大阪府公文書館 - 大阪あーかいぶず第62号
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 大阪あーかいぶず第62号
 

     
  「あーかいぶず(Archives)」とは、英語で公文書、文書館という意味です。  
   第62号  令和5年3月
   大阪府公文書館発行  
 

目次

 
昭和33年 大阪府 今の形
公文書にみる大阪帝国大学の設立
令和5年度上期企画展示開催のお知らせ
令和4年度古文書講座『はじめて触れる古文書~明治初頭の社寺取調帳~』を開催しました
第37回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました   
 

 

昭和33年 大阪府 今の形

 
 小学生の頃、社会科の授業で、「大阪府の形は、大人が子供をおんぶした形に似ている」と教わったことを今も憶えている。なるほど、そう言われればそう見える。
大阪府がこの形になったのは、昭和33年と意外と歴史は浅い。
この形になる前は、子供の頭の部分は無かった。子供の頭の部分は高槻市の樫田地区である。
樫田地区は、以前は京都府南桑田郡樫田村であった。郡内の町村合併構想が挙がり、郡内の多くの町村が京都府亀岡市への合併を望んだのに対し、樫田村は大阪府高槻市との合併を望んだ。
何故、樫田村は、大阪府への編入を望んだのか。その要因の一つに樫田村の地理的な問題がある。
載せている公文書館所蔵の航空写真を見ると解る。
写真の上が京都方面、下が大阪方面であるが、写真に写るくねくねした白い線は道である。樫田村から京都府亀岡市へ行くには、このつづら折れの峠を越えなくてはならなかった。一方、大阪府高槻市へはアクセスしやすく、経済面、生活面で京都府より大阪府との結びつきが強かった。こういった事情等から樫田村の住人は京都府亀岡市ではなく大阪府高槻市との合併を望み、昭和33年4月、府を越えた越境合併が成立し、大阪府は大人が子供をおんぶしたような今の形となった。
現在は、道路が整備され樫田地区から亀岡へはアクセスしやすくなった。高槻市樫田支所からJR亀岡駅まで車で20分、一方JR高槻駅までは34分である。道路の整備がもっと早ければ、合併も無かったかもしれない。
(公文書館 元職員 大倉竜一)
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公文書にみる大阪帝国大学の設立


1931(昭和6)年5月1日、大阪帝国大学は、官立移管された大阪府立大阪医科大学を母体とした医学部に新設の理学部を加えて創設された。
東京帝国大学(1897年、1886—1897年は帝国大学)、京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、京城帝国大学(1924年)、台北帝国大学(1928年)につぐ8番目の帝国大学である。
さらに1933(昭和8)年には、昭和4年に旧制専門学校から昇格したばかりの大阪工業大学(官立)を工学部として統合し、医・理・工の三学部を擁する「自然科学系の総合大学」(『大阪大学25年誌』3頁)となった。
大阪帝国大学の創設過程は決して平坦なものではなかった。緊縮財政を展開する浜口雄幸民政党内閣(1929-31年)のもとでは、多大な費用を要する総合大学の新設はそもそも容易なことではない。それでも、楠本長三郎医科大学学長と柴田善三郎大阪府知事を中心とする関係者の設置運動は、「社会の輿論を喚起し、全大阪の根強き要望は遂に政府を動かし、朝野有志の賛助を得てその宿望を達し、茲に大阪帝国大学の実現を見るに到」ったのである(西尾幾治編『大阪帝国大学創立史』1935年〔2004年に大阪大学出版会による復刻〕)。
また、同時期に名古屋にも帝国大学設置の運動があったにもかかわらず、大阪帝国大学の設置が先に実現をみたのは、大阪の政府民間の関係者の努力に加えて、「経済更新会」など大阪財界の経済関係団体による民政党内閣の財政政策への支持が大きかったと言われている(瀧口剛「大阪帝国大学設立の政治過程―大阪財界と浜口雄幸内閣」『阪大法学』59巻3・4号、2009年)。
大阪帝国大学の創設に関する大阪府公文書の一部が「歴史的価値」のある資料として大阪府公文書館に残っている。
本稿では、これまでの研究に取り上げられていないと思われる四つの資料を中心に紹介する。

