出品物に対し褒状を出す制度を持つことをカナダ国民に知らしめることは、日本への敬意の醸成に寄与すると能勢領事は力説している。
時あたかも、日清戦争勝利のあと。出品物に留まらず国々の序列の意識に裏打ちされた列強への対抗心や矜持を感じさせる文面である。「第五回内國勧業博覧會要覧」に謳う国威発揚を、政府も多くの国民も共有できた時代の雰囲気が行間から滲むようだ。
 
※ 本稿には現在では不適切とされる用語を含みますが、時代背景を伝える上で重要と判断し、原文を尊重してそのまま用いています。
 

風俗画報臨時増刊「第五回内国勧業博覧會図會」に挿入されている会場入口の風景画

【参考文献】
大阪府資料「大阪ニ於テ第五回内国勧業博覧会開設一件」 (請求記号 M0-0013-7~9)
大阪府資料「第5回内国勧業博覧会会場 明治36年(写真プリント)」(請求記号 H2-0060-122)
風俗画報臨時増刊「第五回内国勧業博覧會図會」下編 東陽堂支店 明治36年9月      (請求記号 KA-0001-188)
「明治前期産業発達史資料 勧業博覧会資料 59 第五回内國勸業博覽會總說博覽會案内 明治文献資料刊行会 昭和48年8月
「明治前期産業発達史資料 勧業博覧会資料60 第五回内國勸業博覽會要覽上巻Ⅰ」 明治文献資料刊行会 昭和48年8月
山路勝彦「大阪、賑わいの日々 二つの万国博覧会の解剖学」 関西学院大学出版会 平成26年9月
松田京子「帝国の視線 博覧会と異文化表象」 吉川弘文館 平成15年11月
吉見俊哉「博覧会の政治学 まなざしの近代」 中央公論社 平成4年9月
木村和男、フィリップ・バックナー、ノーマン・ヒルマー
「カナダの歴史 大英帝国の忠誠な長女1713-1982」刀水書房 平成9年11月
ジェイムズ・ケアレス「カナダの歴史 大地・民族・国家」清水博、大原祐子訳 山川出版社 昭和53年4月
ラムゼー・クック「カナダよ永遠に 歴史とナショナリズムについて」大原祐子訳 サイマル出版会 昭和59年2月
細川道久「カナダの歴史を知るための50章」 明石書店 平成29年8月
(大阪府公文書館専門員 的場 茂)

 
デジタル時代のアナログ 公文書館所蔵地形図の意義
 
いまどきの地図利用
Googleストリートビューで表示した大阪府庁付近
(2016年7月撮影の画像)
 
少し前の夏、大阪府庁にほど近い谷町二丁目交差点あたりを歩いていたら、カラフルでポップな塗装が目を引く奇妙な車とすれ違った。車体にはGoogleの文字、ルーフにはサッカーボールのようなものが乗っている。「これがストリートビュー撮影車か、新幹線に乗ってドクターイエローとすれ違うよりレアなことかも」と思ったものだ。
 
 Googleマップの画面に表示される道路に人形マークをドロップすると、ストリートビューに切り替わり、件の景観画像が現れる。あの360°カメラで撮影したものに違いない。府庁本館の耐震工事は平成29年2月に完了したが、この画像には工事中の覆いが見えている。


 
従来と現在の地形図作成における考え方の違い

地図と現地の写真が連動したアプリケーション、以前には考えられない便利さである。訪れる先の景色や昔住んだ場所の今のようすが、パソコンやスマートフォンの画面にたちどころに現れるうえに、望めば道案内までしてくれる。拡大・縮小も思いのまま、ぐるりと見渡すことなど朝飯前、地図を航空写真に変えて3D表示に切り替えると、それだけで鳥瞰図になる。
もっと身近なところでは、いまや車載標準装備となったカーナビは、いまどきの地図利用の代表格と言える。
従来から地図のヘビーユーザーである登山者向きには、カシミール3Dという強力なツールが普及し、山頂からの展望図なども簡単に作成できる。これは富士山最遠望地点の割り出しにも一役買っている。
ことほど左様に、かつてないほど、日常生活の多くの場面で地図が使われているのが現在かも知れない。
 
 
紙の地図は時代遅れか
普段の生活で利用する地図は、最新の情報がタイムラグなしに反映されたものに優るものはない。そんな捉え方が、一般的かつ常識的とも言えるだろう。カーナビに利用されている地図情報などはその典型である。現実との同一性を追求すれば、地図更新の要請はリアルタイムに限りなく近づいていく。
日本の国土全般の地図情報を所管する国土地理院(国土交通省に置かれた特別の機関)でも、現在はそのような考え方に立って地図情報(電子国土基本図)の管理を行っている。国土地理院では、従前どおり、国土の基本図である1/25,000地形図を紙の形で発行している。しかし、その元となる各種の測量結果、調査結果に基づく地図情報はデジタル情報として日々蓄積・更新されており、いま記憶媒体の中に収録されている電子国土基本図が最重要の地図情報というスタンスである。つまり、過去の一時点の姿を紙の上に固定した地形図はもはやメインではなく、現状のキャッチアップに重点が置かれている。平成19年に施行された地理空間情報活用推進基本法では、「現在及び将来の国民が安心して豊かな生活を営むことができる経済社会を実現する上で地理空間情報を高度に活用することを推進する(第一条 目的)」としていることにも、その考え方の一端が窺える。この考え方を推し進めると、いつでも最新の地図をオンデマンドで取り出して利用できるということであり、すでに「電子地形図25000」 としてサービスが提供されている。
本稿では、最近の地形図の進化や問題点にも触れつつ、大阪府公文書館が所蔵する過去の地形図の有用性について、事例を引きながら考察してみたい。

 
地理院地図3Dで表示した千早赤阪村および金剛山
(高さ方向の倍率を1.5倍で表示)

さまざまな地形図

 
上図の元となる1/25,000地形図
様々な地形図縮尺(主なもの)

 日本全土が縮尺1/25,000の地図で網羅されたのは昭和58年で、比較的最近のことである(尖閣諸島、竹島、北方四島まで含むと完了は平成26年)。国土地理院の地形図の基本は、この1/25,000地形図で、図上の1cmが実際の250mに相当する。この縮尺は登山者が山岳地形や登山ルートを把握するには適当な縮尺だが、都市部で細かな道路や建物の状況を確認するための縮尺としては小さすぎる(1/nの分母nが大きくなるほど小縮尺という)。多くの構造物や微細な地形を正確に把握するには、その10倍以上、1/2,500程度の大縮尺の地図が必要となる。したがって、都市計画の基本となる地形図には大縮尺の地図が求められるため、国土地理院のほか都道府県レベルでの地図製作が実施されている。
 
 上記の、国土地理院が製作する地形図は紙地図と総称され、大規模書店等で一般に販売されている。しかし、先述のとおり、現在の地図情報は電子データがメインとなっており、「地理院地図(電子国土Web)」において最新の内容が公開されている。「地理院地図とは、地形図、写真、標高、地形分類、災害情報など、国土地理院が捉えた日本の国土の様子を発信するウェブ地図」と同ホームページには記載されている。つまり、過去の航空写真や、都市圏活断層、土地条件(段丘、扇状地、自然堤防、旧河道のような様々な土地の特質)等に特化した主題図も含めて、多彩な情報が提供されており、これらの組み合わせ利用や、3D表示も可能になっている。商用指向が強いGoogleとは性格を異にするが、Web地図として機能的に遜色ないレベルに達している。
 
パソコン画面で「地理院地図」を表示すると、世界地図レベルから都市市街図までの、多段階の拡大縮小が可能になっている。このように国土地理院の地図が進化を遂げているのは事実にしても、一方では従来の地形図に比べて劣化が目立つという批判もある。とりわけ、土地利用の状況を示す植生界の省略、顕著な建造物である送電線の省略、かな駅名表示の廃止、その他のデジタル化に伴う地図描写の簡素化などはずいぶん評判が悪い(送電線については記載要望が強く、当面は継続となっている)。
 なお、紙地図の代表格である1/25,000地形図はデジタル化の進行に伴い、平成25年に約半世紀ぶりに体裁が一新された。かつての黒1色の地形図を知る者にとっては昔日の感がある。国土地理院のホームページでは次のように説明している。
「1/25,000地形図(印刷図)は、昭和40年代から墨版(黒)、褐版(茶)、藍版(青)の3色刷で作成されたものが定着してきました。新しいタイプの1/25,000地形図(印刷図)では、昨今の印刷技術の高度化・多様化を受け、これまでの3色に限定せず多彩な色を使ってきめ細かな表現を可能にするとともに、地形に陰影を付し立体感を得やすくし、より読みやすく使いやすい地図になります。」
現在、改訂後の平成25年図式による1/25,000地形図への移行が進んでおり、全国土を覆う4400あまりの図葉が面目を一新する日も遠くない。

基本図としての1/25,000地形図を見る
 国土の基本図に1/25,000の縮尺を用いているのは日本に限らない。ここでは山岳地形を例にとり、ヨーロッパの1/25,000地形図と比較してみたい。

 
1/25,000地形図での立山付近

 以下に示すのは、北アルプス立山付近(富山県)、ヨーロッパアルプスのモンブラン山系のミディ針峰付近(フランス)とアイガー付近(スイス)である。いずれも、ロープウエイやケーブルカーを使えば核心部まで到達することができる高山の代表格で、絶大な人気を博している観光地でもある。
 
