大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第55号
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大阪あーかいぶず 
「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。
第55号  令和元年9月
大阪府公文書館発行

   
大阪府広報担当副知事「もずやん」
 
目   次
令和元年度企画展示「平成を振り返る」 ………………………1
55年前の聖火リレー ~テレビに出なかったこと……………6
公文書にみる大阪府章の制定……………………………………13
「献金美談」を読む ~昭和恐慌の頃…………………………20
公文書館 事業の推移……………………………………………28

令和元年度企画展示「平成を振り返る」
 

 平成元(1989)年1月8日から始まった「平成」は平成31(2019)年4月30日をもって幕を閉じ、翌5月1日からは新しい元号「令和」が始まった。
 「国の内外にも天地にも平和が達成される」という意味が込められた「平成」。およそ30年4か月という、昭和、明治、応永に続いて4番目に長い元号となり、その間には様々な出来事があった。まず、明治、大正、昭和、平成と続く憲政史上で初めてわが国が戦争をしなかった平和な時代となった。その一方で、阪神・淡路大震災(平成7年)や東日本大震災(平成23年)に代表される、未曾有の自然災害に幾度も見舞われた時代でもあった。また、平成の30年間には、目まぐるしい速さでIT(情報技術)が進化・普及し、パソコンや携帯電話、スマートフォンなどは、今や我々の生活には欠かせないものとなった。
 大阪府では、平成2年の「国際花と緑の博覧会」や平成7年の「APEC'95大阪会議」の開催があり、平成6年には「関西国際空港」が開港し、近年では関西国際空港を利用したインバウンド(訪日外国人旅行)が急増するなど、国際化が大きく進んだ時代となったと言える。そのほかにも、平成9年の「なみはや国体」の開催や、平成23年から始まった「大阪マラソン」など、スポーツがより身近なものになった。 
 今回の改元にあわせ大阪府公文書館では、平成31年4月1日から令和2年3月31日まで、令和元年度企画展示「平成を振り返る」を開催している。平成31年4月1日から令和元年9月30日までを前期展示とし、大阪府公文書館の所蔵資料から、「花と緑の博覧会」、「関西国際空港」、「阪神淡路大震災」、「なみはや国体」を中心に大阪府の「平成」を振り返った。10月1日からの後期展示では「APEC'95大阪会議」を取り上げる。
 本稿では令和元年度企画展示「平成を振り返る」の前期展示の概要を紹介する。
 
1.昭和から平成、そして次の時代へ
1)昭和から平成へ
 昭和64(1989)年1月7日、昭和天皇が崩御され、皇太子明仁親王が皇位を継承された。また、同日に改元の政令及び内閣告示第6号が出され、翌8日から元号が 「平成」に改められた。
 この昭和から平成、そして令和への移り変わりを、大阪府の公文書から見ることは難しい。そこで「官報」から昭和から平成への移り変わりを見ることにした。
 『官報』号外特第1号(昭和64年1月7日)1で昭和天皇崩御と皇太子明仁親王の天皇即位が公示された。『官報』号外特第3号(昭和64年1月7日)2で「元号を改める政令」が公布され、この政令により元号が「平成」に改められ、翌8日から「平成」が始まった。
 
2)平成から令和へ
 平成28年8月8日、天皇陛下(現在の上皇陛下)が譲位の御意向を示された。これを受け政府は有識者会議を開催。翌年6月16日に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(『官報』号外第128号 平成29年6月16日)3が公布され、譲位の日程や新元号への改元などに向けた準備が進められた。この特例法により、皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の規定の特例として、天皇の退位及び皇嗣(皇太子)の即位を実現するとともに、天皇の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項が定められた。
 江戸後期の光格天皇(明和8 (1771) ~天保11 (1840) 年、在位:安永8 (1780) ~文化14 (1817)年)以来、約200年ぶりとなる天皇の譲位が行われることになった。
 12月には「天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行期日を定める政令」(『官報』号外第128号 平成29年12月13日)4が公布され、平成31年4月30日に天皇陛下が退位し、5月1日に皇太子徳仁親王が即位、新元号への改元を行うことが定められた。
 平成31年4月1日、「元号を改める政令」及び内閣告示第1号(『官報』号外特第9号 平成31年4月1日)5により、5月1日からの新元号が「令和」と定められた。
 5月1日の『官報』号外特第1号で、4月30日に天皇陛下が退位され、5月1日に皇太子徳仁親王が即位されたことが公示された。
 

2.阪神・淡路大震災
 平成7年1月17日の早朝に発生した阪神・淡路大震災(平成7年 (1995年) 兵庫県南部地震)は、神戸市を中心に甚大な被害をもたらし、その被害状況は大きく報道された。兵庫県の被害の大きさで見落とされがちだが、大阪府内も北摂地域を中心に大きな被害を受けた。
 大阪府池田土木事務所がまとめた『阪神・淡路大震災記録誌』6には、池田土木事務所が管理する池田、箕面、豊中の3市内の道路や河川の被害と復旧の記録が写真付きで掲載されている。それによると、道路で17ヶ所、河川で5か所の被害があった。では、『阪神・淡路大震災記録誌』から被害の一部を紹介したい。
 一般府道大阪池田線の大豊橋(豊中市)では5cmの段差や幅2cmのひび割れが70mにわたって生じた7。また、天竺川左右岸が豊中市の日電橋から天竺川橋の約1.2kmにわたって、裏法面が崩落し、堤防道路に亀裂や陥没が生じた8。これらの被害箇所は順次復旧工事が行われ、平成9年春に復旧工事が完了すると記されている。
 また、「参考資料」として、池田土木事務所管内の3市の被害状況も市ごとにまとめられている。そこには倒壊した家屋や寺院、ひび割れが生じた道路、白壁が剥落した大阪府の文化財指定の建造物の写真も掲載されており、被害の大きさが見て取れる。
 阪神・淡路大震災を振り返るだけでなく、日々の防災意識を高めてもらいたいという思いも込めて、展示室中央に展示した。


3.なみはや国体
 平成9年に開催された「なみはや国体」は、第52回国民体育大会の夏季・秋季大会である。昭和21(1946)年に第1回大会が近畿地方で開催されて以来51年ぶり、初めて大阪府の単独開催として開催され、アトランタオリンピック(平成8年)の出場選手を中心に、第一線で活躍する選手が多数参加し、熱戦が繰り広げられた。
 大阪府では、なみはや国体を、府民総参加のもと、大阪らしい特色あるスポーツの祭典として成功させるとともに、この国体を機に府民のだれもが日常生活の中で気軽にスポーツを楽しめる生涯スポーツ社会づくりを進めた。
 また、外国籍の社会人の初参加や環境にやさしい取り組み、「なみはやボランティア」をはじめ多くの市民協力員等の参加、府の防災システムと通信衛星を活用し全国にも国体映像を発信した街角放映事業、国体史上初のコンピューターを利用した総合配宿システムなど様々な取組がなされた。
 さらには、国体の感動がそのまま「ふれ愛ぴっく大阪」(第33回全国身体障害者スポーツ大会)へつながるように、秋季大会閉会式から「ふれ愛ぴっく大阪」開会日までの期間を2日間に短縮して開催した。

1)「ふれ愛クックコンテスト」
 国体実行委員会は、全国から集う選手等大会参加者に 提供する食事の献立作成にあたり、「食い倒れのまち」として、大阪らしい特色のある豊かな献立を作成するため、府民等からアイデアあふれた料理を募集した9。
 コンテストの受賞メニューを含め、大阪府の国体代表選手を招いて献立の試食会を開催し、そこでのアンケートをもとに、ブラッシュアップされたメニュー(日本料理、西洋料理、中華料理の3分野の朝食・夕食、計36種類)が各宿舎で提供された10。
 
2)大会旗・炬(きょ)火(か)リレー
 なみはや国体の大会旗・炬火リレーは、府内の全市町村から採火し、各市町村内でリレーを実施した後、集火イベントと最終日リレーを行った。これは府民総参加を目指した、全国的にも珍しいリレーとなった。また、なみはや国体とふれ愛ピックの炬火リレーを同時に行った11。
 
3)国体マスコットから大阪府広報担当副知事へ
 平成5年度、なみはや国体の公式マスコットキャラクターとして誕生した「もずやん」は大阪府の鳥である「もず」をモチーフにデザインされた。当時は「もずやん」とは違う名前で活動し、国体終了後は大阪府の生涯スポーツ振興のマスコットキャラクターになった。
 平成26年度、数多くいた大阪府のキャラクターを整理することになり、その中から大阪府メインキャラクターとして生まれ変わった。名前も一般公募で「もずやん」に。現在は広報担当副知事として、大阪府の魅力や府政情報のPR活動をしている。


4.関西国際空港
 今日、関西を訪れるインバウンド(訪日外国人)の多くが利用している関西空港は、増加の一途をたどる日本の航空需要と国際化の進展に対応し、かつ経済大国としてふさわしい新たな空の玄関口として、平成6年9月4日に開港した。開港当時の関西国際空港は、日本初の24時間運用可能な空港、世界初の本格的な人工島の海上空港12、日本初の株式会社の運営による空港13、という特徴を有したものであった。
 関西国際空港は、その建設にあたり、様々な建設をめぐる総合研究、空港計画に係る調査が行われてきた。
 展示資料の『関西国際空港計画と環境影響評価のあらまし』14は、関西国際空港の建設・運用、また工事を実施するにあたって、周辺の自然環境への影響について調査を行った結果と評価をまとめたものである。

5.大正・昭和・平成の行幸
 明治以降、天皇は「一般の人びとの前には、姿をあらわしたことのない<見えない>天皇」から「巡幸や行幸などで、積極的に民衆と接」する「<見える>天皇」へと変化した15。そして即位した直後に重要行事の一つとして地方巡幸をするようになった。
 今回のお代替わりにあわせ、明治から大正、大正から昭和、昭和から平成へとお代替わりをした最初の大阪行幸や、当時の大阪府の様子をふりかえる。