資料1「国立綜合大学設置に関する意見書」
まず、1925(大正14)年に大阪府会が大阪帝国大学の設置を国に要望したことを示す資料である。
1925年ごろ、大阪府会が「国立綜合大学を大阪に設立し、本大学を其の医学部と為すを満場一致を以て可決し、内務、文部両大臣に意見書の提出を決議」した(前掲『大阪帝国大学創立史』3頁)。
この意見書は『大阪府会緊要書類 大正12年10月~昭和2年3月』(請求記号B2-2006-1)の中に綴られている。
意見書に添付されている「国立総合大学ノ設置ヲ必要トスル理由」の全文は次のとおりである。

大阪府立医科大学ノ設備内容漸ク整備セルノ今日之ヲ国立ニ移管シ綜合大学之一分科トナスノ儀ハ府民一般ノ希望ス所ニシテ昨年来大阪府会ニ於テモ之レガ設置建議案ハ満場一致ヲ以テ可決シ曩ニ文部内務両大臣ニ意見ヲ具申セル所ナリ今更ニ綜合大学ヲ本府ニ設置スルコトノ必要ナル理由ヲ摘記スレバ左ノ如シ
第一 大阪市ハ今ヤ諸般ノ方面ニ著シキ発展ヲ遂ケ名実共ニ東洋第一ノ商工都市ヲ現出セリ此ニ於テカ此活動的ナル大都市ヲ包容セル本府ニ綜合大学ヲ設置スルハ所謂文運ニ順応スル所以ニシテ又国家的教育施設上必要ナルコトト信ス
第二 本府曩ニ医科大学女子専門学校ヲ設ケ近ク又七年制高等学校ノ設置アリ而シテ既設ノ官立高等工業学校高等学校、外国語学校、市立ノ高等商業学校、私立ノ関西大学ト相俟ツテ今ヤ高等専門ノ各種教育機関完備シ将来本府ニ設置セラル何キモノハ綜合大学ヲ措イテ他ニコレナク之レヲ以テ時運ノ趨勢ニ善処シ科学ノ発達新歩ヲ期スルコトハ極メテ緊急ノコトナリト信ス
第三 本府医科大学ハ創立後年ヲ閲スル茲ニ四十六年今ヤ外観内容共ニ官立大学トシテノ資質ヲ具備スルニ至レルヲ以テ之レヲ国家ノ経営ニ移サンカ更ニ一層精彩ヲ加へ以テ斯界ノ権威タルコト必然ナリト信ス
第四 本府ハ位置ニ於テ我国優位ノ地歩ヲ占メ居ルヲ以テ学生ノ収容、勉学上頗ル利便多ク若シ本府ニ官立大学ノ設置ヲ見ニカ必スヤ異常ノ発達ヲナスコト明ニ国民一般ニ及ホス便益又鮮小ナラザル可シ
第五 活キタル学理応用ヲ修学スルコトハ今日ノ大学教育ノ目的トスル所ナリ此意味ニ於テ大阪市ハ啻ニ商工都市タル止マラズ学術研究ノ渕叢トシテ全国ニ其比ヲ見ザル優位ノ地ナリト信ス

周知のように、1889年にもともと大阪にあった旧制第三高等学校が京都に移転し、のちに同校は1897年に京都帝国大学となった。旧制第三高等学校の京都移転を許した大阪府が、1925年の時点で、「国立綜合大学」の大阪設置を国に要望するのはなぜであろうか。その背景には、「東洋第一ノ商工都市」に帝国大学があって当然と思われるが、実は、大阪府立大阪医科大学の経営問題が絡んでいた。当時の大阪医科大学は、大正15年の時点での借入金が340万円に達しており、大阪府はその利子相当の10万円の補助金を出していたと言われている(天野郁夫『帝国大学―近代日本のエリート育成装置』中公新書、2017年、52頁)。ちなみに、1926(大正15)年に竣工の大阪府大手前庁舎の総工費は約384万円だったので、大阪医科大学の経営は決して順調ではない状況にあったといえよう。

資料2「大阪帝国大学設置ノ件陳情状況報告書(上京委員入費計算書添付)」
この資料は、大阪府会議員による大阪帝国大学設置運動の実態の一端を示すものである。
政府の予算編成が本格化した1930(昭和5)年9月に、大阪帝国大学の設置運動も活発化していった(前掲「大阪帝国大学設立の政治過程―大阪財界と浜口雄幸内閣」222頁)。『大阪府会緊要書類 昭和5年4月~昭和6年9月』(請求記号B2-2006-2)に綴られているこの資料(以下「報告書」と称する)によれば、9月の15・16日の二日間、大阪府会議員11名、医科大学経理委員の三木通三、中谷庄之助の2名と、有志於勢氏の参加を得て、一行15名(大阪府会書記1名)が上京して、政府要路への陳情運動を行ったという。
「報告書」は、400字詰めの原稿用紙で陳情状況の経過を記す21頁と1頁の「上京委員入費計算書」から構成されており、提出の日付が「昭和5年9月18日」と書かれている。同行の上村府会書記の速記を起こしたものであり、全体としてはややクセのある走り書きの字で書き込まれているものとなる。以下では「報告書」に基づいて陳情活動の詳細を紹介する。