 上図は最新の平成25年図式による1/25,000地形図「立山」の一部である。多色刷りとなって見た目にも変化がもたらされている。少し陰影がつけられたため立体的にはなっているが、フランスやスイスの地形図の息を呑むような立体感には及ばない。立山の東西に分布する氷河の名残りである圏谷の形は等高線のカーブで読み取れるが、この山域一帯に見られる稜線から切れ落ちている岩壁や崩壊地の形状表現となると、おざなり感が否定できない。
 等高線で地形を読むことに慣れた登山者にすれば、長らく馴染んだ、よく言えばすっきりした1/25,000地形図で実用に不便はないにしても、等高線とケバの併用による岩稜の立体感や稜線部分から山麓にかけての植生や土地利用も明らかにするヨーロッパアルプスの地形図とは大きな懸隔を感じさせる。もっとも、これは両者の描画技術の差異が、山岳地帯では顕著に表れているためだとも言える。

 
フランス1/25,000地形図でのエギーユ・デュ・ミディ付近
 
スイス1/25,000地形図でのアイガー付近
 
大阪府公文書館所蔵の航空写真と地形図
     
大縮尺の地形図を見る

地理院地図(電子国土Web)で提供されている地図情報は1/25,000縮尺で全国を網羅するだけでなく、都市部については1/2,500縮尺でのデータを保持している。

 
地理院地図の最大縮尺で表示した大阪府庁付近

大阪府庁付近を最大縮尺で見ると、路地を含む道路の存在や形状、建物の配置や個々の形状などが明らかに読み取れる。ただ、山岳地帯とは異なり、図の下方に等高線の表示はあるものの、この図から土地の起伏を読み取ることはかなり難しい。
この1/2,500レベルの大縮尺の地形図に関し、大阪府公文書館では、大阪府が都市計画の基礎資料として作成した過去の地形図を多数所蔵している。これらは、昭和36年から平成6年までの期間、数年おきに撮影した大阪府域の航空写真をもとに作成されたものである。地形図作成の元データとなる航空写真は、1/12,500縮尺の写真媒体として所蔵し、地形図ともども閲覧・複写が可能である。
航空写真は実寸が23cm×23cmの大きさであるが、地形図は60cm×80cmとかなりの大判となる。地形図は厚手の透明フィルムに印刷されているため、申請時には閲覧室の広いテーブル上に白地パネルを置き、地形図を載せて供覧している。複写は最大A3判という制約があるため、地形図の広範囲を複写する場合は複数枚に及ぶ。大阪府公文書館のホームページの所蔵資料検索画面で、「地形図」「○○市」「○○(町名レベルの地名)」等の条件検索で地形図の図葉名を絞り込むことができる。
 
デジタル化、カラー化が進む最近の地形図に対置して、大阪府公文書館所蔵の古い黒1色の地形図の存在意義がどこにあるのか。それは、一言でいえば「過去の状況を時系列で確認できる大縮尺の地形図」であることに尽きる。
つまり、①過去の状況、②時系列、③大縮尺と、三つの点で他に替えがたい価値があるということである。さらに詳しく言えば、①この地形図は過去の特定時点の状況を示している。常に最新状況の反映を良しとする電子データだと、逆にどの時点の情報かが不明確になりがちである。②数年おきの時系列で、同一地点の地形図が得られることで、地形図に記載される事項の経年変化が追える。③大縮尺であることで、建物・住戸・構造物などの詳細まで確認できる。そういったメリットが大阪府公文書館所蔵の地形図にはあると言えよう。実際のところ、地形図の閲覧申請は、内外の業務利用を含めかなりの件数に及ぶ。
 では、次に具体的な事例を挙げて、各時代の地形図から判ることを見てみよう。
 

地形図に見る市街の変化

 ここでは八尾市中心部における土地利用の変化を取り上げる。以下に示すのは、①昭和36年、②昭和54年、③平成6年の近鉄八尾駅周辺の地形図である。高度成長期に郊外人口が増加し、農耕地の宅地化が進むとともに、区画整理事業も実施され都市整備が進んで行った様子がうかがえる。
各図の左端にある常光寺は、河内音頭発祥の地と言われ、夏ともなれば盛大な盆踊りで賑わう場所である。これより西の大信寺あたりまでが古い寺内町を形成する。ここには明治初期の河内県の県庁、後の河内郡役所が置かれた。
①で中央左寄りにある近鉄八尾駅から南西方向に延びる通りがメインストリートであることが読み取れる。東側一帯は鉄道沿いも田圃、この時代、町の中心を少し離れると田園地帯というのが大阪市郊外の普通の景観だった。
  • 昭和36年
  • 昭和54年
  • 平成6年
②になると近鉄八尾駅は東に移転し、従来の駅のあたりは更地になっている。また、踏切が設置されていた近鉄大阪線は高架となった。新駅の北側、田圃が広がっていた地区では区画整理が進められており、建設予定内容が破線で表示されている。
 ③では、既に新駅前の整備は終了し、駅前ロータリー、大規模商業施設、集合住宅群が出来上がっている。旧駅跡は小公園として整備された。従来の市街地も建物の形状を子細にみると、建替えの形跡が窺える。常光寺へ続くかつての駅前通りにアーケードが設置されたことも判る。そして、もはやこの図郭の中には農地は見当たらない。
三つの年代の地形図を辿っていくと、町の変遷がよく判る。駅の移転による影響は大きく、人の動きは東側に大きくシフトすることになった。寺内町から開発地区へと街の中心が移り、地図では読み取れないが、旧駅前に続く商店街はアーケードの設置にも拘わらず、寂れているのではないかとの推測が働く。現地を歩いてみれば、シャッターの閉まった店舗の多さでそのことが確認できる。なお、最近では、東側の開発地域でも大手デパートの撤退が起きている。

  • 昭和36年
  • 平成6年

地形図に見る地形の変化
 前項で、市街の変化のようすが地形図を時系列で調べることで把握できると述べたが、次に地形そのものがダイナミックに変化した事例を泉北ニュータウンに見てみよう。
④は昭和36年、⑤は平成6年のもの、場所は堺市の光明池駅付近。一見すると別の場所のように思えるが、紛れもなく同じ地点である。図郭の右側を流れる和田川に着目し上端の高橋という橋梁名、中央部にある辻後池の名前などで同定できる。
 大規模開発に伴う変化の大きさに驚くが、新しい住宅地の造成、鉄道路線(泉北高速鉄道)・主要地方道の開通という一見して判るもののほか、二つの地形図を対照すると次のように色々な変化が読み取れる。
・ 和田川の流路が直線化され、従来は自然堤防だったが、護岸工事が施された。
・ 図の中央部の河岸段丘上に立地する旧来の集落は概ね原型を維持しているが、一帯の造成工事に伴い、新開地との境界等が擁壁となり、周辺との落差が顕著となった。
・ 辻後池の南の丘陵が鉄道・道路の切通しとして開削されるとともに、辻後池の西側の谷筋の水田が埋め立てられ、全体の起伏が平坦化された。開発された新しい住宅地は整然と配置されており、かつての水路・流路を窺わせるものはなくなっている。
現状を示す地理院地図はおろか、ニュータウン開発後の⑤の地形図からも、その30年ほど前の④の状況を想像することは困難である。このように、過去の地形図と対照することで、そこが掘削された土地か、盛土された土地かも推定できる。

地形図に残る遺構
 異なる年代の地形図から市街地の変化や地形そのものの変化が読み取れるだけでなく、一つの地形図でも子細に眺めると、そこから過去の姿が浮かび上がってくることがある。例に示すのは交野市のJR学研都市線(片町線)星田駅付近で、⑥は昭和36年、⑦は平成6年のものである。30数年の間に市街地は広がっているものの、鉄道の北側は依然として農地面積が大きい。
両図ともに、星田駅の少し東から鉄道線路と別れ緩やかなカーブを描いて北上するラインに注目したい。⑥では片町線と同様に盛土の記号なので、これが鉄道線路跡だということが容易に見て取れる。⑦になると、盛土自体はなくなり平面道路となっているが、カーブの位置や形状から、かつての鉄道線の存在を推測することは困難でない。
昭和22年測量1/25,000地形図「枚方」の一部
⑦ 平成6年
⑥ 昭和36年
廃線というと、地方や過疎地のことと思いがちだが、実は大阪府内にも廃線跡が残っている。市街地化が進み、むかし線路があった場所は宅地、道路、公園、遊歩道等に転用されていることが多く、最新の地図では判別できないことも多いが、古い地形図ならよく判る。
では、この北に向かう線路は何だったか。これは星田駅から分岐し香里工廠へ向かう専用線、つまり陸軍の火薬工場と結んでいた路線である。右図の四角で囲んだ範囲が上図⑥⑦にあたり、丸で囲んだあたりが軍需施設の地域に当たる。この図には鉄道線の表記もある。
なお、片町線には津田駅で分岐し禁(きん)野(や)火薬庫に至るもう一つの専用線もあった。さらに、当時の起点であった片町駅や京橋駅近くには陸軍砲兵工廠が立地しており、片町線は軍需路線という性格を色濃く帯びていた。禁野火薬庫は度重なる爆発事故の結果、府境を越えた京都府の祝園地区(これも片町線沿線)に移転し、その後は陸上自衛隊の弾薬庫として現在に至っている。枚方から寝屋川にかけての丘陵地帯に隣接していた香里工廠、禁野火薬庫の跡地は、大規模ニュータウンとなったことは周知のとおりである。将来の地形図には、延伸が決まり松井山手駅を経由する北陸新幹線が書き込まれる日が訪れるだろう。
 