1)大正改元頃の大阪府 ―「大大阪」の時代―
 明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御。皇太子嘉仁親王が皇位を継承され、大正と改元された。
 大正3(1914)年11月、大阪府付近を舞台に陸軍特別大演習が行われた。大正天皇はその演習を統監するため、大阪府に行幸された。毎年秋に行われていた特別大演習は、陸海軍を統帥する天皇が参加して行われるもので、周辺地域では様々な行事が行われるなど地域への影響は大きかった。
 この年に大阪府が編集発行した『大阪府写真帖』16を展示した。掲載されている写真は、大阪府庁(江之子島庁舎)、大阪城址、大阪市や堺市の全景、仁徳天皇御陵などの大阪を代表する名所、景勝地、市街の様子、御陵、神社、軍、官公庁、学校、港、駅、商業施設、市場、農地などがある。
 中でも、見開きの「大阪市全景」というパノラマ写真は圧巻である。かつて千日前にあった娯楽施設「楽天地」の展望台「登仙閣」から西に向かって撮影されたもの17で、大阪市内に煙をあげた煙突がいくつか見ることができる。
 明治時代半ばから大阪では、紡績業をはじめ、さまざまな工業がめざましい発達を遂げ、大阪市内には工場の煙突が立ち並び、もくもくと煙を吹き上げる景観となり、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになった。大阪市は大正14年の第2次大阪市域拡張によって人口が211万となり、日本一の大都市となった。いわゆる「大大阪」の時代を迎えることとなった。
 
2)昭和改元頃の大阪府 ―昭和3年の「大礼奉祝」―
 大正15年12月25日、大正天皇の崩御により、皇太子裕仁親王が皇位を継承され、昭和と改元された。
 昭和3(1928)年11月10日、京都御所紫宸殿において昭和天皇の即位の大礼が行われ、この日に合わせて全国各地で「大礼奉祝」が行われた。展示資料『大礼地方饗饌に関する雑書類』18は、大阪府の「大礼奉祝」が行われた様子の概要を記しているもので、昭和天皇即位を盛大に祝う様子がうかがえる。
 なお、展示スペースの都合で割愛しているが、昭和天皇の即位後最初の大阪府行幸は、昭和4年6月4日~6日の日程で行われた19。


3)昭和改元頃の大阪府 ―昭和7年の大阪府行幸―
 昭和7年11月、大阪府と奈良県で陸軍特別大演習が行われるにあたり、11月10日~17日の日程で大阪府へ行幸された。展示資料『昭和七年陸軍特別大演習並地方行幸大阪府記録』20は、昭和7年の陸軍特別大演習と大阪府行幸についてまとめられたものである。鮮明な写真により、当時の大阪府庁の庁舎内の様子などがよくわかる。また、一緒に展示している『陸軍特別大演習関係書類 昭和7年度』21は、その当時の公文書を綴った史料で、昭和天皇の大阪府巡幸の様子が克明に記録されている。
 この昭和7年の行幸にあわせて、大阪府公文書館の展示スペースで常設展示している「大阪府鳥観図」を、大阪府は天覧品として吉田初三郎に制作を依頼した。完成した「大阪府鳥観図」は、行在所となった陸軍第四師団司令部庁舎(現在のミライザ大阪城)3階の第1講堂と第2講堂に設けられた物産陳列室に展示された22。
 なお、昭和天皇は戦後、昭和22年から29年にかけて「戦災復興状況御視察」として、この当時返還されていなかった沖縄県を除く46都道府県を御巡幸された。大阪府へは昭和22年6月4日~7日の日程で行幸され23、昭和天皇の姿を一目見ようと、多くの府民が府庁へつめかけた。


4)平成改元頃の大阪府 -「国際花と緑の博覧会」-
 平成2年4月1日から9月30日までの183日間、国際花と緑の博覧会は、「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ、21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす。」をテーマに、鶴見緑地で開催された。会期中は、海外から82カ国・55国際機関、国内から112地方公共団体、212企業・団体等の出展参加を得るとともに、国内外からの来場者は2,300万人を超え、当時、国際博覧会史上最大規模の特別博覧会となった。
 天皇皇后両陛下は、平成2年4月21日から24日まで、京都府および大阪府を行幸啓され、23日には「国際花と緑の博覧会」を視察された24。

おわりに
 本年度の展示は、「昭和から平成へ改元した時のような自粛ムードがないことから、平成の約30年間を公文書館所蔵資料からふりかえることで、新しい元号の時代への展望となるような回顧展としたい。」という意図で企画した。大阪府の平成を振り返ると、「全国で最初」という言葉をしばしば目にする。大阪府が全国に先駆けた取組に挑戦する姿がうかがえる。
 新しい元号「令和」には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味がこめられている。明るく平和な時代になるよう期待したい。
(専門員 市原佳代子)

1 『官報 昭和63年12月(昭和64年1月7日まで含む)』(F0-1988-12)。
2 同上。
3 『官報 平成29年6月(14~22日)』(F0-2017-13)。
4 『官報 平成29年12月(12~28日)』(F0-2017-26)。
5 「インターネット版官報」(https://kanpou.npb.go.jp/)。
6 『阪神・淡路大震災記録誌』、大阪府池田土木事務所、平成9年1月、(C0-2001-376)。
7 同上。12頁、15頁。
8 同上。14頁、35頁。
9 『なみはや国体ふれ愛クックコンテスト関係』(K0-0003-93)。
10 『第52回国民体育大会報告書』、国体総務課(大阪実行委員会)、平成7年、(K0-0001-110)。
11 同上。『大会旗・炬火リレーガイドブック実施計画書他』(K0-0002-179)。
12 既存の島を造成して建設された空港としては長崎空港が先行するが、海上に埋め立てて建設された空港は関西国際空港が最初である。
13 平成28年4月1日以降、関西国際空港の運営は、大阪国際空港(伊丹空港)、神戸空港と一体的に、純民間企業の「関西エアポート株式会社」が行なっている。
14 『関西国際空港計画と環境影響評価のあらまし』、関西国際空港株式会社、昭和60年、(C2-1990-152)。
15 佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』、講談社学術文庫、平成17年。
16 『大阪府写真帖』、大阪府、大正3年、(G0-2006-6)。
17 撮影場所は明記されていないが、写っている建物の特徴や市電の軌道から、楽天地から撮影したものと断定できる。
18 『大礼地方饗饌に関する雑書類 昭和3年~昭和4年 〔M1-2004-21-1304〕』(B2-0059-44)。
19 『大阪府行幸記録』、大阪府、昭和6年、(C0-1998-491)。
20 『陸軍特別大演習竝地方行幸大阪府記録 昭和7年』、大阪府、昭和9年、(C0-0060-75)。
21 『陸軍特別大演習関係書類 昭和7年度』(B2-2006-19)。
22 同上。115~117頁。「大阪府鳥観図」は第2陳列室に展示された。
23 「昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について」宮内庁HP(http://www.kunaicho.go.jp/
kunaicho/koho/taio/pdf/gojunko.pdf)。
24 「天皇皇后両陛下のご日程 平成2年(4月~6月)」宮内庁HP(http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/
h02/gonitei-h02-02.html)。


55年前の聖火リレー ~ テレビに出なかったこと


テレビ局からの電話 
 公文書館には多様な閲覧者が訪れる。来館だけでなく電話での問合せも多い。大学教授などの研究者、卒業論文作成中の学生、地元の古文書を探す郷土史家あたりは代表的な利用者だが、最近では鉄道マニアといった特定領域に関心を持つ人、自分自身のルーツを求めてという一般の方と広範である。
 メディア関係では、歴史的文書の取材、テレビドラマの時代考証のための資料閲覧、変わったところではクイズ番組のネタ探しもあったりする。報道からバラエティまで、その幅はずいぶんと広い。
 昨年の暮れ、某テレビ局から「各都道府県の東京オリンピックの際の聖火リレーを番組で取り上げていて、大阪府での関係の資料を見たい」との依頼が舞い込んだ。もちろん、来年の東京オリンピックのことではなく昭和39年のこと、当時、国内を4つのコースに分けて実施された聖火リレーの跡をたどって走るということのよう。とりわけ昔の写真資料を希望するというのはビジュアル媒体として当然のことだが、なかなか都合よくリレーの全足跡が残っているわけではない。それでも、大阪府庁での聖火出発式の模様や、スタートする走者の画像はあった。また、当時の文書類もいくつか探し出したが、テレビ向きかどうかとなると心許ない。でも、これを見ると聖火リレーの予定コースの詳細がわかる。
 結局、テレビ放映の予定はなくなったようで、公文書館から提供した資料が日の目を見ることはなかった。しかし、せっかく探し出した資料、書庫に戻す前に、集めた資料で大阪府の聖火リレーを整理してみよう。大切に残された古い公文書からも当時の熱気が偲ばれる。
55年前の聖火リレー
 昭和39年(1964年)の聖火リレーコースは、兵庫県~大阪府~和歌山県であり、西から到着した聖火は南に向かった。コース概略は右図のとおりで、詳細については次葉に掲載した。主に国道2号、国道26号を経由し、大阪湾岸を時計回りに進むルートであった。
 ところが、このコースには、実際はランナーが走らなかった部分がある。それは2日にわたって組まれた日程の初日、9月25日が中止になったためである。この日、 聖火は自動車で大阪府庁に運び込まれた。台風の通過に伴い安全面に配慮したのがその理由であった。大阪府は、4つに分かれて日本全国をリレーされた聖火の第2コースだったが、天気図を見ると、まさに台風の進路であったことがわかる。

 

一日だけの聖火リレー
 台風のなか聖火は大阪府庁に直行、そこで翌日のリレーに備えることになる。予定されていたランナーの人たちは、さぞ残念だったことだろう。聖火を収めた容器が置かれていた部屋には五輪旗が飾られている。天井の大きな扇風機が時代を感じさせる写真だ。