9月11日、府会協議会が知事別館にて開催された。同協議会では、「大阪帝大設置運動上京委員11名」が決定された。上京委員として選ばれたのは、青田勝晴、中野亀治、深川重義、有山福重郎、木下常吉、名越民次郎、土田伊右衛門、辻本善七、藤井清秀、土井松三、薄恕一11名の府会議員であった。先述した於勢升が府会議員ではあるが、上京委員として選ばれなかったので、有志として参加したと思われる。ちなみに、薄恕一は、資料1の意見書の提出者の一人であり、1930年当時では大阪府会議長を務めていた人物である。
上京委員一行は、14日の夜行列車に乗車し、翌15日朝9時に東京に到着した。直ちにステーションホテルに入り、陳情運動の方針についての会合を開いた。
楠本医大学長、西尾大学理事長、鈴木登府学務部長はもちろん、「大阪府選出代議士」として「側面より種々潜行的運動」に尽力した本田弥市郎(立憲民政党)も「政府当局の空気、及び現在までの経過等につき大略の説明」を行うためにこの会合に加わった。
会合の結果は、大阪帝国大学の設置問題について「大体良好の経過を辿りつつあるものの如くなるも、特に難関は大蔵省に在る模様」と指摘し、その際まず「先手を打って他の全各大臣を歴訪し、親しく面接の上陳情の趣旨徹底に努め、その諒解と同情を得たる上、最後に大蔵大臣を訪ひて、何分の言質を得んとの策戦」を取ると、陳情運動の方針を決定した。
府会議員の上京委員一行は、同日の会合後、直ちにその方針に従い陳情活動を行った。「報告書」によれば、俵商工大臣、松田拓務大臣、町田農林大臣、田中文部大臣、安達内務大臣、渡辺司法大臣、江木鉄道大臣、小泉逓信大臣、幣原外務大臣、阿倍陸軍大臣代理、財部海軍大臣、浜口総理大臣、井上大蔵大臣の13人に対して陳情活動が行われた。
過密な日程で行われた陳情活動の手応えについて、「要するに大体の諒解を得たるも、前途尚ほ楽観を許さざるものあり、将来継続して運動をなす必要ありと認む」と総括している。
「報告書」は「各大臣及首相、蔵相等の回答」を「成べく原語の儘」で記録する方針をとった。
なかでは、田中文部大臣の回答では次のような興味深いやりとりがみられる。

…私ガ前ニ大阪ニ居ツタ時、私ノ先生デ前ノ枢密院議長ノ穂積サンガ来阪セラレタノデ、我々四五十人寄ツテ先生ノオ話ヲ聴イタ事ガアリマス、其時ニ丁度此ノ大学問題ヲ先生ガ一生懸命ニ力説セラレテ、大体日本ノ大学ノ置キ場所ガ間違ツテ居ル、大学ハ何モ世ノ中ノ実際カラ離レタ仙人ヲ作ル所ヂヤナイノダカラ、…実際的活動的ナ大阪ノヤウナ、煙ノ中、埃ノ中ニ置クノコソ本当ダ、京都ノヤウナ山紫水明ノ地ニ置クト云フコトガ既ニ見当ガ違ツテ居ル…