地形図は履歴書
 三つの事例を取り上げ、時代の異なる地形図で判る変遷や、地形図から読み取れる過去の姿について説明した。すでに戦後70余年を経過し、その間に大阪府の姿も大きく変わってきている。一目で判るような大変貌に限らず、地形図を時系列で見たり、一枚の地形図を子細に見ていくと、色々な気づきがある。言うなれば、地形図は土地の履歴書である。
 日本は、地震、台風、積雪、豪雨と、自然災害の多い国土であり、その歴史は地形に刻まれている。古い集落や街道の立地は被災を最小限度に止める知恵の表れだし、高度成長期以降に進んだ従前の非居住地域の開発は、多くの場合、防災への配慮と表裏一体のものであった。
昔の地形図を眺めることで、その土地が以前どのような環境であったのか、どの程度の災害リスクがあるのか、その特性を読み取ることはさほど困難ではない。また、古い地名には災害由来とされるものも多く、河川流域や山麓に事例が散見される。市街地化の過程で消えた古い地名の中にはそのようなものが珍しくない。
近時、テレビ番組でも地形の由来や変遷を取り上げるものが人気を博しているが、近世の絵地図まで遡らなくとも、大阪府公文書館所蔵の昭和中期以降の地形図からも多くのことを知ることができる。前述の「地理院地図(電子国土Web)」でも、1/25,000レベルでの遷移を見ることができるが、1/2,500のミクロレベルで一戸一戸の形まで見える地形図だと、より詳細な調査・分析が可能である。
大阪府公文書館が所蔵する地形図は、華麗なヨーロッパアルプスの地形図などとは比ぶべくもない、黒1色の味気ないものだ。しかし、この古い1/2,500地形図の情報量は豊富である。大阪府公文書館にコンスタントに地形図閲覧者が訪れるというのも故ないことではない。 
 
【参考文献】
財団法人地図情報センター「地図情報 第31巻 第4号」特集「電子国土基本図」とは何か 平成24年2月
大竹一彦・秋山実「二万五千分の一地形図が変わった 進化する地図の世界」一般財団法人日本地図センター 平成27年5月
国土地理院 「2万5五千分1地形図『立山』」 平成27年3月
地理調査所 「2万5五千分1地形図『枚方』」 昭和24年5月
Institute Géographique National France “CARTE TOURISTIQUE 1:25000 massif du mont blanc mont blanc - tré la tête”
Bundesamt für Landestopographie “Landeskarte der Schweiz 1:25000 GRINDELWALD”
大阪府 「大阪府管内地形図 昭和36年測量 大G5-6 八尾市八反地町 五反地町 西口町 釈迦山町 十倉町 三池町 立花町 松山町 光南町 清水町 久宝寺 栄町 末広町 大阪市東住吉区加美松山町」 (G0-2003-131)
大阪府 「大阪府管内地形図 昭和54年測量 大G6-10 八尾市久宝寺 末広町 本町 宮町 佐堂町 山城町 北久宝寺 東大阪市大蓮東」 (G0-2003-1656)
大阪府 「大阪府管内地形図 平成5年測量 大G6-10 八尾市北久宝寺 末広町 東久宝寺 本町 久宝寺 山城町 宮町 佐堂町 北本町 東大阪市大蓮東」 (G0-2003-3041)
大阪府 「大阪府管内地形図 昭和36年測量 大D4-9 堺市桧尾 美木多上 栂 片蔵 泉田中 大森 豊田 野々井 和泉市室堂町 」(G0-2003-53)
大阪府 「大阪府管内地形図 平成5年測量 大D5-13 堺市新檜尾台 赤坂台 鴨谷台 檜尾 美木多上 原山台 桃山台」 (G0-2003-2882)
大阪府 「大阪府管内地形図 昭和36年測量 大J6-2 寝屋川市寝屋 秦 国松 太秦 打上 北河内郡交野町星田 枚方市茄子作」 (G0-2003-189)
大阪府 「大阪府管内地形図 平成6年測量 大J7-1 寝屋川市寝屋 打上 交野市星田 星田北 星田西」(G0-2003-3159)
「大阪春秋 第163号」特集「軍都おおさか -71年目の戦争遺跡-」 平成28年7月
Google map
https://www.google.co.jp/maps/
国土地理院「地理院地図(電子国土Web)」
http://maps.gsi.go.jp
 
   (大阪府公文書館専門員 的場 茂)


北洲舎(18741880

 
■はじめに
 
本稿は、明治初期大阪の地で創設した「北洲舎」の活動を概観するものである。北洲舎とは、1874(明治7)年6月15日から1880(明治13)年5月23日までの約6年間に存在した「代書代言社」(現在の法律事務所に相当)のことである。
1867年10月14日、第15代将軍・徳川慶喜が政治の実権を朝廷に返還し、新政府が成立した。明治新政府は、幕府時代の条約を承継すると宣言しながら、領事裁判権などが内容とする不平等条約の撤廃を早急に実現すべき重要課題として位置付けた。その実現のためには、日本が「文明国」であることを欧米列強に示す必要があったことは周知のとおりである。
ここでいう「文明国」というのは、「伝統的国際法秩序においては、資本主義経済の要求を満たす秩序的な枠組み(=国際法)を遵守し、国境をこえた人間、商品および資本の移動を可能とする、最低限の秩序、予測可能性、安定を与えることのできる社会体制・法制度を備えた国家」[1]とのことである。すなわち、日本は欧米列強の求める西洋近代型の司法制度および法典を整備しなければならないのである。1880年に刑法、治罪法の制定、1888年に市制町村制、1889年に大日本帝国憲法、1890年に裁判所構成法、民法(旧民法)、商法(旧商法)、民事訴訟法、刑事訴訟法、府県制、郡制などの主な法律が矢継ぎ早に制定された。司法制度も1889年の裁判所構成法によって基本的なあり方が定まることとなった。このような明治政府の努力によって、不平等条約の改正がついに1899年に実現した。
しかし、明治政府は、後発資本主義という歴史的条件のもと、西洋型近代法を継受する際、強力な国家指導ができる法体制の実現を目指した。このことは三権分立の一角である司法権をみても明らかである。たとえば、制度上では裁判官の身分保障の規定は一応あったが、実態としては、司法行政に幅広い権限が与えられている結果、内閣の構成員である司法省の意向が個々の事件の担
当裁判官に少なからぬ影響を及ぼしていた[2]。日本の弁護士制度も、1949年の弁護士法改正にいたるまで国家機関の強い監督下に置かれていた[3]
このように形成された日本近代法のもとでは、法というのは、人々の権利を守るというよりも、天皇(=「おかみ」)から与えられたものであり、国民(=「臣民」)に守らせるためのものだという認識が広まった。このことが、「日本人の法嫌い」、「日本人の裁判嫌い」という戦前日本の法文化の形成を促したといわれている[4]
本稿では、以上に述べた視角から、奥平昌洪『日本弁護士史』や大阪弁護士会『大阪弁護士会百年史』などの大阪府公文書館所蔵の文献資料を中心に、北洲舎を紹介しながら、明治初期の弁護士制度の特徴をも触れておく。
 
 
■1872(明治5)年の司法職務定制
 弁護士という言葉が使われるようになったのは、1893(明治26)年5月の弁護士法が制定されてからである。それ以前は、訴訟代理などに従事する職業を「代言人」[5]と呼んでいた。
1872年8月3日、司法制度に関する最初の統一的法典である「司法職務定制」が制定・公布された。この法令は、裁判所制度や検事制度をはじめ、代書人(現在の司法書士)、代言人の職務に関する規定を新設した。代書人については、「各人民ノ訴状ヲ調成シテ其詞訟ノ遺漏無カラシム」と規定され、訴答書類の作成を認めた。代言人については、「自ラ訴フル能ハサル者ノ為メニ之ニ代リ其訴ノ事情ヲ陳述シテ冤枉無カラシム」(第43条)と規定され、民事事件の訴訟代理人として認めた[6]。それまで公然の存在でなかった代言人がはじめて法的に認められたのである。
しかし、代言人の資格要件については何ら規定されなかった。1873年の「代人規則」(6月16日)と「訴答文例」(7月17日)の制定・公布により、代言制度の形が整えられたが、当事者から依頼されれば、「盲聾無筆の徒」と「未成年者」以外、誰でも代言人の職に就くことができた。そのため、旧来の「公事師」がそのまま引き続き代言人として活動する者が少なくなかったといわれている[7]
ここでいう「公事師」というのは、旅館の経営者で、宿泊客の訴訟当事者に対して、訴訟の手続きなどを助言したり、奉行所で開かれた法廷(白洲)まで付き添ったりする者のことである。
江戸時代の訴訟は本人訴訟が原則であった。江戸時代、出入筋といわれた民事関係の訴訟は、江戸、大坂、京都、長崎などの各奉行所で取り扱われていた。地方からはるばる出かけてきた訴訟の当事者は、まず、宿屋に泊まることとなる。その宿屋の主人や番頭が、地理的に不案内の当事者の依頼を受け、奉行所まで「差添」(付添い)したりすることを恒常的に行っている。そして、頻繁に奉行所に出入してその様子を見聞しているため、宿屋の主人や番頭が訴訟のやり方などの知識を持つようになった。世間から、訴訟関係の仕事を兼ねる旅館が「公事宿」(地域によっては、郷宿、公事人宿とも呼んでいた)、その主人や番頭を公事師(出入師、附添人とも呼ばれていた)と呼ばれるようになった。しかし、公事師は幕府に公認されたものではなかった[8]
大阪という地では、公事宿を経営する主体は金貸しを兼業する者が多かったようである。金貸しが本業を営む間、貸金の取り立てのための手続きに関わるということで、訴訟に通じるようになったという[9]。ちなみに、大阪では人の公事・訴訟に携わり、それを生業とするものを「大法師」と呼んでいたようである[10]
誰でも代言人に名乗ることができるという状況のもとで、代言人の数が増加し、同業者間に依頼人の獲得競争が生じた。その結果、「青銭三百文」や「米一升」といった低い報酬で事件を引き受ける代言人が少なくなく、社会的に詐欺師のように思われて評判はよくなかった。世間から「三百代言」という蔑称が生まれることとなった[11]
以上のように、明治初期において、弁護士の前身である代言人は、資格要件に関する明確な規定がなかった結果、希望すれば誰でもなれるということになり、代言人の社会的地位と評価は、必ずしも良いものでなかった。
 