 台風一過、翌日の府庁前広場でトーチに点灯しているのは、当時の左藤義詮大阪府知事である。
 午前9時にスタート、前掲の表にあるように、分刻みのスケジュールで40区間を繋ぎ、午後3時頃には和歌山県に引き継いだ。各区間は1?2km、10分前後で走る。時速にして10kmだからゆったりとしたペースである。そして各区間の走者は一人ではない。先導のパトカー、府広報車、白バイのあと、トーチを持つ正走者に続き、副走者2名と20名以内の随走者が連なるというパターンであった。知事から聖火を受け継ぐランナーたちが隊列を組んでいるのが写真でもわかる。
 簡単に書いてしまうと、大阪府での聖火リレーの顛末は以上のとおりとなる。しかし、予定コースの資料を子細に眺めると、受渡地点や備考欄の記載内容に興味深い箇所がいくつもある。何の変哲もない地名や建造物の名前が並ぶ表だが、その名称には大阪府のこの半世紀余の変化や、社会経済の移り変わりなど、時の流れを感じさせるものがある。テレビ的な視点とは別の角度で、四つのトピックを挙げてみた。
① 大阪府は広くなった
 大阪府統計年鑑によれば、昭和39年版に記載されている面積は1832.58?、直近の平成29年度版では1905.14?なので、半世紀余りで大阪府は73.56?広くなったことになる(増加率4%)。これは小さくない数字で、その要因は湾岸の埋め立てである。かつて都道府県別の面積では全国一の狭さだった大阪府であるが、現在はその座を香川県に譲っている。
 昭和39年の聖火リレーは大阪湾に近いところを走り抜けたが、今ではウォーターフロントはさらに沖になっている。オリンピック前の地勢図と最近のものを、同じ範囲で並べてみると、大阪湾に向かって陸地が伸びて行ったことがよくわかる(次葉参照)。聖火リレーの頃は現在の阪神高速湾岸線のあたりが大阪市内の海岸線だったわけで、2025年の万博会場となる舞洲はおろか、大阪府の咲洲庁舎あたりもまだ海である。南に進んで、堺、高石、泉大津、岸和田、貝塚と、工場立地を伴い埋立地は広がっていった。そして、平成の時代に入ると泉州沖に人工島の関西国際空港が誕生する。

② 路面から地下へ
 聖火リレーを写した写真にはランナーの後方に市電の姿が見える。場所は大阪府庁にほど近い馬場町交差点である。ここで東西南北に市電の路線が直交していることが写真でも判別できる。聖火の受渡地点にも上本町4丁目と9丁目という、市電の停留所の名前が見える。
 大阪市電は昭和32年が最盛期で、総延長114kmに達した。しかし、その後はモータリゼーションの波に呑まれ道路交通の阻害要因となり、路線は順次廃止されていく。オリンピックの頃はその下り坂を進んでいた時期に当たる。写真の車両が東西方向に走っていた緑橋・野田阪神間の路線は、この5日後に廃止された。昭和41年には市電路線の全廃が決まり、万国博覧会の直前、昭和44年には姿を消す。こうしてみると、オリンピックと万博の間は、大阪市内交通の地上から地下への移行期であったことがわかる。
 60代以上の人の記憶には残っていると思うが、大阪の市電の名物だったのは回数券のバラ売り。子どもの頃、市電は乗る前に停留所で切符売りの女性から切符を買うものだと思っていた。もちろん、車内で車掌から買えばいいのだが、混んでいたりすると面倒なので、乗車前にバラ売り回数券を買っていたように思う。大阪市交通局にしてみれば、いわば民間活力の利用であり、むやみに市職員を増やさなくてもいい。回数券を売る女性にしてみれば、実入りは多いとは言えないが、ちょっとした小遣い稼ぎになる。お客にすれば、値段は同じで向こうから売りに来てくれるのだから楽でいい。いわば三方一両得のシステムだった。市電が地下鉄に替わっても、しばらく続いていたように思う。この人たちの姿が消えたのは昭和45年(1970年)の万国博覧会の前だ。このころが全国的な画一性や建前文化が、大阪を侵食しだした分水嶺のような気がする。

③ 企業にも消長が
 昭和39年の東京オリンピックは高度経済成長期の真っただ中にあたる。その後、オイルショックを経て安定成長期に入り、バブルの発生と崩壊に至る。そして「失われた20年」と呼ばれる低成長期が続いた。こうした経済情勢や産業構造の変化に伴い、企業の合併や再編が進んだ。聖火リレーの予定コースに現れる企業名にも、この半世紀の流れを感じさせるものがある。
 表中にある昭和石油は、シェル石油と合併し昭和シェル石油となり、今年4月には出光興産の完全子会社となった。三和銀行は、東海銀行と合併しUFJ銀行となったあと、東京三菱銀行と合併し三菱東京UFJ銀行となった(昨年4月1日に三菱UFJ銀行に商号変更)。
 帝産津田工場とあるのは、ワイヤーロープ等を製造する帝国産業の工場であり、テザックに商号変更したあと会社更生法適用を経て、現在は神戸製鋼の子会社、神鋼鋼線工業となっている。福助足袋の沿革は堺の地場の老舗であるが、100年を超えてブランドは継続するも、企業としては民事再生法適用により倒産、会社譲渡を経て経営基盤も東京に移っている。
 聖火リレーの和泉部分では、備考欄に書かれたポイントに工場や食堂といったものが目立つ。大阪市内とは違って、ほぼ均等に区切ったリレー区間の受渡地点を示す適当な目印に苦慮したことが窺える。ここに記載された地元の小さな食堂などがどう変わったかまでは追えていないが、それぞれに変遷があるはずだ。

④ 遊園地が消えていく
 聖火リレーも通過したみさき公園駅は、遊園地名がそのまま駅名になっている。しかし、今年3月に南海電鉄はみさき公園の遊園地事業から撤退することを発表した。これを引き継ぐ事業者が現れない限り、予定では1年後の令和2年3月末を以て閉園となる。沿線郊外に遊園地を設け、休日に都市部から家族連れの乗車を促すというのは私鉄のビジネスモデルで、阪急の宝塚開発が先鞭を付け大手私鉄はこぞってそれを踏襲した。関西の5大私鉄でも別掲のように足並みをそろえていたのが、とうとう京阪の枚方パークを残すのみとなりそうだ。オリンピックの当時、聖火リレーを眺めた南?沿線の子供たちの多くはみさき公園に行ったことがあるはずだから、もうシルバー世代となった今、一抹の淋しさを感じているのではないだろうか。
 余暇の過ごし方が時代とともに変化したこともあるが、阪急、阪神、近鉄の遊園地の閉園がユニバーサルスタジオジャパンの開園後に踵を接しているのが何とも象徴的だ。
 子供だけではなく、大人の来場を想定したテーマパークへのシフトの背景には少子化もあるだろう。聖火リレーコースの受渡地点には、多くの学校の名前がある。そのなかで泉南高校とあるのは、砂川高校と統合され、現在は大阪府立りんくう翔南高等学校となっている。校歌に埋め込むのにちょっと苦労しそうな校名だ。
 次の二つのグラフを見ると少子化、学校の統合の流れがよくわかる。1クラスあたりの人数が減ることで学校数の減少は比較的緩やかだが、在学者数のトレンドには大きな波が目立つ。聖火リレーの頃は子供の数は右肩上がりの局面、それに引き換え今度の聖火リレーのタイミングでは全く逆の様相ということになる。
令和の聖火リレーも間近
 半世紀あまりを隔て、再び開催される東京オリンピック、聖火リレーの古い資料を紐解くと、たった一枚の予定コースの表からでも、この間の大阪府の変化が浮かび上がってくる。
 令和2年(2020年)に行われる聖火リレーは、福島県からスタートし、大阪府には奈良県から入り、徳島県へと海を渡る予定になっている。発表されているコースは、走者によるリレーに加え、車での移送も組み込まれたものになっている。ともあれ、沿道で聖火ランナーを眺める人たちの記憶に長く残るものになるに違いない。

 
【参考文献】
大阪府教育委員会「オリンピックを迎えて」
    (請求記号 C0-0059-2378)
大阪オリンピック受入れ対策推進本部「大阪のオリンピック受入れ対策」 昭和40年1月          (請求記号 C0-0059-1479)
大阪府「部長会資料 S39年」
         (請求記号BB3-0039-2)
大阪府「オリンピック聖火 S39.9.25-26」(写真)
(請求記号H0-0060-2005)
大阪府「オリンピック聖火 S39.9.26」(写真)
                   (請求記号H0-0060-2822)
大阪府「大阪府の行事(2) オリンピック聖火リレー」(写真)
(請求記号H0-1991-22)
大阪市交通局「市電 -市民とともに65年-」 昭和44年3月
(請求記号C1-1990-157)
大阪市交通局「市電から地下鉄へ」
(請求記号H0-1990-159)

(専門員 的場 茂)