「前ノ枢密院議長ノ穂積サン」というのは、東京帝国大学教授で明治民法の起草作業をリードしたという経歴をもつ穂積陳重のことである。穂積陳重は、大学というのは「世ノ中ノ実際カラ離レタ仙人ヲ作」る機関であってはならず、帝国大学を「京都ノヤウナ山紫水明ノ地」に置くのが間違いであり、「実際的活動的ナ大阪ノヤウナ、煙ノ中、埃ノ中ニ置」くべきだと、1889年の旧制第三高等学校の京都移転に批判的だともとれる意見を述べているのである。
大阪帝国大学設置の予算が1931(昭和6)年3月に貴族院第三分科会の審議を通過した際、「大阪帝国大学創設ニ関スル予算ハ是レヲ承認スルモ、其ノ実行ニ当リテハ、文政審議会ノ議ニ附スルヲ要ス」という付帯決議がなされた。大阪帝国大学の予算案はすでに帝国議会を通過したので、文政審議会で否決されることはないものの、「是非の議論は相当沸騰し、一時は危険の情勢なりしが如き」といわれている(前掲『大阪帝国大学創立史』251-252頁)。
1931年4月11日の審議会において、大阪帝国大学設置運動に携わっており、大阪の実業家である平生釟三郎は、京都帝大理学部があるので大阪に理学部が不要という反対論に対して、「加茂川の水の音を聴き東山の寂たる姿を見、行楽気分を唆るが如き山水明媚の京都に於ては到底工業に対する基礎的知識を体得する理学者の養成は困難である、やはり環境の刺激こそ大切なれば黒烟濛々として天日を掩ひ、機械の響が市を包囲せるが如き大阪に於てこの実況に直面して研究をなすの要ありと思ふ」(前掲「大阪帝国大学設立の政治過程―大阪財界と浜口雄幸内閣」232頁)と反論している。
結局、大阪帝国大学設置の件が文政審議会を無事通過したことにより、長年の「悲願」がようやく実現の運びとなった。

資料3「大阪帝国大学設置問題への御配慮おねがい」
この資料は、薄恕一大阪府会議長の名で、大阪ゆかりの貴族院議員に働きかけたことを示すものである。資料2と同じ簿冊に綴られているものである。
1931年3月10日前後より、「大阪帝大問題に対する貴族院各方面の雲行は俄然険悪」となった(前掲『大阪帝国大学創立史』80頁)。
これを察知した大阪府会は、1931年3月13日、「本問題に付ては未だ楽観を許さゝるものゝ如く誠に憂慮」する状況であり、大阪帝国大学の設置は「本府歴年の懸案にして官民挙つて之が実現の一日も速かならんことを望み居り」という趣旨の依頼状を下記の貴族院議員に送り、協力を求める。

資料4「昭和6年3月18日 公立大学廃止ノ件申請」
この資料は、『大阪医科大学(国立公文書館複製資料)』(請求記号C1-2014-415)という簿冊に綴られている。同簿冊は「大阪市内の旧大阪大学医学部付属病院の移転に伴い、府と国との土地所有に関連する資料」として、大阪府の「管財課が国立公文書館のマイクロフィルムから複製した資料」であるが、1993(平成5)年に大阪府公文書館が引き継いだものである。複数の複製資料を簡易的に綴じるのみで、件名以外の個々の資料に関する元所蔵館の情報が欠けている。
「公立大学廃止ノ件申請」という資料から、大阪府が昭和6年度大阪帝国大学の設置により府立大阪医科大学廃止の申請を文部省に対して行ったのは、昭和6年3月18日というとことがわかる。同資料には、大阪府罫紙を使った「請議文面」、「学生、職員及設備ノ処分方法」と、文部省罫紙を使った「理由」、「大阪医科大学廃止要項」が入っている。
国立公文書館のデジタルアーカイブズにおいて、「大阪医科大学ヲ廃止ス」(『公文類聚・第五十五編・昭和六年・第三十二巻・軍事・陸軍・海軍・雑載、学事・大学・雑載』請求記号:類01758100)という資料が公開されている。ただしその中身を確認すると、「公立大学廃止ノ件申請」にあった「理由」は含まれていないことが判明する。やや長文になるが、「理由」の全文は次のとおりである。

我国ニ於ケル高等教育ノ普及状態ハ関東ニ厚クシテ 関西ニウスク特ニ大阪地方ハ我国ニ於ケル工業及商業ノ中心地ニシテ人口ノ密度ニ於テモ甚タ稠密ヲ極ムルモ教育上ノ施設ニ関シテハ東京地方ニ及ハサルコト遥ニ遠ク学術ノ進歩産業ノ発展、高等教育ノ普及ノ諸点ヨリ考ヘテ大阪市ニ大学教育ノ機関ヲ増設スルハ極メテ適切ナリト言フへク而シテ大阪地方カ工業地帯タルコトニ鑑ミル時ハ此地方ニ設クル大学ハ先ツ自然科学ヲ学術研究ノ対象トスルヲ以テ最モ適当トセサルへカラス。偶々大阪府ヨリ理学部創設ニ要スル一切ノ臨時費及其ノ完成ニ至ル迄ノ経常費ニ相当スル金額合計百八拾五万円ヲ寄付センコトヲ申出タルニヨリ之ヲ受納シ理学部創設ニ着手スルコトトシ尚公立大学医科大学ヲ国ニ移管シ官立大阪工業大学ヲ移シテ一学部トナシ此等三学部ヲ以テ大阪帝国大学ヲ創設スルコトトセリ医学部ハ昭和六年ヨリ之ヲ開キ理学部ハ六年度ヨリ創設ヲ初メテ昭和八年度ニ各学科ヲ開講セントス而シテ工学部ニ付テハ官立大阪工業大学ヲ昭和七年度ニ於テ移シテ同学部トナス予定ナリ。