 
■北洲舎の創立
 
以上のような時代背景のもと、1874年6月15日、前奈良県典事の寺村富榮、前大阪取締区大区長の北田正董、前司法省中解部の都志春暉、前権少検事の岩神昂ら元地方役人たちが、北洲舎という代書代言事務所を大阪北浜2丁目に立ち上げた。全国初の試みであった。北洲というのは、「北濱なり、北濱の文字雅馴ならず」ということで、「濱を洲と改め取りて舎に名つけ」たものである[12]
なぜ、寺村たちがそれぞれに就いた官途をやめ、当時の風評があまりよくなかった代言人の職業に就こうとしたのか。その背景の一端には全国的に民事訴訟件数の増加があったのではないかと考えられる。1873年日本全国の民事訴訟新受件数が4万7850件だったが、1874年になると、約3倍増の14万997件になった[13]。多くの紛争事件が裁判所に持ち出されたのは、「三百代言」の存在が大きかったといわれる[14]。北洲舎の創立には、代言の市場規模に着目した側面があったが、司法関係の地方役人の経験を活かし、「三百代言」の弊風を矯正しようという側面もあったと推し量ることができる。
さて、6月15日の創業当時のメンバーおよび俸給は次のとおりである[15]
 
舎員 金25円                               寺村富榮
舎員 金25円                               北田正董
舎員 金25円                               都志春暉
舎員 金12円50銭但半月分          岩神昂
舎員 金15円                               岩成濤雄
舎員 金7円50銭但半月分            馬渡俊猷(北田の旧部下)
舎員 金5円但半月分                    瀬川正治(北田の旧部下)
舎員 金15円                               大藤高敏(寺村の旧部下)
舎員 金5円但半月分                    芝耕造(岩神の旧部下)
生徒 金10円                               能川登
生徒 金10円                        久代勇三郎
生徒 金7円50銭                          菊池侃二
生徒 金3円75銭但半月分               佐藤政明
   金4円                                  小使 平兵衛
   金2円                                  小使 善人
 
創立当時の舎員は9名、有給の生徒が4名、ほかに小使2名であった。注目すべきは、有給の生徒4人のうち、菊池侃二の名があることである。菊池は、のちに1887年に免許代言人、1890年の第一回衆議院議員選挙に当選、1898年7月、第一次隈板内閣のもとで大阪府知事に登用された人物である。
菊池の事例から、北洲舎は、有給生徒の制度を通じて、代言人養成の法教育を行う機能を有していたことがわかる。明治初期の法教育は、1871年設立の司法省明法寮と1873年の開成学校といった官立学校によって行われており、しかも主に司法官養成等を目的としたものである。私立法律学校による法教育は、後述の1876(明治9)年の免許代言人制度と連動する形で本格化したのは明治10年代以降である。創立当初から北洲舎が代書代言を専業としながら、小規模だが法教育を兼ねて行うという私立法律学校の側面も持ち合わせていたことは評価に値する。
同年6月下旬、舎員の岩神、北田らは、旧知の高知藩士で元司法省三等出仕兼大検事警保頭正五位の肩書を有する島本仲道を北洲舎の舎長に据えた。この頃の島本は、1974年4月に板垣退助、林有造らが立ち上げた「立志社」に参加しており、立志社の活動の一環として「法律研究所」を設け、自らが責任者となって代言・代書の事務をすでに開始している。中央官職の経験を有する島本の舎長就任は、地方の役人だった寺村、北田、都志、岩神らにとって、強力なバックアップを得たことを意味する[16]
既述したように、当時では代言、代書の意味がまだ世間に理解されていない事情があった。そのため、北洲舎設立の資金調達には相当苦労していた。幸いに大阪高麗橋の豪商島田組の番頭・田部密からの出資を受けることができた。そして、7月22日、設立届が寺村、北田、都志、岩神の連名で大阪府に提出された[17]
 
 
■北洲舎の経営拡大
 
1874年8月、島本は、東京においても法律事務所を設けようとして、日本橋北鞘町5番地で北洲舎の看板を掲げた。東京北洲舎である。その後、島本が東京に住居を構えたため、東京の北洲舎を本舎とし、大阪の北洲舎を支舎とした[18]。当初から、二つの事務所はスタッフが相互交流し、会計も一緒にしていた。しかし、東京北洲舎の経営が順調でなかったこともあり、同年12月6日、両事務所が協議の上、別個の結社として、それぞれ独立採算制で運営することとなった[19]
東京と異なり、大阪北洲舎の経営はかなり順調だった。創立年の12月10日に広島で、翌75年の1月18日に堺車之町で、76年の3月に京都で、それぞれ大阪北洲舎の支舎が開設されることとなった。経営拡大の原因の一端について、奥平昌洪『日本弁護士史』はつぎのように分析している[20]。従来の公事師、大法師といったたぐいの者は、「掛官の鼻息を窺ひ恐れながら書類を捧呈せしもの」に過ぎず、法廷での弁論が許されなかった。しかし、北洲舎が「会社の如き観を為し訴答の旨趣を陳」べるだけではなく、「裁判官と議論を闘はせて人民の権利を伸暢」することに努めている。これを目の当たりにした大阪の人は「無上の味方」を得たと思い、北洲舎に事件を依頼する者が次々と現れたのである。そのため、北洲舎創立以来、すこぶる利益を上げた、と。
さらに、全国的に民事訴訟件数の急増もその背景の一つとして挙げることができる。既述したように、1874年の全国民事訴訟新受件数は14万997件である。翌75年の民事訴訟事件数は、74年のそれの2倍を超えた32万3588件である[21]。この1875年(人口が約3千5百万人)の民事訴訟事件数が、実は、110年後の1985年(人口が約1億2千万人)の新受件数に匹敵するものである[22]。膨れ上がった訴訟件数は、のちに明治政府の訴訟抑制策を誘発することになったが、明治初期の人々が積極的に権利主張を行っていたことの裏付けだといえよう。
北洲舎は早くも法律扶助の制度を考案した。1874年9月20日の東京北洲舎の新聞広告では「貧窮無力者ハ謝金ヲ受ケサルヘシ」と宣言した。2年後、76年の2月には大阪北洲舎が上告審の依頼を受けたとき、依頼者が貧困で費用の負担に耐えない場合、東京北洲舎の義務として上告することを東京、大阪北洲舎の間で協定が結ばれた。これは、北洲舎が「貧窮無力者」の人権を守ることに尽力していたことを示すものであろう[23]
そして、東西の北洲舎は、1876・77年頃には代表的代言代書事務所に成長した。舎員の多くは、裁判過程を通じて、民衆に法律知識や民権思想を普及させ、民権派結社や代言人として発展していったといわれる[24]
ちなみに、大阪では北洲舎と類似する代言代書結社はほかにもあった。たとえば、1874年7月、大阪府取締大区長の佐久間俊明はその部下の山下重威らとともに、大阪北浜2丁目に「便宜商社」を創立した。便宜商社は、設立当初、地所家屋売買、金銭賃借の周旋と代書、代言の業務を行っていたが、一年も経たないうちに、代書、代言の業務のみを行うことになった。便宜商社の佐久間俊明、山下重威は、北洲舎出身の寺村富榮、大藤高敏、菊池侃二、小島忠里とともに明治中期に活躍した大阪を代表する代言人・弁護士であった[25]
 
 
■1876(明治9)年代言人規則の制定
 
 1876年2月22日、「代言人規則」(司法省甲第一号布達)が制定・公布された。その前文に「今般代言人規則別紙の通り相設け候条来る四月一日より以降は右規則の通り免許を経ざる者へ代言相頼候義不相成候条此旨布達候事」[26]とあるように、代言人を免許制にした。同規則の免許代言人制によって、弁護に関する専門職の制度が誕生したのである。
 15条からなる代言人規則は、試験、欠格事由、免許期限、免許料、訴訟手続に関する規則、弁護士倫理、懲戒などの規定が盛り込まれている。免許は、1年限りであり、免許更新のつど10円の免許料を司法省に納めなければならなかった。この免許は、府県裁判所(地方裁判所)、上等裁判所(現在の高等裁判所)の二種類に分かれ、双方を兼ねることができない。また、免許された裁判所の外では代言活動を行うことができない。つまり、大阪上等裁判所の免許状で東京上等裁判所での代言はできないのである[27]
 また、代言人の職務に重大な制限が課せられていた。代言人の職務は、「訟廷ニ於テ其訴答往復書中ノ趣意ヲ弁明シ裁判官ノ問ニ答フル」(第8条)と定め、法廷において、訴状、答弁書および往復文書の趣旨を弁明し、裁判官の問いに答えることが本務とされた。また、「訟廷ニ於テ国法ヲ誹議シ及ヒ官吏ヲ侵陵スル者」は、裁判官によって直ちに譴責・停業(一か月以上一年以下)または除名(「三年ヲ経ルに非サレハ復ヒ代言人タルヲ許サス」)に処せられることになっていた(第14条)。法廷における代言人の発言の範囲は非常に制限されたのである。
 