公文書にみる大阪府章の制定


■はじめに
 上の図案1は、大阪府民であれば、誰でも知っているであろう大阪府の府章である。
 大阪府章の図案は、「大阪(OSAKA)の「O」の字を基調として、大阪の希望(明るく)・繁栄(豊かで)・調和(住みよい)を上部三方へのびる円」で表し、また、「商都大阪の繁栄の基礎をつくつた豊太閤にちなむ「千成びようたん」を抽象図型化しながら、全府民の連帯性とその力の結集による無限の可能性を表象した」ものであると公式に説明されている(1968(昭和43)年6月21日「公告第175号」〔昭和58年4月27日施行〕)。ちなみに、府章を定めた同日に大阪府の府旗(「大阪府公告第176号」)と、同年11月1日に大阪府職員の徽章(「大阪府訓令第38号」)の意匠設計も府章の図案を採用している。
 大阪府の府章制定は、1968(昭和43)年の大阪府開府100年記念を契機に、一般懸賞公募(1位賞金50万円)という形で制定された。1967年11月25日からはじまった約2か月の応募期間に1万4千余点の応募が殺到したという。1位を獲得したのは、大阪府吹田市在住の電電公社社員(当時39歳)の応募作品であった2。その後、当該作品が若干の微修正を経て大阪府の府章となり、6月17日開催の記念式典にはじめて公開されることとなった。大阪府が設置されて100年目にしてようやく地方公共団体の紋章を持った記念すべき瞬間である 3。
 地方公共団体の紋章の制定は、1888(明治21)年の市制町村制の施行がその契機とされ、主に市レベルで行われていた 4。たとえば、大阪市の市章「澪標」は、1894(明治27)年3月26日の市会議決を経て、同年4月12日に制定公布された 5。ところで、戦前において中央政府の出先機関の色が濃かった都道府県レベルの紋章の制定は、わずか7であった。その内訳は、千葉県(1909年制定)、大分県(1911年制定)、宮崎県(1912年制定)、兵庫県(1921年制定)、群馬県(1926年制定)、佐賀県(1936年制定)、東京都(1943年に1889年制定の旧東京市章を継承)である。戦後、日本国憲法の施行を受け、神奈川県(1948年制定)を皮切りに、道を含めた多くの府県が50・60年代にわたって紋章の制定に着手した 6。大阪府の府章の制定もこのような時代背景とは無関係ではないであろう。
 以上のように、大阪府章は、戦後の地方公共団体の紋章制定の流行りのなかで、一般公募によって制定されたものであるが、実際に、どのような基準で選考され、府章決定にいたったのかについては、必ずしも明らかではない。本稿では、『府章(決定まで)』(請求記号:B3-2003-9)という大阪府公文書館所蔵の歴史的公文書資料を主に利用して、大阪府章の決定に至るまでの過程を紹介する。
 
 
◆募集要項の作成
 大阪府の府章を制定しようという案が出たのは、1967(昭和42)年10月であった。10月13日、大阪府知事室広報課が「大阪府章制定事務推進要領(案)」を起案した 7。府章制定の意義や具体的な進め方などについて次のように定めている。

   大阪府章制定事務推進要領(案)
(主旨)
第1 昭和43年の開府100年、ならびに昭和45年の万博博覧会開催を記念し、これを機会に700万府民の生活に立脚し、世界に伸びる大阪を表象し、あわせて郷土意識、さらには自治意識の高揚に資するために大阪府章を制定する。
前項の主旨にもとづく制定事務の推進に関しては、この要領の定めるところによる。

(制定の方法)
第2 府章の図案の募集は公募によるものとし、制定は告示をもってこれを行う。

(準備会議)
第3 公募要領の作成ならびに応募作品の審査員の人選を行なうために準備会議を開催する。
準備会議は府議会議員ならびに学識経験者の出席を求め意見をきくことがある。

(審査会議)
第4 応募作品審査のために、審査会議を開催する。

(事務処理)
第5 大阪府章制定事務推進に関する庶務は、知事室広報課が行なう。

 この案から、まず、府章制定の機運を促したのは、①大阪府開府100年の記念、②万博博覧会開催の記念、③郷土意識と自治意識の高揚に資する、という事情であった。ことが分かる。また、府章の制定は一般公募という形で行われるとともに、府議会議員と学識経験者から構成される準備会議で選考・決定することもこの案に記されている。

■大阪府章制定準備会議
 「推進要領」に定めた「大阪府章制定準備会議」は、早くも翌月の2日に大阪コクサイホテル4階会議室にて開催された。
 主な議題としては、①「募集要項について」、②「応募作品審査員について」であった 8。
 そこで、募集要項の原案に対して次のような修正が加えられた。まず、応募資格についてである。大阪在住者に限定する原案に対して、「大阪出身者にまで及ぼし、大阪府にゆかりのある人すべてを対象に公募することがのぞましい」という修正意見が出された。そこで原案の文言に「または、住んでいた人」という修正が加えられた。こうして大阪府章の応募資格が大阪在住者から大阪出身者にまで広まった。
 つぎに、応募点数についても修正された。原案の「2点以内」が「1点」と修正された。その理由は、「府のシンボルマークであり、知事の賞状、50万の賞金が授与されるのであるから、応募点数を2点とした場合、1万をこすことが予想される。応募点数よりも秀逸作品を提出させることを考え、1点とすることがのぞましい」というものであった。
 応募の締め切りは、1968(昭和43)年2月10日とされた。入選者発表が同年4月30日とし、入選1点賞金50万円、佳作5点賞金1万円ということもこの会議で決められた。
 この日の会議では、府章の応募方法の大枠がほぼ決定されたのである。
 
■周知方法
 大阪府章制定募集の周知は、電波(テレビ、ラジオ)、広報カレンダー(1月13日発送)、印刷物(募集要項パンフレットが25万枚、ポスターが7000枚)、新聞紙と市町村の広報紙、職員に対する応募督励(庁内各課、警察本部、議会事務局など)、広報車による「マイク広報」などの方法によって行われたものである 9。とくに、現在では選挙関係以外にめったに行われない広報車による「マイク広報」は、締め切りの1か月前から、「府下一円」を対象とし、「1月11日~13日」「1月16日~20日」「1月22日~27日」「1月29日~31日」「2月2日」「2月5日~8日」という過密な日程で実施されたものである。


■応募状況
 公募期間は、1967(昭和42)年11月25日から翌年の2月10日までであった。
 1968(昭和43)年2月9日に起案の文書によれば、応募開始から約2か月経った1968(昭和43)年2月1日という時点の応募点数は、わずか1,630件にとどまっていた。その後、応募作品の提出が急速にふえ、2月3日の時点では2,527点になり、2月9日現在で正式に受理したものだけで6,333点にのぼっている、という状況である 10。
 2月12日起案の「「大阪府のシンボルマーク(図案)」の応募について(まとめ)」 11によれば、応募総点数が12,609点であると記されている(2月12日調べ)。大阪府がこの応募状況について次のように分析している。

① 性別 男8,884人 女3,725人
② 年齢 最高 93才 最低 6才 もっとも多いのは10才代で約4割
③ 応募者の住所  大阪府下9割 他府県1割
④ デザイン、その美術関係者の応募 587人

 つぎに、応募の図案作品からは次のような特徴が見られる。

① 高校・中学校その他学校関係者の府章制定についての関心が高く、全体の約3割にも上る作品が寄せられたこと、しかも高・中学校生徒のうちには、 この年代としてはすぐれた作品が見受けられることが注目されます。
② デザインとしては、やはり「大阪」「OSAKA」の「大」「O」を変形したもの、また「いちよう」「ひょうたん」「地形」を図案化したものが目立っています。

 2月12日までの応募点数は12,609点だったが、同年4月30日の大阪府公表資料によれば、最終の応募点数は14,814点であった 12。


■選考基準
 多くの府民や府関係者から寄せた1万点余りの図案作品に対して、どのような選考基準で大阪府の府章に相応しい図案が選ばれたのであろうか。
 応募期間の締め切りに先立って、2月5日、副知事田中楢一の臨席で「大阪府章制定審査員会議」(午前10時から午後1時まで、コクサイホテル)が開かれた 13。この会議では「選考のすすめかた」と「選考の基準」を次のとおりに決定した。

一、選考方法
応募図案の選考は段階的選考という方法をとった。すなわち、①「事務局選考」、②「予備選考」、③「専門家による選考」、④「総合選考」、⑤「最終決定」、という手続きである。
「事務局選考」の基準は次の通りである。

(1)事務局選考基準(選別除去作品)
・きわめて稚拙なもの
・実写的なもの
・大阪。OSAKAその他文字がそのまま使われて いるもの(図案化されていないもの)
・既にあるマークと同一かまたはきわめて類似しているもの

 「予備選考」以降の選考基準は次の通りである。

(2)審査員選考基準
・一般に親しまれやすく、かつ、品位があり、信頼感を与えるもの
・郷土性を備えていること
・デザインとして簡潔で美しいもの
・印象が鮮明で、記憶に残りやすいもの
・時代をこえて生きるデザイン的な新しさと生命力があるもの
・多用途の使用にたえるもの
・国際的にも通用するもの
・(消極的要件)すでにあるマークの類似品でないこと


■選考過程
 まず、大阪府章の審査委員はどのようなメンバーだったかを確認しておこう。府章の募集要項パンフレットによれば次のとおりである14。
 
 〔専門家〕
  吉原治良(二科会) 〈洋画〉
  中村貞以(日本美術院) 〈日本画〉
  早川良雄(日本宣伝美術会) 〈デザイナー〉
  中村 真(モダンアート協会) 〈デザイナー〉
  岩宮武二(日本宣伝写真家協会) 〈写真家〉
 〔学識経験者〕
  宮本又次(大阪大学教授)
  山崎豊子(作家)
  中村祐吉(大阪音楽大学理事)
  山根英夫(電通PR部長)
  斉藤重孝(サントリーデザイン室長)
 〔報道関係者〕
  岩井弘安(朝日新聞社会部長)
  畑山 博(毎日新聞社会部長)
  坂田源吉(読売新聞社会部長)
  山路昭平(産経新聞社会部長)
  加藤義行(日本経済新聞社会部長)
  秋山頼吉(NHK報道部長)
 〔府議会議員〕
  山本捨三(大阪府議会議長)
  西川徳男(大阪府議会副議長)
  若林勝市(大阪府議会総務常任委員会委員長)
  井口正俊(大阪府議会総務常任委員会副委員長)
  表原茂雄(大阪府議会議員)
  前田治一郎(大阪府議会議員)
  三谷秀治(大阪府議会議員)
 〔府関係者〕
  田中楢一(大阪府副知事)
  石川一郎(大阪府総務部長)
  吉沢正七郎(大阪府教育長)
  土屋佳照(大阪府知事室長)
 
(1)予備選考
 2月24日(13時~24時)、「事務局選考」を経た図案作品に対して、選考委員2人による「予備選考」が行われた。2人が「予備選考」の審査員にあたった理由としては、「デザイン美術に豊富な知識経験」を有するということである 15。この「予備選考」によって、1158点の図案作品が選出された 16。