「理由」は、まず、「高等教育ノ普及状態」が「関東ニ厚クシテ関西ニウスク」と指摘し、「大阪地方」の「教育上の施設」は「東京地方ニ及ハサルコト遥ニ遠ク」と率直に認めている。「大阪地方」=「大阪市」の特殊性を考慮し、「自然科学ヲ学術研究ノ対象」とする大学の設置が「最モ適当」であり、理学部・医学部・工学部の三学部を有する大阪帝国大学の創設を当初から予定している。官立大阪工業大学は昭和7年度に工学部として大阪帝国大学に統合されるという具体的な日程も書かれている。
以上のように、当時の人々が「東洋第一ノ商工都市」、「工業及商業ノ中心地」である大阪市こそ国立総合大学の立地に相応しいと考え、大阪帝国大学を誘致したと思われる。それは大阪中心部から離れて北側に位置する現在とは異なる大学像だったのではないだろうか。
(公文書館専門員 謝政徳)


【参考文献】
・西尾幾治編『大阪帝国大学創立史』1935年〔2004年に大阪大学出版会による復刻〕
・『大阪大学25年誌』大阪大学、1956年
・『大阪大学五十年史 通史』大阪大学、1986年
・天野郁夫『大学の誕生(上) 帝国大学の時代』『大学の誕生(下) 大学への挑戦』中公新書、2009年
・瀧口剛「大阪帝国大学設立の政治過程―大阪財界と浜口雄幸内閣」『阪大法学』59巻3・4号、2009年)
・吉川卓治『公立大学の誕生―近代日本の大学と地域』名古屋大学出版会、2010年
・天野郁夫『帝国大学―近代日本エリート育成装置』中公新書、2017年
・寺崎昌男『日本近代大学史』東京大学出版会、2020年
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令和5年度上期企画展示開催のお知らせ


 大阪府公文書館では、令和5年度の上期の企画展示として、「所蔵資料にみる大阪の近代教育」を開催いたします。
明治5年に日本初の近代的な学校制度を定めた「学制」が公布され、学制150年を迎えました。 
「学制」は、すべての人々が基本的な学校教育を受けられることを目指し、小学・中学・大学からなる学校制度を定めた我が国最初の全国規模の近代教育法令です。
本企画展示では、当館が所蔵する公文書資料とともに、学校の写真パネルや当時使用された教科書などを紹介します。また、明治36年の第五回内国勧業博覧会内に建設された「教育館」の役割などに触れ、大阪の近代化を支えた教育の歩みを振り返ります。
公文書館所蔵資料への関心を高めていだだき、より一層の活用につながる機会となれれば幸いです。

 常設展示コーナーでは、公文書館開館30年間の沿革やこれまでに刊行された出版物を紹介しています。
また、館内の壁面に「大正の歌川広重」と呼ばれた鳥瞰図(ちょうかんず)絵師・吉田初三郎が描いた「大阪府鳥瞰図」(昭和7年)の原本資料を展示しています。
大阪府公文書館へ是非お越しください。

 令和5年4月3日(月)~令和5年9月29日(金)  ただし、土曜日・日曜日・祝日、年末年始を除く
 午前9時00分~午後5時15分(最終日は正午まで)
 
■場所
 大阪府公文書館展示室
 所在地:大阪市中央区大手前2丁目1-22大阪府庁本館1階
 
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令和4年度古文書講座『はじめて触れる古文書~明治初頭の社寺取調帳~』を開催しました