 
■代言人試験
 
 当時の代言人試験は、現在のように全国統一の試験ではなく、各府県庁の地方行政官が試験官になって行うとされていた。ところが、当時の地方行政官は民刑事に関する法規、訴訟手続などもほとんど知らなかった。そのため、何をどのように検査すればよいか大いに戸惑った。それを物語る次のようなエピソードがある。
 1876年4月10日、東京府庁において実施された東京府第1回の「代言人検査」には、大阪北洲舎の舎員も含む30名ほどの受験者がいた。しかし、法的素養に乏しい試験官は、「新吉原三業組合の規則を心得るか」「何規則は何年何月何号の布達なりや」「明治六年太政官第三百号の布告如何」といった問題を出した。この問題をみた大阪北洲舎出身の受験生は、このような問題は受験者を馬鹿にしたものだといって猛抗議した。そのため、東京府第1回の代言人検査はやり直すこととなった[28]
 さて、代言人の試験は、1876年4月、5月にかけて、東京、大阪、神奈川、兵庫、堺、宮城、置賜、名東の府県において実施された。全国の合格者はわずか34名、そのうち16名が大阪の代言人であった。16名のうち、大阪北洲舎から寺村富榮、瀬川正治、大藤高敏、三宅徳馨、樋田保熙、佐治公雄、岡崎高厚の8名、便宜商社から佐久間俊明、山下重威、山村総俊、柴山正憲、森仁志の5名があった[29]。ちなみに、三宅、樋田、佐治、岡崎は北洲舎の月雇生徒であった[30]
 その後、1880年5月の代言人規則改正までの4年間、大阪府、堺県では76名の代言人試験合格者が輩出した[31]
当時、この免許代言人制の実施により、無資格で代言人の職務に従事する者の抑制には一応の効果があった。公事師の流れを汲む従来の代言人は、その大半が正式の代言人としての免許を取得することができなかった[32]。しかし、取締目的の免許代言人制が合格者の数を低く抑えるという結果をもたらし、地方によっては免許代言人が一人もいないところがあった。全国的に少なかった免許代言人が社会の増大する法的需要を満たすことは、明らかに難しかった。そのため、多数の無免許代言人(彼らは「当日代人」もしくは「もぐりの代言人」などと呼ばれた[33])が1873年の代人規則を根拠にして裁判所で訴訟活動を行い、人々の法律問題の相談役的地位にあった。「三百代言」の状況が依然として続いた。
 
 
■1880(明治13)年の改正代言人規則
 
 1880年5月13日、司法省甲第1号布達をもって、1876年の代言人規則が全面的に改正された。この改正規則は、第一款総則、第二款議会、第三款懲罰、第四款出願から構成され、1893(明治26)年弁護士法の制定まで13年間にわたって施行されたものである。この規則は、民事事件について代言人制度をとることを明らかにしており、刑事事件について司法省の許可を得なければ代言人をつくことができないとした[34]。『大阪弁護士会百年史』によれば、この改正には次のような特色がある[35]
特色の第一は、免許代言人が「大審院及諸裁判所ニ於テ代言ヲ為スヲ得」と規定されるように、営業区域の限定(裁判所別、審級別)が廃止されたことである(第3条)。この改正により、代言人は、全国のどの裁判所でも執務できることになり、人々はその最も適当と思う代理人を広い範囲から選択できることになった。今日までこの原則は維持されており、日本の弁護士制度上の重要な特色となっている。
 特色の第二は、代言人試験は司法省による全国統一試験となったことである。試験問題は司法省が作成し、各地方の検事に送付し、検事が試験を実施するものであった。試験の科目は、民事法、刑事法、訴訟手続および裁判に関する諸規則とすると定めた(第28条)。一般行政庁の関与を排除し、代言人を司法機関の一つとして位置付けることを明らかにしたものである。
 特色の第三は、代言人が「各地方裁判所本支庁所管毎ニ一ノ組合ヲ立テ議会ヲ設」けると規定され、代言人組合の設立と代言人の組合への加入を義務づけたことである。代言人全員を代言人組合に強制加入させることは、法律専門職としての代言人の自主性の担保、職業上の利害の維持という点では大きな意味があった。しかし、代言人の職業団体が職務上必然的に対立関係に立つ検事の監督の下に置かれることになり、弁護士の自治は認められなかった。このことがその後の弁護士、弁護士会の発展にとって大きな障害となったといわざるをえない[36]
 また、次のような法律や官吏への尊敬を一方的に強要される規定(第22条1~2)もあったことは指摘しておかなければならない。
 
第22条 代言人左ノ条件ヲ犯ストキハ軽重ヲ量リ第23条及第24条ニ依リ懲罰スヘシ
   一 訴廷ニ於テ現行ノ法律ヲ誹譏スル者
   二 訴廷ニ於テ官吏ニ対シ不敬ノ所業ヲ為ス者
 
 つまり、これは「国法」=法律を誹り、「官吏」=判事と検事に恥をかかせた代言人は処罰するという規定である。現在では考えられない規定だが、当時では、これらの規定に反した者は、情状により、「譴責」「停職」「除名」という処分が下されるのである(第23条)。
 特色の第四は、「議会組合外私ニ社ヲ結ヒ号ヲ設ケ営業ヲ為シタル者」(第22条9)を懲罰の対象とすることである。これは、代言人の結社自由を奪う規定であり、当時盛んでいる自由民権運動と代言人結社の活動が結びつくことを防ぐためのものだといわれる。この規定により、大阪北洲舎、便宜商社のような結社は、解散する運びとなった。同年5月25日の新聞に北洲舎の「解舎」宣言が出された[37]
 
  去ル明治七年六月ヲ以テ當舎ヲ設立シ同志相會シ共ニ代言ヲ從事罷在候處今般司法省甲第一号御布達ノ旨ヲ奉シ解舎致候事
  但當舎受込ノ事件ハ從前擔當代言人自宅ニ於テ取扱候
   大阪府東區今橋一丁目第五番地
  明治十三年五月廿三日 北洲舎
   堺縣堺區市ノ町一番地 北洲舎 出張所
 
 これによると、北洲舎は5月23日をもって解散したことがわかる。北洲舎が解散となったが、すでに引き受けた事件に関しては、担当代言人が個人名義で引き続き取り扱うとされた。
 
 
■むすびにかえて
 
 以上のように、創立から解散まで約6年間、大阪の地に存在した北洲舎は、他府県にも支舎を開設するなど経営の拡大を遂げたとともに、法曹養成の機能も兼ねて、多くの代言人・弁護士を育成した。
 弁護士制度の形成に関わる代言人規則には、代言人の資格要件の明文化や代言人組合の加入義務化など代言人の専門職制度の発展に有益な面があると同時に、代言人を国家の厳しい統制のもとに置くという側面もある。たとえば、法廷における代言人の職務への規制強化は、「官尊民卑」(判事、検事といった司法官僚が偉い、代言人が二流法曹)の風潮を助長したといわれる。
また、当時玉石混交だった代言人に対して試験を課すことによって、法律専門職の形成に一定の効果があったが、それが代言人の数を低く抑制する結果をもたらした。数少ない免許代言人が明治維新後の社会の法的需要を十分に満たすことは難しかった。このことがその後も長い間、人々の「司法へのアクセス」(Access to Justice)が容易ではない状況を作り出し、裁判よりも調停や和解のほうが好まれるという大衆の意識を助長した原因の一端だといわれる。
最後に、北洲舎を含む代書代言社解散後の大阪代言人界の状況を紹介しておく。
大阪の代書代言社が解散後、免許代言人たちがたちまち「大阪組合代言人会」を結成した。翌6月、元北洲舎の寺村富榮が会長、元便宜商社の佐久間俊明、山下重威が副会長に選出された。発足時の大阪組合代言人会は会員58人を有した[38]。この大阪組合代言人会は、1893(明治26)年の弁護士法(法律第7号)の施行を受け、同年5月3日、大阪商業会議所で創立総会を開き、寺村富榮を会長に推挙され、会員113人を擁する「大阪弁護士会」として新たに出発した[39]
(専門員 謝政德)
 