(2)専門家による選考
 3月1日に「予備選考」を通った1千余りの図案作品に対して、「専門家による選考」がコクサイホテルにて行われた。審査員7人がこの選考に加わった 17。
 「専門家による選考」は2段階の選考によるものであった。第1次段階では1158点から488点に絞る作業が行われた。そして、第1次選考の結果を踏まえた第2次段階の選考は、議論を重ね、最終的に216点の図案作品を選出した。

(3)総合選考
 3月27日、216点の作品に対して、審査員22名による「総合選考」が行われた。
 選考方法は以下のとおりである 18。①審査員ごとに216作品から10点を選ぶ(選考票に作品の番号を記入)、②どの審査員の選考票にも記されなかった作品は除外する、③残った作品から審査員ごとに3点を選ぶ、④既存の商標、標章と明らかに類似しているものを除外する、⑤総合調整で1位から10位までの作品を選ぶ、⑥府章該当作品については補正の要否を確認する。
 こうして当日では10点の図案作品が選出された。次の図は当日に選出された10点の図案である。

 この10点の図案をみれば、現在の大阪府章が入っていないことに驚くであろう。しかし、この「総合選考」の会議では、1位から10位の作品に対して「「府章」としては、いまひとつ適当でない」 19という意見が強く、日を改めてもう一度選考を行うという結論に至った。
 そして、4月6日、216点の図案作品に対して4人の審査員による再選考が行われた 20。当日では、3月27日の選考結果だった10点に加えて、新たに6点の図案作品を選出した。次の図は新たに加えられた6点の図案である。
 下の列の真ん中に「千成びょうたん」にちなんだ図案作品が入っていることは確認できた。この4月6日の再選考が行われず、3月27日の選考結果がそのまま「最終決定」のステージに移れば、われわれが今日なじんでいる大阪府章は別物になっているに違いない。

(4)最終決定
 4月15日、16点の作品に対して、「最終決定」の「大阪府章入選当該作品総合選考会議」(午前10時30分から午後2時40分まで、コクサイホテル4階)が行われた 21。出席した審査員が24名であった(定員27)。
 この日の最終選考は3段階で行われた。第1段階の選考では、全審査員に各自最優秀作品(1点)の推薦を求めた結果、5点の作品が選出された(次の図の上段5点)。第2段階では、5点から「府章当該作品」3点に絞った選考を行った(次の図の下段3点)。
 最終的には、3点の作品に対して、意見交換のうえ、審査員による投票で順位を決める 22。選考の結果、投票総数21票のうち、1位が13票、2位が5票、3位が3票をそれぞれ獲得した。1位を獲得したのは現在の大阪府章であるが、考案者の図案説明は次の通りである。のちの公式説明と少し異なる。すなわち、公式説明にあるように、上部三つの円が「希望(明るく)・繁栄(豊かで)・調和(住みよい)」という意味ではなく、四つの円は、「浪速、摂津、河内、和泉」という四つの国を表現するものであり、「大阪市を中心にガッチリと手を結び、一大躍進を約束」するものであると考案者が考えたのである。

 次に、2位と3位の図案作品は次の通りである。
2位は、槇総合計画事務所所員(33才)の作品である。意匠の説明は、「①大阪の頭文字「大」を図案化、②メトロポリス大阪のダイナミックな幹線網を表現、③5つの弧は双曲線のイメージをもち、「無限に発展する大阪」「世界にのびる大阪」を象徴、④河の都大阪の河川網のイメージもある、⑤単純さ(点対称、単一要素の繰りかえし)、再現しやすさ(円弧と直線で構成)を考慮」となっている。

 3位は、中浜工業デザイン事務所の工業デザイナー(19才)の作品である。意匠の説明は、「一つの山は、大阪府の底力ある産業の低辺(ママ)の広さをあらわし、上むきの広がりは未来への発展と若さのやくどうを表わし、大阪府の大の字を思わすシンプルなもので、府民に愛される府章になると思う」というものである。
 4月30日に、大阪府が最終選考結果を公表した。1位入選の作品については賞金50万円、佳作5点の作品については賞金各1万円であった。6月21日、大阪府開府百年記念式典において、大阪府の府章が初めて披露することとなった 23。


■むすびにかえて
 以上、大阪府の府章の制定過程の一端を大阪府の歴史的公文書に基づいて明らかにした。
大阪府の府章は、戦後の地方公共団体の紋章制定の流行りを背景に、大阪府開府100年の記念、万博博覧会開催の記念と郷土意識と自治意識の高揚に資するという目的のもとで制定されたものである。豊臣秀吉の「千成びょうたん」にちなんだ図案作品が府章に決めるまでの過程は実は数奇だったといえなくもない。というのは、「総合選考」でいったん落選したが、2回目の再選考でようやく最終レースに残り、そしてそのまま1位に輝いた。まさに、起死回生の逆転劇である。また、2位以下の優れる図案作品が歴史に埋もれることなく、日の目を見ることができた。あらためて歴史的資料の保存の大切さを感じさせる次第である。
(専門員 謝 政德)

1 「大阪府公報」昭和43年6月21日「公告第175号」〔昭和58年4月27日施行〕。
2 昭和43年4月30日の新聞紙面では、大阪府章の制定が大きく報道されている(たとえば、「朝日新聞(夕刊)」(大阪府下版)、「大阪日日新聞」「産経新聞」など)。
3 実は、大阪府の職員用の徽章は、管見の限り、過去に2回制定されたことがある。このことはあまり知られていないので、ここで触れておこう。
1回目は、1929年6月3日の「大阪府庁員徽章左ノ通定ム」である(「大阪府公報」昭和4年6月3日、第241号)。
2回目は、1948年1月9日の「大阪府職員徽章規程」(大阪府訓令第1号)である。
ただし、以上の職員徽章は、主に職員の識別用として使用されるものであって、対外的に大阪府のシンボールとして使用されるものではなかったと思われる。
なお、職員徽章に関する大阪府公報の資料は、大阪府公文書館専門員市原佳代子氏のご教示によるものである。記して感謝の意を表す。
4 柳橋達郎「明治・大正・昭和期における日本の自治体紋章の造形とその変遷」(『デザイン学研究』日本デザイン学会、2017年)91頁。
5 近藤春夫『都市の紋章:一名・自治体の徽章』7頁。大阪市章の制定過程は、牧英正「大阪市章「澪標」の制定」(『大阪市公文書館研究紀要』第4号、1992年)を参照されたい。
6 都道府県の紋章の制定状況については、望月政治編『都章道章府章県章市章のすべて』(日本出版貿易、1973年)に基づいて調査したものである。ちなみに、石川県は県旗のみ制定し、県章が未制定である。県章の制定が最も遅かったのは、長崎県(1991年)である。県章(1963年制定)以外に、県のシンボルマーク(1992年制定)も設定したのは新潟県である。
7 「大阪府章制定事務推進要領作成について(伺)」昭和42年10月13日起案、16日決裁。
8 昭和42年10月23日起案、10月25日決裁「大阪府章制定準備会議開催について(伺)」
9 「大阪府章応募PR状況」(「大阪府章制定審査員会議の開催について(伺)」昭和43年1月24日起案、26日決裁)。
10 「大阪府章制定審査員会議報告について(伺)」。昭和4年2月9日起案、2月12日施行。
11 「大阪府章制定図案応募状況の報道機関にたいする資料提供について(伺)」。
12 「募集ならびに作品選考の経過」(「府章当該作品選考総合選考会議用資料について(伺)」昭和42年4月12日起案、昭和43年4月13日施行の添付資料)。
13 前掲「大阪府章制定審査員会議報告について(伺)」。 
14 「大阪府章制定にかかる応募作品の審査員について(伺)」昭和42年11月4日起案、6日決裁。
15 「大阪府章制定審査員会議資料について(伺)」昭和43年2月2日起案、同日決裁。
16 「大阪府章図案応募作品の総合選考会議の開催について(伺)」の添付資料。
17 前掲「募集ならびに作品選考の経過」。
18 「資料2」「大阪府章制定審査員会議〈総合選考会議〉資料について(伺)」昭和43年3月25日起案、同日決裁。
19 「大阪府章入選当該作品総合選考会議の開催について(伺)」昭和43年4月3日起案、同年4月5日決裁。この公文書の表紙に赤ペンで「至急」と書かれている。
20 前掲「募集ならびに作品選考の経過」。
21 「府章選考会議経過報告について(伺)」昭和43年4月16日起案、17日決裁。
22 最終投票選考が行われたのちに、「佳作当該作品」5点を決定する選考も行われた。第2段階で選ばれた3点を除き、13点を対象に6点を決める選考であった。
23 「大阪府章入選発表資料」知事広報課。


「献金美談」を読む ~ 昭和恐慌の頃

昭和6年の上製本
 昭和初期に大阪府が刊行した書籍(非売品)が書庫の片隅に残っている。表紙は少し汚れ、傷みもある。布張り装丁の四六判上製本、表表紙には銀箔で蓮が描かれている。この250ページ余の書名は「献金美談」という。扉には題名と「大阪府編」の文字、背景の紋章は十二弁の菊に五三の桐。十六弁の菊、五七の桐だと皇室・政府に関係する紋章なので遠慮しているわけだ。同様の使用例は明治神宮などにも見られる。見開きには玉串を奉納している古代装束の二人の人物が描かれている。奥付に記された発行日は昭和6年3月5日。遡る昭和4年10月以降、外債償還のため大阪府民から寄せられた献金の記録をまとめた本である。公文書の大宗を占める行政文書とは趣きが全く異なる。
 政府が国民からの献金の受入れを決定するやいなや、真っ先に献金を行ったのは大阪府の篤志家で、全国を牽引するように府内では各層から多数多額の献金が寄せられた。この本には、それらに係るエピソードの紹介がずらりと並ぶ。本の性格からして、国策への協力を慫慂する目的で仕立てられた美談という見方もできようが、全くの作り話とも思えない。その中には当時の市井の人たちのナマの声や考え方などが姿を留めているはずだ。昭和恐慌に向かう時代として知られるこの頃、社会経済情勢全般に止まらず、ふつうの府民がどんな暮らしぶりであったのかを知るよすがともなる資料である。国政の意向が濃厚に反映されていることを念頭に置きつつ、府民の声とされる記録を通じ当時のようすに思いを馳せてみたい。
苦境の経済
 この献金が一大ムーブメントとなる昭和4年(1929年)は、前年に起きた張作霖爆殺事件の責で田中義一内閣が総辞職し、そのあとを襲った濱口雄幸内閣が発足した年である。経済面を振り返ってみると、第一次世界大戦でヨーロッパが疲弊する中、日本の経済は
活況を呈し、ドイツの敗戦により大陸および太平洋における権益を拡大した。しかし、その後は景気の退潮が顕著となり、さらに大正12年(1923年)に起きた関東大震災によって一層の落ち込みを見せることになる。しかも、戦時中に実施した金の兌換停止の解除が先進国の中でも遅れ、為替相場変動への抵抗力が衰えた。経済界を中心に金解禁を求める声が高まる中、7月に就任した濱口雄幸首相は緊縮政策と金解禁を政治課題として国政運営を進めた。金解禁は11月に発表され翌年から実施された。これと表裏をなす緊縮財政の一環ともなったのが、国民からの外債償還のための献金受入れということになる。後世の評価では、この時に断行された金本位制は、正貨不足を招きデフレを昂進させたとして、一層の不況を招く結果をもたらしたとされている。そのことは、物価指数の推移一つとっても端的に表れている。