 
 大阪府公文書館では、歴史的価値の高い公文書などを身近に感じていただくとともに、これらの資料を保存し、後世に引き継ぐことの大切さを理解していただくために、令和4年度は、『はじめて触れる古文書~明治初頭の社寺取調帳~』をテーマに≪古文書講座≫を令和4年11月4日に開催いたしました。
 今年度は、入門者向けの講座として、当館が所蔵する茨田郡平池村の平池家文書(現寝屋川市域)の中から、明治初頭に作成された社寺取調帳を2件取り上げ、古文書の解読をはじめ、くずし字解読のポイントや内容について解説しました。
なお、講座当日に配付したテキストと解答については当館ホームページからダウンロードできますので、よろしければどうぞご参照ください。
当日の講座の概要を振り返ります。

◇古文書に触れる
 まず、講座の前半においては、「古文書とは?」「くずし字とは?」という基本的な内容をお話ししたあと、古文書の様式をイメージいただくため実際に古文書に使われていた大きさの紙を用いながら解説するとともに、古文書の形態を知っていただくため古文書史料の画像を見ながら解説を行っていきました。
 続いて、くずし字解説のツールとなる「くずし字字典」の紹介や解読の手順、古文書に触れる時の諸注意など、基礎知識や豆知識についてもお話ししました。

◇古文書を読む~実践編~
 次に、講座の後半においては、当館所蔵の「社寺御取調ニ付書上帳写」(KYー0002―85)と「神社御取調ニ付書上帳」(KY―0002―83)の短い文書2件について、具体的な解説を加えていきました。
特に、部首、異体字、頻出のくずし字、人名・地名のくずし字などに注目して、文章を細かく区切りながら、くずし字の特徴を見ていきました。
 さらに、この解説の中では、古文書によく使われている「歩」「無」「事」「衛」という四つの文字を取り上げ、これらのくずし字の筆順を皆さんと一緒に確認できるよう、大きなスクリーンで動画をご覧いただきました。

◇講座を終えて
 今回は15名の方々に参加いただき、最後まで熱心に聴講いただきました。
「講師の説明のわかりやすさ」に関するアンケートでは、「大変よくわかった」「よくわかった」という評価を多くいただき、講師を務めた職員の今後の励みにもつながりました。
 今後も引き続き、わかりやすく皆さまに喜んでいただける講座を実施していきたいと思います。令和5年度は「歴史講座」の開催を予定しています。
 
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第37回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました


 令和5年1月13日(金曜日)に第37回大阪府公文書館運営懇談会を開催しました。
 大阪府公文書館運営懇談会は、大阪府公文書館の運営の円滑化を図るために設置し、現在、歴史研究分野や行政法分野、情報化分野の有識者、歴史的文化的資産を扱う図書館や博物館の関係者の方々に委員に就任いただいております。
 当日は5名の委員の方々にご出席いただき、活発な意見交換が行われ、これからの公文書館運営に関し、非常に有益な懇談会となりました。

[出席委員]
飯塚 一幸  大阪大学大学院 人文学研究科 教授
澤井 浩一  大阪歴史博物館 学芸課長
園田 かおり  大阪府立中之島図書館 大阪資料・古典籍課長
林 真貴子  近畿大学 法学部 教授
宮本 貴朗  大阪公立大学大学院 情報学研究科 教授

[議題]
・公文書館の運営状況について
・レファレンスの概要について
・歴史的文書資料類の収集・選別について
・吹田書庫の移転について

[主な議事概要]
・公文書館において令和3年度に新規で登録した歴史的文書資料類の点数や主な登録簿冊等について説明した。

[登録簿冊(年度が古い簿冊の主なもの)]
・土地収用(昭和10年度)
・第23回全国育樹祭(昭和11年度)
・大阪スポーツ大賞関係(平成20年度)
・大手前・森ノ宮まちづくり関係(平成22年度)
・令和4年度のレファレンスの傾向としては、前年度同様、地名の変遷調査のための地形図や航空写真に関する照会、祖先の調査や郷土史研究のため神社や寺院の情報に関する問い合わせが多かった。
・歴史的文書資料類の収集・選別について、その実務を進める過程として、歴史的文化的資料としての価値を有しているか、専門家の意見を聴く必要があるものについて、簿冊の概要や選別理由等をとりまとめた資料や簿冊原本により説明し、委員から意見聴取を行った。
・万博記念公園駅前周辺地区活性化事業により旧国際児童文学館(吹田書庫)の施設に万博公園事務所が移転することに伴い、吹田書庫を旧芦原高等職業技術専門校(浪速区)に移転することになった。
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