[1] 山中永之佑編『新・日本近代法論』(法律文化社、2002年)35頁。
[2] 高谷知佳・小石川祐介編著『日本法史から何がみえるか』(有斐閣、2018年)283頁を参照。
[3] 大阪弁護士会『大阪弁護士会百年史』(1989年)4頁。
[4] 山中永之佑編、前掲書、29~30頁を参照。
[5] 代言人の言葉は、福沢諭吉が「Adovocate」を訳字したのにはじまるといわれている(山中永之佑「代言人」『日本歴史大辞典第6巻』河出書房新社、1969年、319頁)。
[6] 大阪弁護士会、前掲書、10頁。
[7] 大阪弁護士会、前掲書、15~17頁を参照。
[8] 大阪弁護士会、前掲書、4~5頁。大野正男『職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史』(公益財団法人日弁連法務研究財団、2013年)12~14頁。
[9] 林屋礼二「明治初年の民事訴訟新受件数の考察」(林屋礼二ほか編『明治前期の法と裁判』信山社、2003年)102頁。
[10] 大法師とは、「人の公事・訴訟に携り或は之が書類を認め、其報酬によりて衣食を充すを事とするもの」のことである。明治維新後、大法師が「殊に増加し、好んで争訟を起さしめ、能く理非曲直を左右することあるを以て、公事・訴訟としいへば人亦之に依り、多く彼徒の後援を藉るを常とし為に諸事乱調を惹起し、その害の及ぶ所決して少なからざるもの」であった、とその弊害が指摘されている(『大阪市史史料第七輯 明治時代の大阪(上)―幸田成友編「大阪市史明治時代未定稿」―』(大阪市史編纂所、1982年)29頁。
[11] 大阪弁護士会、前掲書、16頁。
[12] 奥平昌洪『日本弁護士史』(1914年、巌南堂書店1971年復刻)102~105頁。。
[13] 林屋礼二、前掲論文、106~107頁。
[14] 林屋礼二、前掲論文、104頁。
[15] 大阪弁護士会、前掲書、21頁
[16] 奥平昌洪、前掲書、81~82頁。大阪弁護士会、前掲書、18~22頁。
[17] 7月17日、岩成濤雄の名義で、今橋1丁目5番地の一軒家を借り上げ、「北洲舎」がここに移転した(奥平昌洪、前掲書、105頁)。
[18] 大阪弁護士会、前掲書、28頁。
[19] 奥平昌洪、前掲書、133頁。 
[20] 奥平昌洪、前掲書、109頁。
[21] 民事の新受件数が急激に増加した原因について、1875年に「大審院」を頂点とする三審制の裁判所制度の創設、翌76年には府県裁判所が地方裁判所と名を改めるとともにこの下に区裁判所が設けられたことと関係するものだと指摘されている(林屋礼二、前掲論文、106~107頁)。
[22] 林屋礼二、前掲論文、93頁。
[23] 大阪弁護士会、前掲書、34頁。
[24] 澤大洋『民権派代言事務所と私立法律学校の創成』(『東海大学政治経済学部紀要』)21頁。
[25] 大阪弁護士会、前掲書、34~35頁。
[26] 大阪弁護士会、前掲書、「資料編」12頁。
[27] 大阪弁護士会、前掲書、35~36頁。
[28] 大阪弁護士会、前掲書、39頁。
[29] 大阪弁護士会、前掲書、40~41頁。
[30] 奥平昌洪、前掲書、111~112頁を参照。
[31] 大阪弁護士会、前掲書、42頁。
[32] 林屋礼二、前掲論文、103頁。
[33] 林屋礼二、前掲論文、103頁。
[34] 刑事事件の弁護人については、1880年7月17日公布の「治罪法」により、原則として代言人の中から刑事弁護人を選任する制度として確立された(小田中聡樹「代言人」『國史大辭典8』吉川弘文館、1987年、727頁)。
[35] 以下の叙述は、大阪弁護士会、前掲書、45頁~47頁を主に依拠した。
[36] 大阪弁護士会、前掲書、46~47頁。
[37] 『朝日新聞』1880年5月25日、朝刊4版(『朝日新聞社 聞蔵Ⅱビジュアル』2018年12月16日確認)。
[38] 奥平昌洪、前掲書、324~325頁。
[39] 奥平昌洪、前掲書、654~656頁。

 
「臥薪30年」、臨時停車場 "ラグビー場前" だった頃

グリーンの冊子
一風変わったタイトルの冊子を見つけた。府庁本館地下1階にある大阪府公文書館の書庫、膨大な資料が並ぶ書架の片隅に緑色の冊子は眠っていた。昭和59年のものだから、もう30年以上前のもの。手書き原稿をそのまま印刷したページもあって、卒業文集のような雰囲気も漂う。「臥薪30年」、大阪府警ラグビー部が製作したもので、関係者に配布されたもののよう。同じ大阪府の組織として府庁のほうにも回ってきたのだろう。どこの国公立図書館も所蔵していない。ある意味では貴重書だ。
 昭和28年創部以来の30年の歩みを記録したもので、部長、監督、OB会長等の寄稿のあとには、編年的に戦績が掲載され、部員たちの回顧が続く。巻末には当時の新聞記事の写しが並ぶ。100ページほどの冊子である。
関係者のコメントは概して抑制の効いた表現が多くを占める。職業柄とはいえ調書を読むかのような雰囲気もある。しかし、余計な夾雑物を挟まない簡潔な事実の叙述だからこそ、かえって行間から当事者たちの思いが伝わる。むろんタイトルは「臥薪嘗胆」の故事成語から取ったもの、平たく言えば「苦節30年」というところか。

茨のみち
 創部以来、大阪府警チームが目標としたのは関西の強豪、近鉄チームである。年ごとに列挙されている対外戦績から近鉄との試合を抜き出しスコアを視覚化すると、点数だけの平板な記述では判りにくい苦闘の跡が鮮明になる。創部後3年間は完封負け、昭和31年には3点を取ったが、翌年には完封負けしている。ラグビーの得点方式は変遷があるので、スコアだけを見ると、間違いなくトライを記録したのは昭和34年ということになる。敵陣深く攻め込んでも、近鉄ディフェンスの壁に阻まれ、苦戦した跡が窺える。一矢を報いて完封を免れるのがやっとだった感がある。
勝利に最も近づいたのが昭和36年の6対6の引き分け、昭和39年にも同スコアで分けているが勝利への道は遠い。大阪府警から見ればライバルではあっても、相手側近鉄から見れば勝ちが計算できる対戦であったのかも知れない。
 初勝利の瞬間が訪れるのは、それからさらに10年余を経た昭和53年のこと、「近鉄戦初勝利に想う」として寄稿された森岡泰樹氏の文には臨場感があふれている。
16対14でリードされたノーサイド寸前、右すみのゴール前のP.K.から、奥選手が逆点トライを上げたゲームである。逆点してから近鉄選手が意地と名誉をかけ執拗に反撃してきたこと。ノーサイドまでの時間の長かったこと。チームリーダーであった私は、チームメートに「おちつけ、まだまだや。」と言っているが、自分自身何をしているか分からなかったこと。ノーサイドの笛が鳴った瞬間、無意識にガッツポーズを取り、なぜか涙が流れてきたことなどが、5年経た現在も鮮明に脳裏に焼きついている。
トライ3点
(コンバージョン2点)
ペナルティーゴール3点
ドロップゴール3点
トライ4点
(コンバージョン2点)
ペナルティーゴール3点
ドロップゴール3点
ようやく果たした近鉄戦初勝利のあと、大阪府警の黄金時代が訪れる。ここに来て、ついに名門近鉄の真のライバルチームとなった訳だ。そして、昭和57年には宿敵近鉄に15対0で完封勝利、この年には初めて関西社会人Aリーグ優勝を果たす。翌年も近鉄を破り、連覇を達成する。そこに至る苦難の道を思うと、冊子標題の「臥薪30年」の意味がひしひしと伝わってくる。
一般企業なら社史に相当する「大阪府警察40年の記録」にも、大阪府内の犯罪発生状況など、警察そのものの記録に混じり、ラクビー部の快挙をごく短い記事で紹介している。

特殊事情

大阪府警ラグビー部は、当然ながら現職警官、わけても機動隊員で構成されている。そのプロフィールを推し量るコメントを「臥薪30年」から拾ってみよう。

府警ラグビー部は、昭和28年の創部以来、「強い当り」と「執ような突進」を身上として、激務の間隙をぬって猛練習に励げみ、国民体育大会に7回、全国社会人大会に20回出場して、準優勝、準決勝進出の戦績を残し、更に、昨年は関西リーグ優勝という輝かしい成果を上げたのであります。(府警ラクビー部長 樋口武文氏)
練習は、一流実業団チームのレベルへ「追い着け、追い越せ」を目標に、それはし烈を極めた。他のチームが2時間すれば3時間、3時間すれば4時間と。また、あめのひだうが風の日だろうが、警備出動の日だって、出動の前後をやりくりして一日とて休むことのない猛練習の毎日であった。(堺北警察署 泉利昌氏)
関西社会人Aリーグ初優勝のとき
(写真:毎日新聞社)


特殊事情
 練習は、一流実業団チームのレベルへ「追い着け、追い越せ」を目標に、それはし烈を極めた。他のチームが2時間すれば3時間、3時間すれば4時間と。また、雨の日だろうが風の日だろうが、警備出動の日だって、出動の前後をやりくりして一日とて休むことのない猛練習の毎日であった。(堺北警察署 泉利昌氏「大阪市警視庁ラグビー部創立まもないころ」)
 9月16日に第二室戸台風が来襲し、ラグビー小隊は、防潮堤が決壊して広範囲に浸水した西淀川署管内に出動したのであります。二昼夜にわたる不眠不休の救助活動に引続き、約10日間被災地域の跡かたづけや、治安維持に従事し、そのため、大事な定期戦に備えた練習が殆んどできなかったのみか、疲労の回復も十分でない10月4日に大阪を出発し、翌5日の試合に臨んだのであります。(曽根崎警察署 泉十一郎氏「第四回対松戸自衛隊定期戦の思い出」)

 近年のラグビー界をみると、本稿に登場する近鉄ライナーズをはじめ、実業団のトップチームは名門大学のスター選手や外国人選手を擁するのが当たり前のようになっている。強豪チームは企業の広告塔としての役割も担っているわけだ。ところが、大阪府警の場合は地方公務員たる警察官として採用し、機動隊に配属された者の中からラクビー小隊を編成するというところが根本的に違う。ましてや、「募集概要」の「欠格事項」のいの一番に「日本国籍を有しない人」を掲げているのだから、海外からのスカウトなど論外である。外国人であっても、日本に3年以上継続して居住しておれば、ラクビー日本代表となれるというような緩さは全くない。
現状、大阪府警チームはトップウェストAリーグの強豪ではあっても、ジャパンラグビートップリーグから見ると3部に相当する位置にある。海外からも人材を受け入れ、大学、社会人のレベルが向上するとともに、トップリーグは実質的にプロ化しているなかでは、その懸隔は埋めようがない。「臥薪30年」が纏められた昭和50年代の終わりは、新日鉄釜石の7年連続日本一が象徴するように、国内ラグビーにおけるアマチュアリズムが最後の光芒を放っていた時期かもしれない。