全國民に訴ふ
 当時の濱口雄幸首相が財政悪化を克服するため緊縮財政に舵を切った際、全国1300万戸に配布された「全国民に訴ふ」という一枚のビラがある。昭和4年8月のことである。苦境に至った背景を述べたうえで、濱口首相は負債の現況を説明している。
「斯の如く財界の不況が長きに?つて深刻を極めたるが爲め、國民の所得は著しく減少し、國、府縣、市町村等の歳入も亦從つて減少して居りまするから、之に應じて公私共に思ひ切つて支出の減少を圖らねばならないのであります。然るに國民生活の實際を見れば奢侈浪費の風は尚改まる所なく、中央地方の財政も却つて膨張の趨勢を續け、公債の增發に依つて辛うじて收支の均衡を保つて居るといふ有樣であります。從つて國債の總額は次第に增加し今や將に六十億圓に達せんとし、又地方債の額も二十億圓に上るといふ?況でありまして、中央の財政も地方の財政も此儘では到底立ち行く筈がないのであります」
 この「全国民に訴ふ」に署名した日の夜、8月28日午後7時25分から35分間、ラジオ放送でも直接国民に向けたメッセージを発している。「献金美談」にはこのラジオ演説が収録されていて、内容はビラと同様である。しかし、仔細に見ると細かな異同がある。読点の有無、送りの相違、異字の使用などがほとんどで、放送内容を書き起こせばこうなるという類であるが、文末に明瞭な違いが見える。すなわち、ビラでは「願はくは、政府と協力一致して、難局打開の爲めに努力せられむことを切望致します。是れ決して政府の爲ではありませぬ。實に國民自身の爲であります。國家全體の爲であります」となっいる国民への呼びかけの箇所で、放送では最後のフレーズが省略されていることだ。
 活字メディアと音声メディアの相違、じっくり再読が可能なビラと、その場限りのラジオとで違った取り扱いをしたのではないかと思う。耳に残る結語として「実に国民自身の為であります」で終わったのだろう。押しつけがましさを避けるために「国家全体の為であります」を省いたわけではないだろう。
 現代なら何をさておきテレビ(映像)ということになるが、昭和初期はラジオがようやく全国放送となった時期であり、世帯普及率も低かった。したがって、広汎な層に訴えるために、大量のビラ配布という選択肢が採られたのだろう。当時においても国民の識字率が高かったということも背景にあるだろう。ともあれ、活字に加えて音声メディアを利用して、時の首相がラジオで国民に直接訴えるというのは空前の出来事であった。後の玉音放送に先鞭をつけたものと言えるかも知れない。
 当時の新聞記事では、ビラ配布やラジオ放送を通じて国難打開を説く濱口首相の意気込みを、見出しの文句辺りに若干の揶揄も交えつつも具に報じている。
 
 
大阪府告諭と公私経済緊縮運動
 メディアを活用した濱口首相の国民への呼びかけは、初めての試みでもあり大きなインパクトを与えたが、それだけで陸続と献金が集まったわけではない。中央の政策や指針が国民に浸透するためには、都道府県レベルでの具体的な取組なくして実効は得られない。では、大阪府ではどのような取組を行ったのか。当時の大阪府公報で跡付けてみよう。
 ラジオ演説からひと月も経たない昭和4年9月19日に大阪府告諭として、柴田善三郎知事が「今回府民各位ト共ニ敎化總動員ヲ起シ公私經濟ノ緊縮ヲ唱フル」、「現?ニ鑑ミ將來ヲ慮リ敎化總動員實施要項及公私經濟緊縮運動計劃を定め」と、府内において大運動を展開すると宣明している。
 そして、これに基づいて9月24日付けで「大阪府公私經濟緊縮運動計劃」の内容が発表された。運動の要旨として掲げられていたのは、次の3点。
一 財政ノ緊縮公債ノ整理金輸出解禁ノ我ガ財政經濟ニ及ボス影響甚大ニシテ而カモ最モ急要ナル所以ヲ?キ一般國民ノ理解ヲ求ムルコト
一 個人經濟ト國家及公共團體ノ財政並ニ國民經濟トノ關係ヲ明カニシ擧國一致シテ消費節約ヲ爲スノ必要ヲ自覺勵行セシムルコト
一 簡易生活ヲ勸奬シ質素勤勉貯蓄ヲ實行シ從來ノ社會生活上ノ弊風ヲ矯メ進ンデ消費節約ノ各方面ニ工夫ヲ加フルコト
 そして、市区町村から官庁・学校・会社工場に至るまでピラミッド状の委員会組織を設け、教宣活動にあたらせることとした。具体的方法として宣伝映画の利用、社寺等での周知、印刷物への標語記載、小学校児童への貯蓄教育、各種団体での講演会の開催など、多岐にわたるものであった。これらが相俟って外債償還のための献金の機運が高まり大阪府での成果に繋がる。戦前のことで、現在のように公選の知事ではなく中央政府による任命であったから、ある意味では一枚岩で効率的な体制でもあった。このような、教化総動員の運動の一環として「献金美談」が位置づけられるだろう。
 ラジオ、新聞などのメディアだけでなく、人の集まる場所での運動内容の周知、職場や学校での反復連打、総動員という名にたがわぬ教宣活動が行われたわけである。これらを通じて社会全般に醸成される「空気」としか言いようのないものが、府民をして、なけなしの貯金まで献金する行動へと背中を押した部分があるだろう。
外債15億
 「献金美談」では各層の献金者紹介に先立ち、献金受入れに至った経緯について詳しく説明されている。
 従来、政府への献金は売名行為防止等の理由で、太政官布告(明治5年第17号)により禁止されていたが、特定の費用に充当する目的の献金は先例もあるため、それに倣って献金受入れを閣議決定するに至った。昭和4年10月22日のことである。
 なお、この特定目的に限った献金は別掲のものがあった。防海費、対清・対露・対独の戦役費などの強兵政策に沿ったものが大きな金額を示す一方、息の長い教育振興のための献金が巨額に及んでいるのが目立つ。明治以降の国家像の一端がこんなところにも窺える。

 さて、問題の外債である。内債・外債あわせ60億円という数字が喧伝されているが、とりわけ問題視されていたのが海外からの借入れ15億円である。「献金美談」の冒頭に、明治12年に来日し浜離宮で明治天皇と会見した際のグラント前アメリカ大統領の助言が引用されている。曰く、「私は光輝ある日本帝國におかせられましても、將來、決して多くの外債をお作りにならぬやうに遊ばすことが、國家千年の繁榮を期する所以かと存じます」
 この南北戦争の英雄は、戦で敗れた国家が再起することはあっても、借金で倒れた国家には見込みがないと例を挙げて述べたのだが、実際問題として、その後、明治・大正・昭和と時代は移り、下表のとおり外債は累積して来たわけである。
 就任後間もない濱口首相の国民に向けたアピールを待つまでもなく、以前から献金の希望は寄せられていた。「我國國債の現?に鑑みて國民から償還の費途にあつるため獻金を申出るものあるも」と新聞記事にもあるのは、「献金美談」にも書かれている外債返還同盟會などの活動のことを指している。この会の発足は大正13年に遡り、主に講演活動を通じて一般大衆への啓蒙と当局への働きかけを続けてきたものである。同会発足のきっかけは、発起人の一人である濱谷理吉郎氏が大阪市電の乗換券の裏面に「國債の多額は已に國民一人當り金八拾六圓三十四錢に上る」と記されたものを見てのことだという。
 同会の宣伝ビラには「向ふ十ヶ月間禁酒禁煙(酒や煙草をのまぬこと)を守り又は節約して善く働き一日一人若くは一家又は數家にて金拾錢づゝ貯蓄し(例へば煙草一袋又は酒一合をひかえるか、若くは一家五人の家族が一人前二錢づゝよけいに働くかしまつして)」と、実にちまちました節約を呼び掛けている。この十銭を最低金額としての郵便口座への振込を勧奨しているのだが、このように集めた零細な献金の合計は国庫受入れが決定する頃には2,254円11銭になったと記されている。差し当たって行くあてのない基金が、数年間プールされていたことになる。