ステレオタイプ
 大阪府警チームの活躍を報じる新聞記事には、通常のスポーツ報道には見られない色合いが混じることがある。例えば、昭和47年11月1日の切り抜き記事はこんな調子である。何故かこの記事の掲載紙名はない。
ただ今安泰日本列島 お手のもの 送迎も”装甲車”
恒例 機動隊のラクビー定期戦
このラガー達がグラウンドの泥にまみれている間は、日本列島は安泰? - 恒例の警視庁対大阪府警のラグビー定期戦は三十一日、東京・秩父宮ラグビー場で行なわれた。八回目を迎えるこの定期戦、何しろ東西の第一線機動隊員で構成される両チーム。安保騒動が激しかった一昨々年などは“本業多忙”で中止の憂き目にあったこともある。街の”平和度”のバロメーターともいえるゲームをのぞくと…。
こんな見出しとリード文に続き、記事本文には皮肉交じりの表現が随所に顔を出す。つい面白おかしく書きたくなる記者の気持ちも判らなくないが、機動隊から短絡する固定観念に縛られた印象は否めない。
「スワッ、事件!」とキョロキョロする中で、ボストンバッグとボールを持った一行が胸を張って?乗り込んだから、見守る人もきょとん。これが大阪府警の選手三十五人。もちろん宿舎と試合場の往復も全部いかつい装甲車つき。
それより十年早く創立された府警チーム。やはり、警備と警護の機動隊員。定期的?に起こる西成・愛隣地区の騒動や、最近では中国バレーチームの警護に当たった。
もっとも「過激派学生で頭にきているから、学生チームには異常なほど強いのだ」の声もあるにはあるが…。

目立ってなんぼ
 創部から3シーズン目、大阪府警チームは東京遠征を行う。在京の大学、社会人チームを相手に3日間に3試合という考えられない日程を2勝1分で終える。「東京遠征うらばなし」と題して、阿倍野警察署の植芝勇氏が書いている。
緒戦は、対明大であったが、特に印象に残っているのは、スコアボードに明大のチーム名は掲示されたのに、当府警のチーム名は掲示されなかったことだ。当時、それだけ我がチームは、無名に近かったのである。しかし、戦い終わって、「大阪のポリ公はなかなか強いなあ」という観客の声がいまだに脳裏から離れない。
 これには余談があって、試合後に関係者への御礼に回り、明大の北島監督の許を訪れたとき、日も暮れたグラウンドで練習する一団に目が止まりそれを尋ねると、「あの連中は、今日試合をした者たちです」と、67年にわたり明大を指導した大学ラクビー界の名物監督があっさり答えたとのこと。それを聞いて、「やはり、試合は絶対勝たねばならん」と植芝氏は述懐している。両者に共通するのは、勝利への執念ということだろう。
 とかく色眼鏡で見られがちな大阪府警ラクビー部、メンバーにはそれへの反発もあっただろう。観客の声とは言いながら、自分たちの蔑称を平気で書き記すところに、自虐ネタも意に介さない大阪府警らしさを感じる。冊子に収録された多数の新聞の切り抜きには、他にも警察官チームを揶揄する表現があるし、そんな記事を目にすれば、ふつうの警察幹部なら眉を顰めかねないだろう。
 大阪府警察官募集のポスターが思い浮かぶ。関西人にはお馴染みの決め台詞そのままの作品など、駅構内の掲示に目が釘付けになったことは数知れない。こういう発想が出る、それを採用するというところが、大阪府警の懐の深さか。面白くてなんぼ、目立ってなんぼという大阪の風土の中で、警察と府民との距離が近いということかも知れない。
 以下は、関西Aリーグで連覇した昭和57年に毎日新聞に掲載されたコラム。同年に起きた賭博ゲーム機汚職で大阪府警が揺れていた時期のものである。
先だって、大阪の花園ラグビー場で行われた対近鉄戦で、大阪府警は相手を無得点に抑えた。基本に忠実な個々のタックル、全員一丸のディフェンス網。同じ犠牲でも、得点をあげるため、味方を守るための犠牲は無条件で見る者の共感を呼ぶのである。いら立った近鉄ファンが「ワイロをやって手加減してもらえ」と、時事的ヤジを飛ばしたりしたが、そのヤジに人びとが笑うどころか逆に白い目で見られるほど、厳粛な雰囲気がグラウンド全体を包み込んでいたのである。ノーサイドの瞬間、大阪府警フィフティーンの表情のなんと美しかったことか。他人のための自己犠牲を知る者だけに与えられるその輝きは、汚職の顔と無縁のものだった。
 「厳粛な」とは、およそスポーツ記事には不似合いな言葉だ。宿敵近鉄を初完封したときの競技場の雰囲気をよく伝えている。いまどきの言い方だと、奮闘するスポーツマンへのリスペクトが感じられる文章だと思う。

聖地花園
 大阪府警チームが数多くの熱戦を繰り広げたのは花園ラクビー場だ。いまや野球の甲子園と並ぶ高校生ラガーの聖地となっているが、私の子どものときの記憶には普通電車も停まらない奇妙なホームが微かに残っている。「近鉄ラグビー部70年史」に掲載されている、日本ラグビーフットボール協会名誉会長、川越藤一郎氏の回想を見てみよう。 
 花園でラグビーの試合がある時は、当時、京都駅より奈良電と呼ばれた私鉄(現在の近鉄京都線)に乗り、西大寺駅で大軌電車(現近鉄奈良線)に乗り換え花園ラグビー場まで行ったが、大きな試合の時はしばしば京都−花園ラグビー場間に、直通電車がでて便利だった。当時沿線は松林が多く、生駒山のトンネルを出るとすぐに田畑の中にクッキリとラグビー場が見られたが、現在はすっかり市街地になり昔の面影はなくなって居る。
 
ラグビー場
ラグビー場前駅
ラグビー場

 まさに、そのとおり。しかし、京都から直通運転していたとは知らなかった。すると、西大寺でスイッチバックしたのかと、鉄道マニアはそちらに興味が行く。ともあれ、大阪府が昭和36年に製作した1/3,000地形図を見ると、ラグビー場前の停車場から北方の競技場まで建物は全くなく、一面の田圃であったことがよく判る。その頃は現在の新生駒トンネルは貫通しておらず、旧トンネルを抜ける小振りの800系特急が走っていたものだ。
 同じ場所をGoogleマップの航空写真と比較すると、一目瞭然、東花園と名を変え、準急も停車する乗換駅になった高架駅とラグビー場の間には、家屋が建ち並んでいる。メインスタジアムの周囲には補助グラウンドも複数できており、一帯は陸上競技場や野球場なども含むスポーツ公園となっている。南北に流れる恩智川に沿って近鉄の東花園検車区があり、相互乗り入れを行う阪神の車両の姿も見られる。上記の川越氏の述懐は世紀の変わり目の頃のものだから、さらに風景は変わっている。
 
ラグビー場
東花園駅
ラグビー場
東花園駅

そして、2019
 昨年11月、大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)の開催が決まり、来年2020年の東京オリンピックも迫っている。そんな陰に隠れ話題にのぼることも少なくなったが、今秋にはラグビーワールドカップが日本各地で開催される。ここ花園ラクビー場も世界のトッププレイヤーたちを迎える。ここが戦後ながらく田圃の中の運動場だったことを知る人も少なくなった。しかし、グリーンの冊子を開くと、花園での大阪府警の熱闘が蘇る。トウモロコシ畑の中の野球場に往年の選手が姿を現す”Field of Dreams” のラストシーンを見るようだ。
※ 引用箇所は原文のまま。所属・肩書等は当時のもの。
 
【参考文献】
大阪府警察ラグビー部「臥薪30年」 昭和59年3月
(請求記号 C0-2002-143)
近くの吉田春日神社(ラグビー神社)と奉納のボール
大阪府警察本部「大阪府警察40年の記録:昭和30年~平成7年」
    平成10年                 (請求記号 C0-1998-631)
大阪府「大阪府管内地形図 昭和36年測量 大H6-1 枚岡市四条町 ほか」                                                       (請求記号G0-2003-146)
大阪府「大阪府管内地形図 昭和36年測量 大H6-4 河内市菱江 ほか」                    (請求記号G0-2003-148)
「近鉄ラグビー部70年史」 平成12年9月
「関西ラグビーフットボール協会史」 昭和58年12月
 
(大阪府公文書館専門員 的場 茂)


 
 
明治初期における大阪府域の変遷②

はじめに
 前稿で『大阪府全志』から大阪府域の変遷をたどりました。本稿では、府域の変遷の図示を試みます。したがって、府域変遷の詳細は前稿に任せ、本稿では変遷の概要と変遷図を紹介します。
 府域変遷を図示するにあたり、根本資料となる各村の変遷の詳細については、別冊にまとめました。なお、村名・旧高・旧領は『旧高旧領取調帳』に、管轄の変遷は『大阪府全志』に依拠します。また、変遷図については「大阪府百年史付図 市制町村制施行直前行政区画図(明治22.3.31)」を使用します。明治になってからの合併により村名や村域が変わった村もありますが、概ね一致しているため、そのまま使用しています。
 
1.大阪府司農局誕生
 慶応4(1868)年2月21日に大阪裁判所司農方が設置され、同年5月2日に大阪裁判所が大阪府と改められました。大阪裁判所司農方の管轄地は大阪府司農局へと引き継がれ、現在の大阪府域においては、大坂三郷、大坂城、代官内海多次郎の領地のみが大阪府となりました。この時、藩領や旗本領はそのまま継続されましたが、御三卿の一橋家や田安家、大坂城代、京都所司代、京都守護職の所領については、摂津国の分は尼崎藩・三田藩に、和泉国と河内国の分は佐山藩に取締が委任されました。
 また、同年5月10日には寺社領が最寄りの府藩県の所管となりました。『大阪府全志』に移管先の記載がある寺社についてはその通りの所管としましたが、それ以外の『旧高旧領取調帳』に記載されている寺社は、本稿においては便宜上、最寄りの府県の石高の高い方へ編入させました。
 
2.司農局分割から摂津県・河内県廃県まで
 大阪府司農局は同年6月8日に南北に分割され、大阪府司農局管轄地の内、河内国を南司農局が、摂津8郡(東成郡・西成郡・住吉郡・島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡・川辺郡)を北司農局が管轄しました。
 そして翌明治2年1月20日には、南北司農局の所管地を大阪府から独立させ、南司農局管轄地を河内県、北司農局管轄地を摂津県としました。摂津県は同年5月10日に豊崎県へと改称しました。
 同年8月2日には摂津・河内両県ともに廃県となり、豊崎県は兵庫県へ、河内県は堺県へ編入されました。兵庫県の管轄となった旧豊崎県の地域の内、東成郡・西成郡・住吉郡・島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡の7郡は9月19日に大阪府へ編入されました。
 
3.廃県廃藩置県から第1次府県統合
 明治4年7月14日の廃藩置県により、現在の大阪府域にある藩はすべて県になり、大阪府、堺県をはじめ、24府県となりました。(図①) しかし、地図からもわかるように、近世の支配体制と大きな違いがないため、府県を国や郡を単位とする一円的な領域に再編されることとなりました。大阪府では同年11月20日、近畿地方では同月22日に府県統合が行われ、大阪府と堺県の2府県に再編されました。(図②)
 
4.奈良県編入から堺県合併
 明治9年4月18日、奈良県が堺県に編入され、堺県の管轄地域は和泉国、河内国、大和国になりました。(図③) 明治12年2月7日には、堺県が大阪府に編入され(図④-1)、当時の大阪府域は、現在の大阪府と奈良県にあたる広大なものとなりました。(図④-2)
 明治20年11月4日に奈良県を再び置くことになり大和国が分離されたため、大阪府域が現在のものとほぼ同じになりました。(図⑤)
 
5.摂津・和泉両国の国境の移動
 摂津・和泉両国の国境は、堺にある大小路でしたが、和泉国を管轄する大阪府堺役所(旧堺奉行所)の所在地が摂津国住吉郡にあり、行政上なにかと不便ということから、明治元年10月24日に大阪府と堺県の境界が大和川中央に移されました。その後、堺市街に国境があることで、人々のまとまりがなくなること少なくないという理由から、明治4年9月晦日に摂津国と和泉国の国境が大和川の中央に移され、府県境と国境が一致しました。
 『旧高旧領取調帳』では、当初摂津国住吉郡に属していた南鳥新田、弥三次郎新田、遠里小野村、七堂(七道)村、北荘村、西万屋新田、浅香山村、浅香山流作新田、庭井村、庭井新田、庭井流作新田、奥村、花田村・北花田村・船堂村立会、北花田村、船堂村、大豆塚村、東万屋新田(万屋新田)が、和泉国大鳥郡に記載されていることから、『旧高旧領取調帳』の摂津国が作成された時期は明治4年10月1日以降で、また、大阪府以外の県名が記載されていることから、摂津国一円が大阪府になる11月20日以前あると推測できます。
 
おわりに
 大阪府域の変遷を地図に落としていくことで、明治4年11月に大阪府と堺県の2府県になるまで、近世の支配体制と大差なく数多くの県が入り組んだ状態で存在し、所管が目まぐるしく変わっていったことが明らかになりました。また、奈良県が堺県や大阪府の一部であったことは周知の事実ですが、それ以外にも南河内の一部が五条県に属していた時期があったり、豊能・三島両地域が兵庫県だった時期があったことも、より具体的に明らかになりました。
 『旧高旧領取調帳』と『大阪府全志』で村名や石高が異なる村がいくつかあります。『大阪府全志』がどのような史料を基に記されたか、その詳細が不明であるため、各市町村の自治体史を繙き、より綿密な調査をする必要があります。それは今後の課題にしたいと思います。
 
 
(注)
1 井上正雄『大阪府全志』巻1、復刻版、清文堂出版、1985年。
2 木村礎校訂『旧高旧領取調帳 近畿編』、近藤出版社、1988年。
3『大阪百年史』、大阪府、1968年。
4 高槻市の樫田地区と豊能町の牧地区と寺田地区は、昭和33年4月1日に、それぞれ高槻市と豊能町に編入されたことにより、大阪府となりました。
5 9月8日に明治に改元。
 
 
【凡例】
・地図上の配色は以下の通りです。印刷版での具体的な色の違いについては、ホームページよりカラー版をご確認ください。
 
 
 
 
 
・1村に複数の管轄地がある場合は、石高が少ない方を○で示しました。

 
図① 廃藩置県時(明治4年7月14日)
 ※別冊に拡大地図あり 

図②  府県統合時(明治4年11月20日~22日)
  
図④-1 堺県合併時( 明治12年2月7日)以降
 
  
【大阪府域の変遷 概観図】
※「近畿地方の地図」 CraftMAP(http://www.craftmap.box-i.net/)を使用。
図③ 奈良県を堺県へ合併( 明治9年4月18日)
 
 図④-2 堺県を大阪府へ合併( 明治12年2月7日)
 
図⑤ 奈良県再置( 明治20年11月4日)
 
  
【あーかいぶず第53号の訂正】
・18頁右段22行目
 (誤)多羅尾(たらお)織之(おりの)助(たすけ)
 (正)多羅尾(たらお)織之助(おりのすけ)
・18頁右段28行目
 (誤)河内国の代官斎藤六蔵の領地、摂津国の京都所司代松平定敬の知行所、
 (正)河内国の代官斎藤六蔵の領地、京都所司代松平定敬の知行所、
・18頁右段35行目、36行目
 (誤)司農局の管轄
 (正)大阪裁判所司農方の管轄
・19頁5行目
 (誤)管轄地域は、大坂裁判所から兵庫裁判所の所管へ
 (正)管轄地域は、兵庫裁判所の所管へ
(公文書館専門員 市原佳代子)

 

33回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました!

平成30年12月14日(金曜日)15時から17時、大阪府庁本館5階議会会議室2にて第33回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました。
4名の委員全員の御出席をいただき、その中から飯塚委員を座長に選出しました。活発な議論が行われ、
これからの公文書管理に非常に有益な意見交換の場となりました。
【委員】
飯塚 一幸 大阪大学大学院 文学研究科 教授
林 真貴子 近畿大学 法学部 教授
三阪 佳弘 大阪大学大学院 高等司法研究科 教授
三成 美保 奈良女子大学 研究院(生活環境科学系) 教授
【議題】
・座長の選任について
・公文書館の運営状況について
・レファレンスの概要について
・原本が電子文書である歴史的文書の収集・
保存について
 ・書庫移転について
・その他
 
【議論概要】「電子文書の保存及び歴史的文書としての意義について」
 
1 電子文書の永年保存化について
・ストレージ等の経費、検索機能等の技術的な課題がある。
・技術の向上により課題が解決すれば、将来的に永年保存を推進すべき。
・物品購入など、些末な案件についてまで残す必要はないのではないか。
・過去に推奨されたマイクロフィルムが劣化した例がある。
 デジタル媒体の耐久性について検証が必要。
・職務上必要でなくなった個人情報の保存の是非、個人が消してしまいたい
 過去の情報が永年保存される是非等を整理する必要がある。
 
2 電子化された歴史的文書の意義について
・メモの記入跡など、紙文書そのものにも歴史的文化的な価値があるのではないか。
・電子化される以前の紙文書の収集・保存に力を注ぐべき。

(公文書館事務局)

 
大阪府公文書館 利用案内
所在地  大阪府庁本館5階(大阪市中央区大手前2丁目1-22)
閲覧時間 月曜日~金曜日 午前9時00分~午後5時15分
複写申請は閉館の30分前までにお願いします。
休館日  土曜日、日曜日、祝日及びその振替休日
年末年始(12月29日~1月3日)
_________________________________________________________________
大阪府公文書総合センター (公文書館、府政情報センター)
開館時間              9:00~17:15 
正庁の間     一般公開日 水・金曜日10:00~17:00
大阪府公文書館 『大阪あーかいぶず 』第54号 平成31年3月31日発行
〒540-8570 大阪市中央区大手前2丁目1-22(大阪府庁本館5階)/TEL06-6944-8374/FAX06-6944-2260
ホームページ https://archives.pref.osaka.lg.jp/ (大阪あーかいぶずの電子版も掲載しています)
住所
大阪市中央区大手前2丁目1-22 大阪府庁本館5階
Tel
06-6944-8371
Fax
06-6944-2260
このサイトのご利用について
Copyright © 2014 Osaka Prefecture Archives All Rights Reserved.