最初の献金者
 献金の受入れが新聞で報じられた10月23日のうちに大阪府庁を訪れ3,000円の献金を申し出た人物がいた。大阪市内で鉄工所を営む男性で、これが全国の魁となった。翌日の東京朝日新聞でも5段組で大きく取り上げている。同氏が献金を思い立った理由として、「献金美談」でも新聞記事でも触れられているのは同氏の次の談話である。
「實は昨日カンチング商會の技師で獨逸人のエフライムという方が見え、獨逸では戰敗後、すべての人が身分に應じて政府に献金して國難を救つてゐると話されてゐました。私の献金はその獨逸魂に感化されたのと、今朝新聞紙によつて政府が國債償還のための献金は收納するといふ記事を讀んだので急いだやうな始末です。勿論、私の企ては微々たるものですが、私の力の及ぶ限り、又私の資?の續く限り、子々孫々に傳へて國恩に報じたいと思つてゐます」
 「午後四時半、菜葉服を身にまとうた人が大阪府廳を訪れて来た」と、ことさら時刻と服装に触れている理由を考えると、時刻は献金受入れの報道のあった当日に、「全國の愛國者に魁けて」という事実認定のためだろう。また、服装については「献金美談」の別の箇所に手掛かりがある。献金者が総じて「その態度その言葉が慇懃丁重を極めた一面において、その服裝は至つて質素で所謂他所行き的に着飾って來られる方は殆んどなかつた」とある一方で、「勿論、時には府廳へ來るのであるからといふので、衣紋つくろつて威儀正しく出て來られる人もあつた」との記述もある。市役所と違い、府庁に用事があって出向くということは、今も昔も市井の人々にとっては多くないし、大正15年に竣工したばかりの大手前庁舎の威容は、なおさら敷居が高いと感じさせるものがあったはずである。
 なお、「献金美談」ではそのことに一切触れていないが、同氏の献金が報じられた昭和4年10月24日という日は、所謂“暗黒の木曜日”、世界恐慌の引き金となったウォール街での株価の大暴落の日である。時差があるので、この記事はカタストロフィー直前のものということになる。この世界恐慌と直後に実施された金解禁に伴う不況により、日本経済は二重の打撃を受けることとなる。まさに世界を揺るがす大変動の前夜というタイミングである。こうした窮迫した状況が続くなか、同氏が先鞭をつけた国債償還のための献金の波動が大阪府から全国に拡散していくことになる。
 老若男女、身分、個人・団体、動機、原資、「献金美談」にはジャンル分けされたコメントとともに、巻末に献金芳名録が収録されている。当時の大阪府官房主事、大谷繁治郎名で書かれた「はしがき」には「献金者は殆ど総て匿名を希望される位の事であるから公表することを喜ばれないので材料の蒐集に骨が折れ」とあるので、献金時や事後のヒアリングに依っているものと推測できる。芳名録には、献金額・住所・氏名が並んでおり、不名誉なことではないにせよ、現在の基準からすると個人情報保護の観点で公開が微妙なところもある。その金額は厘単位まで表記されていて、学童の50銭程度の献金も漏れなく記載されている。当時の諸物価と対比すると、金額の多寡が推測できる。
 昭和6年2月23日までの合計金額は107,769円64銭、件数では1,145件に上るので、平均すると94円12銭ということになる。最高額は30,000円を献金した貿易商の男性で、最低額は20銭である。現金のほか、債券も受け入れており、変わったところでは指輪や時計といった貴金属の類も僅かながら見られる。
報国丹心
 「献金美談」の冒頭には揮毫が並び、話題となった献金者の写真も数多く収録されている。「多忙な職務の餘暇を裂いて筆を執つた」と「はしがき」に大谷主事は書いているが、献金者からのヒアリングや原稿集めに編集と、相当に力を入れて編纂したものであることは間違いない。
 冒頭に掲載されているのは濱口首相の「報國丹心」という書で、「丹心」は「赤心」と同意、「真心で国に報いる」ということだが、日露戦争の後に浅草に設けられた凱旋門の扁額にも記された文言で、当時の人には馴染みのある言葉だったのだろう。
 「献金美談」の刊行された昭和6年には満州事変が起きる。その後の日中戦争、太平洋戦争へと続く、所謂十五年戦争の始まりの年である。軍国主義の時代の雰囲気は献金者のコメントにも色濃く漂っている。
 典型的なものは、「我國は開闢以來二千五百有餘年、而も皇統は連綿として天壤と共に極りなく、一天萬乘の聖天子を父として生を續けてゐる事は、何といふ絶大な幸福でせう。國家のためならば水火も辭せず、君恩に報ひたいと思ふのが陛下の赤子たる至情であります」という某商店員の述懐だろう。
 他にも、「今日も又いと安らかに過しけり 君し御前に御座すと思へば」、「事しあれば盡し得てこそ國のため 人と生まれしいさをなりけり」といった歌を認めた老婦人もいる。
 子供の発言として、「僕等が有難い大日本帝國に生れ、?日樂しく學校へ通へるのは天照大神のおかげである。それで大神様の御心にかなふようにする事が一番大切な事である――と常にお父さんやお母さんから聞いてゐます。こんなにたくさんな外債では大神様もさだめて御心配されてゐることであらうと思つて献金いたしました」などというのもある。 
 果たして年端もいかぬ子供に外債償還の意味がどこまで理解されていたのか疑問だが、家庭や学校での教化が進められたことは確かであろう。教室内に献金箱が置かれ、児童が小遣い銭を持ち寄るといった光景があちこちで見られたようだ。「献金美談」には八尾高等小学校に置かれた「皇国のたすけ」と銘打たれた献金竹筒の写真が掲載されている。
 純真な子供心の発露を前に、教育者側も無為でいるわけにもいかない。泉南郡教育会では郡内全小学校の教員500名が毎月の俸給の1/200を献金することを申し合わせたと報じる新聞記事がある。郡役所で開かれた校長会議の結果というが、範を垂れるべき立場とは言いながら、ここまで来ると強制色が濃厚である。将来に向けての0.5%の賃金カット、個々には厳しい事情の先生がいたはずだ。個々の内心は知る由もないが、結果として、校長会議の決定に諸手を挙げてか、あるいは唯々諾々と従ったということであろう。
 余談になるが、「献金美談」の本文活字には、戦後生まれの世代には馴染みのない表記法がある。闕字(欠字)という中国由来のしきたりで、天皇に関係する言葉の上に、一字または二字分の余白を空けるもの。ここに示したものは「献金美談」の本文中に見られるもので、献金者の原稿がそうなっていたのか、献金者からの聞き取りを行った吏員の原稿のままなのか判然としないし、あるいは活字にするときに校正者の手が入ったとも考えられる。こんなところにも、引用した府民の発言内容との平仄が感じられる。
掲載紙面に世相を見る
 分限者や篤志家だけが献金したのではない。連日のように新聞で報じられる献金の事例には、経済的に豊かとは言い難い層からのものも多い。別掲は東京朝日新聞の昭和4年11月29日朝刊のページである。「一職工から献金、金一千圓を」という見出しで短い記事がある。
「【大阪電話】 陸軍造兵廠大阪工廠職工大阪市東成區中濱町八●●(41)はこのたび外債償還基金として金一千圓を献金した。同人は日給四十錢で入廠以来今日まで十數年間に貯めた眞に汗の結晶である」
 長年の貯金を叩いて献金ということにしても、非常に大きな金額である。「献金美談」でも本件は特筆大書されている。職場上司(軍人)の言葉を引用した記述はより具体的だ。
「同君は妻女と二人の男の子(十二才と七才)の四人暮しで、家賃七圓五十錢の六疊一間に家族四人が起居してゐるのであります。半ヶ月の臺所費用の豫算は、肴代三圓、野菜代二圓といふ緊縮振りであつて、娯樂費などの豫算は一文もなく、家族の誰れもが未だ一回の活動寫眞も見たことがない位である」
 同氏の亡母の「国難に際しては男子は身を捧ぐるか、金を捧ぐるかにある」との訓えが、氏が献金に至った動機と述べられているが、このような価値観が戦前の家族に共有されていたことは、現在の日本人にはもはや皮膚感覚として理解できない部分がありそうだ。
 しかし、「美談」と称することは、裏返せばそれが普通一般ではないということだろう。「献金美談」の中に、「私は今日限り、斷然煙草は勿論、良からぬ所に通ふことをやめます。どうぞ今までした私の行爲を許して下さい。献金は私の改心の表現であります」と述べている人物がいるのは、かえって本当らしさが感じられる。
 献金の記事の上段には怪文書事件に関する短い記事がある。フェイクニュースが取沙汰される昨今だが、この時代の主役は二流・三流の媒体に多く掲載された怪文書である。この記事は、前日に宮内省怪文書事件の公判があり、四名に懲役刑の求刑があったことを伝えている。病気のため分離となった首謀者とされる北一輝氏は、7年後に起きる2.26事件で検挙、死刑となったことは周知のとおり。
貧者の一灯
 大阪工廠職工の一千円献金も驚くべきことだが、それに増して驚嘆させられる事例が「献金美談」には載せられている。
「私の父は汐見橋驛の  運送店の仲田組で働いてゐます。私は父の手助けをしてゐます。母は玉船橋へ夕刊を賣りに行つてゐます。私も九つ位の時から母と一しよに「夕刊」「夕刊」と云つて賣りに行つてゐましたが、今は一しよけんめいに父の手助けをしてゐます。夕刊一枚で元が一錢三厘です。七厘の口銭です。毎日百枚を賣らうとしますと中々骨が折れます。夏はよく賣れますが冬はかなひません。雨が降つた時などは賣残りが出来ます。けれどその賣残りは取つてくれません。その時はえらい損です。まあ世間の人々のお蔭でどうやらこうやら暮らして行けます。自分一家の恥ですが方面委員にかゝつてゐます」
 これは、「献金文集」として編まれた章にある文章で、浪速区桜川三丁目に住む少年のもの。文面からすると尋常小学校を出て間もない頃だと思われる。汐見橋駅近くに父母と住んでいて、近隣で雇われている父親の手伝いをする以前は、母親と夕刊紙の立ち売りをしていたことがわかる。2銭で売る夕刊の一部当たりの稼ぎは7厘、1日に100部売って70銭、しかも買い切りで売れ残りリスクを被るという状況だから、母子が片道2kmほどある玉船橋まで市電で往復したとは考えにくい(地図参照)。玉船橋は境川運河が安治川に合する所にあった橋で、今では運河は埋め立てられ地名に名前を留めているだけだが、ここは市電のターミナルでもあった。運河沿いの市電通りを、新聞の束を抱えて歩く母子の姿が目に浮かぶようだ。
 後段には、「父はお金を儲けますが酒を飲みます。母は父を大酒飲みだと申します」とあるかと思えば、「父や母のおそばにおつてはとても出世出来ませんから他人のめしを食べたゐと思つてゐますが、私の心がどうしても父や母のそばからはなれません」と、赤貧の中での3人家族の様子が窺える。父親の稼ぎは明示されていないが、「献金美談」の随所にある諸物価の記述(前掲)の中に、日本酒一升が1円とあるので、酒の種類や大酒の程度にもよるが、間違いなく家計は火の車であろう。少年が方面委員の世話になっているのが恥ずかしいとしているのは、現在で言えば生活保護世帯ということである。方面委員は大正7年に大阪府から始まった低所得者層の救済などを目的とする制度で、昭和3年には全都道府県に設置された。現在の民生委員の前身である。
 もうここまで来ると、暖衣飽食の時代に生きる我々の理解を超えていると言ってもよさそうだ。貧しいからこそ、他を慮る気持ちが生まれるということなのだろうか。これが事実であるのかどうか、検証のしようもないし、作り話には細かな数字などの細部が肝心ということはあっても、そんな脚色を大阪府の担当者が行ったとは考えにくい。やはり「貧者の一灯」的な事実はあったのだろう。
 同じ寄付金だと言っても、最近話題になることの多いふるさと納税は、所得控除と返礼品を考慮すれば実態的には減税で、身銭を切る行為とは別物である。その返礼品を見比べ損得勘定に奔る人の多さが矢鱈と目につくだけに、この本に登場する昭和初期の日本人、大阪人とのギャップを感じざるを得ない。「献金美談」では、大阪は民間の篤志家がインフラ整備などのため進んで金を出す土地柄だと、いくつもの事例を並べるなかに大阪人としての自負が滲んでいるが、100年近くの時が流れた今、その伝統はなお息づいているのだろうか。
 本稿で取り上げた「献金美談」は、その後多く現れた「軍国美談」や「銃後美談」に先駆けるものという見方もできる。現在の価値観で批判するのは容易いが、政治的・社会的立場の相違はあっても、「空気」醸成のメカニズムは、いつの時代にも存在することは意識しておくべきことだろう。


それぞれのその後
 当時の濱口首相は「献金美談」が刊行される前、昭和5年11月14日に東京駅で右翼暴漢に銃撃された負傷がもとで、翌年8月26日に死亡した。刊行の頃は無理を押して議会出席していたところであった。
一職工からの多額の献金で注目された陸軍造兵廠大阪工廠は、14年後の終戦前日の大空襲で灰燼に帰した。戦後長らく焼け跡のまま放置された一帯は、大阪ビジネスパークとなり高層ビルが林立している。
当時、多数の府民が献金に訪れた、新築の大阪府庁大手前庁舎は、今や全国の都道府県庁のなかで、現役としては最古のものとなっている。
貧しい親子3人が暮らしていた汐見橋駅付近は南海高野線の起点であるが、岸里玉出駅の立体交差化以降は直通電車もなくなり、都心のローカル線の風情である。近年、地下鉄なにわ筋線の計画で新大阪と直通する可能性が浮上したが、最終的にはJRと南海の難波駅での接続の方向となっている。

(専門員 的場 茂)

【参考文献】
大阪府知事官房「献金美談」 昭和6年3月
    (請求記号 C0-0059-1801)
「献金美談」は、国立国会図書館デジタルコレクションにも収録されており、閲覧・ダウンロードが可能。
濱口雄幸「全國民に訴ふ」 昭和4年8月
 「全國民に訴ふ」は、大阪府立大学「長尾文庫ビラ・リーフレット」に収録されており、閲覧が可能。画像データから起こした全文も文末に掲載した。
大阪府公報 昭和4年9月19日 号外
    (請求記号 D0-1929-111)

大阪府公報 昭和4年9月24日 号外
    (請求記号 D0-1929-112)

東京朝日新聞 昭和4年8月~11月
朝日新聞記事データベース 聞蔵IIで検索・閲覧が可能
柏書房「明治前期・昭和前期大阪都市地図」 平成7年6月


【参考】「全國民に訴ふ」全文

全國民に訴ふ
我國は今や經濟上實に容易ならざる難局に立つて居るのであります。世界大戰の當時我經濟界は空前の活氣を呈し、國内産業も外國貿易も頗る好況を示したのでありますが、戰後情勢は一變して産業は萎微沈衰し、貿易は連年巨額の輸入超過を續け正貨は減少し爲替相場は低落し、加ふるに大震災に因りて未曾有の打?を蒙り經濟界の不況は愈深刻に赴き、若し現?のまゝに推移するに於ては之が恢復は到底望むことが出來ないと思ふのであります。
斯の如く財界の不況が長きに?つて深刻を極めたるが爲め、國民の所得は著しく減少し、國、府縣、市町村等の歳入も亦從つて減少して居りまするから、之に應じて公私共に思ひ切つて支出の減少を圖らねばならないのであります。然るに國民生活の實際を見れば奢侈浪費の風は尚改まる所なく、中央地方の財政も却つて膨張の趨勢を續け、公債の增發に依つて辛うじて收支の均衡を保つて居るといふ有樣であります。從つて國債の總額は次第に增加し今や將に六十億圓に達せんとし、又地方債の額も二十億圓に上るといふ状況でありまして、中央の財政も地方の財政も此儘では到底立ち行く筈がないのであります。
依つて政府は大なる決心を以て財政の整理緊縮を行はんとし、先づ以て本年度の豫算に於て一億四千七百萬圓の節約を行ひましたが、更に來年度豫算の編成に當つても出來得る限りの整理緊縮を實現する積りであります。國債に就ても、之れが總額を增加せざるのみならず、更に進んで之を減少するの計畫を樹てました。又地方財政に付ても同樣整理緊縮に努めつゝあるのであります。事業會社、銀行等は固より一般國民諸君に於ても能く政府の決意の存する所を諒解せられ、出來得る限り消費を節約して、事業の基礎を鞏固にし、貯蓄を增加し、將來の發展に資せらるゝ樣努められむことを望むのであります。
斯くして財政の緊縮と消費の節約とが充分に實行せらるゝに至りまするならば、茲に始めて経済建直し國民生活安定の必要條件であり且つ財界年來の懸案たる金輸出の解禁も斷行することが出來るのであります。
我國は世界大戰當時の非常措置として金の輸出禁止を行ひ既に十二年を經て居ります。之が爲め爲替相場は動搖甚しく、通貨及び物價の自然の調節を妨げられ、且つ産業貿易の堅實なる發達を阻害せられ、公私經濟の膨張と相俟つて、財界今日の不安の?態を惹起して居ることは、諸君御承知の通りであります。諸外國に於ては戰後の疲弊甚しきものありしに拘らず、官民一致非常なる決心を以て財政の整理と消費の節約とに努め、相次いで金の解禁を斷行し貨幣制度の基礎を確立して財界を常道に復せしめたのでありまして、今日の處、未だ金の解禁を行はざる國は我國を除いては僅かに二、三の小國に過ぎないのであります。
故に我國としては此の際萬難を排し、一日も速かに金の解禁を斷行して國際經濟の常道に復し、産業貿易の健全なる發達を圖り、以て國運の進展に資することが刻下の急務であると深く信ずるのであります。
然しながら金解禁は何等の準備なく卒然として之を行ふときは、解禁當時は固より解禁後に於ても經濟界に容易ならざる影響を與ふるのであります。故に之が準備として先づ以て公私の經濟を極力緊縮し、物價の下落及び輸入超過の減少を圖り、其の結果として、爲替相場をして徐々に恢復せしむることが、最も必要であります。
國民經濟の建直しが焦眉の急務であることは論を俟たぬ、而して此の目的を達成するには、公私經濟の緊縮節約を圖り、金解禁を斷行するより外に途はありませぬ。依つて政府は現に卒先して財政の整理緊縮を實行しつゝあります。然しながら政府の財政も國民經濟全般の上から見ますれば、其の一小部分に過ぎませぬ。從つて國民全體が協力一致、諸費を節約し、勤儉力行に努め、以て貯蓄の增加を圖り、始めて能く現下の難局を打開し、將來に向つて國力の充實伸張を期することが出來るのであります。
緊縮節約は固より最終の目的ではありませぬ。之に依つて國家財政の基礎を鞏固にし、國民經濟の根柢を培養して、他日大に發展するの素地を造らむが爲であります。明日伸びむが爲めに、今日縮むのであります。之に伴う目前の小苦痛は前途の光明の爲めに暫く之を忍ぶの勇氣がなければなりませぬ。願はくは、政府と協力一致して、難局打開の爲めに努力せられむことを切望致します。是れ決して政府の爲ではありませぬ。實に國民自身の爲であります。國家全體の爲であります。

       昭和四年八月            内閣總理大臣 濱口雄幸


公文書館 事業の推移

来館者数
来 館 者 内 訳      平成28年度    平成29年度    平成30年度
公文書総合センター ①      19,507人     19,005人      18,552人
府政情報センター  ②        4,067人       3,908人        5,507人
公文書館      ③      15,440人     15,097人      13,045人

※「公文書総合センター」に、「公文書館」と「府政情報センター」設置(要綱設置)
①は、公文書総合センター入口設置の自動計測入場者数、②は府政情報センター窓口受付数、①-②=③を公文書館来館者数とし、府政学習会の庁舎見学者等も含む。

閲覧申出件数
内訳             平成28年度    平成29年度     平成30年度
閲覧申出件数            292件      290件        278件
複写申出件数            195件      186件             154件

歴史的文書資料類の登録状況
分    類             累計登録点数   平成28年度   平成29年度   平成30年度
近世・近代資料等            12,910点         0点        9点       0点
府行政文書               18,421点       1,049点            436点      429点
行政刊行物・官報・公報他         144,191点      1,504点       1,749点     1,100点
合計                   175,522点           2,553点     2,194点     1,529点

 

 

 

 

 

 

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